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仏への道と畜生への道

    南無阿弥陀仏と唱えれば仏への道に近づき、 何も唱えねば唯の人にとどまり、 南無妙法蓮華経と唱えればこれ即ち畜生への道に近づく。 およそこのよーに考えて間違いではあるまい。    

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回答No.3

 お疲れ様です。続けて回答させていただきます。しばらくお願いします。 >>親鸞聖人は「善人であれ悪人であれひとたび南無阿弥陀仏と唱えれば皆等しく極楽浄土へ行ける」と説いたのであるから、一度は念仏誹謗した者であってもひとたび南無阿弥陀仏と唱えさえすればそれで極楽浄土へ行ける。  確かに、親鸞聖人は『教行信証』の中で、中国の念仏の大成者である善導大師の言葉を引用して  謗法・闡提、回心すればみな往く と説かれています。「謗法・闡提」というのは、仏教を誹謗してなおかつ悟る要素を持ち合わせていない人という意味になるのですが、もっと簡単に言うと救われたくない人ということになりますかね。こういった人も「回心」というのは「自分はなんて馬鹿だったんだろう。こんな私でも救ってもらえるんだろうか。」って気持ちになって南無阿弥陀佛って呼んでくれ、その時には往生という道が現されるって事ですね。ですから、人の道が言うように >>一度は念仏誹謗した者であってもひとたび南無阿弥陀仏と唱えさえすればそれで極楽浄土へ行ける という事は、大まかに言えば正解です。(こまかく突っ込むといろいろ面倒なので・・・) >>これでよろしいのではないでしょうか。  まぁ、これでいいんです。しかし、こういった考え方については日蓮聖人も同じです。日蓮聖人の『報恩抄』という御書の中には 法華経は露・涓・井・江・小河・大河・天雨等の一切の水を一たいももらさぬ大海なり。譬えば身の熱者の大寒水の辺にいねつればすずしく・小水の辺に臥ぬれば苦きがごとし。五逆・謗法の大きなる一闡提人・阿含・華厳・観経・大日経等の小水の辺にては、大罪の大熱さんじがたし。法華経の大雪山の上に臥ぬれば、五逆・誹謗・一闡提等の大熱忽に散ずべし。 とあって、体が熱い者は冷たい水そばで寝そべっていれば涼しいけど、少しばかりの水があったって寝苦しいように、五逆の罪人や正法を誹謗の罪人、また極悪の一闡提は『阿含経』『華厳経』『観無量寿経』『大日経』等々の少しの水(少ない功徳)では、大罪の大熱を発散できません。しかし、『法華経』の大雪山(大きな功徳)の上に横になれば、五逆・謗法・一闡提という罪の大熱はたちまちにさめてしまうであろうと、説いておられます。  つまり、日蓮聖人も『法華経』を誹謗した者であって南無妙法蓮華経と唱えれば、その罪が消え成仏が出来るって説いていらっしゃるんですよ。こうなると、   >>つまり衆生救済に対する考え方が南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経では天と地ほどの開きがある。 >>これが即ち人と畜生の違いゆー訳です。    というのはどうなんでしょう。先にも申し上げましたが、題目と念仏・成仏と往生、とお二人の違いは多いです。しかし、「謗法したものもしっかりとした方法(題目or念仏)を取れば、目的を達成(成仏or往生)できる」という事で見れば同様な構造になっているように考えます。  ここのどこに人と畜生の違いがあるのでしょうか??  余談ですが、「学んで思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し」という『論語』の一説がございます。私はここで回答していても史料頼みで自分の意見があるわけではないので前者だと思うのですが、人の道氏はこの文章からすれば後者のように思います。今回は不思議なご縁で、浄土真宗の私が日蓮聖人を擁護する意見に回っています。これはなぜかといえば長年史料に埋もれた生活をしている私は他宗に関することであっても史料史的な見地の軽視はちょっと許せないんですよ。確かに私の寺にも日蓮系の宗派の方が年に何回か折伏においでになって困ることはありますし、そういったいろいろ問題があるのも確かです。しかし、史料的な部分を充分を踏まえなければ、ただの感情的な意見に見えてしまいます。その辺をもう少しご研鑽されてはいかがでしょうか?どうぞ悪しからず。。  余計なことを書きました申し訳ないです。急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。  合掌 南無阿弥陀佛

hitonomichi23
質問者

お礼

>まぁ、これでいいんです。 有り難いお言葉頂きました。 わたくしとしてはこれだけで十分で御座います。 >確かに私の寺にも日蓮系の宗派の方が年に何回か折伏においでになって困ることはありますし、そういったいろいろ問題があるのも確かです。 なるほど、法華経の方々は4百年経った今でも安土問答のしこりが消えず、今だに折伏 に押しかけて来るゆーのですか。 これは面白い。  

その他の回答 (3)

