• ベストアンサー

哲学は人の命を救えるか?

世界中で悲鳴が上がっています 実際に殺される人や事故で死ぬ人、自殺する人もいます。 宗教もありますが 今の世の中宗教だけでは救われない気がしませんか? 哲学は社会の役に立てるか 人の命を救えるか? ここに来る人なら一度はその様な事を考えた事があるのではないでしょうか 哲学は人間の命を救う力があるのでしょうか?それとも無用の長物に終わってしまうのでしょうか? もしよかったら あなたのご意見をお聞かせ下さい。少しでも可能性があれば・・・

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#194996
noname#194996
回答No.9

わたくしこと、いつも早合点したり、単純化しすぎたりする癖がありますので、話し半分で聞いていただいて結構なのですが、以前どこかで書かせてもらったとおり、学問としての科学が価値観を持たず、したがって人間のしあわせなどとは無関係に暴走する状況が見られるのとは正反対に、近代哲学においては価値観の転換が決定的に人間の側へもたらされたとおり、人間の人間による人間のための価値観の探求という大きな目的となりました。つまり哲学とは「善の研究」そのものであり。善い、良い、好い、佳い というあわおどり的酔いの感覚がしわわせ生命(よくいきること)にごく近いものである以上、哲学は人の命を救う力は充分にあるといえます。簡単ですが一言申し上げました。

yuniko99
質問者

お礼

>善い、良い、好い、佳い というあわおどり的酔いの感覚がしわわせ生命(よくいきること)にごく近いものである 善の研究に興味が向きました 西田幾太郎でしたっけ? 善く生きること、体に良い事、好きな事をやれる事、優れて佳いこと 良いですねえ^^哲学は善い事を研究して人を救う その前向きな考えで生きたいですね。素晴らしい。 どうも大変ありがとうございます。

その他の回答 (12)

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.13

スルーされてしまっているようですね。 自分がお節介だとは知っています。 ただ、人は理想を語りその理想を高く高く掲げて自分が動かないと 段々と内面が壊れて行くようにできています。 よく宗教家がおかしな方向へ走りだし、訳が分からないことを言い出し 奇異な行動や、見えなくていいものが見たり聞こえたりするようになるのは 理想を自分で実現させていかず、人にやらせることを続けるからです。 誰でも自分の足元を固めず、理想だけ掲げて口だけに酔い それに終始すれば、内面から崩壊して行くという罠にかかります。 yuniko99さんがいい人だけに、何度も行動をと言い続けきたのですが あなたが崩壊するのは見たくなく、分かって貰えるかと、これを最後と思いかなり辛口にしました。 これ以上は、お節介しません。 失礼します。

回答No.12

「命を救う」とは、どういう意味だ? 人は、長く命を永らえる事が目的なのか? 人の生きる真の目的は、人生を通算した充足量の 最大化であって、物質的豊かさでもなければ、 単なる寿命の長さでもない。 その「人生を通算した充足量の最大化」を構成する のは、「認識の深まり×そこに描く意志のベクトルの 大きさ×その達成度×その感受性×寿命」なのだ。 哲学=認識の深まりは、第一項の環境認識=意識 の深まりとして直接寄与するだけでなく、意志のベク トルの大きさにおいても、人生を通算する中で分断し たり矛盾したりしない最長のビジョンにおける意志を 抱き得、またその「最長のビジョン」によって最高の 社会性(分業=助け合いとしての社会)を実現する。 もちろん、そこにおける自律的社会行動は、最大の 社会貢献=最長の生存可能性における完全なる 充足を成し、「人生を通算した充足量の最大化」を 可能にするのだ。 哲学=環境認識の深まりのない、体制や常識に 流され、他律的に生かされる無思想な歯車人生が いかに「命を永らえ」ようと、「充足量の最大化」どこ ろか、希薄な意識×苦痛から逃げるので精一杯の、 死人に近い生だ。 オマエはもう(半分)死んでいる!

