物と心

このQ&Aのポイント
  • 宇宙万象は物象と心象という二つの現象に分けられる。物象は客観的な観念の力によって実現し、心象は主観的な観念の力によって実現する。
  • 物体と分子の動きによって物質が現れる。物質は本質と意志の力によって実現し、色や形を持つ。
  • 絶対観念態とは宇宙全体を観念鏡の影像と表現したものであり、物象と心象はこの絶対観念態の現れである。宇宙の現象は一つの観念態から現れ、その内容は同一の観念態である。絶対観念態は大円鏡智とも呼ばれる。
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 物と心

 物と心  宇宙万象は本、絶対観念態より主観客観の二象は現じたるものとす。客観的観念を物象と名づけ主観的観念を心象と名づく。もと一大観念態が意志の力によりて実現せられたる客観々念態を現象宇宙と云う。    万物の固形即ち質碍なるものは、この力が地水火風の堅湿暖動の質は即ち力なり。力とは意志なり。観念の力によりて実現せるものが物質の現象となるを云う。若し、本質と意志の力のみならば、物質には盲動にして象相なく、色もなく声もなき、天に太陽なきが如く、物的盲動のみにして、花も色なく、宇宙万象なく、唯、物体動と分子動のみの盲動ならん。  絶対観念態ありて天に太陽の照らす如く、万物が心象を現わし、物と心との二現象が種々の象相をなすは、観念態の実現する所なり。同一の観念態が物象と心象の二方面に現れたりとす。是の絶対観念態を大円鏡智と名づく。  大円とは宇宙全体が同一観念態なり。観念態を鏡に例う。鏡とは相対的の甲の鏡に乙の物象を映現するが如くに非ず。宇宙全体が即ち観念態なり。一切森然たる物と心との二象は即ち観念態の力によりて実現せられたる影像なり。  故に今、宇宙の万象が即ち宇宙という観念鏡の影像に外ならず。力によりて現るゝ万象は新陳代謝して無始より已来種々に転変するも、其の内容は同一の観念態なり。森羅万象、若しは客観物象、若しは主観の衆生の心象、内観も外観も同一観念の両方面に顕現したるものなり。  この全体を統一して惣体なるは即ち大円鏡智、即ち絶対観念態なり。  ☆ これは明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章ですが、文全体の内容も漠然としか受け止められませんが特にわからないところがあります。  表題の次から五行目の  「若し本質と意志の力のみならば、・・・・・唯、物体動と分子動のみの盲動ならん。」までが特に分かりません。    ☆ 本質と意志の力のみ・・・・・ということはそれ以外に何かの力が有る、ということなのでしょうか。  よろしくお願いいたします。    

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mmky
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回答No.8

> そして、その観念態の働きは意志と、それに“本質”と云ってますが、その本質がなんなのだか、それにも一つがなんなのか・・・・・嗚呼、頭が弱いからどこかでそれに接しているはずなんだけど、記憶していない。 ○「本質」とはお坊さんの文章では「万物の固形即ち質碍」つまり、物質のことですね。また、この場合の「意思」とは物質に働く「力」、つまり核力、電磁力、引力などの力ですね。 物質や物質の意思(力)だけでは秩序ある宇宙や鉱物、生物は存在しないといっているのですね。花が花として、人が人としてあるのは絶対観念態(根本仏)がかくあれと思ったからそのように存在する。それが絶対観念態(根本仏)の意思ですね。 物質にも意思があるという観点が理解できれば、読み解けると思いますよ。 これが「山川草木悉有仏性」の意味なのです。各々は各自の意思で自由さを持っているがそれは統合体としての絶対観念態(根本仏)の意志のもとで存在を許されているという意味になるのです。逆に言えば、存在を許されない形態は存在し得ないということですね。 まあ、石や岩にも意志があることがわかれば、芭蕉の「静けさや岩に染み入る蝉の声」の本当の意味がわかるようになりますね。引力や核力が物質の意志の現れと言っても科学者には理解不能かもしれませんが、実際には、すべての存在物に意志があるのですよ。 このように考えるといいですね。「絶対観念態が一部を使って物質と力を創造した、それだけでは世界は無秩序な世界(物体動と分子動のみの盲動)であった。そこに絶対観念態の「かくあれ」という意識を与えた。その意思により世界に秩序がもたらされ、ありとあらゆる生き物が生まれた。」そのように訳せますね。 参照部分:「万物の固形即ち質碍なるものは、この力が地水火風の堅湿暖動の質は即ち力なり。力とは意志なり。観念の力によりて実現せるものが物質の現象となるを云う。若し、本質と意志の力のみならば、物質には盲動にして象相なく、色もなく声もなき、天に太陽なきが如く、物的盲動のみにして、花も色なく、宇宙万象なく、唯、物体動と分子動のみの盲動ならん。」

