目的語が二つで、用言が一つの文の構造の解剖

このQ&Aのポイント
  • 目的語が二つで、用言が一つのような文の構造について解説します。
  • 上記の例文Aでは、「四足の動物が水平方向に持ち出していた頭部を」という部分を受ける動詞が見当たらずに困っています。
  • 同様に、例文Bでも「人間の感覚器官を」という部分を受ける動詞が見つからない状況です。
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目的語が二つで、用言が一つのような文の構造の解剖

 日本語を勉強中の中国人です。下記の二つの文の骨格について説明していただけないでしょうか。 A.「直立した人間は手を自由に使うだけでなく、四足の動物が水平方向に持ち出していた頭部を、骨盤の上にS字形を呈する脊椎と胸郭によって、他の動物にはかつてなかった重さの脳を何の苦もなく直上に支えることができるようになる。」 B.「人間の感覚器官を、エドワード・ホールは感覚受容器という言葉を使うことによって受け手としての各器官のはたらき方を説明しようとしている。」  Aの「四足の動物が水平方向に持ち出していた頭部を」という部分を受ける動詞はいったい何でしょうか。「何の苦もなく直上に支えることができるようになる」でしょうか。しかし、「何の苦もなく直上に支えることができるようになる」はすでに「他の動物にはかつてなかった重さの脳を」という部分を受けているでしょう。「四足の動物が水平方向に持ち出していた頭部を」という部分を受ける動詞が見つからなくて困っております。  同じような問題はBにも発生しています。「人間の感覚器官を」という部分を受ける動詞が見当たらずに困っております。「説明しようとしている」はすでに「受け手としての各器官のはたらき方を」という部分を受けているでしょう。  上記のような目的語が二つで、用言が一つのような文の構造がよく理解できていません。たぶん何かが省略されているだろうと思いますが、難しいと感じております。どなたか分析していただけないでしょうか。  また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • ahkrkr
  • ベストアンサー率35% (109/310)
回答No.5

A. 「他の動物にはかつてなかった重さの脳」は「頭部」を修飾するものですが、その位置が適切でないため分かりにくい文章になっていますね。つまり、 「直立した人間は手を自由に使うだけでなく、四足の動物が水平方向に持ち出していた頭部(人間の場合は他の動物にはかつてなかった重さの脳であるが)を、骨盤の上にS字形を呈する脊椎と胸郭によって、何の苦もなく直上に支えることができるようになる。」 と言う意味です。 B. 「人間の感覚器官を説明するにあたり、エドワード・ホールは感覚受容器という言葉を使うことによって受け手としての各器官のはたらき方を説明しようとしている。」 と言いたかったのでしょうが、説明と言う言葉を2回使うのは目ざわりと考えて一方を省略したため変な日本語になっています。

awayuki_cn
質問者

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 ご丁寧に教えていただきありがとうございます。よくわかりました。とても参考になりました。本当にありがとうございました。

その他の回答 (5)

  • fxq11011
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回答No.6

直立した人間は手を自由に使うだけでなく、四足の動物が水平方向に持ち出していた頭部を、支えることができるようになる。 修飾語=骨盤の上にS字形を呈する脊椎と胸郭によって、(支えることができるようになる) 修飾語=他の動物にはかつてなかった重さの脳を、、(支えることができるようになる) 修飾語=何の苦もなく直上に、、(支えることができるようになる) 上の修飾語、ひとつだけ使用でも十分通じる文章になります。 同順位の長い修飾語が3つも付いているため理解しにくくなっています。

awayuki_cn
質問者

お礼

 ご親切に回答していただきありがとうございます。参考になりました。本当にありがとうございました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.4

