織田信長が本能寺で滅ぼされる理由と光秀の策略について

このQ&Aのポイント
  • 織田信長がなぜ本能寺で滅ぼされたのか、その理由について考察します。
  • 光秀はどのような策略を用いて忍者の目をくらませ、本能寺への通報を防止したのかについて探ります。
  • また、秀吉による光秀の密使の捕縛についても紹介します。
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織田信長はなぜ本能寺で滅ぼされてのか

お世話になります 明智光秀が織田信長を本能寺に攻めた事件です 質問は なぜ 織田信長が事前に襲撃を察知できなかったのかと 言う点です なぜなら 織田信長ぐらいの殿様なら 忍者を大勢雇っているはずですし 常に 身辺に 護衛・偵察させているはずです 本能寺の時も 京都周辺はすべて 忍者でひそかに 警護・偵察させていたはずですし 織田信長が特別命じなくても 忍者のリーターは自発的に 警護していたはずです それが 全然 察知されずに 光秀が 本能寺を 急襲できたとは思えません そして まわりには 優秀な官僚がいるわけだから それとなく 部下を使って 警戒するような 幹部もいたはずですが そろいもそろって なにもしなかったということに なっています (その時 たまたま 織田信長がすっかり油断していたからさ と言われればそれまでですが) いったいぜんたい 光秀は どんな方法で 忍者たちの目をくらませる もしくは 本能寺への通報を防止する といったことができたのでしょうか (例えば 半日ぐらい前から 京都への全道路を封鎖するとか 本能寺のまわりを それとなく 包囲して だれも通さないようにするとか) これに対して秀吉は まわりを完璧に警護していたから 光秀の密使を とらえることができた ということに なっています これなども 秀吉にとって つごうのいい事柄ばかり強調されていて 光秀が 京都急襲について いかに 工夫したかというような 観点からは なにも 残されていないのも 奇妙です ご教示 宜しくお願い致します

  • oka123
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回答No.5

すばらしい質問です。 仰るとおり、おかしいですよね。 歴史物語は必ず、信長を最後までかっこよく、覇王として描きますが、晩年の信長は家臣達になめれれ、天下布武の飾り。傀儡で何の実力も無く、最後は足利将軍並みの扱いだったのでは無いでしょうか? 晩年の信長は、松永や荒木に謀反を起こされています。 相当なめられていた証拠です。 秀吉に人質を差し出し、中国に来いと言われて従っています。 http://okwave.jp/qa/q8596335.html 結局、わずかな手勢で親子揃って討たれました。 これが紛れも無い、晩年の信長の実力です。 フィクションが、最後まで信長を実力者として描くイメージに騙されていますが、冷静に分析すれば、あなたの質問が的を射ており、晩年の信長は力が無かった証拠です。

oka123
質問者

お礼

回答 ありがとうございます なるほど 信長の権威が弱ってきていたので 光秀の急襲も成功したのでしょうね そういえば 本能寺の直前の行動として ・伊賀の里の焼き討ち ・佐久間盛信の追放 がありましたね これを見た人々は「信長は最近おかしい」 と思って 距離をとりはじめたのでしょうね 特に 情報面での警護をする伊賀者たちは 「こんなんじゃ 信長の警護なんぞ やっておれんわ」 そして 幹部将校たちは 「こんどはおれが追放されるのか」 と思ってしまい 光秀の行動に気がついて人でも 「信長なんぞ 死んでもかまわん」 ということで あえて通報しなかっただろうと 推測もできますね 話は別ですが 「忠臣蔵」でも 普通に考えたら 吉良を打てる可能性は 0 なのに なぜか 易々と成功してしまった (たぶん幕閣も 上杉家も 吉良の隣家も 江戸の木戸番も 箱根の関所も 襲撃時に集合した家の主人も みんながみんな 見て見ぬ振りしたので 襲撃が成功) ということは まわりの人たちの心理 ひいては 時代の流れによって 成功・不成功が 決まると 言えるかも しれませんね