yy8yy8az
質問者

お礼

 回答ありがとうございます。  mmkyさんはこのお坊さんの文章を理解されているようで、だからこその回答かと思いました。  この宇宙の存在に“秩序”あり、という事はちょっと“なにそれ?”って云うのが普通だと思いますが、それも理解されているように感じます。  「本質」を「現象」と捉えてみるのはどうでしょうか。  ありがとうございました。(2012/10/06 11:53)

その他の回答 (7)

回答No.7

 こんばんは。  分かりづらいと思います。が次のように読むよりほかにないのではないかと。  ・森羅万象・・・物象および心象  ・物象:客観物象  ・心象:主観の衆生の心象   ▲ この全体を統一して惣体なるは即ち大円鏡智、即ち絶対観念態なり。  したがって  ・絶対観念態―→森羅万象:物象および心象  つまり 人びとの心象については 《観念》のハタラキが及んでいると見られるはずだが 物象についても同じくである。と言おうとしているのではないかと。  すなわち  ・絶対観念態(その本質=力=意志)―→心象(その本質=力=意志):その行為現象  ・絶対観念態(その本質=力=意志)―→物象(その本質=力=意志):その現象  物質の現象は 物質だけの自己運動であるに過ぎないと見られがちであるが そうではなく その物象にも 観念態の意志がはたらいているのだと。   ▲ 若し、〔* 絶対観念態の意志=力が及ぶことなく 物質じたいの〕本質と意志の力のみならば、物質には盲動にして象相なく、色もなく声もなき、天に太陽なきが如く、物的盲動のみにして・・・  どうも《本質=意志=力》が 観念態にも物質にもそれぞれあると言っているようで そこがややこしいように思われます。 

yy8yy8az
質問者

お礼

 回答ありがとうございます。  賞味期限をだいぶ過ぎてしまいましたがこれで締めますので、感想を述べてみようと思います。  皆さんの回答に接し、そのうえで質問に取り上げた文章を何度か読み返してみましたが、そうすると「本質」と云う言葉をどう捉えたらいいのかが、疑問となって残ってしまいました。  今は“総括する”と云った感じの観念態を想定せずに、物象、心象は個々に存在するとしたのであれば、それらは「盲動」と云える、と云っているように受け止めてみています。  「本質」についてはまだ上手く捉えられませんが。  また「盲動」については秩序がないという意味で云っているんだなと思いました。  宇宙は「絶対《相対ではない》観念態」である、という事へのブラジュロンヌさんの評価が気になりますね。  ありがとうございました。(2012/10/06 11:40)    

