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「生まれ持ったもの」にゆだねられる恋愛観

恋愛とは,「生まれ持ったもの」にゆだねられるものなのでしょうか? これまで,パートナーほしさに,恋愛にかんする書物に目をとおし,恋愛にかんする言説を分析してきました。何かしらの知識を身につければ,恋愛はできる,パートナーを見つけることができると思っていました。 表向きには,恋愛とは共感の賜物のようなものとして受けとめられています。恋愛にかんするタテマエとして,共感のスキルが重要であると受けとめている人々は,とても多くいると思います。恋愛のおけるコミュニケーション・スキルとは,共感のスキルでもあると,わたしは考えます。 しかしながら,恋愛とは共感の賜物でもなんでもなく,そのホンネとは,「生まれ持ったもの」にゆだねられることです。 「ただし,イケメンに限る。」 この言葉こそ,恋愛とは「生まれ持ったもの」にゆだねられるという,恋愛観を代表する言葉だと思います。 そして,この概念を打ち破るには,「自分磨き」などという言葉で表現される共感のスキルを磨くことではなく,「お金の力」でしか打ち破ることができないとされます。ある有名な企業の創業者が,「お金で買えないものはない」という発言をしましたが,「生まれ持ったもの」をもたない人々にとって,恋愛とは「お金で買うもの」であると思うときがあります。人身売買のようなものであると批判したくなる人々もいることでしょう。そして,これは,ある経済学者の発言ですが,「イケメン税」なるものを導入すべきだというものも,過去にはありました。 恋愛のための適正とは,生まれながらにして,その有無が決まるものだと思います。才能であれば磨くことができますが,恋愛については,生まれる前からその是非が決まっているという,残酷なものだと思います。

noname#189117
noname#189117

みんなの回答

  • beest002
  • ベストアンサー率12% (51/421)
回答No.6

貨幣がない時代から恋愛(繁殖)?してきたのに・・・。 イケメンじゃないモテる人には税金かからないのかなぁ? 恋愛は出来ないより出来た方が、より感情豊かになりそうです(良くも悪くも) 適性って見目が良い事でしょうか? イケメンでない人とお付き合いしたこと数回・・ 適性なんて関係ないですよ(>_<)

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 「恋愛はできないことより,できたほうが良い。」 非常に素直な意見であると同時に,「恋愛至上主義」をにおわせるようなコメントだと思います。 さらには,「イケメンでない人」と交際した経験があるとのことですが,交際できていたのですから,「イケメン」ではなかったのかもしれませんが,<イケメン>であったのかもしれません。外見において,どこかしらの「魅力」を感じたからこそ,交際したのではなかったのでしょうか。 そして,「適正」ということについては,「生理的に許せるか否か」であると思います。「生理的に許せる」からこそ,交際をOKしたのではなかったのでしょうか。

noname#187922
noname#187922
回答No.5

相手にも選ぶ権利がある以上、「但しイケメンに限る」は改善されないでしょうね。 自由恋愛なんてそんなもんです。イケメンが総取りする仕組みなんですから。 自由なんですから、どう考えても「才ある者が制する」んです。 圧倒的に恵まれた者の前では、努力なんて吹けば飛ぶほどの要素しかありません。

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 では,「努力の人間」が恋愛をするためには,何が必要なのでしょうか? 「不可能」であれば,そのための「オルタナティブ」はあるのでしょうか?

  • bekky1
  • ベストアンサー率31% (2252/7258)
回答No.4

【「生まれ持ったもの」にこそ,「価値」があるとされます,恋愛においては】 何をいまさら・・・・。 優秀な遺伝子を持つものがいつの時代も生き残るのは、人も動物ですから、当たり前以前のことです。 ソレがイケメンといえども、腕力でも、権力でも、金力でも同じことです、優秀とはそういうことです。 時代の時々で、その、評価される'力・優秀’が違うから。 人間は’社会’をいとなむ動物ですから、’社会’が変質するなら、その力も’変化’するのは当然です。 大昔は、集団と言っても50人ほどが限界の集団ですから、50人の社会にとっての’力'になりうることが優秀と 判断された。 いまは、全世界に向けて、その容姿も含めて発信できる時代です。 見て、納得しやすい’力’というのがイケメンなら、そういう’力’ということになります。 あなただって、病原菌に強いという、生まれながらの力を持っているからこその今がある。 いつ、その’力’がイケメンより必要になるかはわからない。 ちなみに、’イケメン’評価ですが、あなたのイケメンとしてのつくりが昔からそうなのかというと、 違います。 道長の頃のイケメンは、某国の将軍様のようなのがイケメン。 だから光源氏は光るほどに美しかったとなってますが、 これはキムタク(すいません! TVみないので、イケメンをカレ以外に知りません)のようなではなく、 あの将軍様が光り輝いて、某国では見えたように、 光源氏の時代もものがたりであるが、 当時の日本人も、イケメン代表だと思ったのです。 違うのは、光源氏・道長は限られた人しか顔を見ることが出来ないが、 将軍様は世界の人が顔を知っているということ。 時代が違うということ。 あの顔だからイケメンなのか、権力があるからイケメンなのか・・・は、どうでしょう? まぁ、コレだけ、持って生まれても、時代で、’ものは、同じ’でも価値はぜんぜん違うと、嘆いてください。 不思議なことに、’牢屋’の出入りをした、某・エモンさんは丸々としていた頃は、 光源氏でもおかしくなかったではないですか?  つまりは、権力として福福しい顔を誇示できるという、風貌が好ましいと、ちゃんと’女’は その優秀性を見抜いてる。 ならば、今のイケメンはすべて、細面です。 コレね、’糖尿病にはならない’遺伝子を見抜いてると思えなくもない。 現代人は糖尿になるぐらいに食に貪欲だから生き残ったといわれてます。 ダイエット全盛の飽食の日本ですから、’糖尿病的要素’が見える人は避けられるのです。 もしかしなくても、嘆いている、アナタは、血縁関係者に糖尿病がいませんか? イケメンというのは、そういう方向性での、タダの、目印に過ぎないのかもしれないです。