回答No.11

この世に生まれた者は皆、死を免れることはできません。従って哲学によって人間の命を救うことはできません。ニーチェは狂死、ソクラテスは毒死、お釈迦様は食中毒死、イエスに至っては死刑です。人の生き方や死に様には、善悪も良否もありません。 ただこの世は苦に満たされていることは事実です。この世から苦を取り去ることはできません。 息を吸い続けてごらんなさい。どこかで苦しくなって息を吐きたくなるでしょう?息を吐き続けてごらんなさい。どこかで苦しくなって息を吸いたくなるでしょう?動物は、息をすることが楽しいから息をしているのではありません。息をしないと苦しいから息をしているのです。 死は、ブラフマンの内でおこる波動の変化のひとつに過ぎません。生という波が死という波に変化しただけなのです。生命に執着する心から離れ、死を恐れない境地に至ることでしか真のやすらぎを得ることはできません。

yuniko99
質問者

お礼

境地というのは精神の問題ですね。 精神は存在を意志しないのでしょうか? 死を意志して死ぬ人もあれば 存在する事を意志して生きる人もある。 その生きた人が存続し未来に存在し今在るのです 死んでしまったら生命・人間の永々たる努力が台無しです せいもしも同じようなものだと 子供を亡くした親に言えるでしょうか? 自分が死ねるでしょうか? 私も死にたいと思ったことは何度もありますが そうそう死ねるものではありません こう書くとなにか一言ありそうですが 生きてること、存在することは非常に大事なことなんです。 苦しくても生きていればいつか苦しくなくなるかもしれない 生きることも大変ですが 死ぬのは嫌だという人が進化してきたのが今の人間です。 どうもありがとうございます。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.10

哲学は、十分に可能性があると思います。 ただ哲学には使い方があって、個々がまずその理論を実践する行動に移し それをやり続ける事で、理論に血肉が通います。 理論は、理論だけなら絵に描いた餅に過ぎません。 誰の腹を満たすこともなく、飾った絵を眺めて自己満足に耽るか 額縁ごと振り回して、周りの誰かを傷つける武器として使うか程度に収まってしまいます。 個がそれぞれに自ら実践して日常に活かし、血肉が通う理論が 一般に広まれば、擁立されるような人を徐々に輩出することに繋がると思います。 絵に描いた餅に酔い続けるか、食べれる餅を手にし分かち合って生きる道を選ぶか。 それは、特別に活動している人達云々の話しではなく ごく一般として生きている私達一人一人の肩にかっているものだと思います。 血肉の通う理論実践者が増え、その人達が語ることもやって行けば 世の中は、確実に良い方向へ向かうことができる。 それが哲学にはあると思います。

  • kirin1985
  • ベストアンサー率40% (50/123)
回答No.8

 見当はずれな意見になるやも知れませんが、私は宗教と哲学はあまりかけ離れたものとは思いません。  宗教の多くは弱者救済の為と言う要素が強いですよね。その為に殆ど自然発生したモノです。神と言う偶像を作り、あるいは人を神聖化させ崇めます。絶対的なものが存在する疑いのないものです。  一方で哲学はもっとマクロで弱者救済の為の哲学もありますし、疑う事自体がそれのこともあります。過ちを犯す神聖化されていない実際の他者、そしてそれを考える自分自身が哲学ではないでしょうか。  そして『哲学』と言う言葉は酷く曖昧な線引きです。例えばどっかの社長が唱える経営哲学も、どこかの苦労人が語る人生観もまた一つ立派な哲学だと思います。不在の神にすべてを委ねるか、実際の他者や自身の信念に身を委ねるか。両者の違いはそのくらいだと思います。  哲学は決して無用の長物ではないと思いますよ。

yuniko99
質問者

お礼

ありがとうございます。私もそう思います。 神を信じる人 仏を信じる人 宗教を信じない人 日本ではどれくらいの率なんでしょうねえ 神仏を信じて幸せになれるなら信じたいですが 神も仏もあるものか と言う人も多いですねえ。 哲学は進歩しますから宗教よりも時代に合わせる可能性はあると思うのですが・・・ 哲学を語る人は少ないですねえ どうも大変ありがとうございます。。

