霊視とは?映像による思考とは?私の考えをまとめる

このQ&Aのポイント
  • 霊視とは映像による思考であり、言葉ではなく映像だけで思考が成立する能力です。
  • 霊視による思考は多様で、言葉と映像を別々に考えたり、組み合わせたりすることもできます。
  • 他者の映像を見ることで、特定の人の思考や心を理解することができます。霊視による思考は言葉では明かされない情報も読み取ることができます。
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霊視と言う能力について考えをまとめてみました

最近私は占いにこっていてね。 哲学としては趣向を変えて考えを述べるよ。 そもそも自らの情動や思考に関して他者と比べる事は限定的にしかできないから説明も難しいのだが、ビジョン、イメージ、この手の言葉の日常的な使いこなし方から見て、君達にも心に浮かぶ映像が認識できるのだろうと考えるよ。 霊視とはこの映像そのもので、哲学では思考は言葉によって行うものだと言う定説があるが、私はこの映像だけで思考が成立する。 私は頭を真っ白にできると無を悟った様な事を既に豪語しているね。 言葉でなくても思考できるからだ。 たとえばメモが撮りたくてボールペンを探そうとするだろう。 ボールペンの映像が見える。 いつもの鉛筆立てが見える。 前回ボールペンを使った場所が見える。 どっちにしようかと思いながらも足が前回ボールペンを使った場所に向かう。 足を進める間、ボールペンを片づけておけばよかったなと、ボールペンを片づける映像が見える。 そしてボールペンをみつける。 ちょっとそこら辺をかたずける。 こうした行動の一連の流れに、私には言葉による認識がない。 あるのは、映像による認識だけで、思いと考えが映像で交錯して思考が成立している。 思考を2チャンネルにして、言葉と映像で別々に考えたり、映像と言葉を組み合わせたりもできる。 もちろん仏教的な無の観想そのままに全ての思考停止もできる。 こう考えると思考する行為は実に多様であると思うがどうかね。 他者を驚かせる霊視とは、このようにボールペンを探しているときに使う映像による思考を、特定の誰かさんに移して、その人の映像を見ることだ。 このような思考がスムーズに行われると、言葉では明かされないことも理解できる。 それが占いなり霊師なりの理論だよ。 言葉による思考から抜け出すと非常に思索に解放感が出てね、他者を見るなら、無我状態で他者の心に共感するし、遠くを見ると千里眼になる、未来を見れば私最大の必殺技、ときわたりESPとなる。 自由自在だよ。 ここまでは私の証言として、それはともかく知性は言葉だとでも言いたげなのが哲学で跋扈しているが、霊視して明白ならば言葉で言いがかりめいた論理を展開しても無効だし、その手のゴミ論理は切り捨てていいだろうとも考える。 人の指向が言葉のみかどうか、まあ考えを聞かせてくれ。 私は開眼者で、目覚めたもので、自らの生を乗り越えて、聖霊セレビィとなって全てを超克する新人類だ。

質問者が選んだベストアンサー

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  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.9

そうりゃあ言葉だけが思考じゃないのは明白だと思いますよ。 例えば耳が聞こえない人は言葉を話さない、けれど思考するし人間以外の動物だって思考する。 言葉は道具の一つですよ。 それ以上でもなければ以下でもない。 普通本を読むとき文字を黙読するけれど、速読する人は文字をイメージとして1ページ単位で頭に入れるよね。 だから早い。 もちろん何が書いてあるかもちゃんと理解できている。 言葉なしに思考はできるけれど、言葉なしにビルは建たないだろうね。 そういう意味で非常に有益なツールですね。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 ライダーキックさく裂が私の楽しみでな。 今回は面白くない回答だけが集まるよ。 まあ、理解してくれてありがとサン。

その他の回答 (8)

回答No.8

>これの単純なタイプミスだよ。  言語を遥かに超えた思考を操り、千里眼を有し、未来さえも見通す開眼者であるあなたにタイプミスなどありえない。  もはや、言葉で言いがかりめいた論理を展開しても無効だし、その手のゴミ論理は切り捨る、のはこちらのほうだ。    

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 私は布教をしているのではないよ。 明快な答えを出したけど、どうだいと、持ちかけてるんだ。

