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集団的自衛権の議論について

集団的自衛権を行使できるよう、憲法解釈を変更するという閣議決定がされました。 集団的自衛権という権利の是非についてはいろいろな議論があるでしょうが、ここではその点はあえて触れません。 そのほかに2点議論があるとおもうのですが、とくに最後の論点はまったく議論されていないようなので、できれば法律の専門家に伺いたいです。 第2点目は、もちろん三権分立との関係です。ときにこの点は指摘はされているようですが、そもそも、憲法の解釈判断権限が司法ではなく行政にあるというのはなぜかという点です。ただ、この点は、通常の法律では、法律の解釈は行政の裁量範囲にあるとされるのは一般的であると思いますので、(憲法もそれでいいのかというのはちょっと疑問には思いますが、以下の点を強調したいので)そういう理解でよければ、あえて問いません。 第3点目、ここで特にお聞きしたい点です。第2点目と非常に密接に関連するのですが、そもそも、一般の法律の解釈権限が行政にあるとする理屈の根幹には、法律とは、解釈にできるだけ恣意判断が入らないように、法文ができる限り一意的に解釈できるように明確に規定されているはずのものなので、行政に裁量権を与えるとしても、その裁量範囲がおのずと限りなく限定されているという前提があるのではないかと思っていました。だからこそ、それを裁量として与えても、行政が無茶をすることなく、権力の分散が図られ、三権分立が維持されるということだったのではないでしょうか? で、今回の場合はそれを解釈の「変更」といっていることからも明らかなように、条文上は、集団的自衛権が行使できるとも、できないとも、両方の解釈が可能であるということを前提としています。だとすると、この条文はとてつもなく大きな解釈の幅を許容する条文として規定されているということになります。 しかしながら、これほど大きな解釈の幅を許す法文(憲法条文)がありうるということ自体が、そもそも、法治国家の前提として許されるのでしょうか?というのが質問です。 つまり、 1.法文上、集団的自衛権があると解釈できるか? 2.その解釈をできると判断すべき主体は内閣で適切なのか? ということのほかに、 3.それほど大きな解釈の幅を許容する法文が存在するということを前提とすること自体、法治国家の前提として、許されうるのか? ということを疑問に思います。 また、この点がなんら(といっても詳しく調べたわけではないのですが)論点になっていないのはなぜなのでしょうか?法治国家の根幹にかかわる、きわめて重要な問題なように思うのですが。。。 法律家ではありませんので、できるだけわかりやすく説明いただけると助かります。 よろしくおねがいします。

みんなの回答

回答No.15

回答-No14への補足質問について  回答-No1,No9への貴方の補足記事、「非嫡出子相続差別と集団的自衛権」と貴方の質問-3 を関連させ、質問の真意を量りながら回答してみました   1)これまで歴代政権=行政府は、憲法9条下で集団的自衛権の行使は許されないとの解釈であった。  2)現政権=行政府は、限定的にせよ集団的自衛権の行使容認を内閣で決議した。 貴方は憲法9条から、完全に相反する内容の解釈が行われたことで9条自体に自己矛盾が存在するのではないかと疑問に思ったのでしょう。  3)その問題意識から、法治国家すなわち法の支配の原則という法理を前提として、「それほど大きな解釈の幅を許容する法文が存在するということ自体、法治国家の前提として、許されうるのか」という、貴方が一番知りたい疑問へと進んだのですね。 貴方の疑問に係わる問題の本質は、どう考えてみても行政法上の実務や違憲立法審査権の司法判断とか、法律の実務上の問題を超えた所にあると思います。「通常の司法判断から見て一段「メタ」なレベルでの議論」と貴方自身が述べている通りでしょう。仮に今回の決定に対して最高裁まで上告して違憲かどうか裁判しても、あまりにも高度な政治性が含まれているので最高裁は「統治行為理論」を盾に判断を保留することでしょう。  近代市民社会の進展の中で発展してきた欧米法を導入している我が国の法体系から国家の在り方や市民社会の在り方、法秩序の構造、法理などを考察・研究するのは「法哲学」の仕事です。  この学理の世界の考え方に基づけば、たとえどんな矛盾を抱え込んだ条文であろうともいったん成分法として成立してしまった以上、成立手続きに違法・不当性がない限り有効なものと認定されてしまいます。  「悪法も法なり」というのも法学の原則なのです。   そこで時代の推移とともに、国民の法意識や社会意識が制定時と大きく異なってしまい、規定された当時の文言では不都合が随所に見られるようになると法改正を行って、いわば欠点を補完するわけです。ですから、今回の閣議決定で盛り込まれた集団的自衛権限定容認は、法理上、憲法改正が必要です。ただし閣議決定文は条文作成のプロが係わっていますから、素人判断でしっぽをつかまれるような作品ではないですよ。当局者側にはそれくらいの知識は初歩的レベルだと考えているはずですからね。 私の法哲学的視点からの回答では、憲法9条に自己矛盾はあるのかと問われるなら「その通り」。 貴方の質問-3への回答、「許される」 それから「修正論」なのか「変更論」なのかについては回答を控えます。理由は、法律行為や統治行為などの変更については行為主体側の瑕疵の問題が含まれていて、課題として大きすぎるからです。専門書を読んで考察して下さい。