回答No.7

 こんにちは。  長いですが。  いくらか自虐的で俗っぽい言い方をした場合 哲学は おんなをはらませることすら出来ない というのが 相場〔だった〕らしいです。  けっきょくのところ 哲学は 《共同自治において社会の役に立てる施策》や《医学のようにひとの命をすくう学問》やの基礎となる研究であり 思索一般としてのいとなみです。  すでに政治経済学〔の実践〕が社会を運営し 医療が人命を救い健康学〔とその実践〕を打ち立てているところでは 哲学はあまりにも迂遠すぎて《無用の長物》と見なされがちでしょうね。    もっとも何ごとも 基礎や基本は 大事です。  そのように 何よりももっとも遠回りしながらささやかにでも世の中に貢献しようとする心がまえではいるはずです。迂回生産ですね。魚を素手で取ろうとしたとき 網や銛を考案するといったそれです。    あるいは いまひとつ別の考え方も 可能であるかも知れません。  すなわち 哲学は けっきょくまだまだ直接的な社会への寄与は むつかしいわけですが それでもその思惟ないし世界認識において 少しでも歴史の中にここまでに到った現在・現状におけるわたし〔たち〕の位置関係 これが分かるならば それとして自己了解ができる。かと思われます。  たとえばそのためにわたしは:   現実の社会は 国家として二階建てであるとか  ――《アマテラス公民圏(主導)‐ スサノヲ市民社会(従属)》なる二階建て構造における連関制といったように――   あるいは   この《 A - S 連関制》が けっきょく職場や学校や あろうことか 家庭内にまで そのミニアチュア版を築くに到っているのではないかとか  こういった《わが哲学》を考えて来ています。  この A - S 連関は けっきょく身の周りの現実としては   《ガミガミ電波( A )‐アース役( S )連関》  といった上下関係となって現象している。それは あたかも二階建てになっている。といった哲学を考えました。  少しでもそれによって いま・ここなるわたしが この現実に立っているわたしみづからをそこにまとわりついた夾雑物を取り除いたすがたで了解しうるようにという目的のもとにあります。  あぁ それにしてもアース役はつらいよ けっこう毛だらけ猫灰だらけ・・・ってちょっと言ってみるのも みづからが自己をすくうよすがになるかなと思ってのことです。  あとは 共生と言い共同自治と言い 社会的動物と言い 問題は 人と人との関係・またつながりにあるのでしょうね。  きらいな人については おれはアイツが嫌いだとまづはっきり認識して あとは 人間どうしの互いのとうとびのもとに 市民でありかつ公民でもあるという存在として ふつうにつき合いをおこなう。  あそこでアース役( S' )だったおれが ここではガミガミ役( A' )になっているといった姿に気づいておどろくというような現実もあるかも知れません。  市民( S )たる人は そのままお二階に上がっていなくとも ふつうに一人の公民( A )でもあります。  こういった現実存在のありさまやあり方をしっかりと捉えて 生きる。自由に生きるべく生きる。  そういった思索の成果を 互いに語り合う。  哲学ないしこの哲学カテは そういういとなみであり場であるのではないでしょうか。  宗教は ダメです。麻薬も 一時的な痛み止めとして使うことがあると言うかも知れませんが それなら 個人としてその主観の内で 神頼みをすればよいだけです。宗教は 人間をきちがいにします。とてつもなく酷いことを何でもやってしまうようになるか さもなければ まったく押し黙ったまま自分の殻に閉じこもって余計なことはまったく何もしないようになるか。いづれか一方の極端へと走らせます。  日本人は 後者です。それは かのにっくきゴータマの所為です。前者は前者で 問題ですが。   

yuniko99
質問者

お礼

成る程 ガミガミ役とアース役ですか 哲学を友と語り合う日が来ればいいですねえ 僕は友達に自分の哲学を語ることはありません 本は買ってもらったけど 押し売りは出来ません 宗教も素朴なうちはいいと思うのですが 狂信的になると 薬は毒だとか この世が滅びるとか 視認が蘇って、天から声が聞こえるとか よく分からない事を言い出すので困りますねえ 貴方は確かインタムライズムを提唱してる人ですよね どういう考えを持ってるか聞きたいですねえ 始めるのは難しいですが 始まれば有益な考えだと思うのですが 始まらないことが多いです エスペラント語のように(^^ゞ 宗教に恨みはないですが 哲学を語りたいですねえ 長文は苦手ですが 読みやすかったです どうも大変ありがとうございます。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.6

