• ベストアンサー

あなたの人生は誰のものですか。

こういう質問はタブーであり、意味をなさないことであり、お叱りを受ける質問でしょうが。自分について話すと、無宗教であり、哲学には無知であります。家族はいません。無責任な質問ですが。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • akira212
  • ベストアンサー率24% (75/308)
回答No.4

面白い質問だとおもい、回答させていただきます。 『私の人生は、私のものであり、また、私にかかわる全ての物の人生です。』 ですね。だって、私一人では、私は存在できないですから、私を好きだと思って頂いている方や嫌いだと思っていてくれる方、私を知っていてくれている方達の人生でもあると思います。 この世の中で誰も私を知らなければ、たとえ呼吸をしていたとしても、私は生きているとは言えないかな~って思います。 この『誰』には、生物だけでなく、植物なども含まれています。 だれにも必要とされない人間なんて、この世にはいないのではないかと思ってますから・・・ あくまで、私の考えですけどね。

その他の回答 (12)

  • mktoolll
  • ベストアンサー率22% (20/88)
回答No.13

私の人生は誰のものでもありません。 ただ存在している。ただそれだけ。 そこに意味があるかって? 意味なんてありません。 でもあえて意味を見出そうとする。それが哲学。

  • aramaa
  • ベストアンサー率25% (3/12)
回答No.12

人は自分の体、心以外(心は脳の運動なので体の1部ですが)直接的コントロールすることができません。あなたが行動して誰かの意思や未来を変えようとしても、あなたが想像したように変化していくとは限りません。(未来を確定する方法はありませんから…) 変えられないもの(過去、今起きている現象やすでに存在するもの)を否定してもあまり役に立ちません。自然現象(心は変化する、いやな記憶が忘れられない、空気がある、天気は変化する、金は涌いてこない、景気は変化する、宗教同士が戦争してる、落石、肉食動物から攻撃される、蚊にさされて痒い!)や法律(裁判所の決定権、強制力がない、証拠がない、冤罪を掛けられた、賠償金を請求された、裁判費用がなくて訴えられない、時間がない)や他人の自由意志(発言、冷ややかな視線、店員が親切、親がおせっかい、会社の規則、社長命令、恋人の愛情、逆恨み、言葉による誤解)など自分で直接コントロールできない様々な条件のなかから自分で決めれること(反論してみる、真剣に考える、気分転換にテレビをみる、寝る、病院に行く、転職する、法律を変える方法を調べる、手伝ってくれる弁護士を探す、説得を試みる!諦めるなど)は限られています。現実を受け入れられない状態になると有効な選択肢が浮かんできませんし、絶望的なことばかり頭に浮かびます。頭に浮かばなければ行動に移すことはできません(体は脳(心)が動かしているから)人生という言葉の使い方は人によって違いすぎるので決められません。思想的な言葉なので自分の好きに解釈していいんじゃないですか?言葉は曖昧なものです。感情の一部だから(だからこそ争いの原因にもなってしまうし)定義はこれからも変化していくでしょう(広辞苑も)…ちなみに私の解釈は「人が生まれてから死ぬまでに思った事、行った行動、死ぬまでにやるであろうこと」全てを総称する言葉…ですかね。

  • gorou3
  • ベストアンサー率21% (35/166)
回答No.11

1 自分自身のもの 2 家族のもの 3 家族、友達、近所、会社など知っている人全体のもの 4 人類のもの 5 地球、宇宙全体のもの 夫々考えている人の経験、意識(家庭的な人は2OR3)、テンション、病気?!に左右されますね。

noname#6163
noname#6163
回答No.10

ああ、あなたのものだね。  

nawase
質問者

お礼

皆様、御答え、誠に有難う御座います。無責任な質問で怒られるかと思いましたが、皆様、心ある回答をしていただき、安心しました。愚な質問でも、たまには、こういう内容を考えてみても構わないのかな?と思いました。迷惑でしたら申し訳御座いません。もう少ししたら、閉じますので、数日お待ち下さい。有難う御座います。

  • JACO1011
  • ベストアンサー率55% (127/227)
回答No.9

人生というのが所有して支配権を行使し得るような何物かであるという感覚が、そもそも私にはありません。 ただそのような状態にあることが人生だ、というのでしょうか。 生き方ということについては、これも自分が排他的に独立して支配しているようなものだとは思いませんけど、つまり誰かの所為で自分が今のような自分になったんだとか、今自分がこのように選択するようになっているんだ、という要素も必ずあるとは思いますが、自分自身で責任を持たなければいけないものだと覚悟と、自分だけにしかエンジョイできないんだという特権意識と、どちらもあります。 選択可能な範囲というのは限定されてますけど、基本的には自分自身の好き嫌いで物事を選択して生きています。自分の行為とか境遇は、自分自身の好き嫌いで選択した結果であって、これを他人の所為だけにする人がいますが、確かに他人の所為である部分はあるのですが、それはとても無責任だと思いますから私はそういう考え方はしないようにしています。自分自身が好きでそうしたのだということを第一に考えます。 回答になってますでしょうか?

