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鎖国時代にできた出島について

 鎖国の時に長崎の出島はポルトガルやオランダとの貿易の拠点でした。  そこで素朴な質問なのですが、なんで「長崎」に外国船はきたのですか?航海してきて一番はじめに見える陸が九州だったからなのかもしれませんが、九州には長崎以外の港だってありますよね。(鉄砲が伝わったの鹿児島でしたし…)なにか長崎で貿易することで利点はあったのですか?  どなたか教えてください!!

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回答No.3

長崎になったのは、簡単に言うと、ポルトガル人が「ここがいい」って言ったからです。 しかし、これにはいろいろ紆余曲折があって、まずは平戸に貿易港を築いたものの、大村領横瀬浦に移り、さらに福田というところに場所を移しました。 しかし、福田は貿易港として不適格だったため、島原半島の口之津港に移したものの、ポルトガル人が「大村氏の領土でないとイヤだ」クレームが出たため、長崎に白羽の矢が立ってポルトガルも了承したため、長崎が貿易港になったと言うことです。 開港当時は出島はなかったのですが、キリスト教禁教令により隔離されるようになり、出島に収容されたということです。1637年の島原の乱によりポルトガル人が追放された後、平戸にいたオランダが出島に移り、出島の主になった、ということです。 ちなみに、出島は当時は扇の形をしていたため、「扇島」と呼ばれていたらしく、どうやって作ったのか、誰が設計し、現場を指揮してたのか、一切が今もって謎です。

grinda
質問者

お礼

クレームが出たのはやはりNo.1さんが言われていたように親交があったためなんでしょうね~。出島は謎が多いですね。まぁそこがおもしろいんですけどネ…(笑)ありがとうございます、参考になりました。

その他の回答 (2)

  • takai
  • ベストアンサー率51% (36/70)
回答No.2

鎖国までは外国船は山口や博多、堺など他の港へも来航していました。 長崎の領主がキリシタンになったので教会などもできて、特に外国船でにぎわったのではないでしょうか。1580年に領主は教会に長崎を寄付しています。 その後鎖国を進めていくにあたって、まず長崎を教会から取り戻し、大名の領地にせず、政府が長崎奉行を派遣して貿易を管理させました。さらに大名が勝手に外国と貿易することを禁じたため、結果的に長崎が外国に対する窓口になったのではないでしょうか。 日本が外国人に攻撃される危険を考え、なるべく国土の端で、大名の領地以外に設定する必要があったのだと思います。

grinda
質問者

お礼

九州だけに来てたわけではないんですね。境とか。しかも領主が教会に長崎を寄付っ…!?かなり信仰深かったんですね~。ありがとうございます、初めて知ることだらけでした…!

  • sairen
  • ベストアンサー率18% (5/27)
回答No.1

昔の記憶をなんで、はっきり覚えてないんですが、確かに九州の上側今で言う熊本、大分、長崎、福岡の大名はオランダ、ポルトガルと親交があったみたいです。貿易もその為にし易かったようです。長崎の港は地形上入港し易かったのは事実みたいです。鎖国の時は国内に入れないことも重要だったので、出島だから管理できたんだと思います。 こんなんで回答になったでしょうか?

grinda
質問者

お礼

もともと親交があったんですね~…なるほど。ありがとうございます、参考になりました!

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