考える葦として生きるならば、哲学は人を救っているでしょう。ただ、生存のみを追求するならば、哲学は補助的な意味しかないように思います。 生きるということはどういうことか、という点の理解の相違に従って、この問いの答えは変わってくると思います。

yuniko99
質問者

お礼

考える葦として生きることが 生存には繋がらない 過酷な状況もありますからね その時は無力ですよね しかし哲学がなかったら 科学だけでは世界は平和で豊かにはならないのではないかと思います。 微妙な点はよくは分かりませんが 私は生存ずる為に哲学が役に立つ時が来ないかと思っています。 どうも大変ありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.5

yuniko99様、こんばんは。 yuniko99様の中では、 「宗教>哲学」なのですか

yuniko99
質問者

お礼

こんばんは^^クリナルさん 僕は宗教を信じたことはないですが 信仰の厚い人は宗教>哲学 でしょうね。 僕は宗教哲学も、もっと発展性を持って進化してくれと思うばかりです。 しかし中学生の頃は おんころころせんだりまとうぎそはか を 素朴に拝んでいました^^ どうも大変ありがとうございます。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.4

麻薬を求めて、苦しさから逃れようと更に苦しみに溺れる人間がいます。 車で過剰なスピードを求めて、命を削る楽しみに溺れる人間がいます。 生きる苦しみから解放されようと、死の苦しみを選ぶ人間がいます。 そして自分の存在の苦しさから、学びに溺れる人間がいます。 医学も科学も数学も、幸せを生むと同時に苦しみも生み出しました。 結局は、使い方次第です。 哲学も刃物と同様でしょう。

yuniko99
質問者

お礼

そうですね 哲学も科学も刃物と同じ 使い様ですねえ。 ただ僕は今までの哲学が人権という考えを生み、三権分立とか 三権分立 民主主義 果ては仏教も義理人情も福祉も 元々は何らかの哲学の産物なのでは、と思うのです。 哲学には新しい時代を平和に活力のあるものに開く責任があるのでは と思うのです。 共産主義はちょっと考えものですが 暴力革命がまずかったですねえ。 どうも大変ありがとうございます。

回答No.3

☆ひもじい思いをした人は そう言う人が多いようですね ◇つまり、わたしは、ひもじい思いをした人間であると? もしくは、 現在、ひもじい思いをしていると? いやまぁ~、そう思われるのはご自由なのですが、 予想だにしていないご批判だっただけに、唖然としてしまいました(ポカ~ン)。 遅くなりましたが、 お礼、ありがとうございます。 ☆・・・と言うような事でしょうか? ◇そういう意味ではないです。 たとえば、 地球のため、他の生き物のため、二酸化炭素の排出を抑えよう!!と声高に叫ぶのならば、 叫ぶだけではなく、それを実際のアクションに移せ!! といった感じ。 具体的な政策などに反映させよ!! みたいな感じ。 でなければ、意味がない、ということ。現実的な解決にならない、ということです。 そして、現実を、まず、しっかりと直視せよ、ということですよ。

yuniko99
質問者

お礼

どうもありがとうございます。 現実的に具体的にということは企業や政治やNPOやボランティアがやっています。 私は敢えて 哲学に責任はないのか?と問うているのです 企業の活動にしても経営哲学があってのことですから そういう意味でも哲学が果たす役割がありはしないか と書いている訳です。 ひもじい思いをされたのではというのは批判ではありません 飽食の時代に平和ボケしてる私たちにとって ひもじい思いをするという体験が欠けているという思いからです。 現実を直視して何を考えるか それが哲学でしょう? 何の考えもなしに今まで出来なかった事が出来る様に成ると考える方が無理だと思います どうもありがとうございます。