kireinahanabi
質問者

補足

とても丁寧なご回答ありがとうございました。 とてもお詳しい方にご回答いただいて、とても勉強になりました。 もし、まだ可能であれば、もう少しだけ教えていただければ幸いです。 「悪法も法なり」というのが、法の原則の一つであることはわかります。ですが、この場合、その原則が適用される事例なのかどうか、少し疑問に思いますのでもう少しだけ伺わせてください。 なぜなら、端的に言うと、私は、「9条自体に自己矛盾が存在する」のではなく、行政が、「9条に自己矛盾が存在することにしてしまった」のではないかと思うからです。 たとえば、(素朴な例で恐縮ですが)「戦力はいっさい保持しない。一方、集団的自衛権の行使はこれを認める」というような条文だったなら、それは条文自体が矛盾をはらんでいるとは認められます。で、それはひどいけれども、法は法で、それとして尊重しないといけない。 しかし、わたしには、9条の条文そのものがそのような矛盾をはらんでいるとは読み取れません。 「矛盾をはらんでいるかどうかは、解釈次第。で、解釈権限は行政にあるのだから、行政が矛盾があるといえば矛盾があるといえる」ということなのでしょうか? ですが他方、解釈権限が行政にあるとはいっても、解釈権限の裁量範囲に、自ずと制約があることは、「違憲立法審査」といったことがあることからも明らかです。 もちろん、通常は、ある「立法行為」など、審査の対象となるべき「行為」があってはじめて、その解釈が裁量範囲を超えていたかどうかが判断されるので、今回のような「矛盾宣言」そのものは「行政行為」ではないので、司法判断がなされることはないでしょう。 とはいえ、それはただちに、「矛盾宣言」との解釈を行政の裁量範囲と自ずと認めてよい、ということを意味する訳ではないのではないでしょうか? そして、常識的に考えて、「矛盾宣言」が裁量権限内などというのは考えにくいです。 ならば、その解釈を前提に、「悪法も法なり」の原則が妥当するものと考えることにも、やはり議論の余地があるのではないのでしょうか? わたしは、ご指摘のように、わたしの質問3にかりに「許される」と答えざるを得ないとしても、それは、「悪法も法なり」の原則に基づく、積極的意味での「許される」ではなく、むしろ、これが「通常の司法判断から見て一段「メタ」なレベルでの議論」であるがゆえに、制度上、どこにもその妥当性を権限を持って判断すべきところがないので、「許されないといえる権限者がどこにも存在しない」という意味での、消極的な「許される」なのではないのでしょうか? だとすれば、元々の最後の質問に引きつけさせていただけば、ここにはやはり、「許される」だから問題ない、として議論を終えられない、重大な論点があるというべきなのではないでしょうか?(これは法理論上の質問でないことは承知しています) 司法も権限を持って判断できることではない、だからこそ、国民なりマスコミなりも問題意識をもって、  ーなぜ、修正ではなくて、変更なのか?  ー行政が、憲法に矛盾宣言していいのか?  ー修正だとするなら、過去に行政に瑕疵があったと認めるのか?瑕疵があったなら、それは単に憲法解釈を修正すればすむ問題なのか?  ーどこにどういう状況変化があって、その修正する必要が「いま」生まれたのか? などなど、といったことが議論されなくてはいけないのではないでしょうか? (もちろん、ここでこれらの問題についての解答を求めている訳ではありません。)

