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自然の姿

自然は、遠目に見ればとても美しく、荘厳で、人を満足させるのに十分なものを表現しているように私には思われます。 しかしながら、近目で見れば、それは生存の闘争の累積であり、苛烈なものでもあります。 どちらが自然の姿なのか。 どのように見れば、(自然の有様として)これで良いのだと本心から納得出来るでしょうか。

  • a_hona
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  • ベストアンサー
回答No.4

「まず物質的な構造としての場があって、生命としてのたくましさが求められる試練の先に、深い精神活動という醍醐味が存在する」という解釈はどうでしょうか。

a_hona
質問者

お礼

ありだと思います。人間存在に活路を見出すのはいいアイデアと思いました。 ありがとうございます。

a_hona
質問者

補足

ある物理学者の話で、この惑星には鉱物圏、生物圏、そして人間圏なるものがあるそうです。人間は食物連鎖の域を脱しています。私の考えていることは、また違った角度で世の中を見なければわからないのかもしれません。

その他の回答 (6)

  • yuniko99
  • ベストアンサー率15% (31/204)
回答No.7

私は子供の頃 自然が大好きでした 虫取りや木登り 川の事なら何でも知ってると思っていました 例えば女性でも その人の性格を知ってこういう事を言うと怒る こういう事を言うと喜ぶと知っていれば ウキウキのデートとか 結婚まで出来ちゃうわけです つまり自然どう付き合うかは 近づく気があるなら自然をよく知ることです 危険やその力を知るべきです それを知った上でなら 自然の中で楽しく暮らすことができるでしょう そうでなく 遠くから見ても自然は綺麗です 眺めるだけでいい人はそれでいいでしょう。

a_hona
質問者

お礼

都会に住み、自然を身近に感じるのは天体の運行や季節の移ろいといったマクロなものが多い中、子供の頃の記憶を辿れば、昆虫観察や採集、裏山に連れて行ってもらったことなどの体験の中に、壮絶な生存の闘争があるのを知りました。けして美しい、楽しいだけではない自然の姿に、疑問を生じました。それが、この度の質問の動機です。生命とは一体何なのか、何故生まれたのか、現象論的に語られるものとは別に、感情論で納得できるものを探しています。 ご回答ありがとうございます。

回答No.6

>しかしながら、近目で見れば、それは生存の闘争の累積であり、苛烈なものでもあります。 >どちらが自然の姿なのか。 量の比較で言えば、「生存の闘争の累積」が一部です。 大宇宙の全貌は不明ですが、少なくとも太陽系で言えば、「生命の競争や淘汰」が見られる自然は、太陽系だけで見ても、極めて例外的な惑星である地球「だけ」です。 自然の大部分は「静寂」です。 生命も争いもなのもありません。 つまり、そのような争いに満ちた一部の自然は「貴重」である。 と言うのが、量の比較で言うと断言できます。

a_hona
質問者

お礼

それは言えると思います。地球型惑星は宇宙にありふれたタイプとして知られるところだそうですが、宇宙レベルで見れば、生物圏はとても少ない部分であるでしょう。しかし、生物は地球の表面を埋め尽くしてもいるのであり、量的には少しでも、意味的には決して侮れないものがあるとも思えました。 異なる角度からのご回答、参考になります。ありがとうございます。

  • raiden787
  • ベストアンサー率37% (179/473)
回答No.5

自然に夢を見すぎなのではないでしょうか。 美しい自然も苛烈な自然もどちらも質問者さんの脳の中にしか存在しません。 自然は自然です。それを美しいとか苛烈とか感じるのは個々人の主観にすぎません。 花や蝶を美しいと感じるのは花や蝶自体に美という属性が備わっているからではなく、それを見た人が脳内で個人的に美しいものと分類しているだけです。 その分類は当然ながら脳の生化学的な反応によります。そこに何か特別な意味はない訳です。 また、自然とは曖昧な概念であり、なおかつ一般に自然と言われるものは極めて膨大な存在を包括しています。深海、森林、ツンドラ、熱帯雨林、火山、環境だけでも膨大ですし、生き物のバリエーションも莫大です。その全てを人間が認識することは到底不可能。 となるとどうなるか。 イメージ化です。自分の限られた経験から得られた情報をもとに思い込みや好き嫌いなどから取捨選択して「自然とはこういうもの」という個人的な脳内イメージを作り上げる訳です。 質問者さんが言う「遠くから見れば美しいが近くでは苛烈な生存闘争の累積」というのは質問者さんの脳内存在にすぎない訳です。 つまりは膨大な自然のイメージの中から取捨選択された質問者さんが美しいと感じるイメージの集合体と苛烈と感じるイメージの集合体のギャップに戸惑っている訳ですね。 >どちらが自然の姿なのか。 >どのように見れば、(自然の有様として)これで良いのだと本心から納得出来るでしょうか。 考え方次第ですが1つは美も苛烈さも全て個人的イメージにすぎず真実ではないと割り切ること。 もう1つとしては、ギャップを感じている両者のイメージの統合を試みられてはどうでしょうか。 他の質問者さんの例えをお借りしますが、どんな美女だってその美女が生きていくためにはグロテスクな内臓がなくてはいけません。内臓と美女は矛盾する存在ではないわけです。 美しい毛並みのライオンが生きていくためにはガゼルやシマウマを食い殺す必要があるわけです。 美しい宝石とか神秘的な鍾乳洞なんかが形成されるためには地震や火山といった恐ろしい自然現象があってこそです。 質問者さんが美しいと思う自然が形成されるには苛烈と感じる自然の営みがあってこそなのですから。 むしろ苛烈だからこそ美しい、くらいに思いこんでみてはどうでしょう。 まあこれもまた自然の実体ではなくイメージにすぎないのですけど。

a_hona
質問者

お礼

私には自然を憧れの一種と捉える節もあり、夢見がちと言われるのも納得出来るところです。 他の回答者さんも述べて居られますが、苛烈故の美しさはあると思います。機能美とも言えるものもあるでしょう。昆虫や魚類にも美しい者はたくさん居ます。グロい者も居ますが。むしろ問題は、耽美的な私の傾向にあるのであって、それによって世界の姿を推し量ろうとするあたりが浅知恵と思われるところです。イメージに支配されているところも、それに準拠しているのかなと思いました。 ありがとうございます。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.3

