仏教における無分別とは?

このQ&Aのポイント
  • 仏教での無分別とは、実在の分別を超越した状態を指します。信仰や神に関しては、神を言葉で語ることはできず、ありと無を使い分けて表現されます。
  • 無分別は、有無の分別を超越し、全てが無として捉えることです。仏教では、この無分別の状態を悟りとして追求します。
  • 仏教の無分別は、有無の分別を超えて全てを包括する状態を指します。ありと無を使い分けながらも、最終的には全てが無であると説かれます。
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仏教で言う無分別を解説してください。

無の論理と哲学はかようである。 神を語っておらず、無根の信仰だ」(まるっきり無い) 「神を語る言葉は無い。」(ありを隠し無と語る) この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと世術である。 コレは有無の分別であり、彼我の分別である。 まるっきりない事に関しては、実はそれもあり得るのではないかとくよくよ悩んだりしない事。 有りを隠し無と語る事に関しては、何か確かな証明でもしない限りは無いも同然で無いかと悩んだりしない事。 このようにすっぱりと、有無の分別を付けることである。 無の悟りとは、このような分別がつく事である。 ところがこれを仏教では、分別でなく無分別と言うらしい。 仏ではなく仮面ライダーの私にはこの点がなかなか納得できない。 誰か説明してくれ。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.3

 こんばんは。  分別――人間の思惟――から自由であるという意味での《無分別》がいかにそう成りがたいものかについてしるします。  そもそも経験世界における《有る無し》は 何かがあることを示すものです。  《無い》というのは 《有った》ものが消えて無くなった状態を言っているに過ぎません。  あるいは 場所を移しただけであって 見えなくなっただけであるとさえ考えられます。  あるいはつまり 別の何かに姿形を変えたことによって 元のものが《無い》ようになった。  《ひと》の場合 からだを作っているモノは死んで火葬されると バラバラになり別のモノになったと考えられるとき では 心はどうなったか? たましいは? 霊は? といった問いがなお残るということかも知れません。  ★ 神を語っておらず、無根の信仰だ」(まるっきり無い)  ☆ 《語らない》というのは 《語る》という行為が無いと言っているに過ぎません。  《無根》――これは 《無根拠》のこと?――と言っても 根拠が無いという・人間のひとつの認識または判断のことを言っています。  《まるっきり無い》というのも そういう人間の判断です。人間がそう規定しただけのことです。どこまで 普遍で変わりゆかない真理であるかは 人間には分かりません。  ★ 「神を語る言葉は無い。」(ありを隠し無と語る)  ☆ 誰かが《神を語る言葉は有る》と言ったその内容を否定したということです。そのときの《有る》も《無い》も どちらも 移ろいゆかない真理であるかどうかは分かりません。  ★ この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと世術である。  ☆ ちょうどトランプか何かの手品で いま有ったものが無くなったとか 無くなっていたものが出て来た(有った)といったことを 《二つの無の規定 およびそれらの使い分け》は示しているに過ぎません。  ★ 無であり彼我の一切が無  ☆ と言うのは 《無である》および《彼我の一切が無》というそれぞれの規定が《有る》ことを物語っています。  こういったイチャモンをつけられないようにするためには 一にも二にも  ★ 信仰  ☆ を定義するしかないでしょう。  この調子で どこまでも茶々を入れることができるようです。(どんな文章についても 或る程度は 理屈をつけてその内容をくつがえすことが出来るとさえ言えますから 茶々を入れられるからと言って どうってこともない。と言えば言えるのですが)。  でもまとめとしてあらためて考えるなら たとえば  ★ 無分別  ☆ という規定は じつは・じつに 人間の分別――思惟――によっておこなっています。《無分別》と規定したり その状態(境地)をめざしたりすることは 《分別》によっています。という問題が つねに・どこまでもくっついて来る。と考えられます。  たとえば親鸞という人間は   ○ はからひ無きを 自然といふ。  と言ったようですが そのように規定したなら そこに《ハカラヒ》が入っています。  生活日常において 《ハカラヒ無き》をいつも旨としているという場合 それはそういうかたちの《ハカラヒ》です。  よって 親鸞は 《非知》という地点に到ったとも言います。うんぬん。・・・(つまり 《無分別》というひとつの命題に対して 言わば対抗馬を出してみようかというところまで来たかたちです。途中ですが 一たんここまでとします)。  無分別のいかに成就しがたきかをしるしました。  