回答No.8

私だけのものです。

  • Mizyu
  • ベストアンサー率41% (245/593)
回答No.7

武士道、騎士道と呼ばれる心得、主人の為にみずからの人生をささげることを至極としている時代もありました。 が、今の時代、自分の人生を誰かの為に費やすのは「愚」とされていますね。 誰かが自分の人生を支えてくれるわけではない時代です。 無論、誰かが人生の補助はしてくれますが、保証はしてくれません。 この時代、人が生きる為には自分で立って進まなくては生きていけません。 ただ、上記したように、自分の人生を誰かが補助してくれます。 なので、自分の人生の一部を誰かの為に費やすことをするべきでしょうね。 私の父は、私を学校へ通わせる為に大金を使ってくれました。 私は私の子供たちに同じように大金を使うでしょう。 また、父が老いて動けなくなったときには出来る限りのことはします。 結論は「自分の人生は自分の為。ただ、人間は自分一人で生きているわけではないことを認識すべき。」 自分の力だけで生きていくことはできません。 誰かの為に費やし、自分の為に費やしてもらい、、、の繰り返しが人生です。 そしてその人生の善し悪しの決定は自分の手に委ねられてる、というのが私の考えかたです。

  • ben5125
  • ベストアンサー率13% (7/51)
回答No.6

私の最近読んだ本で感銘を受けた「7つの習慣」という本の内容の受け売りですが、意見を述べさせてください。(まだ完全には理解していないのですが・・) 人生は誰のものかということは、誰のために生きるかということでしょうか?そう考えると、自分の価値観において大事なことのために生きるということではないでしょうか。人生はその自分の大事なもの、大事なこと、大事な人のものではないでしょうか。ということは、価値観を持つ必要があります。その価値観とは不変の原則に基づくものでなければならない。・・・・とだんだんこんがらがっていきますが、その価値観というのはその人の成熟度によって異なります(本の内容によれば)。先ず自立した人間になること。(依存から自立へ)その後に相互依存関係がうまれる(説明不足でわかりにくいと思います)。そうなると世界が拡大します。ということは生きる目的もいろんな方面へと拡大して人生は誰のものかというのが理解できるのではないでしょうか?私ももっと勉強して自分の世界を拡大していこうとしているところです。文章が稚拙であることはお許しを・・。

  • banana7
  • ベストアンサー率23% (38/164)
回答No.5

 「あなたの人生は誰のものですか。」 私も無宗教ですが、人生は自分のもの そして修行の場なのかな?って思っています。生まれ変わりはあるかどうかわかりませんが、生まれ変わったときに今より少しでも良い人生となるように、今 生きている気がします。 「超えられない試練は与えない」って言いますから、どんなに苦しくても自ら命を絶つような事はしてはいけないって子供には教えています。

  • domi_rb
  • ベストアンサー率39% (60/152)
回答No.3

こんにちわ。 面白い質問ですね。 興味があったので、回答させていただきます。 ただ、私個人の意見として。 「私の人生は、私のもの。  ただ、それは神にゆだねた中にある。」 私は、クリスチャンです。 ですので、神という言葉が出てきましたが、 多くの方は、「なにいっとんねん!」って感じかな。 私の人生は、自分で切り開いていかなければならない、 そう思っておりますが、それも、その努力も、 神の御手の中で、御光を見失わないように歩くことだと、 思っております。 という、あくまで、私の意見です^^ こんな人もいるんだ~と思っていただければ幸いです。

関連するQ&A

  • 【人生哲学】なぜ宗教や冒険をしますか?

    【人生哲学】なぜ宗教や冒険をしますか? 宗教も冒険も自分が達成したとしてもはたからみたらどうでも良く意味がないものです。自分以外には何も影響がない。 達成しても、それで?と思われる。自分が達成したことを知らない人が殆どで社会に何も影響を与えない。 宗教と冒険をやる意味ってなんですか? 周りから見たら意味がないものですよね。周りの人たちのために宗教、冒険してるっていう人はウザいだけです。自分だけのためにやってる人は周りに影響がないので意味がない。 ウザいか意味がないだけのことをやって何をやりたいんでしょう? 自分のためだけにしか宗教や冒険は意味がないものです。 なぜ宗教や冒険をしますか?

