孤独とはアートマンの電磁場である

このQ&Aのポイント
  • 《孤独》はアートマン(霊我)の電磁場であり、神秘的な存在である。
  • 個は風船の中にあるように見えるが、実際には外に存在し、神秘的な領域に包まれている。
  • 死は個が神秘的領域に同一化することを意味している。個の消滅という死に際して、個はすでに神と同一化している可能性がある。
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《孤独》は アートマン(霊我)の電磁場である。

 或る質問への回答をお借りして 孤独をめぐって 問い求めるものです。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~  (2) 心は外にある。    ・・・  (あ) 個は、〔心がたとえとして《風船》の中にあると一見思われるとき そうではなく 外にあると見るならば 個はその〕風船のまわりをぼんやりと包んでいるものであり、神秘的領域のものです。   ☆(質問者註) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~      あたかも母船から解き放たれて宇宙遊泳しているがごとく か?      これを 或る方は 《宇宙のみなしご》と呼んでおられる。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    (い) ただ個という形を持って、それ故有限な存在として異なるのみの、本質は、神とよばれる無限の一者に包まれた神秘です。   ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    その個の占める《場》は すでに 周りの世界と通底している。    ゆえに ひとの一生としての有限性は じつは 必ずしも限られてはいない。か?   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (う) 死(個の消滅)とは、神秘的領域に同一化するということです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (う)を承けて 端的に申すなら:  (え) 《個》が―― 一人ぽっちなる存在として――《神秘的領域に同一化する》のは じつは 個の消滅という死に際してというよりは すでに生まれたときから いま・ここで・つねに あたかも神の場と同一化している。ことであるかも知れない か?  (お) つまりは もし想定がすでにあたかも常識のようになっているとしたなら 一切衆生 悉有仏性というごとく 神の霊(《仏性》)はすでにひとに――どの人にも―― やどっている。これでよいか?  (か) つまりは (い)です:   ◆ (い) ただ個という形を持って、それ故有限な存在として異なるのみの、本質は、神とよばれる無限の一者に包まれた神秘です。  (き) 《包まれている》と《同一化している》との違いは おそらくブッダター(仏性)なる潜在性としてのチカラを自覚するかどうかなのではないでしょうか?  (く) 自覚するかどうかを別として ひとは すでにその自然本性において 神なるナゾ――神秘――のもとにある小宇宙である。か?  (け) その神の霊は アートマン(霊我)ともブッダター(仏性)とも呼ばれる。プネウマともルーアハとも呼ばれる。無神論の場合には その神の霊じたいが アン‐アートマン(無我)と呼ばれる。  (こ) 神は神秘でありナゾであるから 雲をつかむような話として《霊》と呼ばれ その名前はいろいろ違っても 同じく神であり霊でありその場である。これを《無い神》として捉えることも 自由であり じつはその中身は同じである。  (さ) ひとが孤独であるというのは この神の霊をやどした存在としてあることを言っている。つまり 霊は人間には分からないのだから 人間の目から見て ひとなる存在は《ひとりぽっち》であり この一人ぽっちであることにおいてこそ 孤独であり アートマンのチカラが 電磁場のごとくにはたらいている。のかも知れない。  (し) この孤独からのがれようとするのは 人間の目から見ての一人ぼっちにならないように その意味での除け者にならないようにするためのウゴキなのである。  どうでしょうかねぇ みなさん。  (お名前を控えていますが その回答者の方がたにあつくお礼を申し上げます。ありがとうございます)。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#195588
noname#195588
回答No.1

