ハ格とガ格の成り立ちを問い求める

このQ&Aのポイント
  • 日本語におけるハ格とガ格の成り立ちを調査しました。
  • ハ格とガ格はセンセーショナルな解釈例を持つ両義的な表現です。
  • ハ格もガ格も主題提示と意味連絡の役割を担い、二重の用法を持つことが特徴です。
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私ハ お前ガ 好きだ。

 日本語におけるハ格とガ格について その成り立ちを問い求めます。  なぜなら  ( a ) 私ハ お前ガ 好きだ。  これは まづは  (α)  《Aハ Bガ Cナリ。 / Cスル。》の構文  と捉えますが このハ格とガ格の用法は 一筋縄では解けないと考えられるからです。次のようにまったく違ったふたつの解釈が ふつうに・そして互いに自由に対等に できるからです。  ( a-1 ) 《 Aガ Bヲ 好く》という解釈例:    ・ 私が好きな相手は お前だ。  ( a-2 ) 《 Aヲ Bガ 好く》という解釈例:   ・ 私を好きなのは お前だ。  言いかえると ハ格もガ格もそれぞれ同じように 主格(主語格)としてのガ格かまたは対格(目的語格)としてのヲ格かを意味しうるからです。  言いかえると 文の意味連絡を確かめ明らかにする前の段階では ハ格もガ格(ガ格一般)もともにその意味は確定しない。こういうことになります。       *  そこで このように第二次の解釈作業を必要としてその結果明らかになる意味連絡のかたち――そのような文型――を 英文にならって次のように規定します。  (ω) S(主格)‐V(述格)‐O(対格).  すなわちこの言わば線形としての論理的な意味を示す S-V-O なる文型は 日本文の( a )文例が 解釈例の( a-1 )および( a-2 )として そのみづからの構文の中に含む文型である。言いかえると 次のようになりましょうか。  (α) 《 A‐ハ B-ガ C-ナリ。 / C‐スル。》なる構文 ~~~~    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐述格・法活用(断定法)    ○ ( a ) 私ハ お前ガ 好きだ。    ・ 話し手は 《私》を中心主題として提出した。    ・ そのあと中心主題にかかわる関係主題を《お前》として引き出した。    ・ そのふたつの主題について 答えを出すとするなら 《好きだ》という内容とかたちで提示した。    ・ この段階ではまだ文の意味が明らかではない。あとで分かることとしては ( a-1 )および( a-2 )の可能性をもって両義的である。    ・ すなわち この(α)の構文は 全体として非線形の構造を有していて その中に線形の文型(ω)をも宿している。   ○ (ω) S(主格)‐V(述格)‐O(対格).~~~~~~~~   ( a-1 ) 《 Aガ Bヲ 好く》という解釈例: I love you.    ・ 私が好きな相手は お前だ。   ( a-2 ) 《 Aヲ Bガ 好く》という解釈例: You love me.    ・ 私を好きなのは お前だ。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~      *  どうしてこういうあいまいな(=つまり両義的・多義的な)表現が日本文で起こるのか?  ハ格もガ格も もともとは主題をただ主題として提示するために用いられているものだからか?  もしそうだとしますと それらハ格がみちびく中心主題(A)やガ格で承ける関係主題(B)のそれぞれと 論述部の主題(C)ないしその論述格(‐ナリ。 / ‐スル。)との意味上の連絡は 二の次だから。と考えられて来ます。  つまり 文の構造は ハ格とガ格の両者ともが二重の用法を持つことによって成り立っている。こう考えられます。  すなわち両者ともそれぞれ 《一次として 〔単なる〕主題の提示 という用法》と《二次として 論理的な意味連絡の確定をみちびく用法》とを担い得て その構造が二層から成っていると考えられます。  あらためて示せば:  (α) 《 A‐ハ B-ガ C-ナリ。 / C‐スル。》なる非線形構文 ~~~    (α‐1) 一次として 主題提示の層   《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐述格・法活用(断定法)   (α‐2= ω) 二次として 線形論理の層   《 (ω) S(主格)‐V(述格)‐O(対格).》    ・ A love B.    ・ B love A.   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~        *  言語表現を扱うにあたって 日本文とたとえば英文とを比較対照するというとき この基礎としての事実を捉えておくなら 何かと便利ではないか。  というよりも 英文に慣れ親しんでいる表現者は なぜ 彼のように言い表わし此のようには表わさないのかといった問題についてよく分析しうるのではないか。との予測をもって まづはこの基礎の問題を問いたいと考えます。  まづは基礎固めになりますが ちからをお貸しください。吟味し練り上げて行きたいと考えます。