回答No.15

回答-No14への補足質問について  回答-No1,No9への貴方の補足記事、「非嫡出子相続差別と集団的自衛権」と貴方の質問-3 を関連させ、質問の真意を量りながら回答してみました   1)これまで歴代政権=行政府は、憲法9条下で集団的自衛権の行使は許されないとの解釈であった。  2)現政権=行政府は、限定的にせよ集団的自衛権の行使容認を内閣で決議した。 貴方は憲法9条から、完全に相反する内容の解釈が行われたことで9条自体に自己矛盾が存在するのではないかと疑問に思ったのでしょう。  3)その問題意識から、法治国家すなわち法の支配の原則という法理を前提として、「それほど大きな解釈の幅を許容する法文が存在するということ自体、法治国家の前提として、許されうるのか」という、貴方が一番知りたい疑問へと進んだのですね。 貴方の疑問に係わる問題の本質は、どう考えてみても行政法上の実務や違憲立法審査権の司法判断とか、法律の実務上の問題を超えた所にあると思います。「通常の司法判断から見て一段「メタ」なレベルでの議論」と貴方自身が述べている通りでしょう。仮に今回の決定に対して最高裁まで上告して違憲かどうか裁判しても、あまりにも高度な政治性が含まれているので最高裁は「統治行為理論」を盾に判断を保留することでしょう。  近代市民社会の進展の中で発展してきた欧米法を導入している我が国の法体系から国家の在り方や市民社会の在り方、法秩序の構造、法理などを考察・研究するのは「法哲学」の仕事です。  この学理の世界の考え方に基づけば、たとえどんな矛盾を抱え込んだ条文であろうともいったん成分法として成立してしまった以上、成立手続きに違法・不当性がない限り有効なものと認定されてしまいます。  「悪法も法なり」というのも法学の原則なのです。   そこで時代の推移とともに、国民の法意識や社会意識が制定時と大きく異なってしまい、規定された当時の文言では不都合が随所に見られるようになると法改正を行って、いわば欠点を補完するわけです。ですから、今回の閣議決定で盛り込まれた集団的自衛権限定容認は、法理上、憲法改正が必要です。ただし閣議決定文は条文作成のプロが係わっていますから、素人判断でしっぽをつかまれるような作品ではないですよ。当局者側にはそれくらいの知識は初歩的レベルだと考えているはずですからね。 私の法哲学的視点からの回答では、憲法9条に自己矛盾はあるのかと問われるなら「その通り」。 貴方の質問-3への回答、「許される」 それから「修正論」なのか「変更論」なのかについては回答を控えます。理由は、法律行為や統治行為などの変更については行為主体側の瑕疵の問題が含まれていて、課題として大きすぎるからです。専門書を読んで考察して下さい。

回答No.14

貴方の問題意識は、法律学上では「法学概論」・「法哲学」の分野に出てきます。  行政裁量から始まる三つの疑問は、法律学上、すでに解決済みです。貴方のような問題意識で世に問う弁護士も大学の法学部の先生方も出てきません。 憲法の解釈主体は、有権解釈上では司法・立法・行政の各府であり、学理解釈上では法学者・弁護士というのが通説です。質問ー2は、法学部の学生なら常識です。質問ー1は、1950年以降「集団的自衛権の政府解釈の変遷」を国立国会図書館のレファレンス資料で調べると明白です。学説上は賛否が分かれますが、政府解釈が完全に不当だとは言い切れません。質問ー3:憲法は法の存在形式-法源として最高規範ですから法文の用語の抽象度がとても高いので解釈に幅が出てくるのは当然です。事物に一対一で対応する語句を用いているわけではありません。ましてやご指摘の「法治国家にかかわる、きわめて重要な問題」にもなりません。

kireinahanabi
質問者

補足

ありがとうございました。 (そもそも質問は3だけなのでそこだけもう少し質問させていただきます) 少し誤解なさってると思います。 問題としているのは、解釈に幅が出てくることではなく、「行政」が異なる解釈を「同時に」成立しうるとしていることです。 No9の補足をご一読いただき、再度コメントいただければ幸いです。