端的に申し上げると、この2つの例文は、どちらも文法的に間違った日本語です。 A.「直立した人間は手を自由に使うだけでなく、四足の動物が水平方向に持ち出していた頭部を、骨盤の上にS字形を呈する脊椎と胸郭によって、他の動物にはかつてなかった重さの脳を何の苦もなく直上に支えることができるようになる。」 : 『しかし、「何の苦もなく直上に支えることができるようになる」はすでに「他の動物にはかつてなかった重さの脳を」という部分を受けているでしょう。』 という質問者さんのご指摘は全くそのとおりです。 原文は正しい文法に則った日本語ではありません。 不自然さを感じるのは正常な感覚です。 『直立した人間は手を自由に使うだけでなく、四足の動物が水平方向に持ち出していた頭部を、他の動物にはかつてなかった重さの脳を、骨盤の上にS字形を呈する脊椎と胸郭によって、何の苦もなく直上に支えることができるようになる。』 とするのが正しい構文です。 この(正しい構文の)「四足の動物が水平方向に持ち出していた頭部を、他の動物にはかつてなかった重さの脳を」という部分は、 「あの素晴らしい自然の恵みを、他では代替の利かない太陽のぬくもりを」などといった構文と同じです。 「頭部≧脳」「自然の恵み≧太陽のぬくもり」といった構図。 この場合の「を」には、≧(あるいは≒)という意味が含まれていますが、そのことを明確にするために、使えるのが「なかんずく(就中)」という言葉です。 http://dic.yahoo.co.jp/detail?p=%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%82%93%E3%81%9A%E3%81%8F&stype=1&dtype=0 「特に~」といったような意味です。 『直立した人間は手を自由に使うだけでなく、四足の動物が水平方向に持ち出していた頭部を、なかんずく他の動物にはかつてなかった重さの脳を、骨盤の上にS字形を呈する脊椎と胸郭によって、何の苦もなく直上に支えることができるようになる。』 のようにすると非常に自然な日本語になります。 B.「人間の感覚器官を、エドワード・ホールは感覚受容器という言葉を使うことによって受け手としての各器官のはたらき方を説明しようとしている。」 : これも、ご指摘のように、「説明しようとしている」は、「人間の感覚器官」を受けているとも、また「各器官のはたらき方」を受けているとも言えるわけで、文法的に間違った日本語表現です。 Aの場合のように、≧ や ≒ といった要素を含んでいないからです。 『人間の感覚器官を、エドワード・ホールは感覚受容器と呼ぶことによって受け手としての各器官のはたらき方を説明しようとしている。』 または、 『人間の感覚器官に対して、エドワード・ホールは感覚受容器という言葉を使うことによって受け手としての各器官のはたらき方を説明しようとしている。』 のようにする必要があります。 こうした表現に違和感を覚えるのは、極めて正常な感覚です。 ただ、全ての日本人が正しい日本語表現をしているわけではありません。 しかし、非常に曖昧な、端的に言うと間違った日本語表現でも日常的に通用しているのが現在の日本の状況です。 その意味で、「理解する必要のある日本語」と「学ぶべき正しい日本語」は分けて捉えていく必要があるでしょう。 ご質問文の日本語に特に不自然な点はありません。       

awayuki_cn
質問者

お礼

 ご親切に教えていただきありがとうございます。理解できるようになりました。大変参考になりました。本当にありがとうございました。

  • spring135
  • ベストアンサー率44% (1487/3332)
回答No.3

A,Bとも話し言葉ではあり得ますが、文章としては悪い見本のような文章です。 いったいどんなところで日本語を習っているのですか。 まともな文章は以下のように書きます。 A.「直立した人間は、四足の動物が水平方向に持ち出していた頭部を、骨盤の上にS字形を呈する脊椎と胸郭によって支えることにより、他の動物にはかつてなかった重さの脳を何の苦もなく直上に支えることができるようになる。」 ”手を自由に使うだけでなく”本筋に関係ないので削除します。 ”支えることにより”これを入れることにより正しい日本語になります。 もっとすっきりした日本語は 「四足の動物が水平方向に持ち出していた頭部を、骨盤の上にS字形を呈する脊椎と胸郭によって支えることにより、直立した人間は他の動物にはかつてなかった重さの脳を何の苦もなく直上に支えることができるようになる。」 B.「人間の感覚器官を、エドワード・ホールは感覚受容器という言葉を使うことによって受け手としての各器官のはたらき方を説明しようとしている。」 正しい日本語は 「エドワード・ホールは、感覚受容器という言葉を使うことによって、人間の感覚器官のはたらき方を説明しようとしている。」 ”受け手としての各器官の”冗長でダブっています。削除すべきです。 もっと簡潔に言えば 「エドワード・ホールは、人間の感覚器官を感覚受容器と呼ぶことによってその働き方を説明しようとしている。」