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回答No.2

文法的な面では、手元にある『学研国語大辞典』は、 「は」 → 係助詞 「が」 → 格助詞 としています。 ちょっとややこしいのは、「が」が作るのは、「主格」を作る場合、この後に「述部」が来るのですが、 おまえが 好きだ の「好きだ」を、 単なる述語ととるか(このとき、「おまえが」は、普通の主格) 願望を表す述語ととるか(このとき、「おまえが」は、対象格ともいわれる) で意味が変わってくるわけです。 前者は、通常の主語(としての主格)なので、 「おまえが好きだ」は、 you love ... 後者は、対象格と考えられるので、you are loved ... になります。 一方で、私「は」の、「は」は係助詞なので明確な格を作りません。 このために、おまえ「が」好きだ のほうの意味のぶれに引きずられて、全体の意味が変化するわけです。

bragelonne
質問者

お礼

 あさのなぎさん ご回答をありがとうございます。  定説と言いますか 通説にもとづく文法の考え方によって解説していただいたと思います。  特には  ★ おまえ「が」好きだ のほうの意味のぶれに引きずられて、全体の意味が変化するわけです。  ☆ というふうに ガ格(B)と論述主題を担う論述格(Cナリ。/ Cスル。)との意味連関の如何によって 二次的な線形論理なる意味が確定するという見方について 同意します。  そこで それでも 疑いの目を絶やさないとすればですが   ★ 「が」 → 格助詞  ☆ という整理だけで済むか? とも考える必要がありはしないか。  ひとつに ガ格は ノ格と同じく属格(所有格)にもなります。  ( d ) 我ガ国 / 君ガ代  ひとつには やはりガ格は 文と文をつなぐ文条件詞つまりいわゆる接続助詞にもなります。  ( e ) 私ハお前ガ好きだ‐ガ あいつも好きだ。  これなどは 次のように捉えると分かりやすいのではないでしょうか?  ( e-1 ) A(私)‐ハ B(お前が好きだ)‐ガ C(あいつも好きだ)。  つまり(α)構文という所以です。文法とは そのようにいわゆる合理的に整理するということでしょうから 問うてみています。  ( d )の属格用法は たぶんもともとの用法であって そこからたとえば  ( d-1 ) 我ガ愛する国  といった展開を見せたとき 愛するという論述内容に対する主格の機能を持ったゆえ 主格用法が生まれた。のだと。そしてその後 ハ格との二段から成る主題提示の用法へとすすんだ。のだと。  ★ 一方で、私「は」の、「は」は係助詞なので明確な格を作りません。  ☆ とは見られているものの 実際は どうでしょう?   ( e-2 ) 私ハ お前を愛するガ あいつ〔ヲ〕も愛する。  という文例では どうでしょう? ハ格は 明らかに述語動詞の愛するという行為の主体を意味表示し 主格をになっています。《明確な格を作》っています。のでは?  こういうわけで 『学研国語大辞典』等の通説なる文法では 解説から漏れて来る課題が現われるのではないでしょうか? どうでしょう?  ハ格やガ格 あるいは要するに体言の格活用をになう活用格はすべて 一次として 主題提示の役目をになう文成分であると同時に 二次としてはおもにハ格およびガ格が 線形論理(主‐述‐対格なる連関)における意味表示の役目をもになう。こう考えられて来ますか?  * 上の( e-2 )におけるモ格は もともとヲ格の省略ということですから 二重の(二層の)役目をになうものではないかも知れません。

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  • heygibson
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回答No.5

国語カテゴリーでやったほうが良いのでは…?