回答No.13

日本国は国際紛争解決の手段としての戦争を放棄する。前項の目的を・・・ とあるので陸海空軍その他の戦力という意味は国際紛争解決の手段としての戦力。 つまり自衛隊は国際紛争解決の手段では無いので合憲という判断なのです。 前項の目的を・・・これは当時の政治家が苦心惨憺して追加した日本の知恵。 日本国の国際紛争解決手段としてだけが他国での戦争が放棄されている。 他国での戦争全て放棄されているのでは無い。 したがって爆撃機や弾道弾、核兵器すべての保有が合憲である。 つまりアメリカの国際紛争や戦争に日本が参加する事は疑問の余地無く合憲。 アメリカやロシアや中共国べったりなら核武装も合憲。 戦争開始が日本で無いなら日本国の国権発動による戦争では無い。参加は合憲。 前項の目的を・・・これを入れる事で最初から再軍備の道を作って置いた。 当時の政治家は優秀ですよねえーーー

回答No.12

三権分立については学校で習いましたが、日本国が三権分立が確立している国であると言うことは聞いたことがありません。政府の意向を反映するために最高裁長官の首を据え換える国もあります。恐らく三権分立が確立している国は無いと思います。ですから今回の憲法解釈が永続的な感じがしますが、確定的とはいえません。別の政権が20年、30年続けば、あれは間違った解釈だとして取り消される可能性が皆無とはいえないと思います。安倍総理が解釈を正しいと確信しておられるのでしたら、今の法律で国民投票を実施するでしょう。

  • tter125
  • ベストアンサー率0% (0/4)
回答No.11

訂正です。法律を作るのは行政ではなく立法でした。すみません。

  • tter125
  • ベストアンサー率0% (0/4)
回答No.10

行政には憲法に違反する権限はありません。ですが憲法は理念的な事しか書かれていませんので、憲法の範囲で行政が法律を作ります。その法律が憲法に違反していないかどうかを判断する権限は司法のみが有しておりこれが三権分立です。 今回の閣議決定は法律を作る前段階としての内閣法に定められた手続きに過ぎず、今まで内閣がしていた憲法の解釈を変更しただけで憲法や法律には関係ありませんので違法も合法もなく、過去の見解との整合性を問われているにすぎません。実際に法令化された時点で誰かが違憲裁判を提訴して裁判所がその法律を憲法違反と認定すれば法律が効力を失いますので閣議決定も間接的に効力がなくなります。 ですが、裁判所には統治行為論という考え方があり、高度な政治判断に対しては違憲合憲の判断を避ける場合があります。 憲法を素で読めば誰が考えてもF-15やイージス艦を持つ組織が戦力でないわけがないですし日米安保も同じく軍事同盟ですが、日米安保上の在日米軍については最高裁判所が 統治行為論ではなく判決として、外国の軍隊は憲法上の戦力ではないとの判決を下しています。 憲法は国の最高法規ですが、国民を守るためにあるのだから、そのために行われた高度な政治判断は統治行為論、もしくは解釈をねじ曲げてでも違憲判断を避ける傾向があります。 今回の集団的自衛権の行使容認についても個人的には同じことが起こると予想します。なにせ、自衛隊の存在がOKなので。

