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われ・ことば・表現は 世界と同時一体である。

 われなるミクロコスモスと世界なるマクロモスモスとは 同時に生成する。     この仮説を問います。例証として コトバの生成について想像した仮説なるタトエをかかげます。         *  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずである。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。これは 音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)  とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。  つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。       *  すなわち 問いのねらいとしては うたのヌシとその心と周りの山々なる環境とは 言葉の生成をめぐって 同時発生である。    人間の認識が先行するというもの(そういう一面のみ)ではなく また 環境が人間をつくるといった一面のみではない。基本は すべての存在や現象が 同時一体である。  ものごとは それとして(そう言ってよければ)量子現象として励起されるし 存在は・つまり特に人間は 知性(ないし精神 つまりは 記憶・知解・意志の行為能力の一体)をともなってそのユラギが励起されるようになる。    ユラギは もともと 世界すべてにわたって 同時一体である。  どうなんでしょう?

みんなの回答

  • OYAZ1962
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回答No.8

命の光と命の場。 この2つを揺るぎなく繋ぐ事。それが宗教や哲学の目的ではないですか? でもね、問題は解いている時が愉しいんですよ。 そう言う程度の意味です。 ごめんなさい。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ でもね、問題は解いている時が愉しいんですよ。  ☆ そうなんですか。  そうですね。昔むかしおおむかし 幾何の問題を解いていたときのことを思い出しました。  そうなんでしょうが 急ぐときもありますね。  歳の所為でしょうか。  いつか ヒグラシについておしえてください。

  • OYAZ1962
  • ベストアンサー率21% (15/69)
回答No.7

ウヒョー↓ン! 超素早い御反応、参りました! 鏡でも場でも構わないと思います。鏡を引き合いに出したのは、神道関係の話で「御神体は鏡で邪心なくそれを覗けばそこに神が映る」と言う逸話が頭にあったからです。場と語っても問題ないですし、極論すればどちらが光であっても構いません。 ただ、2つの世界はすれ違います。て言うかすれ違ってもらわないと困ります。でないと私は破綻(解脱とも言いますが…)してしまいますがな。 もっと蜩の声を聞いてマッタリとしていたいですもん。山奥の住民なので、蜩しか鳴き声がしません… 後、言葉の問題は言語論や生物学的見地を含みますので今はパス!はっきり言って、脳みそオーバーワークでっせ!

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ はっきり言って、脳みそオーバーワークでっせ!   ☆ そうですか。まぁ たまにはいいでしょう。  ★ もっと蜩の声を聞いてマッタリとしていたいですもん。  ☆ ミンミンゼミも まれにしか見ませんでしたが ヒグラシはまづ見たことはないです。よく聞く名前なのに。いちど聞いてみないといけませんね。  さて  ★ ただ、〔* 鏡と光との〕2つの世界はすれ違います。て言うかすれ違ってもらわないと困ります。でないと私は破綻(解脱とも言いますが…)してしまいますがな。  ☆ そうですかねぇ。いのちなる光と いのちの場なる世界(鏡)。  すれ違うって どういうことだろう? 分かんなくなっちゃった。

  • OYAZ1962
  • ベストアンサー率21% (15/69)
回答No.6

う~む… 哲学より宗教に近くなるんですが、ごめんしてね。 1.世界は鏡 2.魂(私の根源)は光 判りにくいですよね。ここで魂と呼んでいるのは、今私が私として認識している以前の純然たる生命エネルギーの事です。余計に判らなくなるかな? 3.私は鏡と光によって作られた存在 私は鏡と光がなければ存在しえない。 つまり、鏡である世界も光である魂もそれぞれ無関係に存在していて良いのです。それが出会った瞬間に私(=意識)が生まれ、言葉が生まれたのだと思います。 そしてその2つ(鏡と光)がすれ違う時、私は消えるのです。 もっとも、私の中に蓄積された知識や経験は2つの中にもフィードバックされると思いますが。 久々に頭使ったので、頭が痛いんですが…

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ ここで魂と呼んでいるのは、今私が私として認識している以前の純然たる生命エネルギーの事です。  ☆ この《生命》というのは ありでしょうね。  経験世界を超えたところの《非経験の場(要するに 神)》としての《いのち》。  そして 両親から生まれてくる《わたしとしてのいのち》。  ★ 2. 魂(私の根源)は光  ☆ 《光》は タトエとして受け留められます。  ★ 1. 世界は鏡  ☆ 《鏡》は 分かるようで 必ずしもはっきりしているとも限らない。  たとえば    いのちの生まれる場  としての鏡。ではどうでしょうかねぇ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  3. 私は鏡と光によって作られた存在  私は鏡と光がなければ存在しえない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《光》は たしかに根源にかかわっていて たぶんやはり経験世界を超えているでしょうね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つまり、鏡である世界も光である魂もそれぞれ無関係に存在していて良いのです。それが出会った瞬間に私(=意識)が生まれ、言葉が生まれたのだと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《私》は 《意識》に限らなくてもよいように思います。つまりは 《身と心》から成る存在でよいのではないでしょうか。むろん そこから意識は現われます。世界意識 あるいは 現実意識として 《身と心》との全体にとって意識は現われると考えます。  さて そこから《言葉》が生まれたか?  世界のないし現実の意識が生まれるということは 感性による知覚と理性による認識・思考がかかわっているのですから そこにたしかに言語機能がそなわっている。こう捉えてもよいのでしょうかね。  ★ そしてその2つ(鏡と光)がすれ違う時、私は消えるのです。  ☆ もう すれ違わないかも知れませんよ。世界という場において ワタシというユラギは そのまま鏡ないし いのちの場にそのまま溶け込んでいるかも分かりません。  これでいいのかなぁ。