bragelonne
質問者

お礼

 へいぎぶそんさん ご回答をありがとうございます。  考えのしどころだと思います。  文法のくわしい事柄をそのまま扱うのであれば 国語カテゴリーのほうがよいと思います。ところが この仮説ないし試行錯誤は 次のようなねらいをもっていて まさに哲学カテだとは思っているのです。  別の質問でご回答に対して応答した文章をかかげます。  ☆☆(【Q:魂の乞食よ 欠席裁判ほどみにくいものがあるか。】)~~~  (No.1お礼欄)   ・・・   あとは――言いたいことは―― こうです。もし文の構えが 非線形の二層構造から成る《 AハBガC。》構文ではなく ただただ一本の線形論理から成る《 S-V-O. 》文型であったとしたら・そしてそういう文型で考えたり表現したりすること しかも中んづく 人の気持ちや心を伝えようとすること これらのことが 日常生活において慣れ親しんでふつうにおこなわれていたら その思想や行動は どうなるでしょう? 或る程度において 影響を受けるのではないでしょうか?  つまりたとえば 災害が起きたときに 人びとのあいだに暴動や強盗が自然発生するというような振る舞いとしての自己表現に及ぶ。及びがちになる。のでは? といった方面へも伸ばせていけたらと思っています。  (要するに 表現や人間の心境に奥行きがあるか少ないかの問題になりませんか?)     ☆☆(同上・補足欄) ~~~~  お礼欄の最後の 日本語論についておぎないます。   非線形の二層構造を持つ《 AハBガC。》構文に慣れ親しんでいるわれわれ日本人は その構造の中の《意味連絡ないし意味の確定》としての一層のみから成る《 S-V-O. 》文型 このような線形論理一本の表現に慣れ親しんでいる場合にくらべれば 生活のあり方において人びとの心や情感について奥ゆかしいであろうと述べました。    けっきょくそれにもかかわらず 奥ゆかしすぎてでしょうか ことばを用いての意志疎通における自己表現にかんしては きわめて鈍(なまく)らであり 盆暗であります。対話というものが出来ない・ゆえにその状態は 人間以前の状態にある人間にとどまっているのではないかとなじられています。  ここらへんを みなで考えて突き抜けて行きたい。寝ても覚めても この問題です。  われわれ日本人のように互いにゆづりあい助け合って生きている懐の深い人間が コミュニケーションにおいて自己表現のすべを身につけるなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒です。寝ても覚めても こののぞみです。ですから ばかを野放しにさせてはおけません。ヰスキーに酒をくわえて味が分からなくなるほどのチャピンチャピンの水割り これが ばかの文章です。野放しにしたらそのぶん のぞみの実現がおくれます。  わが日本は すでに火がついて燃え始めていませんか? 自信をもってすすみましょう。どうすれば自信が持てるかですって? 何もしない。これです。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このような・言語にからめた民族論ないし文明論へと伸ばしていきたいというねらいです。  要するに 英文は よくもわるくも単純である。文型にかんするかぎり 単線形であると言おうとしています。日本文は 複線形であり 構造的であると。そのことによって 国民性が いくらかは 影響を受けているのではないか? こういう延長線上の課題です。どうでしょうかねぇ。どうでしょうねぇ。

回答No.4

ぶらじゅろんぬさん、こんばんわ。 ご返信ありがとうございます。 またまたなるほどなあ・・・と納得して 退散しようと思ったのですが、 わたしの(【が?】)しゃべっていることが(【は?】) 伝わっていないかも、と思い、 ちょ、ちょっと待って、 ということで再び現れてみました。 ちっとも回答ぢゃないんですが。 ぶらじゅろんぬさん、(【は?】【が?】) うがちすぎですわ。 3番の投稿は、もちろん、いぢわるで、 「はい」か「いいえ」で答えるなんて無理だろ、 どぢゃ!というものでした。 そのあと、 「ぶらじゅろんぬさん【が】(←省略されている)」 「なに【は】好きですか。」 なら「はい」か「いいえ」で答えられるでしょう、 と、ごく単純に言ってみたのでした。 第三者とか、ちっとも想定してません。 質問のタイトルが【は?】、 「わたし【は】 おまえ【が】 好きだ」という、 ひとりのひとが、ひとりのひとに、伝える、 というものだからです。 3番の投稿の設定は、知らない人に対して、 ・・・たとえば飲み屋のカウンターでたまたま隣にいて 自分と同じように呑んでいた人とか、 駅のホームで1時間に1本の電車を待っていて たまたま自分と同じように退屈していた人とか・・・ ・・・に対して、 こんにちわー、から始めて、寒いねーとか言って、 「あなた【は】どんなもの(こと)【が】好きですか。」 と尋ね、 相手のことを知ろうとし、 相手の話を引き出そうという質問に対し、 「はい」か「いいえ」で答えてください、 という(しつこいですが)いぢわるでした。 ___________ 一方、 ・・・たとえば夜行列車の中でサッカーのポスターを ポケ~っと長めている人がいたとして、 「あなた【が】(←省略される)サッカー【は】好きですか。」 と尋ねてみて、 それなら、 と言って自分の話を聞いていただこうだとか、 話をそっち方向に誘導しても大丈夫だろ、とか、 話の展開のしかた、 その人との接し方・係わり方は(【が?】) 違ってくるんぢゃないの? 日本語さんは、どっちが得意なんだろ、 と思って3番を書いたのでした。 冷蔵庫の中にビールが(【は?】入ってるんだけど 今日【は】ビール【は】どうしよう・・・ とか言っちゃって、もう呑んだけど。 ちっとも回答になっていないというのは【が?】 わたしの苛立ちです。 (わたしを苛立たせます。) 他の回答が【は?】楽しみです。 (わたしは他の回答を楽しみにしています。)                        