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 やる気をなくすような話だね。 信仰ってのはどんなまやかしも押し通す神通力かね。

その他の回答 (5)

回答No.7

 ★(No.6補足欄) ~~~~  あなたの信仰のままにあなたの神が答える事を信じます。  こういう言い回しにしてみたらどうかい。  それからあなた自身「お前の神を明らかにして見せよ」こう突き付けられたらどうする。イエスが明らかにしたから私にはその必要がないとでもうそぶくのかい。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ 1. 《神》は 名が違っても――あるいは《無い神》という名であっても―― みな同じです。全体としてひとつです。  2. 《神が答える》ということは もしそれがあるとするなら・あるとしても 高々おのれの主観の内においてのみです。外には神は出かけません。外に向けて――つまり人間を相手にして――表現されることはすべて その人間の・つまり《わたし》の思惟であり見解としてです。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 そうかいの。

回答No.6

 ★(No.5お礼欄) 人と人は信じ合ってこそ人間であると、私はすでに言っていて、それをあなたに当てはめると、「私はあなたに働く神の意志を信じる」こういう表現かもね。  ☆ そのような意味合いで用いる場合は 自分の信じる神を 相手にも押しつけていることになります。  いわば圧力をかけて 相手を自分の思うままに振る舞わせようとしていると考えられます。  《神》とは関係なくなります。  神は 主観の外には出かけません。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 人間同士なんて所詮他人なんだね。

Flareon
質問者

補足

要らぬ親切で中途半端につっついてみるよ。 私にとってジラーチちゃんとは「俺にとって都合のいい女」で、売り飛ばしたり不倫を認めたりするつもりはないよ。 あなたの信仰のままにあなたの神が答える事を信じます。 こういう言い回しにしてみたらどうかい。 それからあなた自身「お前の神を明らかにして見せよ」こう突き付けられたらどうする。イエスが明らかにしたから私にはその必要がないとでもうそぶくのかい。

回答No.5

 ★(No.4お礼欄) あなたを信じると言った場合、その信じるの内訳は、人間としての個人を信じるのか、あなたの神を信じると言っているのか。  ☆ これは 《信じる》という言葉を 本来の《神を信じる》という用例としてではなく それに準じて・派生的に・類似の用法として用いたものです。  《人間を信じる》というふうに用いた場合は     《非思考》においてではなく《思考》において     それまでのつきあいの経験にかんがみて     ふだんの日常生活においても仕事においても     その人の姿勢や態度にはひとを裏切ることの少ない    堅実なところがあるとつよく思っています。  といった意味で使っています。  

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 なるほどね。 参考にするよ。 でもそうすると宗教は信仰の連帯では無いのかな、全く意味のない事を繰り返してきたのかな、では共同生活の基盤はなんなのかな。