回答No.5

こんにちは。 OYAZ1962さんの回答の割り込みの形になってしまうと思うのですが、 物理学をはじめにして(自然)科学は、認識論でいうと、 外界に事物が存在し、それが私たちの心に形(相)などを投げ込むという、 《模写説》・《コピー説》 の立場を、基本的にとりますよね。 私たちがいようがいまいが、私たちが意識しようが意識を向けまいが、 客観は実在し、主観はその(不完全な)模写・コピーである。 プラトンのイデア論的な立場をとります。 もっとも、量子力学では、 確率で示されるような様々な状態(波動関数の波束)があり、観測者の意識によって、その状態が一つに決まる(波動関数の《波束が一つに収束する》)といった考え方もありますが・・・。 量子的なユラギはこの時に消失する。 この考え方に従うと、 「世界を決めるのは、観測者の意識だ!!」ということになります。 一時期、一部の哲学者の間でこうした考え方がもてはやされたようです。 「世界は言葉(概念)によってとらえられ、世界は言葉(概念)に秩序づけられる」という考え方もあります。 こう表現すると語弊があるのでしょうが、 「世界は言葉(概念)であり、言葉によって作られた世界がわたし、あるいは、私たち(にとって)の世界である」 となりますでしょうか。 そして、この立場をさらに徹底してゆけば、 たとえ客観が実在しようと、それが認識されようと、心象が形成されていようと、言葉でとらえられ、また、言葉で表現されていない、表現され得ないものは、《無い》のと同じこと。あるいは、まったく無意味な存在である、 となるのでしょうか。 で、 ~~~~~~ 1.認識者のいない対象 2.対象のない認識者 ~~~~~~ の場合の《対象(object)》は、 認識されるもの、認識される可能性があるものを対象と定義している、 と思います。 たしかに、この立場に立てば、 認識者のいない対象はありえませんし、また、対象のない認識も考えられません。 対象と認識(者)は不可分な関係にあり、どちらか一方だけで独存するということはありえないことになろうかと。 この場合、対象に求められる条件は、認識可能性や観測可能性になるのではと。 ☆☆☆☆☆☆ 割り込み、しゃしゃり出、横槍はここまでとしまして、 わたしの考え方は、先に紹介した《世界と言葉の関係》に近いですね。 それが人間的な言葉でないにしろ、その意味で非言語的な言葉であろうと、その言葉でとらえられないもの、言葉───「あ~」、「え~」、「う~」の言葉以前の音声レベルを含める───で表現されえないもの───「あ~」、「え~」、「う~」の言葉以前の音声レベルを含めて───は、認識されえないでしょうし、たとえ外にあったとしても無意味な存在である、と思っています。わたしにとって、世界は言葉そのもの。この言葉は、最も広い意味での言葉ですけれどもね。 で、「佐保わたり …」の歌ですが、これは「鳥の声」という物理的な刺激によって、それまで無関係であった色んな関係性が生まれた、と思います。新たな関係性が世界に生まれた、新たな秩序が世界にもたらされた、それまでなかった新しい世界が現出した、新しい世界が生まれた、と思っております。 そして、この歌に感動した人、共感した人は、この世界観に影響され、同時にこの世界を共有する。 まあ、「鳥の声は、(鳥にとっての)言葉です」とカタいことはおっしゃらず・・・。 それはそれとしまして、 物の本などによりますと、多くの西洋人は、「虫の声」をノイズ・騒音として感じるそうですね。騒音は言いすぎだとしましても、環境音として感じるとか・・・。  なんで何だろうか? そして、 セミがかしがましく鳴いていると、ノイジーで耐えられない。 その音量・騒音レベルによりますが、田舎育ちのわたしなどは、セミがうるさく鳴いていようが、屁でもありませんが・・・。 そう言えば、最近、ヒグラシの声を聞かないな。田舎に戻っても、ここ10年ほど、ヒグラシの鳴き声を聞いていないような。これも地球温暖化の影響か。ミヤビの世界が消えていくようで、なんか寂しいよな~。 そう言えば、 波の音を聞きなれない人の中には、海近くの宿で泊まったりしたとき、「昨日は、波の音が気になって、なかなか寝付けませんでした。はっはっはっ」という人がいますね。 海育ちのわたしはんぞは、大シケであっても、波の音など一向に聞こえませんが(笑い)。 物音などには、かなり敏感な方なのですが、かえって波の音が聞こえる方が、子守歌代わりになってよく寝つけます。