その他の回答 (5)

noname#195579
noname#195579
回答No.6

明智光秀には家康がついていたとありますから。もしかして情報を与えていたのかもしれません。 信長も悟ったのかもしれません。自害したとありますから。ただ、家臣の推測ですが。

oka123
質問者

お礼

ありがとうございます

  • eroero4649
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回答No.4

>本能寺の時も 京都周辺はすべて 忍者でひそかに 警護・偵察させていたはずですし 天正10年時点での京都周辺は完全な信長の支配圏内だったので、周辺をそう厳重な警戒をしていたわけではないですよ。突発的な襲撃者に関しては、本能寺にいた警護の人数で充分でした。確か100名程度の警護を引き連れていましたよね。察知されずに暗殺をするとなると10名以下でしょうから、それを防ぐには充分でしょうね。 >忍者のリーターは自発的に 警護していたはずです なんかやたらと忍者にこだわっているけど、忍者は別に大名の身辺警護が仕事ではありません。忍者ってスパイなんだから、今のアメリカでいうとCIAでしょ。アメリカ大統領の身辺警護をするのはシークレットサービスで、警察組織はFBIです。CIAは大統領の警護はしません。 >まわりには 優秀な官僚がいるわけだから それとなく 部下を使って警戒するような 幹部もいたはずですが 本来その役割にいたのが明智光秀です。みんな歴史の後知恵で「光秀は裏切りの人」ってイメージで語るけど、信長にとって光秀は側近中の側近で、たぶん信長的に「柴田勝家(裏切りの過去あり)より、秀吉より信用できる」と思っていたと思います。だから、襲撃してきたのは誰かと尋ねて光秀ですと聞いたときに「是非もなし(しょうがない)」といったのです。 >本能寺への通報を防止する 光秀は桂川を越えたところで「敵は本能寺にあり」と謀反を宣言したということになっていますが、そのときに光秀の家臣団が動揺したという記録は残っていませんし、密かに光秀を裏切って信長に危険を知らせた人もいません。家臣団から「ええっ、マジすか?」って声が上がらなかったんですよ。そして、兵卒に至るまでが忠実に光秀の命令に従っています。 ま、私が書くのはここまで。なぜ家臣団が動揺しなかったのか。光秀家臣団の中に「光秀を裏切って信長に危険を知らせて脱出させ、その功績で大いに取り立ててもらう」ということを考えて実行に移した人物がいなかったのはなぜかと考えるのは興味深いですね。

oka123
質問者

補足

そうですね やはり 光秀家臣の1人ぐらいは 裏切って 信長へ知らせたというような人が出て来る はずですが 出なかったということは 信長の威信が 徐々になくなって来ていた 時期だったような気がします

noname#210968
noname#210968
回答No.3

結論から言いましょう。 織田信長は、いわゆる「寝込みを襲われた」のです。 明智光秀は、今なら殺(や)れる、 と、京に居た信長を襲ったとおもいます。 なぜ光秀がそうしたのか。これは、本人に訊かないと 解りませんが、多分、自分はもう武将として終わり、 いつやるの、いまでしょ? というノリで京に攻め入ったのだ、というのが、私個人の 見解です。 その証拠に、細川幽斉、忠興父子は義絶(絶交)、また、 筒井順慶は大和郡山城に立て籠もると表明し_きっと、光秀は ワシはこんなに人気がなかったのかあ!と、叫んだことで しょう・笑_、あとは、どーする?どうするって、そんな危 い橋わたれないじゃん、という理由で、着いてくる武将がいなくて、 羽柴秀吉に結局滅ぼされたのです。 しかし、信長がスゴイ男だったのは、自分が死んだ証拠を残さなかった。 おそらく、信長が逗留した本能寺には、火薬類の爆発武器が溜めこ まれていたはずです。 もしも、仮に光秀が信長の首を獲っていたら、 日本の歴史は確実に変わっていたとおもいます。 むざむざこの首を、呉れてやるほどお人好しではないわ… 死ぬ間際まで、そう考えた信長は、真から戦国武将だったのです。 事の真相を知っていた秀吉や徳川家康は、 知っててわざと真相を隠したのです。だって、 そうすることで、自分たちが天下をとれたのですから。