思いついたので投稿してみます。 語学力はないので、恥をかくことにします。 堕天使で考察が終わるのもなんだからね。 サンスクリット aham asmi ラテン語 ego sum 主語はいらないから asmiとsumを見て、 たとえばラテン語の esseならまだ人称変化する前で、 sumがesseに回帰すれば 一人称の私は消えるけれど、なにかが存在するのだろうか。 esseだけだと、どうなるんだろう。 「私はある」は神。そこから私をなくすとどうなるか? それはともかくネットでサンスクリットだのなんだの書き込みをしているところに 私の孤独があるが、かといってフツーの暮らしでは、そもそもサンスクリットの話なんかでてこないし。 あの人からも手紙の返事も来ないし、ネットでいろんな人に批判されたり、いやみを言われる時点で なんか生活を間違っているよなあ。かといってパーリ語の仏典なんか一生読まなかっただろうしなあ。 それがよかったのかどうなのか。幸せではないよなあ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  つまり こういうことですか?     孤独なる存在・・・・・・まじわる存在     (根源的孤独)----(社会的不安からの孤独)     ____________________    (Skt) as-tum・・・・・・・・as-mi  (Lat) es-se・・・・・・・・su-m  (Eng) be・・・・・・・・・ I a-m.     (不定法)------《われ あり。》        スペイン語では 恒常性を表わす《である ser 》と可変性としての《がある estar 》とを語で区別するようです。    ・ 〔 Yo 〕 soy español      = I am Spanish.    ・ 〔 Yo 〕 estoy fatigado.      = I am tired.  ですから もし 女性にお世辞を言おうとして    ・ Estas      bonita.      = You-are 〔 being 〕 pretty. と言うと 《いまこのとき きれいですね。》という意味になってしまう。    ・ Eres bonita.      = You-are pretty.  と《 ser 》動詞で言わねばならない。    このように考えると 恒常性は 《孤独》であっても ちからづよいとも見られるのかも知れません。    あるいは 人称の活用をする前の不定法のかたちのほうが 自由であるということかも分かりません。  たぶん どちらも重要であるとなるのでしょうが。       

その他の回答 (2)

noname#194381
noname#194381
回答No.3

どうぞ安らかにと願いと感謝を込めて念じ申し上げます。 言葉になりません。。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  たとえば  ☆☆ (く) 自覚するかどうかを別として ひとは すでにその自然本性において 神なるナゾ――神秘――のもとにある小宇宙である。か?  ☆ この命題などは 一般にふつうに すでに受け容れられているのではないか。とさえ思うのですが それほどイッチャッテいますか?  こんばんは。ましゅまろ3さん。ご回答をありがとうございます。  あるいはたとえば  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~  (こ) 神は神秘でありナゾであるから 雲をつかむような話として《霊》と呼ばれ その名前はいろいろ違っても 同じく神であり霊でありその場である。・・・  (さ) ひとが孤独であるというのは この神の霊をやどした存在としてあることを言っている。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というようなかたちにおいて いわゆる宗教の違いや宗派の差を乗り越えることが出来るのではないか? という方向をめざしています。という魂胆ではあります。  もう一点としては  ☆☆ (し) この孤独からのがれようとするのは 人間の目から見ての一人ぼっちにならないように その意味での除け者にならないようにするためのウゴキなのである。  ☆ とまで言うことによって 《一人ぽっち ないし 孤独》という概念の内容を百八十度転換しようと言っています。  《人びとと一般にふつうにまじわること》 これは何らおかしなことではなく いわゆる共生としてとうといことですらあるのですが それはそうとしてしかも 《わたしのわたしたること》 これは むしろ《人の目から見ると 一人ぽっちである有り方》のほうに基礎がある。  こういうぶっ飛びの議論です。  これは どうしてこんなことまで考えたかと言えば いまもカトリック教会では 例のエクソシストが職務として任命されていて 特に若い人びとから求められているといった実態を知ったことからです。精神科医のあつかう範囲を超えて むしろ本人たちから 《悪魔祓い》なる儀式を受けたいという心の状態がある。のだとそうです。  このような《不安と孤独》 この現実を聞かされて みなさんとともに 《孤独》論を一二の質問で模索していて ひとつにここにたどり着きました。まぁ ここでの極論は わたし〔だけ〕が言っているのですけれど。  命綱のない宇宙遊泳のようであっても むしろそのような一人ぼっちなる状態において〔こそ〕 《わたし》の人間としてのチカラは発揮されて来る。――と言おうとしています。  みこころのままに というささやかな人間の心です。どうでしょうかねぇ。