awayuki_cn
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございました。

  • j-mayol
  • ベストアンサー率44% (240/540)
回答No.2

日本語の動詞であっても目的語を2つ取ることはありえます。例えば 私は姉に誕生日プレゼントをあげた。 という場合などです。 この文では動詞「あげる」が目的語「姉に」と「誕生日プレゼントを」を取っていることになります。 質問文ABともにこれと同様に考えて良いと思います。 私は学習塾で中学生に対し国語を教えられる程度の国語力は持っております。逆に言えばその程度しか持っていないわけですが・・・。その私から見るとABともに非常に不自然な日本語に感じられます。その原因は質問者さんの質問と同じところにあります。少なくとも自分が文章を書くときにこのような組み立ての文では書きません。 Aであれば A.「直立した人間は手を自由に使うだけでなく、四足の動物が水平方向に持ち出していた頭部を、骨盤の上にS字形を呈する脊椎と胸郭によって、他の動物にはかつてなかった重さの脳を何の苦もなく直上に支えることができるようになる。」 ではなく 直立した人間は手を自由に使うだけでなく、骨盤の上にS字形を呈する脊椎と胸郭によって、四足の動物が水平方向に持ち出していた頭部をまた他の動物にはかつてなかった重さの脳を何の苦もなく直上に支えることができるようになる。 と書くでしょうね

awayuki_cn
質問者

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 早速のご回答ありがとうございます。参考とさせていただきます。本当にありがとうございました。

  • bakansky
  • ベストアンサー率48% (3502/7245)
回答No.1

> A.「直立した人間は手を自由に使うだけでなく、四足の動物が水平方向に持ち出していた頭部を、骨盤の上にS字形を呈する脊椎と胸郭によって、他の動物にはかつてなかった重さの脳を何の苦もなく直上に支えることができるようになる。」 > Aの「四足の動物が水平方向に持ち出していた頭部を」という部分を受ける動詞はいったい何でしょうか。「何の苦もなく直上に支えることができるようになる」でしょうか。しかし、「何の苦もなく直上に支えることができるようになる」はすでに「他の動物にはかつてなかった重さの脳を」という部分を受けているでしょう。   「直立した人間は手を自由に使うだけでなく、四足の動物が水平方向に持ち出していた頭部を、他の動物にはかつてなかった重さの脳を何の苦もなく直上に支えることができるようになる」  という文の中に、   「四足の動物が水平方向に持ち出していた頭部を、骨盤の上にS字形を呈する脊椎と胸郭によって」  という文が挿入されている形だと思います。  その挿入部分は本来なら   「四足の動物が水平方向に持ち出していた頭部を、骨盤の上にS字形を呈する脊椎と胸郭によって支えて」  となるべきはずのものです。  書き手の頭の中では、挿入部の後に続く部分に 「支える」 という表現を入れることが前提になっているために、ここでは省いてしまったのでしょう。日本語の文は、述語となる動詞を最後に持ってくる傾向があります。  ただし、日本人が読んでも分かりやすい、読みやすい文であるとはいえないかもしれません。私が書き換えるとすれば、たとえば   「直立した人間は手を自由に使うことが出来るだけではない。四足の動物は頭部を水平方向に持ち出しているが、直立した人間は、脊椎と胸郭を骨盤の上にS字形に呈することで、他の動物にはかつてなかった重さの脳を、何の苦もなく直上に支えることができるようになる」  とするかもしれません。「S字形に呈することで」 の部分は 手段 を表しています。英語の前置詞 by を連想します (たとえば by forming S のような形です)。 > B.「人間の感覚器官を、エドワード・ホールは感覚受容器という言葉を使うことによって受け手としての各器官のはたらき方を説明しようとしている。」 > 「人間の感覚器官を」という部分を受ける動詞が見当たらずに困っております。  これも A. の場合と似ていますね。  基本的には   「人間の感覚器官を、エドワード・ホールは、受け手としての各器官のはたらき方を説明しようとしている」  という文で、その中に   「感覚受容器という言葉を使うことによって」 という説明が挿入されています。  この挿入部分は、英語なら分詞構文なんてものを使うところかもしれません。using the term "sensory receptors" なんて文を挿入する形です。挿入ですから、それに対する述語動詞は不要だとも言えます。  要するに   人間の感覚器官を、エドワード・ホールは (感覚受容器という言葉を使うことによって) 受け手としての各器官のはたらき方を説明しようとしている  として、( ) の中は挿入部分であると見ることが出来ます。  少し書き換えて   エドワード・ホールは、(人間の感覚器官について、感覚受容器という言葉を使うことによって)、受け手としての各器官のはたらき方を説明しようとしている  としてもいいかもしれません。(ただし、こうすると、「・・・ について」 と 「・・・ によって」 という表現が連続して重なるために、日本語の文としては、少しくどい印象を与えます)。

awayuki_cn
質問者

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 早速のご回答ありがとうございます。参考になりました。本当にありがとうございました。