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

失礼致します。 >「こうして回答いただいたのも何かの縁、このお坊さんの「哲学的部分」ではなく宗教家としての文章を紹介してみます。  お釈迦様がこの世に現れた“意味”についての文章です。  釈尊出世の本懐  釈尊この世に出でましなされて、生涯に亙(わた)って一(もっぱ)ら御力を尽くしなされた御本懐は那辺にありやとなれば、そは世のもろもろの衆生が心の闇と悩みと罪とにより、闇の裡(うち)にさまよいあるを憐み、すべての人類を明るきと安きと聖きに復活させ、しかして円満なる人とし永遠の光明に導かんがために、世にお出ましなされた。  経に『如来無尽大悲を以て三界を憐み、光(ひろ)く道教を開き群萌(ぐんもう)を救わんと欲し、恵むに真実の利を以てす』と。  恵むに真実の利とは如来の慈父の光明を獲得して聖き人と生まれ更(かわ)って現世を通じて永遠の生命を得せしめんとのお慈悲なり。」 凄いですね。これは仏教じゃなくて、一神教ですね。

yy8yy8az
質問者

補足

 回答ありがとうございます。  このお坊さんは自身の宗教を  確か・・・  超在一神的汎神教、と云っていたと思います。  他の表現では円具教(円満具徳の教)とも。  このことを、天台や華厳にては円教と名づけているようですが。

noname#161756
noname#161756
回答No.5

申し訳ございません。私では色んな意味で判断しかねましたので、お答えできませんでした。

yy8yy8az
質問者

補足

 感想ありがとうございました。  いきなりこうした文章に接すると何のことやら、と思うことでしょう。  私は何年もこのお坊さんの文章に接しているので、抵抗ありませんが。  こうして回答いただいたのも何かの縁、このお坊さんの「哲学的部分」ではなく宗教家としての文章を紹介してみます。  お釈迦様がこの世に現れた“意味”についての文章です。  釈尊出世の本懐  釈尊この世に出でましなされて、生涯に亙(わた)って一(もっぱ)ら御力を尽くしなされた御本懐は那辺にありやとなれば、そは世のもろもろの衆生が心の闇と悩みと罪とにより、闇の裡(うち)にさまよいあるを憐み、すべての人類を明るきと安きと聖きに復活させ、しかして円満なる人とし永遠の光明に導かんがために、世にお出ましなされた。  経に『如来無尽大悲を以て三界を憐み、光(ひろ)く道教を開き群萌(ぐんもう)を救わんと欲し、恵むに真実の利を以てす』と。  恵むに真実の利とは如来の慈父の光明を獲得して聖き人と生まれ更(かわ)って現世を通じて永遠の生命を得せしめんとのお慈悲なり。

noname#195588
noname#195588
回答No.4

まるでショーペンハウアーのような感じですね。 意志と表象としての世界を読んだのはかなり前なので 中身を忘れてしまっています。 だから私の説明は間違っていると思いつつ。 カントの物自体は意志 そして意志が己を観照したのがプラトンのイデア 世界は盲目の意志が生んだ幻。 つまりカントとプラトンをウパニシャッドでまとめたわけです。 ショーペンハウアーが読んだのはウパニシャッドのラテン語訳の ウプネカットです。 アルトゥル・ショーペンハウアー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%BC

yy8yy8az
質問者

補足

 回答ありがとうございます。  このお坊さん以外からはほとんど学んでこなかったので、こうした回答をいただくと哲学の世界の広さ深さを思い知らされます。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

☆ 本質と意志の力のみ・・・・・ということはそれ以外に何かの力が有る、ということなのでしょうか。 ○「宇宙万象は本、「絶対観念態」より主観客観の二象は現じたるものとす。」 「「絶対観念態」ありて天に太陽の照らす如く、・・」 とあるようにすべてが、「絶対観念態」の意志によるといっているのです。 ここでの「絶対観念態」という表現は、ヘーゲルの「絶対精神」を考慮し使用しているように思いますが、仏教では「根本仏」のことですね。つまり、根本仏の一部が主観客観の二象として表れているといっているのです。元の根本仏の意志がなければ、物でしかないということですね。それが、「本質と意志の力のみならば、物質には盲動にして象相なく、色もなく声もなき、天に太陽なきが如く、物的盲動のみにして、花も色なく、宇宙万象なく、唯、物体動と分子動のみの盲動ならん。」ですね。 仏教は根本仏に至って旧約聖書の創世記にある創造神(仏)の存在になるのですね。 宗教の本質は同じということです。

yy8yy8az
質問者

補足

 回答ありがとうございます。  質問文を投稿しながらなんとなくの感じを掴みかかっていたのですが、回答をいただいて言葉にできるくらいにまでなりました。  「絶対観念態」の働きにある“意志の力”だけでは・・・・・、ということなんですね。  そして、その観念態の働きは意志と、それに“本質”と云ってますが、その本質がなんなのだか、それにも一つがなんなのか・・・・・嗚呼、頭が弱いからどこかでそれに接しているはずなんだけど、記憶していない。  情けないね。(2012/9/29 21:00)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