noname#195588
noname#195588
回答No.2

雑談です。難しくて難しくて。 ラテン語の Ego sum qui sum について esse を持ってきて、 わたしはある に対して とにかく ある 不定詞をつかって、 存在者と存在の区別はこういうことかな? とか考えたりしたけど、 スペイン語の例を出されて そういえば サンスクリットで存在を意味するのに √bhū もあるようで、 bhavaで検索すると仏教用語としての「有」もでてきます。 有 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89 本性 (仏教) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%80%A7_(%E4%BB%8F%E6%95%99) √as ある サンスクリットでも、動詞が使い分けられているとしたら、 仏教的に√asのほうの、「ある」はどういう扱いになっているんだろう。

bragelonne
質問者

お礼

 ふーむ。まづは ご回答をありがとうございます。    《ある。存在する》――《ある。成る》   Skt: √as ・・・・・・ √bhū    Russ.: es-t' ・・・・・ byi-t'    Lat.: es-se ・・・・・ fu- (完了)/ fut- (未来)   Eng.: it is・・・・・・  be  ☆ ・・・かなぁ?  ロシア語の ブイ-チ( byi-t')は 現在のかたちがありません。それは ィエス-チ( es-t' )が担います。しかも 一般に 《である / がある》というときには この動詞を省略します。   Ya --------studyent.    I   am   a student.      Gdye ----- vyi ?    Where   are   you ?  ところが ブィ-チの現在形だと思われる ブードゥー( budu ≒ I become )は 未来形をみちびくために用いられます。英語の will のように。   Ya  budu  tytat'.   I    will    read (books).  あまりはっきりしないかと思いますが 《ある》にふたつの種類があるということが 分かって来たようです。  ちなみに 例の《目覚める》の ブーヂーチ( budi-t' )は ブィ-チ / ブードゥーから派生したかと考えられます。ブッダですね。bud-ta 。-ta は 受け身の完了相だと思われます。work---work-ed----work-ed / think----thought------thought の / t, d /。  《本性》には プラクリティとバーワ(スワバーワ)とがあるのですね。バーワは √bhuu つまり be 動詞の系統であろうと。  それとともに √as と √bhū との違いなどについて さらに明らかになるとよいのですが。  けっきょくラテン語も英語も ロシア語と同じように ふたつの系統がこんがらがっているように見えますし。

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     イエス・キリストの大嘘について どう思いますか?  ナザレのひと・イエスは ヨセフという父親とマリアという母親とから――むろんその交渉をつうじて――生まれたふつうの一人の人間であったわけですが 自身はそうであると同時に(つまり 人間であると同時に) 神の子でありみづからも神であると言ったのです。――これが ひとつのウソです。  もっともこのウソのからくりについて 人びとが納得の行くように説明することも出来ます。  つまりは 何のことはない 例のブッダター(仏性)というあれです。アートマン(霊我)でもよいわけです。この神の霊が 人間にはやどっているといった・人びとの常識にまで成った想定の話を少し拡大して イエスは 《わたしが その神の霊である。つまり ブッダターである。つまり アートマンである》と言ったわけです。  すなわち ふつうは人は 神の霊であるアートマンやブッダターなる霊を わが身と心とにやどす・つまりそれは 分有するということなのですが イエスの場合は 分有ではなく 自分がその神の霊そのものであると言ったのです。  すなわち イエスはふつうの人間であると同時に その身と心〔と非思考の庭〕とで百パーセントが神の霊であると言いました。――これが 第一のウソです。  第二のウソは 神は どんな名であろうと全体として ただひとつであると言いました。それには ひとつの手法として 十字架にハリツケになって そのまま去って行くというかたちを採った。これによって 神という神は すべてひとつであることが 確認された。  なぜなら 神である(=キリストである)イエスが その十字架上から もしおまえが神の子なら降りて来いとなじられても 降りて行かなかった。降りて行ったなら それは おまえが神であるから出来たことだ 神の奇蹟などは おれたちにはお呼びではないと人びとは思い言い合って おしまいになる。ゆえに 奇蹟を起こさなかった。  またもしただ人間としてハリツケに遭って死んだというだけなら それは せいぜいよくやったな がんばったぢゃないか おまえのことは覚えておいてやるから 往生しーやと言われておしまいである。そうではなく 神がハリツケにされたのである。と語ったわけである。これが 第二のウソだ。  このウソによれば 人びとは 笑おうが泣こうが とにもかくにも 元気が出る。ハリツケのイエス・キリストを見れば ひとは元気を取り戻す。ということになっちゃった。――これがウソの効用。  しかも やがては 名の違う神どうしのケンカは もう用無しとなるはずである。そのために 大嘘をついた。イエスという男。  宗教のオシエは どうでもよい。のです。