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  • 文構造における存在基盤について

    長年にわたって英語指導(読解・文法・作文)に携わってきた者です。ところが、学校文法はいわゆる伝統文法と呼ばれるもので、その正当性の根拠や論理的整合性において矛盾や曖昧さを様々に含むものです。それでも、そうした枠組みに依拠した指導がこれまで(恐らく今後も)続けられてきたのは、主に指導の簡便さによるものだと思われます。実践的観点から言うと、指導において論理的整合性はそれほど要求されません。生徒が実際的な知識をおおざっぱに身につければそれでよいと考えられてきたと思うのですが、高校段階の英語指導という観点から見れば、私もそれでよいと考えます。  ただ、伝統文法に対する根拠づけが可能だとしたら、それがどのような形になるのか考えてみたいと思います。それを今回実践しますが、分析結果に対してご意見を頂けたらと思います。  根拠をどこに求めるかということですが、伝統文法の発想は自然科学の発想と軌を一にしています。ということは、ニュートン物理学の発想が根本にあるということです。すなわち私としては、時間及び空間的な制約がいかに言語対象に適用されるかを見てみようと思います。言いかえると、伝統文法の根拠づけを伝統文法の内部から行おうというわけです。すなわち、三次元空間と時間という認知形式において伝統文法を照らし出してゆくわけですが、学校文法において基礎的な学習事項とされている文構造(語・句・節の働きの総体をその定義としておきます)について多少なりとも統一的な尺度でもって分析できれば、それでよしとしようと思います。 なお、語の分析においては中核的な要素に焦点を当て、周縁的な要素は分析対象から外すことにします。なぜなら、長い間の言語的発展のあいだに基の原義が消滅したり変化したり、あるいは他の品詞として使用されるようになったりもしているからです。また、Water is a clear pure liquid. といったようなカテゴリー表現は分析対象としません。カテゴリーは三次元空間と時間という認知形式の外にあるものだからです。ただし、I drank water. というふうにカテゴリーの部分、すなわち実体を表す場合は分析対象とします。  分析にあたっては、文中で使われる主要な語・句・節にどのような空間性・時間性が見られるかを分析することになりますが、その際に、空間性・時間性を直接的に発見しようとするだけでなく、空間メタファーも活用します。要するに、文中の語・句・節がそれなりの空間性・時間性を持つことを示すことで、存在論的基礎を示そうとするわけです。  ただし、その際に説明が込み入ったものだったり、重層的にメタファーを使うことは避けようと思います。恐らく、間投詞以外はすべての品詞が空間性・時間性を持つものと予想されますが、その説明はできるだけシンプルなものでなければ意味がないと思うのです。複雑な説明だと不自然なこじつけとしか受け取られません。 さて、文というものが成り立つためには、主語と動詞がなければなりません。一般に<モノ>を表すものと<動き(変化や持続も含む)>を表すものとで、この世の主たる出来事や状況が言い表されるわけですから、これは当然のことです。<モノ>と<動き>が組み合わさることで文が生まれる、すなわち世界に対する叙述が生まれるわけです。  ここで、文中に主語と動詞が存在することは一体何を意味するのかを存在論的に考えてみます。主語はもちろん名詞です。名詞は文中で使用されない時はただの概念ですが、文中で実体として使われる時は、形や姿を現すものとして空間的制約が与えられます。その制約の存在を示すのが限定詞です。実体であっても空間的な制約が存在しない場合は無冠詞で使われます。つまり、空間において一定の位置を占めるわけですが、これが名詞が文中で使われることの存在論的な意味です。 同様に、動詞の場合も文中で使用されない時はただの概念ですが、文中で実体として使われる時は、過去・現在・未来を表すものとして時間的な制約が与えられます。その制約の存在を示すのが時制です。実体であっても時間的な制約が存在しない(時間を持たない)場合は原形で使われます。つまり、時間(または空間)において一定の位置を占めるということですが、これが動詞が文中で使われることの存在論的な意味です。 名詞と動詞が存在論的基盤を持つということは、必ず空間と時間の両方において一定の位置を占めることを示しますが、両者の性質上、空間と時間のどちらかにウェートが置かれます。今後は名詞は空間的性質を、動詞は時間的性質を持つものとして話を進めます。