  • til-roo
  • ベストアンサー率25% (5/20)
回答No.9

質問者様の疑問、すごくよく分かります。 要するに、昨日まで「集団的自衛権の行使は許されない」だったものが、 突如「集団的自衛権の行使は許される」と180度解釈が変わってしまったけど、 そんな正反対の意味に解釈し得る条文はおかしくない?ということですよね。 私も、おかしいのではないかと疑問に思うと共に、 論点化されていないことにも疑問を抱いていました。 さて、まず、3(と共に1)に対する私の考えですが、 「時代の変化によって正しい解釈が変わった」と 考える余地があるように思います。 すこし9条を離れて、憲法14条を例にとってみましょう。 刑法の尊属殺重罰規定や、民法の非嫡出子の相続分に関して、 最高裁による憲法14条の解釈は180度変更されています。 (いずれも合憲⇒違憲) これは、(ざっくり言えば)時代の変化に伴って、 何が平等かに関する考え方が変わったからです。 9条に関しては、私が思うに、軍事技術の発達や国際秩序の状況によって、 自衛権が許容される範囲が変わったと説明する余地があるように思います。 そもそも、一定の自衛力保持を肯定する憲法学説は、 主権維持に必要という意味において「国家固有の自衛権」については、 国家の本質上放棄されることはあり得ない、ということを論拠としていました。 そうすると、許否のメルクマールは「主権維持に必要か否か」であって、 これは、個別的自衛権と集団的自衛権の区別とは当然にはパラレルではない ということになるはずです。 従って、軍事技術の発達(例えば、ミサイル迎撃システムの開発)や、 国際秩序の状況(例えば、冷戦終結、テロとの戦い)によって、 主権維持のために必要な自衛権行使の態様が変化し、 これによって集団的自衛権が9条によっても許されることになったと 理解し得るように思います。 なお、上記はあくまで「このような説明が可能ではないか」との案ですので、 軍事技術や国際秩序のことについては、突っ込まれても答えられません。。 さて、仮に、上記のように説明可能であるとしても、 そんなことは全然議論されていないではないか、との疑問は残ると思います。 私は、現政権が意図的に争点化を避けているのではないかと考えています。 そもそも、「解釈変更」という言い方が、問題を隠蔽しているのではないでしょうか。 本来、実は憲法9条の解釈として、集団的自衛権も行使可能だった というのであれば、「解釈修正」のはずであり、 従来の憲法解釈は間違っていたということが明らかにされるべきはずです。 しかし、「変更」といってしまうことで、 あくまで政策判断です、みたいなことになってしまっていて、 問題があると思っています。 以上、あくまで私見で、ソースがあるものではありません。 さらに議論ができればと思います。

