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哲学における弁証法的発展について

哲学における弁証法的発展を知りたいです。 哲学の世界では合理主義のように○○主義というものがありますが、 このような○○主義が弁証法的に発展したものを知りたいです。 テーゼとして○○主義があり、その反対のアンチテーゼとして○○主義があり、 両方を総合したジンテーゼとして○○主義ができたということです。 説明が難しくて下手な文章になってしまいましたが… よろしくお願いします。

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回答No.1

あまりにも広大な知的抗争の歴史のまとめを求めておられる。 端的に言えば、哲学以前、人が生活の中で、そこで育った認識性 の延長において、生きる意味や死の悲しみ、短絡的利己(快楽)と 社会的必要の対立といったものの克服において、宗教やモラル、 哲学といったものが発生する中で、構造的な対立(弁証法)は、 合理主義~原理主義(ファンダメンタリズム)と経験主義~実用 主義(プラグマティズム)の間の拮抗として、宗教自身の中で、 あるいは宗教と科学の間で、科学的思想(資本論)と実用科学 (資本主義)の間で、常に発生してきた。 その原因は、経験主義における人間の不完全さによる破綻と、 その反動により導かれる新たな抽象理論の不完全さによる応用 における破綻との振幅のくり返しにある。 そしてその「公理系の完全性の破綻」と「その無矛盾性の破綻」 の両方を解消する事は不可能=「公理系は不完全である場合 のみ無矛盾であり得る(不完全性定理)」によって証明されて しまった。 人の生は、不完全と矛盾の間の振幅を、嵐の中の小船のように もまれながら、希望の光に向かって漕ぎ続けるようなものだ。 肉体的増殖と精神的充足は、いかに両立し得るか!?

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noname#175361
noname#175361
回答No.3

マイナーな例から言えば、十九世紀に折衷主義というのがあるんですよ。主成分は古典主義とロマン主義ってところですね(他にも混じっているかもしれません。何しろ折衷ですので、よいものはどんどん取り込む)。折衷主義の後継者はベルグソンですが、彼によってその先人たちは低く評価され、今日では知られなくなっています。 ただこれが弁証法と言えるかどうかは、わかりません。当人らは弁証法のつもりでしょうが、客観的に見て、ビミョーです。他に強いて言えば、フッサールの現象学を乗り越えて、実存主義へと傾いたハイデガーかなあ。まあ、誰でも気になった哲学者を調べてみましょう。過去の主義を乗り越えていますから。

noname#182794
noname#182794
回答No.2

拝啓 私は、デューイとヨナス、どちらもオブジェクトとしての○○主義であると仮定して、これはやはり、不確実性をはらんだ構造をもっていると思いますね。では、第三の主義はあるのでしょうか。 無いような気がしますけどね。有るとすれば、それ自体が構造をもたないものになるでしょうね。それを仮に、志向性と呼び、或いは創造性と呼べば良いのでしょうか。 ひとつの解答例として挙げますが1番、2番はテキストからの抜粋です。 1.デューイの「不確実性に対する予測による技術的解決」プラグなんとか。 2.ヨナスの「責任という倫理にもとづく謙虚な予防による解決」 3.志向性「創造性をもつハイブリッド」あえて主義という言葉を 使うならば、(空即是色主義)この世は移ろいゆく。 3番の仮称(空即是色主義)に相当する考え方は、認識の階層を取り払った認識を、一時的な形にするといいますか、認識のコミュニケーション能力といいますか。顕著なところでは異業種の人材を求めてみたりもしています。  以上、社会人からの意見でした。                      敬具

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