>「力とは意志なり。」 お疲れ様でございます。 あ、もしかして、アニミズムとか、そういう影響でしょうか

yy8yy8az
質問者

お礼

 失礼しました。  質問で取り上げた文中に「力とは意志なり」という表現がありましたね。  この文だけを見ると、いや違うのではと思ったのでした。  またちょっと分からなくなりました。  考えて見ます。

yy8yy8az
質問者

補足

 回答ありがとうございます。  アニミズムの“影響”は受けていないと思います。    また人の心の働きである“意志”と云うものには“力”と云うもののあることを感じます。  意志が強い、なんて表現があるように誰でも意識できることかと思います。  力が意志なのではなく、意志に力がある、と受け止めた方が質問で取り上げた文は、理解しやすいと思うのですが。

  • marbleshit
  • ベストアンサー率49% (5033/10253)
回答No.1

一念三千、心こそ大切なりと言っています。

yy8yy8az
質問者

補足

 回答ありがとうございます。  実は回答をいただいた直後に、「反応早いですね・・・・・」と投稿したつもりだったんですが、画面に表示されてなくて、どうやらしそこなったようです。  ご回答への感想は、質問で取り上げた文に“一念三千、心こそ大切なり”と云った思いがどこにあるのか分かりませんでした。(2012/9/29 20:28)

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     前回(投稿日2012/4/28)の質問のタイトル「この解釈は間違ってますか?」で取り上げた質問文中の“(一)會色(物)帰心観”に続く“(二)色心不二観”です。  「主観の心相と客観の色相とは實は本質一體である。但し衆生が相待の見地よりして内観を主観と云ひ外観を客観と見る。見よ自己が頭より脚下に至る迄外部より見れば全体物質のみである。然るに同一の自己を内観すれば全體精神である。故に物色と心象とは本来一體の両面より色と心とに相待的に観てをる故に、實は色心不二である。」  色即是空という有名な言葉が在りますが、ここで取り上げた文章にある色心不二とは、この色即是空と同じことなのでしょうか。  空=心  即是=不二  と受け止めて間違いないでしょうか。  よろしくお願いいたします。

  • 有象無象と森羅万象について

    『有象無象』と『森羅万象』の違いは何ですか? 広辞苑で調べたら・・・  森羅万象:宇宙間に存在する数限りない一切の物事。  有象無象:宇宙にある有形・無形の一切の物。森羅万象。 『有象無象』の説明に『森羅万象』が使われているということは、同じ意味ということになりますよね? なぜこんな事を質問するのかというと・・・ 国語の5択問題で、同じ選択肢にこの二つの熟語が含まれていました。 (文章題なので問題は省きますが、「(1)有象無象、(2)森羅万象、(3)花鳥風月、(4)社会全体、(5)津々浦々、の中から当てはまるものを選べ」という問題です。) 結局、答えは『森羅万象』だったんですが、広辞苑で調べてみて、『有象無象』を選んでもいいんじゃないのかな?と思いました。 よろしくお願いします。

  • 疎外―→物象化―→理象化(?)―→・・・?