bragelonne
質問者

お礼

 なかなか おもしろくなってまいりました。  まづは ご回答をありがとうございます。  ◇ 海育ちのわたしはんぞは、大シケであっても、波の音など一向に聞こえませんが(笑い)。  ☆ さすがにこの境地にまではわたしはまだまだです。ふるさとは 東海道の宮の熱田から海の道で辿り着くK 市ですが・つまり海沿いの町ですが 波の音は 三・四キロほど遠いようでした。焼き蛤の町ですから 海沿いだとお分かりだと思いますが。  その代わり  ◇ その音量・騒音レベルによりますが、田舎育ちのわたしなどは、セミがうるさく鳴いていようが、屁でもありませんが・・・。  ☆ の感覚は 共有します。ワシワシ(クマゼミ)やニイニイゼミやアブラゼミ(これは 共通語では何と言うんだろう?)・ツクツクボウシ そしてまれに○○が見つかりました。  この○○は 名前が思い出さないので ヰキぺを見たら  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B7  ヒグラシのことでした。けれども ヒグラシとは言っていなかったなア。カナカナとも言わなかった。非常にまれにしか見られなかったのです。  あっ ヒグラシではなかった。ミンミンゼミのことでした。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%9F  胴体が黒かったですから。翅が透明なのは ヒグラシと似ていますね。  こうなると――いつもいつも蝉を声を聞いていると―― たしかに岩に染み入るしづけさということになるかも知れません。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  物の本などによりますと、多くの西洋人は、「虫の声」をノイズ・騒音として感じるそうですね。騒音は言いすぎだとしましても、環境音として感じるとか・・・。  なんで何だろうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ アマテラス理性語ぶっているのではないでしょうね?       *  さて われと世界との関係をめぐってです。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  で、「佐保わたり …」の歌ですが、これは「鳥の声」という物理的な刺激によって、それまで無関係であった色んな関係性が生まれた、と思います。新たな関係性が世界に生まれた、新たな秩序が世界にもたらされた、それまでなかった新しい世界が現出した、新しい世界が生まれた、と思っております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしの憶測は こうです。  すなわち  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  鳥も蝉も我れもそして空気も水も 世界は個別のものごととしても全体としても すべてすでに或る種のユラギとしてある。    そこへさらに鳥が鳴けば このユラギがユラギを増す。まわりはその影響を受ける。  このような《事件》を 鳥の一声が呼び起こしわれがこれを捉え 言葉にして表わした。  われの自己表現も 或る種のユラギである。すべてが そのようなかたち・もの・こととして成っておりそれとしてのウゴキを持つ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というものです。  これには 虎の巻があります。  ▲ 吉田伸夫:項目リスト  http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/kasetsu/subject.htm  ▲ 同:場の量子論の形成  http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/kasetsu/subject/sub08.htm  ☆ むろん上に書いたことは 勝手にわたしが憶測したものです。  ◇ わたしにとって、世界は言葉そのもの。この言葉は、最も広い意味での言葉ですけれどもね。  ☆ というのでしたら けっきょく空気のような場でも その最広義の《言葉》に入ると思うんですけれど。・・・  一考していただければさいわいです。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「世界を決めるのは、観測者の意識だ!!」ということになります。  一時期、一部の哲学者の間でこうした考え方がもてはやされたようです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ この考え方に違和感をおぼえるところから この質問があります。

  • OYAZ1962
  • ベストアンサー率21% (15/69)
回答No.4

う~ん…難しいのですが、一度回答した以上は責任がありますので。 1.認識者のいない対象 2.対象のない認識者 どっちがどうとかの理屈以前に、機能しないと思います。 なので、これ以上は考察しません。 3.対象と認識者の出会いが言葉を生む この場合の言葉とは、意識そのものを表していると解釈して下さい。 つまり、世界と私が出会わなければどちらも意味を成さない。 哲学的アプローチじゃなくてごめんなさい。

bragelonne
質問者

お礼

 おやず1962さん あらためましてこんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★★ 1.世界があるから私は見える。  ★ 認識者のいない対象  ☆ ということは まだ〔たぶん〕人間によって認識されていない段階で けっきょく《世界と私とが存在するとあとから(または 神の目からでしょうか)言える状態にある》。こういうことでしょうか?    これなら たぶん同時一体であるように受け取られます。認識の以前としてですが。  ★★ 2.私が見るから世界がある。  ★ 対象のない認識者  ☆ 《見る能力を持つ私はいるが その場としての世界は まだ対象として捉えていない段階》なのでしょうか?  ★ どっちがどうとかの理屈以前に、機能しないと思います。 / なので、これ以上は考察しません。  ☆ 分かりました。  ★★ 3.世界があって私が見るから言葉が生まれる。  ★ 対象と認識者の出会いが言葉を生む  ☆ 世界と私――あるいは 私の中の身や心やの状態という部分 もしくはさらにワタシという存在の全体を世界として その世界と私――との向かい合った状態。ここから 感性として知覚を生み 知覚を認識した上でその内容を 何とか音声という手段に載せて 記号化する。この記号が 言葉である。ということでしょうか?  シルシとしての言葉を持っておくなら これを駆使しておのれの感覚や思考の内容を次から次へとその思いや考えの筋をたどって行くことができる。まとまった内容の思想として打ち出すことが出来るようになる。  ★ この場合の言葉とは、意識そのものを表していると解釈して下さい。  ☆ この意識を よく言葉として表わすようになったものですよね ヒトは。  ★ つまり、世界と私が出会わなければどちらも意味を成さない。  ☆ たぶん――先ほども少し触れましたが―― わたしにおいて わたしがわたしみづからとのご対面もがあったのでしょうね。  出しゃばって考えを述べますが この《わたしがわたしである》或る種のさとりを経ていないと 世界はただ単におのれを取り巻く環境として見えているだけであるとも考えられますから。  ご返答をありがとうございました。  やり取りの行方を見守っていてみてください。また何かありましたら ご投稿をどうぞ。