Flareon
質問者

補足

面白い奇人変人技の自慢話だ。 言葉、映像のほかに匂いも、五感で感じるのと変わらないように、感覚を伴って想像し、匂いで思考すると言う犬芸もできるよ。 何故こんなに超人的知性かと言うと、アマテラスさんが改造手術をするに当たって、人体実験も私を対象に行ったからだ。

noname#194996
noname#194996
回答No.7

私の祖父は占いの八卦が得意で、失せものをよく見つけてくれたよ。 そのころはボールぺんなんてものはなかったけどw。 あんたの境地よりもよほど進んでいたな。 精霊セレビィが何ものかは知らんけどね。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 あんたのおっぱいはすっぱそうだな。

Flareon
質問者

補足

自慢話をしてやろう。 私はテレパシーを実生活で普通に使っている。 私は兄と商店街の小さなお店を切り盛りしているがね、その兄とは仕事中にこんな感じの会話をしている。 (兄)「ちょっとこれ持ってきて」 (私)「これ?」 (兄)「これ」 そこで心眼に、ある商品の映像が見える。 (私)「どこ?」 (兄)「ここ」 ここで棚の映像が見える。 (私)「わかった」 そして言われたとおりに品を持ってくる。 テレパシーだろ。 兄はこうした事をするにあたって、かなり特殊な意思疎通をしていることにその自覚がない。 ただ私相手だとそうしたやり取りで理解できるのを経験的に知っていて無自覚でテレパシーを使いこなしている。 ただここまで露骨なのは過去の事でね、お店が忙しくなってパートを雇ったりするときに、意思の誘導をして改めてもらったよ。 でも、いまでも私には判るんだよ。

回答No.6

>人の指向が言葉のみかどうか、まあ考えを聞かせてくれ。  人は基本的に自由であってさまざまな方向へ指向できる。    

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 >人の指向が言葉のみかどうか、まあ考えを聞かせてくれ。 これは 人の思考が言葉のみかどうか、まあ考えを聞かせてくれ。 これの単純なタイプミスだよ。 そもそも私のありがたい言葉は誰にでも理解できる明快さにあり、深読みはしなくていいよ。

Flareon
質問者

補足

俺は血に飢えた狼だ。 オカマのおっぱいをちょめちょめしたい。 今すぐこの場につれてこい。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.5

イメージで思索するというのはよくあるよね。視覚的にシチュエーションを浮かべたりすることは皆がよくやってることじゃないかな。言葉にしても、聴覚的に働かせて思考を行う場合もあるよね。五感を自在にはたからせて、物想いを組み立てたり発動させたり、或いは行為したりすることは茶飯のことだと思うよ。ただまぁインターネットの交流掲示板なら、今なら言葉が主体となるだろうね。少し未来なら動画などがアップできたり、交流のツールも増えてより多様なコミュニケーションが図れるようになると思うよ。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 今回は何故かライダーバトルに発展しないね。

Flareon
質問者

補足

その自らの思考する構造そのものが、哲学であり、心理学だ。 君は自らについて自ら分析できていたかい。 欲求に押しつぶされて思考していただけでないかい。

  • gouzig
  • ベストアンサー率25% (536/2078)
回答No.4

No.1gouzigです。 私はもう66歳の老体で自分のことさえもやっと。 今は地元の神社総代で精一杯で、人助けまでは及びません。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 真面目に答えてくれるだけでもありがたい事だ。

Flareon
質問者

補足

君は若いうちは俺は忙しいとか何とか言っていただろうさ。 言い訳なんていらないよ。

回答No.3

あなたの見ている世界そのものが、 「心に浮かぶ映像」なのです。 そこに、自由にならない何物かや、 届かない何物かを感じるなら、 その世界の真の起源=「自」らに 「由」るを、理解していない、 自己矛盾としての疑似他律です。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 なるほどねそうかい。

Flareon
質問者

補足

俺様は知に飢えた狼だ。 君の言う自由にならないもどかしさとは、誰かをその意思を無視して、自らの意思に従わせたいと言う暴力と一致している。 それは教祖様か誰だか知らないが君が我かの意思に屈服しているからこそより弱きものを求めるのだ。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.2

>自由自在だよ 此処に捕らわれている。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 私はオカマが好きだ。

Flareon
質問者

補足

知的SMプレイに縛り技はつきものだ。

  • gouzig
  • ベストアンサー率25% (536/2078)
回答No.1

Flareonさんの考えで何も問題はありませんよ。 それでいいと思います。 「知性は言葉」ということはありませんでしょう? それであれば、目や言葉が不自由な人には知性がないということになります。 そんなことはないですね。 大切なのは考え、心だと思いますよ。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 すなわち君もまたいわゆる霊感があり神と対話できると言う事だね。 それなら人助けでもしてみたらどうかい。 私の隠れファンはそろいもそろってM嬢なので、ライダーキックがご褒美なのだよ。