>自然は、遠目に見ればとても美しく、荘厳で、人を満足させるのに十分なものを表現しているように私には思われます。 >しかしながら、近目で見れば、それは生存の闘争の累積であり、苛烈なものでもあります 遠目(外観、見た目)と近目(現実のすがた)が異なっているのは自然によらず一般的にそうではないでしょうか。 美女だって人間の骨格を持ち怒ったり生理現象がありますw。 >どちらが自然の姿なのか。 それぞれ真実であり世にあるリアルな物事には多面性があります。 >ればとても美しく、荘厳で、人を満足させるのに十分なものを これは人間だけが持つ価値観というものの見方がなせる恣意的な現象だと思われます。 A嬢を美女として見るにはどの角度から見るのが一番いいのか、あなたが勝手に決める次元の問題だと思います。 対象に何を求めるかによります。 自然も単に一時の慰安のために眺めるのと、そこから有意義な資源を探すために観察するのとは異なってくるのは当然でしょう。 どちらが良いかは決められません。 自然の(本当の)姿というのは人間には結局つかめないものだろうと思います。人間も自然の中のひとつですし。

a_hona
質問者

お礼

なるほど多面的な見方のみがあるのであって、けして全容を知ることは出来ない。我々も自然の一部であるから。 そうかもしれないと思いました。 厳しくも美しい自然界、そこに生まれた我々、何故生まれたのか。疑問が尽きません。

回答No.2

「美」そのものが、人が自然の中で生きる上で好ましい方向を 選ぶためのものである。 五感の相関した経験の蓄積において、快適な経験の平均的な 視覚的パターンを、“快的な指向”と感じるようになる、ていう。 その「生きる上で」というのは、決して優しさによるものではなく、 環境のエントロピー増大と戦い、獲物と戦い、競合他者と戦って 生き延びる事なのだ。 優しさが美徳などというのは、分業化が進み組織化が発達して から、その内部でのみ通ずる、局所的な約束事に過ぎない。 「組織」が、血縁から集落、国家へと拡大するにつれ、その 「美徳」が強まるようだが、その実「闘争」の方も、血縁の殴り 合いから、集落間の武器を持った襲撃、国家間の兵器による 戦争に至るまで、どんどん「苛烈」になってきたのである。 「闘争が美しくない」などというのは、その「組織」が大きくなり、 法規やモラルといった、短絡的な意識をして社会的行動をとら せるための馬車馬の目隠しによって、外側での戦いが見えな くなった歯車人間が、その平和ボケした曇った目に映る虚像に 過ぎない。 美しい花も蝶も、苛烈な生存競争そのものの具象化に他ならない。

a_hona
質問者

お礼

喩えば美しい蝶も、生きたままカマキリに捕らえられ食べられたりします。人間も、争いのおりにはとても酷いことをするのだと聴きました。 美しく進化した者達の、変わらない一種残酷で苛烈な営みに対して、何故そうなのかという答えが与えられないでいます。もっとミクロな世界では、例えば私たちの肉体自身が、細胞達の闘争劇によって支えられてもいますし、何より私たち自身が捕食します。 一体何故なのか。。 厳しい視点からのご回答ありがとうございました。参考にさせていただきます。

回答No.1

物理的な意味の自然と、生物とをひっくるめて自然と言っているようだけど、物理的な意味の自然ならば、遠くから見ても近くから見ても、美しいものは美しいし、美しくないものは美しくないです。 生物についてならば、遠くから見ても近くから見ても生存競争はありますし、遠い・近いはそんなに関係ないと思います。 それに生物界に生存競争があるというのは誤解です。 生物界に生存競争があるというのは19世紀のスペンサーの社会進化論とダーウィンの進化論の誤解に基づきます。 ダーウィンは自然選択(ナチュラル・セレクション)があると言っているので、「自然淘汰」があると言ったのではありません。 スペンサーの社会進化論の文脈で、生物界にも人間界のような生存競争があるものと考え、それで「自然淘汰」、つまり強いものだけが生き残り、弱いものは淘汰される、といいましたが、自然界には、あるいは生物界には弱肉強食の生存競争なんかありません。 今西錦司によれば生物界には「棲み分け」があるだけです。 弱い生物は子どもが多く、強い生物は子どもが少ない。 そして弱い生物は強い生物に食べられることで、自然界のバランスがとれている。 それを「苛烈」と見るのは人間の勝手な見方です。 「どのように見れば・・・・・・・」も何もありません。 今のままで自然界は「棲み分け」ができていてバランスがうまく取れているのだから、これ以上何が必要でしょうか?

a_hona
質問者

お礼

私も、生存の闘争と見るのは偏っているのではないかとも思ったのですが、どう見てもそこには戦いがあるように見えてしまったので、あえて訂正せずにいました。 棲み分けているだけ、それもわかるのですが、残酷な一面もあるのが生き物の営みであることは、否定するのは難しいと思います。 遠目、近目というのも、語弊があるなとはふと思ったのですが、他に言い方を思い浮かばなかったので、そのままにしました。 おっしゃるところ、あると思います。 参考にさせていただきます。 ありがとうございました。

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