  • イエスのついた大嘘

     イエス・キリストの大嘘について どう思いますか?  (あ) ナザレのひと・イエスは ヨセフという父親とマリアという母親とから――むろんその交渉をつうじて――生まれたふつうの一人の人間であったわけですが 自身はそうであると同時に(つまり 人間であると同時に) 神の子でありみづからも神であると言ったのです。――これが ひとつのウソです。  (い) もっともこのウソのからくりについて 人びとが納得の行くように説明することも出来ます。  つまりは 何のことはない 例のブッダター(仏性)というあれです。アートマン(霊我)でもよいわけです。この神の霊が 人間にはやどっているといった・人びとの常識にまで成った想定の話を少し拡大して イエスは 《わたしが その神の霊である。つまり ブッダターである。つまり アートマンである》と言ったわけです。  (う) すなわち ふつうは人は 神の霊であるアートマンやブッダターなる霊を わが身と心とにやどす・つまりそれは 分有するということなのですが イエスの場合は 分有ではなく 自分がその神の霊そのものであると言ったのです。  (え) すなわち イエスはふつうの人間であると同時に その身と心〔と非思考の庭〕とで百パーセントが神の霊であると言いました。――これが 第一のウソです。  (お)第二のウソは 神は どんな名であろうと全体として ただひとつであると言いました。それには ひとつの手法として 十字架にハリツケになって そのまま去って行くというかたちを採った。これによって 神という神は すべてひとつであることが 確認された。  (か) なぜなら 神である(=キリストである)イエスが その十字架上から もしおまえが神の子なら降りて来いとなじられても 降りて行かなかった。降りて行ったなら それは おまえが神であるから出来たことだ 神の奇蹟などは おれたちにはお呼びではないと人びとは思い言い合って おしまいになる。ゆえに 奇蹟を起こさなかった。  (き) またもしただ人間としてハリツケに遭って死んだというだけなら それは せいぜいよくやったな がんばったぢゃないか おまえのことは覚えておいてやるから 往生しーやと言われておしまいである。そうではなく 神がハリツケにされたのである。と語ったわけである。これが 第二のウソだ。  (く) このウソによれば 人びとは 笑おうが泣こうが とにもかくにも 元気が出る。ハリツケのイエス・キリストを見れば ひとは元気を取り戻す。ということになっちゃった。――これがウソの効用。  (け) しかも やがては 名の違う神どうしのケンカは もう用無しとなるはずである。そのために 大嘘をついた。イエスという男。   宗教のオシエは どうでもよい。のです。

  • 空仏一如!?

     霊のお話です。  宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊と。  1. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン    我:アートマン  2. ゴータマ・ブッダ:無無一如    無:空・シューナター・ゼロ    無:無我・アン‐アートマン;ニルワーナ  3. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・仏性  4. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  5. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  6. シントウイズム:もののあはれを知る    =きよらかなおそれ    =聖なる甘え    =わび・さび  ご教授ください。

  • 《信じる》を哲学として定義せよ

     たたき台として次を参照してください。参照無しでもかまいません。  ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~      一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ    神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~     *1 神:    次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。   *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。=普遍神。   *1-2 たとえば 次のごとく:    類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人    __________________________   ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン               (梵我一如)   ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)               (無梵無我一如)   ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)               (仏仏一如)   ・ ヘブルイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・・・・・・・・・   *2       非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。   *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。   *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものであり これを《非知》と言う。   *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。   *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。   *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。   *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。   *3    対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。   *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。   *4    神の名: 前項の(1-2)などを参照。   *5   シルシ: (2-6)などを参照。   *6    心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?   *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。   *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。   *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。あるいは 良心。ほとんどそれらのみである。   *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。良心のしわざ。それがヒラメキにおいて知らされる。   *6-5 そしてそれは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられて来るようにして 作業がなされる。非思考の庭は 感性ともつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。つまり 良心がらみであるから ヤマシサ反応となって現われる。