  • OYAZ1962
  • ベストアンサー率21% (15/69)
回答No.2

1.世界があるから私は見える。 2.私が見るから世界がある。 3.世界があって私が見るから言葉が生まれる。 この三択ならわかりやすいですが… 量子物理学でも、一時期(今もやってる?)流行りましたよね? 世界があって私が見るから観測結果がある。みたいな…

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  それでご見解は どうなりましょうか?    すなわち 《三択》のいづれもがありうる。と言うのか?  それとも そのいづれか一つだが いまはまだ分からないと言うのでしょうか?  ★ 1.世界があるから私は見える。  ☆ これは 《見える》のは 《私によって私が》であるのか? それとも《私によって世界が》なのか?  ★ 2.私が見るから世界がある。  ☆ これは おそらく《私の意識》としては そういうことなのでしょうね。《私の意識》がまだおよんでいなかったときには どうなりますか?  ★ 3.世界があって私が見るから言葉が生まれる。  ☆ これは 《言葉》は そもそもの起源についてのことを言っているのか? それとも すでに言葉は持たれているとき あらたな言葉が持たれるようになるのを言うのか?  また 《世界》は 《私 および 人間》より先に存在しているという意味でしょうか?

回答No.1

古代日本語の音韻では、 「はし」は、『HA-SI』ではなく、《FA-SI》もしくは《PA-SI》ではないのでしょうか? 違いましたっけ。 であるとするなば、《FA》や《PA》と感嘆の息を漏らしたに違いないです。 HがPであった名残りは、現代語にまでその音韻が残っているとされる《ピカピカ》にあります。ピカピカするから、ピカル→ヒカル、ピカリ→ヒカリだとか・・・。 ハッキリいって、重箱の隅突きです(ポリポリ)。 それはそれとして、 《はし》は、 ~~~~~~~ 佐保(さほ)渡(わた)り、我家(わぎへ)の上に、鳴く鳥(とり)の、声なつかしき、はしき妻の子 佐保(さほ)を渡って、私の家の上で鳴く鳥(とり)のように、声に心ひかれる、いとおしい妻。 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/four/m0663.html ~~~~~~~ という歌に見られるように、現代語の《か・わ・い・い》に通じる感覚ですよ。女子中高生が発する「きゃ~、か・わ・い・い」という感覚だと思うんですよ。 ご紹介したホームページにあるような、小さなスズメさんなどを見たときに、 日本人ならついつい口走ってしまうような、小さいものなどに対して示す親愛の情のはず。まもって(目守る・まもる)やりたくなる感情、小さく弱々しくて目が離せない感情のはず。 ですから、 ヤマトタケルの 「やまとは くにのまほろば …… やまとしうるはし」 は知的すぎますよ。 ☆☆☆☆☆☆ ☆すなわち 問いのねらいとしては うたのヌシとその心と周りの山々なる環境とは 言葉の生成をめぐって 同時発生である。 ◇ご紹介した「佐保わたり・・・」の方は。 この歌では、おそらく「鳥・はし・妻」が同時発生的に発生しているのではと。そして、一つの世界を作者の前に現出させている。また、読み手もそのように感じ、この文学的な世界、環境を(心的に)再現する、もしくは心的・文学的な世界を現出させる。 なんか、収拾のつかない回答になってしまいました。 この質問を読んで、頭に浮かんだことをツラツラと書き汚してみました。 すこし考えがまとまりましたら、もう少しまとまった内容のものを書くことにします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ 「はし」は、『HA-SI』ではなく、《FA-SI》もしくは《PA-SI》ではないのでしょうか?  ☆ ええ。そして サ行の子音についても 厳密に問い求めなくてはならないようです。  大ざっぱに言って サ行とシャ行との混用であったらしい。    sa si su se so   sya syi syu sye syo  → sa syi su sye so  九州では せかい(世界)を シェカイと発音するでしょうか。  ハ行の子音は     p  >  F  >  h  と変化して来たらしい。 / F / は 唇を噛むのではなく 両くちびるを合わせて息を出す音であったと言います。そして これは 学問的な精確さを脇に措いておいた話としてなのですが 次のような変遷を措定した上で 《は: ha 》としています。/ p / の音の前にさらに変化があったという想定です。    h  > F  > p  > F  > h  要しますと ここでは 音韻の措定については 水漏れのするザルのままの議論です。     *  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《はし》は、・・・現代語の《か・わ・い・い》に通じる感覚ですよ。  ・・・  ヤマトタケルの  「やまとは くにのまほろば …… やまとしうるはし」  は知的すぎますよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。《うるはし》は 《端正・立派だ》といった意味合いがつよいらしいです。でも《うるはし》は使われているわけで では 《はし》はどうか?    《はし=いとしい・かわいい》 これも基本的な意味のようです。  そして ここでは 《うるはし》をつくるとき 勝手に《はし》から考え起こしたわけですが たとえば《はしきやし》なる語としては 次のように《嘆息》を表わすことがあったようです。かろうじて 仮定的に通るのではないかという希望において見ています。  ▲ (Weblio古語辞典:はしきやし) ~~~~~~~   http://kobun.weblio.jp/content/%E3%81%AF%E3%81%97%E3%81%8D%E3%82%84%E3%81%97  [参考] 愛惜や追慕の気持ちをこめて感動詞的に用い、愛惜や悲哀の情を表す「ああ」「あわれ」の意となる場合もある。  ▼ (大野晋古語辞典:はしきやし)~~~~~~~~  いとしい。愛すべき。  《ああ》という嘆息の語とほとんど同義になる例が多い。  亡くなったものを愛惜し また自己に対して嘆息する意に多くつかう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~       *  ○ 佐保(さほ)渡(わた)り、我家(わぎへ)の上に、鳴く鳥(とり)の、声なつかしき、はしき妻の子  ◇ ・・・おそらく「鳥・はし・妻」が同時発生的に発生しているのではと。そして、一つの世界を作者の前に現出させている。また、読み手もそのように感じ、この文学的な世界、環境を(心的に)再現する、もしくは心的・文学的な世界を現出させる。  ☆ 《声》が 鍵語でしょうね。  鳥が鳴いている。鳥の鳴く声がする。――この耳の知覚という一点から 世界がわが心とともに励起され広がった。  けれども われが耳に聞こえる何らかの声を知覚しこれを鳥の声だと認識したゆえに――そのわれの認識によってこそ――世界が存在し始めたというのとは 微妙に違うのではないか?  もともと世界はあった。われとともにあった。鳥や蛙やとともに あたかも一体としてあった。その中で 声なら声が 言わば世界全体にユラギを起こし これをわれは認識する。(もともとユラギとして 世界はわれもなれ(汝)も一体であった。ユラギが目を覚ました状態になった)。――こういった事態が 世界とわれとのあり方なのではないか?  というふうに――例によって推測において――問うています。よろしくお願いいたしたいと思います。