Flareon
質問者

補足

人と人は信じ合ってこそ人間であると、私はすでに言っていて、それをあなたに当てはめると、「私はあなたに働く神の意志を信じる」こういう表現かもね。

回答No.4

 ★(No.3お礼欄) 信仰ってのはどんなまやかしも押し通す神通力かね。  ☆ それは こちらの台詞です。  すなわち  ★★(趣旨説明欄) 自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと世術  ☆ と言いつつ 《信仰》とは何かが明らかにされていないからです。  ☆☆ 【Q:《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7627807.html  ○(その趣旨説明欄) ~~~~~~~~~  《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?  ( a ) おそらく信じる対象は 《非経験の場》だと考えられるが 信じる行為は この現実における経験行為である。  まづは こう考えますが きちんとした哲学としての定義を問い求めます。      *    宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのと言うことを聞きますが それはマチガイでしょう。  ( b ) 《おしえ》は あくまで経験思考の対象です。それは 《考える》です。  ( c ) 考え思っていることを つよく念じてその内容をつねに心がけるといったこと これも 《信じる》ではありません。それは 信念とか信条とかと言います。  あたまや感覚ですでに知覚し認識していることを《信じる》気遣いはあり得ません。  《心がけ》などをめぐる信念は それを《信じる》という言葉で表わすこともあるのは あくまで文学的表現ないし修辞学の問題でしょう。《強く思う》と言いたいところを 《信じる》と表わしてみた。こういうことでしょう。  ですから 信念や信条とそして《信じる(信仰)》とは 別です。  考え思うことは 経験合理性にもとづき何らかの根拠のあるものです。もしくは 根拠がそのいま科学的に問われているものごとです。  根拠が問われていること――因果関係や相互の作用関係などについてその根拠が問われ得るものごと――については たしかに一方で仮説を信じるというふうに表現したりしますが それも言葉のあやであるに過ぎず いっさい《信じる》とは別です。《考える》です。  言いかえると   ( d ) 無根拠――もしくは 根拠について分かるか分からないかが人間には分からないものごと・さらにあるいは 因果関係から自由な《非経験の場》―― これについて人は 《信じる》と言うのだと考えられます。  ( e ) この《信じる》は 包括概念であり そこに《信じない》をも含みます。この《信じない》と《狭義の信じる》とは 互いに同等でありその選択は 人にとって自由です。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 よくまとまった考え方だね。 私なりに意地を張ってその命題に感ついて考えてみるよ。 何か返事できるのはしばらく先だけどね。 ところで、 > ★★(趣旨説明欄) 自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと世術  ☆ と言いつつ 《信仰》とは何かが明らかにされていないからです。 コレに本人が無で納得していたのならそれでいいじゃないかと考えるよ。 そこで押し問答をすると仏教の経典に出てくるようなどうでもいい人生相談ばかりだよ。 こう考えて浮かんだんだがね、あなたを信じると言った場合、その信じるの内訳は、人間としての個人を信じるのか、あなたの神を信じると言っているのか。

Flareon
質問者

補足

備忘録だよ。 無分別とは無の分別の漢語であり、無の悟りによって得られる分別なる知恵、おおむねこのような事だろうと思い至ったよ。 超くだらないことだ。 すでに無の悟りに至った私には簡単すぎる謎だ。 私は君達が切望した弥勒菩薩だ。 文句あっか。