     疎外―→物象化―→理象化(?)―→・・・?  §1. 疎外  (1) 自家発電をせずに ほかから電気を買うのなら エネルギー部門を自分の手元において運営利用しない。その点で エネルギー部門を手放している。譲渡している。あるいは 外化している。  この外化・譲渡・手放しが 疎外である。  (2) 疎外の結果は――運営管理を他人にまかせているのだから―― たとえばその品質や安全性についてはこれも 他人まかせである。つまり自分の手元から離れてしまっていて 自分の自由にならないという意味での疎外でもある。  §2. 物象化  (3) たとえばこの発電事業についてみても 《資本》は 自己の価値を増殖しようとして すでに自己運動をおこなっていく。最小の費用で最大の利益を実現しようとする自己増殖を再生産していく自己運動である。  (4) 法人という主体(?)も その経営を任された人間も その会社に雇用される人たちも あるいは消費者ないし顧客である人たちも さらにあるいはその会社の地域住民も この愛すべき《資本》さまのお通りのために――つまりそのモノとしての運動ないし現象のために―― その存在と意志とをささげるというまでに到れば それは 《人間の〔行為の〕物象化》である。  (5) 行為が 資本の自己運動に従い さらにはわがたましいをもその世界の帝王に服従しささげるに到れば 物象化とは 《お金の世の中》を言う。人間は ムッシュー・キャピタルの前にひれ伏す。いや というよりも この王のこころ(?)をわがこころとして 一人ひとりは 王の分身となる。  §3. 理象化(?)  (6) この疎外と物象化の世の中がいやだからと言うので 人間存在にかんして《こころ あるいは 精神と理性》 これを取り出し取り立て 女王とする。クイーン・リーズンあるいは マダム・エスプリ のもとにささやかに生きるという。これが 理象化なる思想なり。  (7) キング・コギトの王国と言うのと あまり違わない。かも知れない。違いは それでも 色濃い。理性を打ち出すというよりは ハート・こころを重んじるところだ。  (8) ひょっとすると この理象化の動きには 例の独我論が一役を買っているかも知れない。もしそうだとすれば それは あまりたたかうということをしない。コミュニケーションが この世の中において人間どうしのあいだで 成り立つとは思っていない。発信はするが受信はごめんだという半鎖国政策である。  《科学的認識の世界に こころなる女王のもとに ささやかに生きる》と言う。     *  ご教示ください。内臓の布置や 内蔵そのものの吟味検査とともに。  さらにその診断および処方箋のあと 歴史と社会の全体にわたる処方箋までをも。  質問者には基本的には 一人ひとりの目覚めという見通しがあるのみです。この目覚めが どこかひとつに片寄ってはいけないというかたちでの。  《人象化》のルネサンスは 成りましょうか?  

  • 疎外―→物象化―→理象化(?)―→・・・?

     §1. 疎外  (1) 自家発電をせずに ほかから電気を買うのなら エネルギー部門を自分の手元において運営利用しない。その点で エネルギー部門を手放している。譲渡している。あるいは 外化している。  この外化・譲渡・手放しが 疎外である。  (2) 疎外の結果は――運営管理を他人にまかせているのだから―― たとえばその品質や安全性についてはこれも 他人まかせである。つまり自分の手元から離れてしまっていて 自分の自由にならないという意味での疎外でもある。  §2. 物象化  (3) たとえばこの発電事業についてみても 《資本》は 自己の価値を増殖しようとして すでに自己運動をおこなっていく。最小の費用で最大の利益を実現しようとする自己増殖を再生産していく自己運動である。  (4) 法人という主体(?)も その経営を任された人間も その会社に雇用される人たちも あるいは消費者ないし顧客である人たちも さらにあるいはその会社の地域住民も この愛すべき《資本》さまのお通りのために――つまりそのモノとしての運動ないし現象のために―― その存在と意志とをささげるというまでに到れば それは 《人間の〔行為の〕物象化》である。  (5) 行為が 資本の自己運動に従い さらにはわがたましいをもその世界の帝王に服従しささげるに到れば 物象化とは 《お金の世の中》を言う。人間は ムッシュー・キャピタルの前にひれ伏す。いや というよりも この王のこころ(?)をわがこころとして 一人ひとりは 王の分身となる。  §3. 理象化(?)  (6) この疎外と物象化の世の中がいやだからと言うので 人間存在にかんして《こころ あるいは 精神と理性》 これを取り出し取り立て 女王とする。クイーン・リーズンあるいは マダム・エスプリ のもとにささやかに生きるという。これが 理象化なる思想なり。  (7) キング・コギトの王国と言うのと あまり違わない。かも知れない。違いは それでも 色濃い。理性を打ち出すというよりは ハート・こころを重んじるところだ。  (8) ひょっとすると この理象化の動きには 例の独我論が一役を買っているかも知れない。もしそうだとすれば それは あまりたたかうということをしない。コミュニケーションが この世の中において人間どうしのあいだで 成り立つとは思っていない。発信はするが受信はごめんだという半鎖国政策である。  《科学的認識の世界に こころなる女王のもとに ささやかに生きる》と言う。     *  ご教示ください。内臓の布置や 内蔵そのものの吟味検査とともに。  さらにその診断および処方箋のあと 歴史と社会の全体にわたる処方箋までをも。  質問者には基本的には 一人ひとりの目覚めという見通しがあるのみです。この目覚めが どこかひとつに片寄ってはいけないというかたちでの。  《人象化》のルネサンスは 成りましょうか?  