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     この探究におつきあいいただければありがたいです。  まづことばの生成するところを仮説としてしめします。      *  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)   とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。      *       *      *  ☆ ここで   やまと‐は ま秀ろば‐なり。  の文を分析します。いきなりですが:    ○ 日本文の二重構造 ~~~~~~~~~~~~~        やまと‐は     〔すがた‐が〕     ま秀ろば‐なり。    _______________________    (α) 主題提示層における分析( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。構文)    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐法活用(断定法)    ・《やまと》を主題として提示します。それについては《姿》が どうであるか    と言えば  《秀である》。という表出ないし表現の運び。    (ω) 論理提示層における分析(いわゆる S-V-O。 ないし S-V-C.文型 )    (1) やまとガ                秀‐ナリ。        主格( S )              補語( C )‐述格( V )       ・ Yamato               superb is.    (2) やまとニツイテイエバ 姿ガ     秀‐ナリ。        補語( C )      主格( S )  補語( C )‐述格( V )      Talking of Yamato,    its landscape      superb is.   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二重構造というのは  (α) 主題提示層( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。)  (ω) 論理提示層( S-V-O. )    これら二つの提示層を持つと見るゆえです。ところが 英文などでは (ω)の直線的な論理形式一本から おおむね 成ると思われます。そうではないでしょうか?  ここらへんから 探って行きたいと思うのですが いかがでしょう。情報交換をよろしくどうぞ。  (日本語を問うていますが 言語類型論になりますので 外国語カテに挙げました)。

  • 日本語とはどういう言語か。

     この探究におつきあいいただければありがたいです。  まづことばの生成するところを仮りにしめします。      *  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)   とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。      *       *      *  ☆ ここで   やまと‐は ま秀ろば‐なり。  の文を分析します。いきなりですが:    ○ 日本文の二重構造 ~~~~~~~~~~~~~        やまと‐は     〔すがた‐が〕     ま秀ろば‐なり。    _______________________    (α) 主題提示層における分析( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。文型)    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐法活用(断定法)    ・《やまと》を主題として提示します。それについては《姿》が どうであるか    と言えば  《秀である》。という表出ないし表現の運び。    (β) 論理提示層における分析(いわゆる S-V-O。 ないし S-V-C.文型 )    (1) やまとガ                秀‐ナリ。        主格( S )              補語( C )‐述格( V )       ・ Yamato               superb is.    (2) やまとニツイテイエバ 姿ガ     秀‐ナリ。        補語( C )      主格( S )  補語( C )‐述格( V )      Talking of Yamato,    its landscape      superb is.   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二重構造というのは  (α) 主題提示層( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。)  (β) 論理提示層( S-V-O. )    これら二つの提示層を持つと見るゆえです。ところが 英文などでは (β)の直線的な論理形式一本から おおむね 成ると思われます。  ここらへんから 探って行きたいと思うのですが いかがでしょう。情報交換をよろしくどうぞ。