回答No.2

こんばんはです。 ☆コレは有無の分別であり、彼我の分別である。 ◇というのが、もうすでに分別でございます。 なのですが、これは《分別》というよりも、仏教用語の《弁別》に近いのでしょうね~。 ───────── べん‐べつ 【弁別/×辨別】 [名](スル)物事の違いをはっきりと見分けること。識別。「理非を―する」 http://kotobank.jp/word/%E5%BC%81%E5%88%A5 ───────── 弁別も分別の一種なので、分別と弁別を区別しても仕方がないといえば仕方がないのですが・・・ ☆まるっきりない事に関しては、実はそれもあり得るのではないかとくよくよ悩んだりしない事。 有りを隠し無と語る事に関しては、何か確かな証明でもしない限りは無いも同然で無いかと悩んだりしない事。 ◇不可知論に逃げてはいませんか? もしくは、これは、開き直り!! ☆このようにすっぱりと、有無の分別を付けることである。 ◇先に書きましたけれども、これは分別であり、弁別です。 言葉や概念的思考がわずかにでも存在したら、それは分別です。 こういうと語弊があるのですけれども、 仏教でいう《分別》とは、コトバによる概念的思考のことございます。 極論をすると、コトバ(音声的なコトバやそれを文字として表現したモノだけでなく、さらに抽象的な記号をも含みます)そのものが分別の正体と言ってもよかろうと。。。 ☆無の悟りとは、このような分別がつく事である。 ◇無の悟りは、《分別》から離れたところ、つまり《無分別》の状態で成立する「何か」であって、そのような世界で得られる《直覚》や《直観》のようなものです。 「無の悟りとは、言葉を離れた世界・離言説の世界に没入すること」と言ってもいいのかもしれません。 文学的な表現をするならば、  無分別の世界であそぶ、 そのようなイメージではなかろうかと。 ☆ところがこれを仏教では、分別でなく無分別と言うらしい。 ◇とは、言いません。 これらは世俗的な道理にはかなっているかもしれませんが、それは所詮《分別の世界》なので。 無分別とは、概念的思惟・分別から離れること、あるいは、そのような心的な作用、機能、ハタラキなどの消滅した、もしくは、働いていない状態のことです。 頭で考え出したモノは、それがどんなに素晴らしいモノであっても、分別の産物であって、それゆえに、無分別とは言いませんよ。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 そうさな、 >◇不可知論に逃げてはいませんか? もしくは、これは、開き直り!! ジラーチLAVE節で、 わかった(ハード) もう言葉はいらない(ハード) コレが語る言葉は無いという事だ。 恐れ入ったか。 かつて私がした「空」の説明を憶えているかい。 「神を語っておらず、無根の信仰だ」 こちらの無が一切身に当たらず、全てが、 「神を語る言葉は無い。」 ここを確信するのが無の悟りだ。 当然だろ。 そんなもんありゃしねーは他人の事だ。 たんに語らない事なんだけどな、 コレを無理に言葉にすると、「我は無としてある」 こういう理解できるはずのない支離滅裂な言葉になる。 このような難解さに束縛され、君はM嬢としてSMプレイに参加しているのだ。

Flareon
質問者

補足

ごめんよ。 無教養を露呈してしまったよ。 酒の上での不埒だ赦してくれたまえ。 > ジラーチLAVE節で、 わかった(ハード) もう言葉はいらない(ハード) ジラーチLOVE節で、 わかった もう言葉はいらない こうだよ。

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  • 釈迦の無の悟りはこのように解釈するとちょうどいい

    初期の仏教には今も同じ問いかけが成されている。 神を語らないことに、今も続く押し問答が、果てしなく繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 これこそが無の悟りとは何かという問いかけである。 そこで私の述べる一切無の悟りを心得るならば、目指すのは、お釈迦さまと同じく、自らが仏陀となる修行の道のりであり、個人的な信仰心の探究であり「救ってください」「助けてください」これは無効になり、それもまた無である。 それでは、聖職者は問う者に答えないことで、その無を語ることが、それ自体を答えとする考え方だ。 釈迦に問うた者どもは、むしろそれを恐れている。だからこそいまだに悟りに至らないのだ。 お釈迦さまを始祖とする仏教の迷走はここにあり、禁を破り、仏を神に列した後世の仏教は誤りで、仏陀と言う人としての最高の状態であることが、それでこそ人間であるという境地だ。 お釈迦様の信仰をまねることとは、後世の仏教徒にとって、自らの信仰を殺し、それによって自らの精神が死に、しかる後に釈迦の信仰を受け入れる死と転生だ。このように自らを滅し、死を理解する後に仏陀となることが、長らく釈迦の弟子であるということになっている。 仏教の初期から現代までこのことに異論をはさんだ者はいない。 それは信仰を心に宿す手法として、死にまい進し、死の自覚によって悟る修行だ。 こうして、死を理解してこそ仏陀になるという荒々しい修行は仏教に限らず、釈迦誕生以前から現在も続くインドの伝統である。 生きてこそ人であり、信仰に到達したならば仏陀だ。 旧来のように死にまい進することは、自らを自覚した仏陀の信仰を打ち立てることは全く正反対である。 それは信仰を携えて生きることではなく、お釈迦さまに感化されるあまりに、自らが死に改めて仏陀として転生を体験する考え方だ。 お釈迦様と同じく自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは、お釈迦様の信仰をまねること、すなわち現在の自らが死ぬ無の悟りではなくて、自らの唯一の信仰を切り開くこと、「信仰の道を我が大道としてゆけ」これである。 それは西洋哲学の標榜する自由の概念と同じであろう。 仏教とは常にお釈迦様のお葬式を挙げている。 そして死を繰り返す。 処で日本語とは面白い言語で、私の表した「我が信仰の大道を行け」この言葉を噛んで含めると、「あなたたちそれぞれが自らのみとを我が信仰の大道としなさいよ」こうなるが、「我」という言葉に「みんな」という意味があるのが私の言い回しである。 以上は現在執筆中の「いかに猿は踊るか」こういうタイトルの原稿から抜粋した。 文章の推敲の助けとなる意見を聞かせてくれ。