  • 疎外―→物象化―→理象化(?)―→人象化?

     世界を展望してください。  §1. 疎外  (1) 自家発電をせずに ほかから電気を買うのなら エネルギー部門を自分の手元において運営利用しない。その点で エネルギー部門を手放している。譲渡している。あるいは 外化している。  この外化・譲渡・手放しが 疎外である。  (2) 疎外の結果は――運営管理を他人にまかせているのだから―― たとえばその品質や安全性についてはこれも 他人まかせである。つまり自分の手元から離れてしまっていて 自分の自由にならないという意味での疎外でもある。  §2. 物象化  (3) たとえばこの発電事業についてみても 《資本》は 自己の価値を増殖しようとして すでに自己運動をおこなっていく。最小の費用で最大の利益を実現しようとする自己増殖を再生産していく自己運動である。  (4) 法人という主体(?)も その経営を任された人間も その会社に雇用される人たちも あるいは消費者ないし顧客である人たちも さらにあるいはその会社の地域住民も この愛すべき《資本》さまのお通りのために――つまりそのモノとしての運動ないし現象のために―― その存在と意志とをささげるというまでに到れば それは 《人間の〔行為の〕物象化》である。  (5) 行為が 資本の自己運動に従い さらにはわがたましいをもその世界の帝王に服従しささげるに到れば 物象化とは 《お金の世の中》を言う。人間は ムッシュー・キャピタルの前にひれ伏す。いや というよりも この王のこころ(?)をわがこころとして 一人ひとりは 王の分身となる。  §3. 理象化(?)  (6) この疎外と物象化の世の中がいやだからと言うので 人間存在にかんして《こころ あるいは 精神と理性》 これを取り出し取り立て 女王とする。クイーン・リーズンあるいは マダム・エスプリ のもとにささやかに生きるという。これが 理象化なる思想なり。  (7) キング・コギトの王国と言うのと あまり違わない。かも知れない。違いは それでも 色濃い。理性を打ち出すというよりは ハート・こころを重んじるところだ。  (8) ひょっとすると この理象化の動きには 例の独我論が一役を買っているかも知れない。もしそうだとすれば それは あまりたたかうということをしない。コミュニケーションが この世の中において人間どうしのあいだで 成り立つとは思っていない。発信はするが受信はごめんだという半鎖国政策である。  《科学的認識の世界に こころなる女王のもとに ささやかに生きる》と言う。     *  ご教示ください。内臓や脳細胞の布置や それらの吟味検査とともに。  さらにその診断および処方箋のあと 歴史と社会の全体にわたる処方箋までをも。  質問者には基本的には 一人ひとりの目覚めという見通しがあるのみです。この目覚めが どこかひとつに片寄ってはいけないというかたちでの。  《人象化》のルネサンスは 成りましょうか?