  • 人生とは何なのか?

    もちろん人によって、それぞれの人生があると思います しかし、ここで扱う質問の意味はもっと本質的な、哲学的意味のものです 心の内の持論をさらけ出してもらってかまいません かまいませんというかむしろ大歓迎でし なかなか他人に聞く機会がないのでお願いします

  • 恋愛をすることは人生から逃げることなのか?

    虐待の後遺症から立ち直るために… 私は虐待を受けてきました。 そして、恋がなかなか叶わないことについて質問しました、ある回答者はあなたは恋にしがみついて、人生から逃げてるだけと言われました。恋をしても傷つくだけと言われました。 果たしてそれは本当なのでしょうか? 虐待されたものは、恋をしてはいけないんでしょうか? その方は、哲学書とか、宗教の本を読み漁れと回答しました。 そうすれば何かを悟ると。 宗教の本を読み漁って、虐待の後遺症から立ち直れると皆さんは思いますか? 幸せな恋愛をして、後遺症から立ち直る人もいるんじゃないんですか? なんだかその人の回答を見ていて、嫌な気分になりました。とても。 宗教の勧誘をされてる気分に私はなりました。 皆さんはこの方についてどう思われますか?

  • 哲学と宗教との違い

     こんばんは。  哲学や宗教等を学ばれた方に質問です。  私は全くの素人ですが宜しくお願い致します。  哲学の入門書には、キリスト教など宗教の説明も記載されておりますが、宗教とは哲学のカテゴリーに含まれるものなのですか? それとも宗教と哲学とは全く異なるものなのですか?  哲学と宗教との違いを教えて下さい。宜しくお願い致します。

  • 哲学に人生を賭けるのは愚かか?

    私は思春期に色々と考えて 哲学を極めないと世界は良くならないと思いました。 それで大学も中退して、家を出てアルバイトをしながら 自分で考えました。 能率は悪かったですが 仏門に入ったようなつもりでした。 永平寺などでは東大での人が修行を積んで仏教を極め悟りを目指すようですし 京大や東大や九大にも優秀な人が哲学科の大学院まで行って 教授になったりして 哲学をしています。しかし答えがでない。 私はそんなに優秀ではありませんので 違う方法を取った訳です。 哲学的に哲学してみました?その結果「存在性思想」にたどり着きましたが これもまだ ?マークが付きます。 哲学に人生をかけ 病気をして無意味な一生を終えようとする私はバカだったのでしょうか? 病人の為短文でご感想などお聞かせください。

  • 人生に正解はないのだが、宗教には正解が用意されてい

    人生に正解はないのだが、宗教には正解が用意されている。何でも答えを欲しがる人間にとって、既に人生に答えがある宗教は安心を与える癒しの存在なのである。宗教とは、自分の人生を考えることを放棄した人たちの溜まり場なのかも知れない。この世の苦しみや心配事から少しでも逃れるために宗教は存在している。 自分の人生の意味を知るために、既存意味から意味を見出すとか皮肉なことである。 人生の意味が用意されている宗教から、自分の人生の意味を得ようとするとか皮肉なことである。

  • 哲学ってなに?

    宗教は、迷える子羊を救うこと。 哲学は、迷える自分を救うこと。 では、ないでしょうか? しかし、宗教は現実には、迷える子羊を更に迷わし、集め、子羊たちの血を搾り取っている。 哲学は過去の哲学者も、現在の哲学者も、殆どが自分独特の哲学的思想を持っている。 自分だけに合った哲学が特に現在は多いのではないでしょうか? ですから、巷の哲学者が何を言っているのか理解できないことが多いのではないでしょうか? 哲学って何かの答えも哲学者ごとに違うのではないでしょうか? 私のこの考え間違っていますか? これを読んでいる宗教関係者、哲学関係者の方は例外ですので、該当しません、悪しからず。

  • 日本のタブーについて

    マスコミや教育機関などがあまり伝えれない日本のタブーとは何でしょうか? 私自身無知の為、宗教に関わる事で大変嫌な目に会いました。 宗教や歴史などに関係する事が多いと思うのですが、後学のため忌憚の無い意見が聞きたいです。

  • 今、哲学は何をなすべきか?