関連するQ&A

  • 死んだら無になる宗教や哲学について

    はじめまして。以前から宗教や哲学など、強く信じることのできるものに興味があり、本を読んだり、インターネットで色々と調べているのですが良く分からないため質問させて頂きます。 昔から生きづらいと感じることが多く、何か強く信じられるものが欲しいと思っていました。 しかし、宗教について調べても、基本的に死後幸せになるためのものが多いように思いました。 私は死んだら無になる と思っています。 自殺をした友人が数人います。 死後の世界があるなら、その世界では幸せなことしかないとは思えません。 どんなに楽しいことやうれしいことも、ずっと続けば、それが普通になってしまうような気がします。 天国で先に行った人と、楽しく過ごしているよ という言葉も、 その世界に他の人がいるなら、人と関わることは楽しいことだけではないと思ってしまいます。 辛くて、もう生きていられない と思うほど、生きて居られなかったほど辛い思いをした友人達に、死後にもまだ世界があると考えたくありません。 私はこれからも生きていかなければいけないんだと思っています。 そのために、何かただただ信じることのできるものが欲しいです。 宗教や哲学だと、何かに迷ったときもとにかくその通りにしていれば生きていけるのでは と思ってしまいます。 自分の考えや、まわりの人の考えだけだと、事あるたびに揺らいでしまいます。 なにかおすすめの宗教・哲学、ほかのものでも全く構いません。 お教えいただけると大変助かります。 どうぞ宜しくお願いいたします。

  • 哲学って何のためにするのでしょう?

    哲学は真理を垣間見るためにするのでしょうか? それとも、少しでも世の中の役に立つためにするのでしょうか? 人々に思想を提供するためにするのでしょうか それとも自分がどう生きるか 自分の人生観、世界観のためにするのでしょうか? 哲学は何の役に立つのでしょうか?

  • 哲学は人間を救えるか?

    政治や世界団体など世の中を良くしようと頑張っていますが 宗教や資本主義や思想、イデオロギーの事を考えても 哲学の果たす役割は大きいと思います 哲学は人間を救えるでしょうか? 私は病気で何時まで生きてるかわかりません 皆さん是非世界を理想に導いてください。

  • 哲学は世界(人間の)を救うと思いますか?

    僕も哲学を志したのですが それは高校時代 哲学で答えを出し 後から来る人たちが不条理に翻弄されないように 社会の矛盾の犠牲にならないようにと思って始めました そして自分なりには考えついたんですが まだ仮説や曖昧な部分があって役に立っていません 皆さんは哲学が社会の、世界の役に立つと思いますか? 巷の人は「哲学?難しそう><」という反応が多いですが 哲学は人間世界を救う可能性を持ってると思いますか? 出来れば短文でよろしくお願いします。

  • 人の命の重さは同じか?

    皆さんこんにちは。 人の命の重さは同じなのでしょうか? 例えば、強盗、強姦を繰り返して刑務所から出所してきた 人間と、真面目一筋で生きてきた人間の命は、後者のほうが 重くなければいけないと感じるのですが、どうなのでしょうか? 観光船で遭難したとき、社気的地位のある人が、自分は世の中で 必要な人間なんだから先に助けろ。と、主張したりするのを 映画やドラマで観たことがあるのですが、これはある意味あって いるようで、そんなことくらいでは人の命はかわらないとも 思えるのですが、どうなのでしょうか? 仮に人により命の軽重があったときの線引きはどこなのでしょうか? 社会的地位、金のあるなし、性別、年齢。。など、考えられると 思うのですが、「人の命は同じではない」と思われてる方は、どの 辺りの線引きでそれを考えられるのか、教えていただけば幸いです。 なお、先ほど「正しい宗教とは? 」という質問をポイントを 入れて締め切りましたら、ポイントを入れた以外の人の回答が 全部削除されてしまいましたー   どうやら最近システムの変更があったようなのでご容赦ください。

  • 【哲学的宗教】人は過去だけでなく未来からも逃れられ

    【哲学的宗教】人は過去だけでなく未来からも逃れられない。 自殺したら未来からは逃れられるのでは?