回答No.5

南無妙法蓮華経と唱えるのは創価学会だけやのうて、まともな日蓮宗かて南無妙法蓮華経と唱えはるで。 たしかに日蓮は、女とセックスしたり、所謂、肉食妻帯の禁をやぶった坊主やから、上座部仏教のかたから言えばインチキ坊主でありますが、そないなこといったら、南無阿弥陀仏の親鸞の浄土真宗やかて、上座部仏教から言えばトンデモ仏教でっしゃろ。 したがって、仏教を念仏によって区別するのは無意味であって、出家坊主が肉食妻帯の禁を守っているかどうかで、その仏教がまともな仏教(正統派仏教、上座部仏教)なのか、カネ儲け宗教法人なのかが類推できるともうのじゃが、あきまねんかね。

hitonomichi23
質問者

お礼

  >南無妙法蓮華経と唱えるのは創価学会だけやのうて、まともな日蓮宗かて南無妙法蓮華経と唱えはるで。 わしの場合、南無妙法蓮華経と唱える者で創価学会でない者など見たことありません。 なのでわしにとっては南無妙法蓮華経=創価学会となります。 それからMokuzoさんに一言、 ここで創価学会について触れると早々消されるゆーことゆーておきます。 わしなんかこれまでの経緯から考えて、創価に触れる度に何度も消されてるので間違いない。  

回答No.4

いわしの頭も(信じる事が出来るなら)後光が差すと云う事ですので、信じられるのか、疑いを抱くのかの違いだけで、言葉の意味よりも『信心の深さによると思います。』

回答No.2

どうもご無沙汰してます。お元気でしたか??  少しおしゃべりさせていただきます。 こないだの質問がけされちゃったので似たようなことをもう一度書きます。  こないだの質問には >>更に親鸞は善人も悪人もみな極楽浄土に行けるとゆーておる。 中略 >>日蓮は仏界を説き、地獄界を説き、輪廻転生を説き、そして悪人は地獄に堕 ちるとゆーた。 と書かれていました。文脈的にはこれが人の道において畜生と人を分ける要因のひとつなのだと思います。  少し教学的な麺から整理しますと、ここの日蓮聖人の「悪人は地獄に堕ちる」というのは『妙法蓮華経』の 若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。或は復顰蹙して疑惑を懐かん。汝当に此の人の罪報を説くを聴くべし。若しは仏の在世、若しは滅度の後に、其れ斯の如き経典を誹謗すること有らん。経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん。此の人の罪報を、汝今復聴けり。其の人命終して阿鼻獄に入らん。 という文を、法華経以外の経典を主な拠りどころとしている宗派に適応したものといえます。ですから日蓮聖人が言いたいことは、『妙法蓮華経』を信じず誹謗(毀謗)する者は地獄に堕ちるというわけですね。つまり、この教学的な背景を踏まえたうえで人に道がいうところの悪人とは誹謗する者という事になり、「誹謗する者」=「悪人」ということになります。  しかし、そうであるなら親鸞聖人御制作の御和讃の中には、 念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなく受くぞと説 きたまう と説いておられます。つまり親鸞聖人も阿弥陀仏を誹謗する者は、地獄に堕ちると説いておられます。  ですから、『妙法蓮華経』と「阿弥陀佛」対象は違いますが、日蓮聖人・親鸞聖人双方「誹謗する者は地獄に堕ちる」と説いておられますね。  それなのになぜ、人の道では 前回の質問には >>南無阿弥陀仏と唱えれば次第に常人に近づき、南妙法蓮華経と唱えれば次第 に畜生に近づくゆーことである。 と述べ、この質問においては >>南無阿弥陀仏と唱えれば仏への道に近づき、 (中略) >>南無妙法蓮華経と唱えればこれ即ち畜生への道に近づく。 という結論になるそうですが、「誹謗する者は地獄に堕ちる」というのは共通の意見のようですが、他にどのような要因をもってそのような結論になるのでしょう。    急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀佛

hitonomichi23
質問者

お礼

ご無沙汰しております。 今日は。 思うにこのよーにして浄土真宗のお坊さんと直々に対話できるゆーのは不思議な事であり、また有り難いことであります。 >こないだの質問がけされちゃったので・・・ 確かにこないだの質問は既に消されて無くなりました。 ここで日蓮とか南無妙法蓮華経のこととかの批判すると直ぐに消されるゆーのは周知の通りです。 おそらく畜生の仕業に違いないと思うが、まー想定内の出来事です。 さて親鸞聖人も御和讃の中では、「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなく受くぞ」と説いたとあります。 まー 浄土真宗のお坊さんがそーゆーのであればこれは間違いないかも知れんね。 しかし、親鸞聖人は「善人であれ悪人であれひとたび南無阿弥陀仏と唱えれば皆等しく極楽浄土へ行ける」と説いたのであるから、一度は念仏誹謗した者であってもひとたび南無阿弥陀仏と唱えさえすればそれで極楽浄土へ行ける。 これでよろしいのではないでしょうか。 つまり衆生救済に対する考え方が南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経では天と地ほどの開きがある。 これが即ち人と畜生の違いゆー訳です。  

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