    この現代のこの今 哲学に出来る事はないでしょうか? 道徳・モラル提示?思想・宗教提示?科学検証? 今価値観がバラバラで多様化だから良いと言う面と バラバラで分かり合えない面と在る様に思います。 いま哲学に何ができるか 再度質問したいと思います。 長文御免 哲学する人の責任でお願いします。

  • 人生に意味などないことは明らかで、それ故そろそろ死のうかと思っているのですが

    とても下らない質問です。 お忙しい方は、どうぞ無視してくださって結構です。 さて。 こんな状況を想定してください。 ある理系の高校生がいます。 唯物論的世界観を有する彼にとって、世界は極めてシンプルです。 彼にとっては、科学を前進させること、人の役に立つ技術を開発することのみが、究極的には唯一、真に意義があると思われる命題です。 なぜ彼がこれほど単純な世界観を有しているかと言えば、それは彼がそれまで「自分」や「世界」について真剣に考えたことが一度もなかったからです。 幸い彼は、数学、物理などの理系分野にそれなりの才能があったので、世間では一流大学と呼ばれている大学の工学部に進学します。 大学生活の中で彼は、「哲学」と言うものに初めて出会います。 これがあらゆる不幸の始まりです。 「哲学」と言う名のウィルスは、少しずつ、しかし確実に彼の精神を侵食し始めます。 彼は「哲学書」という書物を読み漁るようになります。 この「哲学」という名の凶暴な悪性ウィルスが、彼の薄っぺらな世界観をすっかり転覆させてしまうのに、それほどの時間はかかかりませんでした。 彼はたちどころにそれまで信じて疑わなかった、「人生の意味・目的」というものを失います。それどころか、今後二度と以前のような意味での「人生の意味・目的」を得ることはできないことを確信します。 これはもちろん彼にとって、受け入れがたい苦難でした。それ故、彼は何度もそれらの書物を読み直し、そして考え直しました。しかし、どのように考えても、存在論的な基盤の上にある西洋哲学からは、人生の意味や目的を見出すことは不可能のように思われました。そして、それを承知でなおもそれら解決不可能な問いを探求し続けるのが哲学だと言うことに、ようやく気付いたのです。 人生の無意味、さらに言えば、存在の無意味に気付いてしまった(と少なくとも当人は思っているようです)彼にとって、残された道は二つしかありませんでした。素知らぬ顔で、残りの人生を過ごすか、あるいは無意味、無目的に耐えながら日々を過ごすかです。不器用な彼がとることができる道は、後者のみでした。それ以来彼は、数年にわたりシューシュポス的な日常に耐え忍んできました。 もちろん、取り付かれてしまった病を克服する努力はしてきました。 論理を超えたところに光があるのではないかという淡い希望にすがりながら、彼は宗教書や文学を読み漁りました。あるいは西田幾多郎や鈴木大拙などと言った東洋の思想も読みました。 一時はそれらによって、絶望を打ち破ることができたように思われました。 しかし、ダメでした。 3年前に、彼はうつ病と診断されてしまいます。 それ以来、投薬治療や認知行動療法などを続けますが、そんなものが効くはずはありません。彼にはそれが誰よりもわかっていました。何故なら彼は、本当はうつ病ではないからです。うつ病だったらどんなに楽だろうかと思いました。うつ病ならば、抗鬱剤で快方に向かいますが、デンマークの哲学者が名付けた彼の病の特効薬は「死」しか存在しないからです。 それ以来彼は、死に対する憧れを抱くようになりました。 夜眠りについて、そのまま一生起きることがなかったらどんなにいいだろうかと思いました。ただし、自殺を実際に行動に移すだけの勇気も、気力も、彼にはありませんでした。 もちろん、彼が自殺を思いとどまってきた理由は他にもあります。それは、家族、友人の存在です。彼が自殺をすれば、友人は猛烈な自責の念に苛まれ、両親は今後一生立ち直れないであろうことは、彼にはわかっていました。それゆえ彼は、それらの人々の為だけになんとか生きているといってもいい状態でした。しかし、忍耐にもそろそろ限界が来てしまったようです。 彼はそろそろ死のうかと思っています。 もちろん彼の死に一握りの悲劇的要素もないことは、彼自身が誰よりも承知しています。 何よりも無意味な死、犬死です。 しかし、彼の悩みが彼固有のものであると思うほど、彼はバカでもうぬぼれてもいません。 それどころか、数え切れないほど多くの人が、同じような問いに悩み、それを乗り越えてきたことを知っています。しかし、数千冊の書物から彼が導き出された結論は、それらの問いを乗り越えることとは、結局妥協によってのみ可能だと言うことです。 ただし、これは彼の結論であって、あなたの結論ではありません。 彼は、レヴィナス風に言えば、少なくとも「他者」を「私」ではない「他者」として認識するだけの謙虚さは持っているようです。 そこで彼は、インターネットと言う媒体を使って、「他者」にたずねてみることにしました。 彼の病を克服する「知恵」を、教えてあげてください。