  • 哲学は何の役に立つのでしょうか

    哲学という学問に漠然とした興味があるのですが、疑問があります。 哲学とは、何かの役に立つものなのでしょうか。 たとえば文学や宗教には ・物事をより良く理解できるようになる。 ・お金が儲かる。 ・社会や文化の発展に貢献する。 ・心の支えになる。 ・人を幸せにすることができる。 と言ったような、実用的な面がありますよね。 哲学はそういった意味で「役に立つ」物なのでしょうか。 それとも何事かを知りたいという衝動で学ぶものであって、実用性を求めるのは間違っているのでしょうか。 実用的な役に立つのか立たないのか、役に立つとしたらどういった面でか、どなたか意見をください。 専門的な知識はないので、できれば平易な言葉でお願いします。

  • どうして命は大切なんですか

    命は大切なものですか 大切にしなければなりませんか 大切にするというのは生きて、自殺や殺人をしないことを指すとします もし大切なものならばそれはなぜですか 一つしかないからですか もし二つあったならば何をしてもいいのですか それとも周りの人が悲しむからですか 悲しまなければ死んでも殺してもいいのですか それとも生きる目的があるからですか その目的とはなんでしょう それとも生きたくても生きられない人がいるからですか もしそういう人がいなかったら何をしてもいいのですか その人は一般的に不幸に分類されるようですが 死にたくても死んだらいけないという観念に縛られて苦しんでいる人は幸せなのですか 逆に生きたいと思える方が幸せなんじゃありませんか 死んで楽になったらそれは罪なことですか 生きたいと望んで生まれた訳じゃないのです 死ぬことが前提の世界で人の感情で動く世界になんか 決められるものなら生まれたくなんかなかったです 生は死に向かうということであり命が果てるのは無常なことなのに それを早めるのはいけないことですか 私は今分からないです いじめもどうしてやったらいけないのか理解できません だからといってやっている訳ではありませんが いじめられて悲しんで誰かが自殺してしまうからでしょうか 本当に何も悪くなくいじめられているのは周りが子供なだけでしょう いじめられる側が本当に何かしらの事情があって悪いのであればそれはそれなりの罪を罰しているのだということになりませんか 例えばいじめられていた人が元々いじめていた側だったとか 実際私の周りでありました 大人社会に裁判があるように子供の世界にも裁判があり、それと同じことなのです 人間には感情がありますからその時々での対応が違う風になるのでしょう ならば命が大切というのはいつ何時でも当てはまることにはならないのではないですか 戦争をすれば敵の命はもはや自分とは価値が同じではなくなるのですから 本当にわかりません 中学生でこんなことを感じてしまい自分でも焦っています 長々と申し訳ないですが誰か納得する回答をくださると嬉しいです

  • 哲学よりボランティア

    哲学よりボランティア 哲学は、何の役に立つのでしょう? たとえば「自分と何か?」という問いに対し、深い認識を得たとしましょう。 しかし、それが、(社会の、)何の役に立つのでしょうか? 「哲学する時間があれば、ボランティアをせよ!」 そう言う人がいたとします。 あなたなら、何と答えますか?  

  • 哲学が宗教から学ぶ事はありませんか?

    私は家が無宗教だたので、宗教というものを知らなくて 若い日に宗教を幾らかかじりまいした。 そのお陰で哲学の盲点も見える様な気もします。 哲学が宗教化してはいけないと思いますが 仏教なり、キリスト教なり、神道なり、儒教なり、新興宗教から学ぶ点はないでしょうか? 哲学は疑って疑って疑い抜いて 結局何だかよく分からない状態の様ですが 宗教は一応此れ此れだから世界はこう、人間はこう、宗教はこうと格好を付けなければ成りません。 哲学が流行らない今、宗教に生き方を求める人も多いようです。 広告塔とか言って 有名人が宗教の看板になってたりします。 宗教で行けなければ、哲学は対案を出さなければ行けません。人々はそれを待ってると思います。 あなたの対案は何ですか? 宗教に学ぶこと。或いはその対案を教えて下さい。 出来れば端的にお願いします。哲学は現代に生きる人にアイデアを出せるか? よろしくお願いします。