  • 無の悟りとは単純明快である。

    前回はこれ↓ 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 私にとっては中古品リサイクルショップに売り飛ばしてしましたいほど、どうでもいい論理だが一部の人はこんなもんをいまだにありがたがるようだね。 言葉を整えてみたので、思考可能なつわものから意見が聞きたい。 お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。 その内訳は、信仰心こそが我が心そのものだと言う確信であった。 すなわちお釈迦様は神を受け入れたのだ。 信仰心に目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもはとかく噂話が好きだ。 そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達は信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 そしてどの道無だから一切が無と言う説明のみが信仰に関しては成り立つ。 自らの信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。 ただそれだけの事だが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、釈迦の悟った無の哲学の真骨頂だ。 2500年前の人類の歴史が創造されようとするころ、信仰のみに生きた釈迦の志は画期的であろう。 そのような哲学は十分現代でも通用するが、肝心の彼の言葉お受け継ぐ仏教徒たちは、所詮お釈迦様が「そんなもんありゃしねー」と言っただけの迷信にしがみつき、無と言わしめた本来の、「自らの信仰」これをおろそかにしているのではないか。 お釈迦様自らの信仰では「私は涅槃に赴く」そして君達のそんなもんありゃしねーは「六道輪廻に落ちる」そう言っているのだよ。 すなわち、私こと釈迦の信仰心は、君達にとって受け入れがたい無であると言った。 君達のそんなもんありゃしねーは、要するに当時のインドの土着習慣では輪廻がある。 お釈迦様が語った宗教観は彼に問いかける人々への洞察であり、当時のインド社会での神に対する煩悩や迷いを説明したものである。 すなわち現代日本において仏教的世界観とは、遠い過去の遠い外国の迷信が主体であり、自らの信仰とは違う、それを理解すると仏道とはただ通り抜けるだけの、遊園地のお化け屋敷のようなモノで、自らの信仰心に目覚めたなら捨て去るだけである。 そうして捨て去る迷信が、仏教であり、解脱、悟れば何も語らない、こういう現象となる。 自信満々に言うがね、伝承上の弥勒菩薩たる実力を私は備えておるよ。 しかしそれはくだらないことだ。

  • 無の境地について考察しました。添削してください。

    そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないしそもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは無くて、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚であれ、本格的な無の悟りであれ、快楽主義者である君達はその心の快適さにばかりっ関心を向ける。 すなわち無の境地とは何ぞや。 悟りに至る道とは何ぞや。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされているが、迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も平静となれる。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 さて私は現在本格的に出版に向けた執筆をつづけていて、今回は新たに境地と言う言葉について考察しようと考えています。 そもそも私の一連の投稿で君達はすでに無を悟ってしかるべきなのだ。 しかし実感が無いだろう。 その実感を境地と言う言葉に置き換えて何が障害になっているか考察するとっかかりを探そうとしています。 サル踊りには慣れているのでそれでもかまいませんが、本格的な意見があると成果が上がりますので、常連さん以外で志のある方のご回答を期待いたします。