  • 哲学的人類補完計画

    ゼーレによる人類補完計画が失敗してしまったようなので新たな補完計画を考えてみました。 人の精神を単純に「意志」と定義した場合、意志を人格たらしめているのは概念つまりイメージとの一体化ではないでしょうか。 ・私は男 ・私は日本人 ・私は社長 ・私はキリスト教徒 意志がイメージと一体化することによって「私」を名乗ることができるのではないでしょうか。 この一体化によって生成されるのが自我でありそれに伴う心の壁、ATフィールドですね。 意志はその後、単なる一体化だけでは不完全で心もとない為、物や知識を所有しながらそれをステータスとして自分自身を飾り始めます。 ・私の家 ・私の財産 ・私の知識 ・私の経験 そして記憶を使い時間軸上である程度の連続性を持たせたものがアイデンティティーと言えるでしょうか。 概念との一体化、所有権の主張、記憶を担保としたアイデンティティーの連続性が「意志」という視点から見た「私」の構造と言えると思います。 そこで本題ですが、個々の不完全な心を互いに補完しあうのが人類補完計画であるならば、哲学的な手法による補完は「非一体化」ではないでしょうか。 自我の始まりは一体化であったはずです。 一体化がなければ自我は生成されず心の壁がなければ壁の内側にある心の隙間は存在しません。 イメージから自由になれば心が傷を負うこともなくなります。 実体のない心には傷つくべき部分などなく、傷ついたのはイメージのほうです。イメージと一体化しているがために心が傷ついたように感じるのではないでしょうか。 また、意志とイデオロギーを一体化させなければ、たとえ「私は〇〇教徒」と名乗る他人ともトラブルになることはないでしょう。 心の壁が起こす問題からも自由になることができます。 一体化をしなければ自我は成立せず、心の壁も生成されませんから壁の内部にできる心の隙間もできません。 非一体化によって人間として生きながら心の壁を取り除くことができますからゼーレよりうまいやり方だと思います。 実現可能な人類補完計画と思いますがどうでしょう。

  • 量子相互作用は 言葉・貨幣・法律にまで及ぶか?

      (α) 量子相互作用は 言葉・貨幣・法律にまで及ぶか?  これを言いかえるなら   (β) ことば・貨幣・法律は 階層現象をさかのぼって量子の世界にまで到るか?  これは どうも人間存在という段階において断層があるのではないか?  というのも   (γ) モノと対応していると考えられるのは 身と心なる存在までであって 身と心なる人間存在が 言うなれば共生性――社会的動物であること――としてそなえているものは ヒトに独自の存在の活用術(またその発明品)であると考えられる。つまり ことば・貨幣・法律がである。   (δ) だとすると 自然本性としての身と心――感性および理性――のほかにさらに ヒトとしての独自の自然本性として いまの社会的共生性がある。のだろうか?   (ε) しかもこれら縁起共生のための文明の利器であるコトバ・貨幣・法律は すでに人間のワタシが生まれる前から社会にあったとすら思われるほど自然生成的なものである。そうすると ひるがえってあたかもモノとして量子相互作用に遡れるかにも思われる。   果たしてどうか?    

  • 三位一体論は そんなに不人気なんですか?

     《三位一体なる神は 無宗教である》と捉えその表題のもとに議論を展開することによって 人気の無さが 必ずしも根拠のある見方ではないであろうことを問います。あらためて問うものです。            *  三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。  しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。  それによると イエスが指し示した神であることに変わりはありませんが そのキリストの神であることにはとどまっていない。ましてや クリスチアニズムなるオシエや宗教とは 何の関係もなくなっている。ユダヤ民族の神が もはや揚棄されている。と言ってよいと考えます。  これを問います。  つまり まづ  ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。(基礎としては アウグスティヌスに拠っています)。   ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~    ――ひとと社会の成り立ちについての図式――   光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)                ↓  ↓        ↓      ↓  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________               ↓      ↓      ↓     ↓  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。    子の父は 光源であり     父の子は その発耀であり     父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。  2. ただし 光はただのタトエですから 本体の三位一体には時間的なへだたりはなく 三つの位格は つねに一体である。  3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。  4. そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。:   父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に    子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に    聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に  それぞれ当てはまるというタトエです。  5. 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権が分立して互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつのかたちであるというタトエです。  6. 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得られそれが実現されることもあるかも知れない。  7. すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみながら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。  8. 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(三一性)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持っていてそれらのあいだの協業が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって マ(間)の違いを生じやすい。  9. 自由意志は 記憶とそのまた源泉である知覚(感性)の内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。  10. なお この三位一体論もしくはそれの人間観ないし社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。  11. もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。  三位一体論は 役に立ちませんか?

