金剛宝戒章とは?

このQ&Aのポイント
  • 金剛宝戒章とはどのような内容なのか?
  • このサイトの文章には、道元、法然、空海の話が書かれていますが、本当なのでしょうか?
  • 法華経釈や金剛宝戒章の内容についても知りたいです。
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金剛宝戒章とは?

このサイトを見ていたら、このような文章がありました。 ◆法華経の話◆ http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/6623/hokekyou.html ●『法華経』に帰っていく人々  曹洞禅の祖、道元禅師という方は臨終が近づいて来た時、法華経の神力品を 唱えたり、またその一節を壁に書きとめた後、亡くなりました。  ちなみに、今でもなぜかお通夜や葬儀などで、法華経の寿量品第十六を 唱えたり、中には棺にお題目が書かれたものを入れる人もいるという話です。  いわゆる念仏をひろめた法然さんも、晩年には、「禅も念仏も救われない・・」と いった意味のことを、金剛宝戒章という書物に書き残されています。  真言宗の開祖、空海さんも、最初は「法華経は大日経などよりも 劣っているお経だ」としてきましたが、晩年には東大寺の真言院という所で、 法華経の講義をされ『法華経釈』を書き下ろしました。これが最後の著作となりました。 引用ここまで。 このサイトのこの文章の道元と、法然と、空海の話は本当なのでしょうか? また金剛宝戒章や法華経釈はどのような内容なのでしょうか?

noname#195588
noname#195588

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回答No.1

ごめん、よく知らないので、リンク先だけを紹介します。 金剛宝戒章 http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1575034.html  その後しばらくして、「この法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字としたのであるから、この五字の内にどうして万戒の功徳を納めていることがあろうか。この万行万善の妙戒は、一度持てば、後に行者が破ろうとしても破ることができないのである。これを金剛宝器戒という」などと言うがよい。三世の諸仏はこの妙戒を持って法身・報身・応身ともに無始無終の仏に成られたのである。このことを天台大師は「諸教の中に於いて之を秘して伝えず」と書かれたのである。  末法の今の世の有智・無智・在家・出家・上下・万人はこの妙法蓮華経を持って、説のごとく修行するならば、どうして仏果を得ないことがあろうか。そうであるからこそ、釈尊滅後、濁悪の末法の法華経の行者を「是の人仏道に於いて、決定うて疑い有ること無けん」と定められているのである。釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏とこの三仏の定判に漏れた権宗の人々は間違いなく無間地獄であろう。  このように貴い戒であるから、爾前・迹門の戒は、今一分の功徳もないのである。功徳がないのであるから、一日の斎戒も無用なのである。 って事らしい。 しょーじき、眠り猫には、難しくて、よく分かりません。 ロジックに飛躍が。。。。 たぶん、眠り猫がアホーだからなんでしょう、きっと。 空海の法華経釈を読んだことがないので、コメントのしようがありません。 参考までに http://blog.livedoor.jp/totoga/archives/51746165.html 「顕教をも外教として学べ」(密ヲ以テ内ト為シ顕ヲ以テ外ト為シ、必ズ兼学スベシ。コレニ因ツテ本宗ヲ軽ンジ、末学ヲ重ンズルコト勿レ——御遺訓九箇条のうち——) ですよね~。 「顕教もしっかり勉強せいですよね」 よくおぼえていないけれど、密教について書いてある本で 「法華経、そらぁ~いいことを書いてあるさ。でも、ありゃ~、薬の効能書のようなもの。薬の効能書をいくら読んでも、病気は治るかい?」 みたいなことを言ったとか、空海の著作のどっかに書いてあるとかいう話を読んだ記憶が。。。。 うろ覚えでゴメンね。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 わざわざすみません。 質問しておきながら私も気になったので 自分でも調べてみたところ どうやら金剛宝戒章は偽書かもしれません。 ただこれ以上の詳細はわかりません。 本当に法然が念仏を否定していたら とんでもないことだとは思いますけど。 特に親鸞の立場とか。 それに偽書だとしても仏教で偽書をどう扱うかは よくわかりません。 空海のほうは法華経開題というのはあるみたいですね。

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