kireinahanabi
質問者

補足

ようやくにして、質問に趣旨をちゃんと理解いただいた回答をいただけて、とてもうれしいです! ありがとうございます!! また回答いただいた内容もすごく勉強になりました。時代の変化という議論もとても説得力があると思います。 ご指摘をふまえてさらに考えてみたところ、私が当初理解していたよりも、問題がもう少し深刻な気がしてきました。やはり、この問題の根幹は、政府が、本件を解釈の「変更」で処理しようとしているところにあるとおもいます。 「そもそも、「解釈変更」という言い方が、問題を隠蔽しているのではないでしょうか。本来、実は憲法9条の解釈として、集団的自衛権も行使可能だったというのであれば、「解釈修正」のはずであり、従来の憲法解釈は間違っていたということが明らかにされるべきはずです。」とのご指摘をいただきましたが、まさにそのとおりとおもっており、おそらく til-roo様はご覧になっていないと思いますが、一度だけつけた、別の方の回答に対する「補足入力」で、わたしもまさに同じことを指摘していたところです。(あんまり同じなのでびっくりしました。) なお、ご指摘をいただいた、民法の非嫡出子の相続の件に関して少し調べたところ、面白い議論を見つけましたので参考にリンクを張ります。 http://www.jicl.jp/urabe/backnumber/20130923.html が、ここでも、この「修正」か「変更」かの問題は指摘されていません。 ともかく、この「変更」論というのは、現時点という一時点においても、両方の解釈が可能であるということを含意する以上、今回の議論は、論理整合的には、一般論でいうと、(ご指摘いただいた時代変化論をふまえても、)以下のような論理構成にならざるを得ない気がします。 1.  本条文は、(今も昔も、同一の時間的時点において)AともBとも解釈できる。 2. したがって、実際の運用のためには、その意味するところを、行政がその権限において、解釈によって確定するほかはない。 3. かつては、行政はAと解釈してきた。それは当時の時代状況においては適切であった。 4. しかし時代状況の変化によって、その解釈は現在は適切でないことが明らかとなった。 5. このため、今回解釈を「変更」し、行政はBと解釈することとする。 しかし、今回の場合、 Aが「本条文によれば、集団的自衛権の行使は違憲であるとしか解釈できないので、その行使はできない」 Bが「本条文によれば、集団的自衛権の行使は合憲であると解釈できるので、その行使は可能」 ということなので、そもそも、(少なくとも同時点において)両立は不可能な言明です。だから、1が成立するということそのものが成り立ちません。 唯一の解決策があるとすれば、(ご指摘の時代状況論によって、) 1. 本条文は、かつては時代的にAとしか解釈できなかった。 2. しかし、時代状況の変化によって、その解釈が現在は適切でないことが明らかとなった。 3. 本条文は、いまでは時代的にBとしか解釈できない。 4.このため、今回解釈を「修正」し、行政はBと解釈することを改めて確認する。 とするほかはないのではないでしょうか? すなわち、わたしは、質問で、「この条文はとてつもなく大きな解釈の幅を許容する条文」だという指摘をしましたが、実際には、これは単に解釈の幅以上の問題であり、すなわち、「変更論」に立つということは、この条文が自己矛盾を自ずと抱え込んだ条文であることを、行政が自ら宣言していることになると解釈できるのではないかと思います。だから、たとえ時代の変化という議論が成立し得るものだとしても、それは依然、「修正」論でもって初めて妥当するものであり、「変更」論は正当化し得ないように思います。 ただ問題は、この「変更」という言葉の持つ法的意味です。仮に、司法において、今回の行政行為が判断されることがあるにしても、「この条文からBと読み取ることは適切であったか否か」ということに限って判断がなされるものと思料され、この「変更」行為そのものが、司法判断の対象になることはないのではないでしょうか?この「変更」行為は、単に行政の、いわばレトリックの範囲、ということになってしまう気がします。 行政が、法文が自己矛盾をはらんだ規定であるという宣言をすることそのものが許される行為ではないとは思うのですが、それが許されるべきかどうかは、条文解釈からは一段上の、通常の司法判断からみて一段「メタ」なレベルでの議論なので、制度的にどこもチェックできないことになってしまうということなのでしょうかね?よくわかりませんが。 なお、このことがまったく論点にまったくなっていないことについて、「現政権が意図的に争点化を避けているのではないかと考えている」とのご指摘をいただきました。それはそういうこともあるのだとは思いますが、だからこそ、マスコミなり、いわゆる知識人なりが、そういう論点を析出させる責任があるのではないかとおもいます。 法治ということの根幹に関わるはずのこうした問題を、指摘せず(できず)、集団的自衛権の行使が妥当かどうかといった論点だけで議論するというというのは、まさにお釈迦様の手のひらで遊んでいる訳じゃないですが、与えられたリングの中だけで踊るというのは、彼らの知的怠慢以外のなにものでもない気がします。

回答No.8

日本が普通の国になるには憲法第9条を削除し、世界の平和維持に貢献する必要があります。世界平和を維持するために、戦闘に参加して欲しいと国際社会が求めているのに拒否するのは卑怯です。国家予算を使い、訓練するだけで使えない軍隊では存在する意味が無い。安定志向の公務員にはきちんと義務を果たして貰いたい。率先して軍事活動に参加して貰いたい。アメリカに依存するのは仕方ないが、たまには、アメリカの代わりに第一線に立って欲しい。自衛隊も職業軍人の義務を果たして貰いたい。期待しています。

  • kantansi
  • ベストアンサー率26% (658/2438)
回答No.7

ちょっと勘違いされているようですが、「集団的自衛権があるかどうか」は全く議論の対象になったこともありません。 集団的自衛権は国際的にも認められた国家固有の普遍的な権利です。 日本で問題になっているのは「その権利を行使できるかどうか」と言う点です。 かつて宮沢総理大臣(当時)は「憲法が禁じているのは海外に行って戦闘行為を行うことだけだ。それ以外は何も禁じていない」と言いました。 この言葉に尽きます。 日本の主権の及ぶ範囲で同盟国軍が攻撃を受けていれば日本軍(自衛隊)が同盟国軍を援護するのは憲法に違反するものではありません。 安倍がやろうとしているのは、日本軍が外国で戦闘行為を行うことができるようにしようというものです。 日本を戦争ができる国にするのでもなく、日本が米国に引っ張られて世界中どこでも戦争に巻き込まれる国にしようというものです。 