  • 三位一体なる神は 無宗教である。

     三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。  しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。  それによると イエスが指し示した神であることに変わりはありませんが そのキリストの神であることにはとどまっていない。ましてや クリスチアニズムなるオシエや宗教とは 何の関係もなくなっている。ユダヤ民族の神が もはや揚棄されている。と言ってよいと考えます。  これを問います。  つまり まづ  ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。(基礎としては アウグスティヌスに拠っています)。   ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~    ――ひとと社会の成り立ちについての図式――   光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)                ↓  ↓        ↓      ↓  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________               ↓      ↓      ↓     ↓  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。    子の父は 光源であり     父の子は その発耀であり     父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。  2. ただし 光はただのタトエですから 本体の三位一体には時間的なへだたりはなく 三つの位格は つねに一体である。  3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。  4. そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。:   父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に    子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に    聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に  それぞれ当てはまるというタトエです。  5. 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権分立が 互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつのかたちであるというタトエです。  6. 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得られそれが実現されることもあるかも知れない。  7. すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみながら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。  8. 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(三一性)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持ってていてそれらのあいだの協業が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって マ(間)の違いを生じやすい。  9. 自由意志は 記憶とそのまた源泉である知覚(感性)の内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。  10. なお この三位一体論もしくはそれの人間観ないし社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。  11. もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。  添削・批判を俟ちます。

  • 世界の一体化とは

    「世界の一体化」とは実際に世界がどう結びついたもので、何の普及によって何が激化したのか?

  • 適正露出の幅を広げる方法??

    カメラの素人なのでうまく説明できないのですが、 デジカメで適正露出の幅を広げるような設定あるいは画像補正ってなにか方法はあるのでしょうか? たとえば、デジカメで海を一望できる大きな窓のある部屋全体を撮りたい場合、部屋の内部に露出をあわせると外の風景はとんでしまい、外部にあわせると部屋の中は真っ暗になってしまいます。 人間の目には同時に部屋の中のものもはっきり見えるし、窓の外の海も青く見えます。 全体の雰囲気をこわさないようにフラッシュなどを使いたくない場合、写真も人間の目の感覚と同じ程度に部屋の中も窓の外も両方それなりに写るようなデジカメ設定方法か、そのようにPC上で画像を補正する方法はあるのでしょうか?(PC上でコントラストや明るさを補正してもうまくいきませんでした) また、同じことだと思うのですが、 晴れた日の順光でも、近めの人や木や建物と、遠くに連なる山々、なんていう風景を写そうとする場合、手前のものに露出をあわせると後ろの山がかすんでしまい、山が一番はっきり美しく見える露出にすると手前のものが暗くなってしまいます。(人間の目には両方同時にきれいに見えるのに!!) どうすればよいのでしょうか?

  • 聖書は 表現〔形式の多様性〕の問題である。

     (1)  《神》なる次元と《経験世界》とのあいだの隔たりを重く見た場合に それらの関係をどう表現するか。これが ひとつの表現の問題である。そもそも神と人とは 互いに同じ平面において並列するものではない。絶対的と言うべき隔たりがある。  (2) けっきょくのところ 神とヒトとの――次元を隔てた――関係を表現するには 仮りの表現にならざるを得ない。神本体をこの経験合理性を超えるようなチカラを持たない人間の言葉で直接に表わすことは出来ない。(つまりこれは 空(シューニャター)観である)。  (3) ぎゃくに言いかえると 神を表わすときには 仮りの表現として――本体(答え)をみちびく補助線を引くかたちで――いかようにもその形式をこころみることが出来る。神についての表現形式は いくらでもある。人間は 自由に補助線を引けばよい。その真実味や信憑性を競えばよい。  (4) かくて 神をあつかう聖書は――幾人かの聖書記者たちが相い競ったかのようにして―― 表現の問題である。ということは 表現形式の多様性の問題である。  (5) とは言っても おそらく主題は 神とけっきょく人間としての我れとの関係であり この関係とは何であり 如何にあるか? だと考えられる。人間の条件(自然本性の限界)を問うかのような《存在》論。あるいは 《〈わたし〉とは何か》。そしてあたかも《無からの創造 creatio ex nihilo 》と言うかのように そこに創造された(生成して来た)《モノ》論――自然科学――。  (6) 神が《創造する》とは どういうことか? 《つくる》とか《創造主》とかの表現ないし文字にこだわることはない。はずだ。  ▲ (創世記1:1)  http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Gen&c=1&t=KJV#s=t_conc_1001  ▲ Gen 1:1 בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃  ( Be-resit   bara’ Elohim    et-ha-samaim   wa-et ha-’arec.)  ( In-beginning He-created God (acc.)-the-heaven and-(acc.) the earth.)  ▲(KJV):In the beginning God created the heaven and the earth.  ▲(新共同訳) 初めに、神は天地を創造された。  (7) この《 created / 創造した》を表わす《バラー》なる語についてそれは 《切ることによって形をつくる》という原義の言葉であるようですが 《創造する to create 》の意味では 神にのみ使うと言います。    ○ bara'  http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=H1254&t=KJV  (8)  だとしたら ますますこの《創造する》なる表現形式にはこだわる必要がない。と考えられます。  (9) すなわちたとえば 《光(あるいは天地)なるモノを作ろうと思う。というよりは 光なるモノがおのづから成るように環境をととのえてやろう。ぢゃあ そうすっか》とでも言って そうした。のかも知れない。  (10) すなわち 《無からの創造》というときの《無》とは 有ったり無かったりする相対世界の無ではなく 絶対領域であるからには まったく人間には分からない。と同時に それを理解しようとして如何ようにもというほどにわれわれはそれぞれに補助線を引くことが出来る。  (11) 絶対領域というのは 絶対無でもあれば絶対有でもありうる。したがって 神を《有る神・存在としての神・生命なる神》という呼び名で呼ぶことを人は選び得るし あるいはそうではなく 《無い神》としてもその呼び名を選ぶことが出来る。そのほうが 神を知るにはよい補助線だと思えば 人は自由にそれを引く。すなわち いわゆる無神論である。  (12) 無神論にあっては この《バラー(創造した)》の中身を さらにたとえば 《いやいや 神などと言ってもその言葉はどの言語にも用いられているが 実質はない。あるのは ただ光などのモノのみである。すなわち 初めからモノがユラギを始め自己運動を起こした。というだけである。世界は モノの世界である》という表現形式をえらぶかも知れない。  (13) 有神論と無神論。どちらも 人間にとって自由な表現形式をえらんだその結果としてあり 持たれている。互いに同等である。  (14) ところで かの福音書記者のヨハネ(つまりイエスの弟子のヨハネ)は 言葉が《天地や光る》なるモノ(存在)と同時に発生したのではないかという説などは どこ吹く風で この言葉を《ロゴス》として《初め》に持って来た。すでに《神》として持ち出した。そういう表現形式を採ったのである。そういう補助線を引いたのである。  ▼ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~~~~     はじめに ことば(ロゴス)があった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  (15) 表現の問題としてこのあたりまで たどり着けるのではないか。これを 検証しつつさらにあらたな出発へとすすむことが出来るのではないか。という意味で 成否と当否を問います。  (16) なお《光あれ》(創世記1:3)というときドイツ語が 《 werden :〔光が〕成る》という語を翻訳で用いている。このことは ひとつの――補助線としての――ヒラメキを示しているかも分かりません。《有る》とともに《成る》というニュアンスの言葉を当てることも 一解ではないかと。  (17) フォイエルバッハとかいう人は 神学は人間学であると言ったようです。たぶんこのフォイエルバッハの意図とは違って その《火の川(?)》を突き抜けて このいまの神学⇒人間の存在論――つまり人間と社会の理論――は さらにこれからも寄与するところがあるものと考えますが みなさんにあっては いかがでしょうか?