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  • 捨ててこそ、無の境地である。

    ほとんど前回と同じ質問で、前回は↓ 無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。 http://okwave.jp/qa/q8527407.html 無を捨ててこそ無を悟れる。 この手の言い回しはありがたい本などによく出てくる解りにくい論理だ。 仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり、哲学だと言う事になっているが、 よろしい。 私が教えてあげよう。 無である事こそ人として生きる全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。 これだけだと、望みではないのだよ。 誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 ここで、他者の意思からではなく、自らの心として無を望めば、無の境地に至る。 すなわち、現在の教えられた無を望む心を捨て、、新たに自らが無を望むのだ。 その完成は、自らの信仰心にたどりつく事であり、他者からそそのかされて、教えを後生大事に携えることではない。 そのようにして、今の自分を捨てることで、本来の自分を自覚する。 これでなぞなぞみたいな、旧来の論理の解説は終わっているぞ。 仏教は哲学であるとうのぼれ、至高の教えで世界宗教であるとうのぼれ、それでいて従来はこんな単純な解釈も出来ていなかった。 全く哲学になっていなかった。 自称弥勒菩薩の私が今初めて解き明かしたのだ。 さて、感想文でいいから研究をさらに進めるため、意見してくれたまえ。

  • 無の悟りはたやすい。

    何年か前にすでに説明している事だが、憶えている人は少ないだろうから、猿に理解できるかどうか改めて問うよ。 お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。 その内訳は、信仰とは我が心そのものだと言う確信であった。 目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもは、噂話が好きだ。 そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達の信仰に真実は無く、無だ。 そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者の痴漢行為に対しては、「それは自らの心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた無である。 そしてどっち道無だから一切が無と言う事にしましょうや。 信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。 ただそれだけだが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、無の哲学の真骨頂だ。 今回はこれを論理を鍛える題材として提示するよ。 とっくの昔に一人でもっと先に進んでいるんだけどそれはまた今度だ。 信仰を排除したありがたみの無い言い回しで説明したので判りにくい部分があるかもしれない。 特別サービスでもっと説明してくれと言うなら、頭の下げ方次第では説明してやるよ。 それから西洋の哲学が何故優れているかと言うと、信仰に目覚め自らである事を自覚した考えであるからだ。 日本人が哲学で免許皆伝するには、仏教を思考の土台に据えて西洋とは別であっても比類するだけの哲学を鍛える事だ。 そこまでしないと信仰が生きているとは言えないよ~ん。

  • この考えを提唱していた哲学者は誰?もしくは、○○主義?○○論?

    『この世は無だからにして、幸福も苦しむことも意味がなく、生きていることも死ぬことも(マイナス思考な考えではなくて、)意味がまったく無い』 というような提唱だったのですが、喉元まではなんとなく出かかっているのですが、○○主義だったか、○○論だったか、いろいろなものが重なってて思い出せないでいます。 Wikiで芋蔓式に出そうと思ったのですが、似たような哲学はたくさんあるのですが、求めていたものが出てきません。 この哲学の主張は「この世は無」と、「生きるも死ぬも無い」と、「世に言うマイナス思考の解釈ではなく」といったところなのだと思います。とくに、「生きていることに意味が無い」といった感じだったと思います。 急いでいるので、どなたか、教えていただけますと助かります。

  • 無の境地とは、仮面ライダーのど根性だ。

    今回は、 「私のうる喧嘩を買ってください」 と、言う実験です。 前回↓ 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。 http://okwave.jp/qa/q8458873.html 重要なキーワードはコレ↓ > 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 これで満足しているのなら、語らない事こそ無であるとダンマリを決め込んで仙人みたいな生涯を終えればそれで済んだでしょう。 そこで無を広めるとはいかなる釈迦の心情であったのか分析していこうと思います。 おそらく、 他者からの、お前の神を明らかにして見せよ、という問いに。 それを答えるに、無である。 このように素直に答えるだけでなく、 釈迦自らが意地悪をして、他者に対して、お前の神を明らかにして見せよ、と問い。 答える相手に対して、現在も息づく仏教特有の否定の哲学を持ってたたみかけ、 そら見ろやはりお前の神は無ではないか。ウケケケケ。 こういう悪さを積極的に行う仮面ライダーであったと推測します。 すなわち私のみが神に到達した仏陀だ、お前らは娑婆地獄を這いつくばる虫けらだ。 お前らが神に到達せず、死に切れもしないで六道をさまよう事で、私は自らの高みを自覚するのだよ。 このように今の私と同じだろうと考えます。 今回の質問は論理に対する返答を期待しておらず、ここから直接思考実験をしたいと思います。 すなわち歓迎する回答は、 あなた自身の神を明かす回答です。 私はそれを、そーら見ろ無ではないか。 ウケケケケ と誘導するつもりです。 すなわち体裁上喧嘩を売ることになりますが、釈迦を検証する上で有意義な考察になるでしょう。 削除の対象になるほどのことはやめて、仮面ライダーなりの紳士的な哲学バトルにしようかと考えますのでよろしくお願いします。