こうした観点からすると、品詞分類においては名詞と動詞が上位に分類され、それ以外の品詞が下位に分類されてもいいと考えます。  形容詞の分析に移ります。限定用法であれ叙述用法であれ、形容詞が表すものを属性だと定義して、その属性に空間性や時間性があるかを考えてみます。形容詞の有り様からして、名詞とのからみで見ていかなければなりません。よって空間性のみを見ることにします。  例えば、He is tall. / He is a tall man. においてtallは段階を持つ形容詞です。各段階の差異は空間性を示します。また、比較級・最上級の存在も空間性を示します。上の2文の状況を図示しただけでも空間性が示されます。 supremeといったような段階を持たない形容詞の場合、段階を持たなくても度合いを持ちます。supremeが内包する度合いを数直線上に表した時、supremeという語は数直線上の最右翼に位置します。空間的に位置を占めているわけです。度合いという考え方はbusyのような一時的な性質を表すものにも適用できるし、redのような恒常的性質のものにも適用できます。 又、red applesはapplesという外延全体のうちの一定部分に言及したものです。このように数量的限定を名詞に与えるという意味においても空間性を表します。dirty waterも同様。  以上、形容詞が空間的性質を持つことを見ました。  次に、副詞を動詞との関わり(それが中核的な関わりです)で見ていきますが、場所や時や頻度や数量を表すものはそれ自体空間性や時間性を持つと言えます。又、程度や様態や確実性を表すものは形容詞の場合と同じく度合いのレベルとして空間性が見て取れます。  ただし、yes, noなどの肯定・否定を表す場合や、文副詞のように話者による評価や態度を表す場合は空間性や時間性の発見は困難です。やろうと思えばできるかも知れません。例えば、yesという副詞の場合、yesとnoを二項対立的な要素集合ととらえることによって空間性を見て取ることができます。ただし、空間メタファーを利用したアクロバティックな強引なものです。説得力を持つことはないと思います。よって、周縁的な要素として処理するのが適当だと思われます。すべてがきちんと説明されなければならないわけではないと考えます。 前置詞については、そもそも名詞との絡みでしか考察することができませんから、空間的性質があるのは自明のことです。例えばin the parkが形容詞用法であろうと副詞用法であろうと、「中」を表すことに違いはありません。また、The book is still in print. におけるように補語として使われた場合でも、刊行されている状態の範囲内にあるわけですから、やはり「中」を表します。 ただし、「中」を表すとする判断はin / the / parkというふうに要素に分解することに意味を認めた場合の話です。話は変わりますが、because he had a cold that day という節においてbecauseを一つの単独の品詞として分析対象とすることに意味がありません。節全体を分析対象にするのでなければ有意な分析は行えません。そのことは前置詞句にも当てはまるのと思います。 だとすると、in the parkは形容詞用法の場合は空間的基盤を持ち、副詞用法の場合は時間的又は空間的基盤を持つと言えます。The book is still in print. においては、現在の状況が示されていることは明らかです。  これは形容詞句の分析の一例ですが、その他の形容詞句においても何らかの形で分析が可能だと予想されます。 代名詞は空間的性質を持つ名詞の代理表現ですから、言わずもがなです。  接続詞はどうかと言うと、これは語と語を、及び文と文をつなぐものなので、それ自体は空間的・時間的性質とは無関係と考えるべきです。だとすると、名詞と動詞を核とする品詞の集まりにおける周縁的なものと位置させるのがよいと考えます。そこで、分析にあたっては接続詞を含む節単位で考えるしかないと考えます。同じことは関係詞節や疑問詞節にも言えます。 重文や複文を構成する文は<モノ>と<動き>が組み合わさったものです。すなわち、空間的性質と時間的性質の両方を備えたものです。それに、接続詞・関係詞・疑問詞が付加された時、両性質が消滅することはありません。  間投詞は対話の相手との直接的なやりとり(相づちや気持ちの表現)を文中に押し込んだもので、そもそも文の構成要素になりません。他の品詞との連携もありません。当然、時間的・空間的性質も持ちません。 以上です。ご意見をお待ちしております。