noname#189117
質問者

お礼

事実を並べただけで,何を主張したいのですか?

  • yama891
  • ベストアンサー率13% (191/1368)
回答No.3

○投稿者・貴方様は、さぞかし”恋愛体験が豊富かしら。それとも恋愛・実質無経験の方かしら。” 貴方様の論理?(お考え)だと、生まれ・氏素性が人生の原点:次に世の中・まづお金が全て・更に”イケメンが、恋愛・有資格者である。!・・・ と言うお考え・境地に至りしですか。? ○人は誰でも、生まれて身に付く、礼儀・挨拶・先天的感性と受教能力(+学習能力)に様々な、インフラで、変化と成長を続けるものと、私は考えます。 確かに、顔と性格と知的能力は、先天的な、両親の遺産(DNA:遺伝情報)を引き継ぐ場合は、確かにあります。 これは、誰しも・良くも悪くも如何にも、実は変化をさせるべくも、ありません。 ○人間は、基礎力+後天的な、無限の情熱と努力・向上心でしょうかしら。概して、情熱は愛情に勝り、怠惰は能力停止と絶望感だけが、残るものでしょうか。焦らない平準・水平思考でしょうか。 別に、芸能人なら・主役クラスは美男美人等ですが、脇役:ごく普通の顔立ちとスタイルでも、芸能人は演技力とある種の、特異才能があるので、務まる事で、普通社会人が望むべくは、一般教養と、それなりの人生向上心等の総合的な人間的な、能力で恋愛もして・結婚もして働いて生活をして、夢と希望を忘れない・日々の努力の結晶が、人生航路になりうるものでしょうかしら。 ○何より、どんな社会構造と組織にあられても、特定の組織(チーム・団体等)リーダーは、一人と決まっております。 ☆人を羨む(うらやむ)よりも、努力は無限。人生は有限。事に当たり、慎重かつ安心と安全な、人間同士が、寄り添いながら生きていけば、それで十分幸福感が満たされたら結構でしょうかしら。 高望みと冒険は、稀には身を亡ぼす・初めなりやと、心すべしでしょうか。 END

noname#189117
質問者

お礼

事実を並べただけで,何を主張したいのですか?

  • bari_saku
  • ベストアンサー率17% (1827/10269)
回答No.2

「ただし,イケメンに限る。」が真実なら、整形しさえすれば全てが解決するのではないですか? 私にはとてもそうだとは思えないのですが、外見こそ全てという人が整形しないのが不思議でなりません。

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 「整形する」ことで,問題は解決しますか? 「生まれ持ったもの」にこそ,「価値」があるとされます,恋愛においては。 「整形」をしたところで,「生まれ持ったもの」に変化がでるかというと,そういうわけではありません。 あなたのコメントは,面白いと思われるかもしれませんし,興味深いところを突いたとも思われるでしょうけれども,当事者意識の低さを露呈したようなものだと思います。

  • flemys
  • ベストアンサー率22% (22/98)
回答No.1

恋愛をボクシングに例える試みが私の中でブームです。 顔面の良さは例えるなら「生まれ持った勝負勘」のようなものでしょうか これだけで勝負できてる人も珍しくありません。 経済力は「パンチ力」といったところでしょうか ある程度以上はないとKO勝ちは狙えませんし 強力なパンチがあれば一発で試合をひっくり返したりできます。 減量はほぼ必須です。 モテないと嘆いてひっこんでる人たちは 「殴られるのはいやだし相手も殴られたら痛いよな・・・」と怖気づいてる人です (私もここに分類されます) 共感してるのは間違いないのですが、それでは試合になりません。 この場合の「相手の気持ちを考える」とは「相手がどうでるか」「どう迎え撃つか」 という知略です。 「勘」が悪く「パンチ力」もそこそこなら「頭」使うしかありません。 KOを目指すにしても判定勝ちをするにしても、です。 なんてことをネチネチ考えてます。

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 「殴られるのはいやだし相手も殴られたら痛いよな・・・」とは,怖気づいてることになるのでしょうか? 現代社会においては,恋愛はリスクを伴うものとされます。そして,現代社会においては,リスク社会といって,リスクを禁忌する傾向がみられます。 いわゆる,過去の「甘酸っぱい恋愛」など存在しない時代です。恋愛が,恋愛ではなく,その人の人生を狂わしてしまうような,「恐ろしいもの」になったのが,現代社会だと思います。 恋愛がボクシングであれば,まだ「救い」はあるかもしれませんが,その恋愛が,現代社会においては「殺し合い」,「殺戮」になってしまったのですから,「恋愛抜きの人生論,幸福論」について考えなければならないと,思うときがあります。

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