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  • 集団的自衛権 有識者懇談会の傲慢について

    「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」が、18日からスタートしたようです。いわゆる集団的自衛権の有識者懇談会という代物と捉える事ができますが、報道によれば、13人のメンバーは、集団的自衛権の行使容認に積極的な論客ばかり、とのこと。 (1)集団的自衛権の憲法解釈変更ありき、の、いわゆる出来レース的な懇談会と感じるのだが、国民として、これを看過していいのでしょうか? (2)集団的自衛権の憲法解釈変更という下準備をした上で、憲法9条の修正を速やかに行うための、既成事実として、今回、この有識者懇談会を召集したのではないのだろうか?(既成事実を作っておいて、既成事実を盾に取り、憲法修正を正当化しようとしているのでは?) 有識者会議が検討する4類型 (a)公海上で米艦船への攻撃に自衛隊が応戦 (b)米国に向かう可能性のある弾道ミサイルをミサイル防衛システムで迎撃 (c)国際平和協力活動中、他国部隊が攻撃された際に自衛隊が応戦 (d)武器輸送などの後方支援 いずれも、自衛隊が、あたかも自衛軍(自民党新憲法草案に明記)になったかのように感じさせ、その前提で、議論をしようとしているように思います。そもそも、日本の憲法上、矛盾はあるにせよ、軍隊は存在していないはずです。 (3)存在していない、という大前提に立てば、上記の集団的自衛権云々の話題を詰める必要性がないように思いますが、いかがでしょうか? (4)また、仮に日本が軍隊を持ったならば、確実にテロリストにより、テロ標的国家に日本が格上げされると思いますが、いかがでしょうか? 以上、4点について、忌憚のないご意見をお願い致します。

  • 集団的自衛権の行使はなぜいけない

     アフガンの空爆や自衛隊派遣などで、集団的自衛権の議論が盛んにされています。  ところで、なぜ日本は集団的自衛権を行使してはいけないのでしょうか。憲法で禁じられているから、というのはわかるのですが、しかし集団的自衛権は国連も認めています。そもそも、防衛と言う行動は動物の本能ともいえるものです。  しかし、あれだけの大惨事にも関わらず、集団的自衛権は絶対に行使してはいけない、という人たちがいます。  戦争が罪悪であることはわかります。無論、絶対にしてはならないということも。  しかし、攻められれば反撃しないわけにはいかないでしょう。『保険』の意味で、憲法は改正したほうがいいと個人的に思うのですが(すでに世界はまだまだ戦争の火種にあふれていることが実証されていますし)。  皆さんはどう思っていますか。

  • 集団的自衛権に関する解釈変更に関する疑問

    安倍内閣は、7月1日付で、集団的自衛権を行使可能とすべく、 政府の憲法解釈を変更する閣議決定をしましたね。 そこでふと疑問に思ったのですが、 従来の「集団的自衛権は行使できない」という解釈の位置づけはどうなるのでしょうか。 具体的な質問は、下記の通りです。 1 集団的自衛権は行使可能であるとする現政権の立場からすれば、   行使が不可能であるとしていた従来の政府解釈は、   憲法9条の解釈としては「間違い」だということになるのでしょうか? 2 もし、1が「YES(間違い)」であるならば、従来の政府解釈は、以下のどちらですか?   ア:今の目から見れば間違いであるが、当時の社会情勢等を前提とした     解釈としては正しかった。   イ:今の目から見ても間違いであるし、当時としても間違いだった。 3 もし、2が「ア(当時としては正解)」であるならば、   「集団的自衛権が行使不可能」が正しかった当時と、「行使可能」が正しい現在とで、   どのような違いがあるのかについて、現政権は何か説明していますか? 4 もし2が「イ(当時としても間違い)」であるならば、   過去の政府(そして内閣法制局)は、憲法9条という極めて重要な条文について、   長年にわたって誤った解釈を続けてきたことになりますが、   その責任を問う声は上がっていますか?   また、歴代首相は、誤った解釈をしていたことについて何か釈明していますか?   (又は、あくまで自分は誤っていない(現政権が間違いである)と主張していますか?) 5 もし1が「NO(間違いではない)」であるならば・・・   そのように理解する余地があるのかわからないので、ご教授ください。