  • 《三位一体なる神とは?》の決定版を問い求めたい

     たたき台をに ほかの方の質問への回答をあてます。  【Q:〈父、子、聖霊〉の《三位一体》は、等質かつ等価であるか?】  http://okwave.jp/qa/q5008585.html  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5008585.html  ☆☆ (回答No.6) ~~~~~~~~~~~~~  いちど 教条のごとく述べてみます。    父なる神は 子なる神を生みたまうた。また父なる神は 人間を生みたまうことが出来る。父は この権能を 子なる神を生むとき 子なる神が 量的・質的な差なくして 持ちたまうように 授けた。  父が子を生んだというのであるから 経験的な概念で言っても 父は子を愛したまうた。子を愛したまうたと同じように 人間を愛したまうた。そして父は子に 人間を愛する権能をも 十全に 欠けることなく 授けたまうた。  父が子を生みたまうことと 愛したまうこととには 量的・質的な差異がないと考えられる。言いかえると 生みたまい得る存在ということは 愛したまう存在であることに等しく 父である権能は愛である能力と同じであり この愛は そしてほかの権能も残らず 十全に子である権能に与えられた。(ただし この与える・授かるに 時間の隔たりはなかった)。  父が子を生みたまうたとき 何らの時間的なへだたりなくして そこに――つまり言いかえると 父から及び子から つまりさらにあるいは 父と子との交わりから――愛が 父や子と同じ存在・同じ力として 発出したまう。  子の父は 父の子を および 両者のまじわりである愛を 人間の世界に 派遣されたと考えられる。子は 人間となって派遣された。つまり みづからを空しくされ 肉(身体および精神)となって現われたまうた。それは かれの神性を欠如させてではなく そのまま 父なる神の独り子なる神として現われたまうたと察せられる。(《人間であると同時に 神である存在》が――茶化して言えば 《現人神》なる存在が―― 地上に現われたまうた)。言いかえると 第三の愛なる神を発出したまう神として この地上にやって来たまうた。  第二の子なる神が 人間となってやって来る前にも 父と子は 愛つまり言いかえるとこの第三の聖霊なる神を 同じくこの地上に派遣したまうたと考えられる。子なる神は これらの神のみ心を 人間の言葉で 告知したまうた。つまり 聖霊は 人間に派遣され 人間の肉に宿りたまうのであると。  ところが 子なる神は人間となられたが 聖霊なる神は そうはならなかった。聖霊も子も 互いに等しい神であられるが 聖霊が 固有の意味で神の愛として 人間に与えられ人間の内に宿りたまうのであると。父も子も愛であるが 固有の意味では 人間にならなかった聖霊なる神が 愛であると捉えられる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ほかにも いくつかの回答とやり取りがありますので ここから出発するかたちとしました。  活発な問い求めになれればと思います。