oka123
質問者

お礼

ありがとうございます

回答No.2

だいぶ昔に史書や小説読んだ程度のニワカですが 織田軍が加速的に膨張していったことの要因は 主だったものに独立した軍隊を持たせたからだ と思うんですよ 信玄の軍隊は郷士が武田軍に加勢するという形式で 郷士は収穫が忙しかったり財政的にキツけりゃ来ない 敵の領地を刈取る戦には皆積極的で(分配)、しかし 戦略上将来を見据えての戦には人が集まらなかった だから信玄は自前の軍隊を常に揃える必要があった これは毛利もそのほかの大名もシステムは同様かな なので号令一発で独立部隊が即稼動する織田は伸びた と思うんですよ 光秀は織田家中の筆頭で殲滅戦には常に出張ってる 結果的には秀吉に敗れているが単純な戦闘なら光秀 明智軍は規模、軍備において当時日本一かもで 信長が出来ることは全部出来る集団抱えてたと思います 信長は警護部隊程度しか手駒が無く側近も兵抱えてない そんなとこへ最強部隊が帰ってきて奇襲されたら術が無い 切れ者も諜報担当も抱えてただろうがそれは光秀も同じで 突然のクーデターには対応できなかったんじゃ、と思います ゲームと違うからね、それに忍は純粋な家臣とは違うしね 光秀の計算では 「秀吉は毛利方と膠着状態で身動きがとれないはず」 だったと思うんですよ 結果論だが柴田は上杉他の動きが気になって動けなかった だから秀吉軍とまともに当たるしかなかった(雪もあるが) 上杉は柴田や本願寺に気が抜けなかったので動けず 織田全体はほうぼうに戦しかけてたんで信長に余力無く だからそれぞれ滅んだり没落していった、必然があった 「秀吉は毛利に背を向けられない」これは 光秀でなくても辿り着いた「必然」の図式ですから うまくことが運ばなかったのは不運としか言いようがない 秀吉軍は純粋な戦闘能力で成果を挙げていったのではなく 要所に基地こさえて敵の様子を探り 戦闘以外の方法で敵の弱体化を謀って勝利を重ねた これって奇襲とか短期決戦には弱かった、と判断されますよ 「組みやすし」というやつですね、少なくとも明智ほど物騒? ではないです、ならば光秀と秀吉が真っ向から当たるなら 挽回の目が出やすそうな「秀吉」と一旦でも組んどこか、と ロシアと組むよりフランスと組んだほうが将来的に目がある みたいな心理から形勢が秀吉に傾いたんじゃないかな あまりにも光秀が完璧すぎて、そら恐ろしかったんで 光秀は滅んだ、のではないでしょうか そして勝てば官軍、と言いますから 秀吉が後世で褒め称えられるのも致し方ないかと思う

oka123
質問者

補足

そうですね 秀吉は偉い という資料しか残ってないですね 光秀は偉い(こんなことにまで知略をめぐらせた) という論調の資料は全然残ってないですね 有るのは「信長にしかられて そのあげく カーとなって突発的に本能寺へ突入」 というような記録ばかりですね たぶん 秀吉の時代では 「光秀は頭がいい」 というような ことを言うのは ご法度だったと 推測します

回答No.1

え? 忍者ってのは現代の作り話ww 戦国時代に忍者なんか居ませんよ? 確かに偵察を担った人物やスパイみたいなのは居ましたが 皆さんがイメージしている 黒い頭巾をかぶって手裏剣を飛ばす あんな忍者じゃありません もちろん彼らも同じ人間です 人間以上の動きはできません 信長は京都御所で馬揃え(天皇に軍勢を披露する式典)の総大将に光秀を任じています そのために信長は光秀に「軍勢を率いて上洛せよ」と命じてます つまり光秀が軍勢を率いて京都に入っても誰も不審に思いません その馬揃えの後 光秀を備中高松へ向かわせる手はずでした 仮に忍者が見張ってたとしても 光秀は馬揃えの準備のために京都に行くのか と思っただろうから 不審には思えなかったはずです

oka123
質問者

お礼

ありがとうございます

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