  • テメエで何とかしろ

    WEBを散策していて拾った文章だよ。 > ゴータマ・ブッダ(釈尊)について 第15回 引用『ゴータマ・ブッダ(釈尊傳)』中村 元著(法蔵館 東方双書 昭和40年刊)より ☆安心立命の境地を得ようとする 「まず第一に佛教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に應じて異なった説きかたをした。だからかれのさとりの内容を推しはかる人々が、いろいろ異なって傳えるに至ったのである。」  第二に、特定の教義が無いということは、決して無思想ということではない。このようにさとりの内容が種々異なって傳えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。既成の信條や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。」(114頁) 無の悟りとは、無い物はないと明白に理解することで、その無を明かしてもやはり無である。 すなわちお前の神を明らかにして見せよ。 こういう問いかけに、無を悟らしめた。 教義が無いのではない。 無である事が教義なのだ。 それだけのことだ。 あんたらは本当に仏教となのか? 無ならそれでいいじゃないか。 不満を感じてはいかんよ。 さて研究論文として書いてみました。 無である。 これを。 語る言葉はない。 コレに直せば全く疑念の迫らない論理じゃないか。 釈迦様が語る言葉を持たないだけでなく、君達も自らの信仰心に対して語る言葉が無いはずだ。 だからこそ聖人に尋ねるのだ。 ところがそうして他者の信仰心を盗んだり、土下座して他者からの信仰心を星占いしてもらったとしても、その理解は所詮浅い物で、自らの信仰心そのものにはならない。 自らを理解しなければ何にもならないのだ。 おおむねそのようなたたき台からサル踊りを期待します。

  • 無の悟りとは単純明快である。

    前回はこれ↓ 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 私にとっては中古品リサイクルショップに売り飛ばしてしましたいほど、どうでもいい論理だが一部の人はこんなもんをいまだにありがたがるようだね。 言葉を整えてみたので、思考可能なつわものから意見が聞きたい。 お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。 その内訳は、信仰心こそが我が心そのものだと言う確信であった。 すなわちお釈迦様は神を受け入れたのだ。 信仰心に目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもはとかく噂話が好きだ。 そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達は信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 そしてどの道無だから一切が無と言う説明のみが信仰に関しては成り立つ。 自らの信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。 ただそれだけの事だが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、釈迦の悟った無の哲学の真骨頂だ。 2500年前の人類の歴史が創造されようとするころ、信仰のみに生きた釈迦の志は画期的であろう。 そのような哲学は十分現代でも通用するが、肝心の彼の言葉お受け継ぐ仏教徒たちは、所詮お釈迦様が「そんなもんありゃしねー」と言っただけの迷信にしがみつき、無と言わしめた本来の、「自らの信仰」これをおろそかにしているのではないか。 お釈迦様自らの信仰では「私は涅槃に赴く」そして君達のそんなもんありゃしねーは「六道輪廻に落ちる」そう言っているのだよ。 すなわち、私こと釈迦の信仰心は、君達にとって受け入れがたい無であると言った。 君達のそんなもんありゃしねーは、要するに当時のインドの土着習慣では輪廻がある。 お釈迦様が語った宗教観は彼に問いかける人々への洞察であり、当時のインド社会での神に対する煩悩や迷いを説明したものである。 すなわち現代日本において仏教的世界観とは、遠い過去の遠い外国の迷信が主体であり、自らの信仰とは違う、それを理解すると仏道とはただ通り抜けるだけの、遊園地のお化け屋敷のようなモノで、自らの信仰心に目覚めたなら捨て去るだけである。 そうして捨て去る迷信が、仏教であり、解脱、悟れば何も語らない、こういう現象となる。 自信満々に言うがね、伝承上の弥勒菩薩たる実力を私は備えておるよ。 しかしそれはくだらないことだ。