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。わたしがもう少し意味論やら社会言語学にくわしければ きちんとした筋書きで説明できるかと思うのですが。・・・  にゅうとらるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  人と人との話し合いで 語の意味が――その時その場やあるいはその情況やさらにその社会の慣わしなどなどによって さらにそしてその人自身の言い表わし方のくせによって――さまざまに変わってくるという現象。あるいは これこれのかたちで問うたら あれそれのように答えが返って来たとか そうでない場合はどうであったとか そういう現象を課題として扱う分野ですね。  こちらの方面に片向いて No.3のご回答での質問はなされているとおっしゃっているのだと理解しました。  ★ ~~~~  話の展開のしかた、  その人との接し方・係わり方は(【が?】)  違ってくるんぢゃないの?  日本語さんは、どっちが得意なんだろ、  と思って3番を書いたのでした。  ~~~~~~  わたくしは このような意味論の議論が出されれば それに――まなびつつ――ついて行く自信はありますが こちらのほうから これこれこういうことになっていますよとか かんたんに説明ができるほどではありません。残念ですが その方面は発展途上です。  もっとも 決して避けることはしませんから 応答して行く用意はあります。  そうしますと けっきょくこの質問は 分野がはっきりと違いますからここで話を伸ばしませんが 考えてみれば【Q:日本人は 人間以前か】の質問なら その範囲に入る課題ではないか。こう思うのですが いかがでしょう?  ハ格とガ格の用法は お隣りの韓国語にもあって なかなか構文も似ているようです。ただし ハ格とガ格のその用法に 似ているけれども これは違うぞという側面もあるようなのです。  そんなところも これからまなんで行きたいと思いますし あるいはもし英文などにおいて 《 S - V -O 》文型なる線形論理の一本線によって成る文表現に慣れ親しんでいたら その人びとの自己表現や発想などは どうなるか? 日本文や韓国文の場合とくらべて どうなるか? そんな方面に関心があります。  そうして まづは この《 A ハ B ガ C 》なる構文をそれ自体としてきちんと確定させて捉えなければならないと思っています。そんな現状です。

回答No.3

ぶらじゅろんぬさん、こんばんわ。 ご返信ありがとうございます。 相変わらず迅速だなあ反応が(【は】?)。 わたしは(【が?】)またまた 何も考えずにしゃべっているのですが、 ふうん、言われてみればなるほどなあ・・・ と思い、 (書きながらわたしはそのように感じていたのですが) わたしは(【が?】)くだらないことを書いたなあ、 と納得して退散しようと思ったのですが、 ちょ、ちょっと待ってください、 次の質問に「はい」か「いいえ」で答えてください。 ◇ ぶらじゅろんぬさん【は】なに【が】好きですか。 答えましたか。 これは、 「ぶらじゅろんぬさん【が】なに【は】好きですか。」 ではいけないと思うんですわ。 順番は(【が?】)大事ぢゃないですか? 出汁が先で、味噌は後、みたく。 【が】を説明してくださる方を楽しみにしてます わたしが。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは にゅうとらるさん。ご回答をありがとうございます。  そうですね。語順もしくは語句の順序は 入れ替えてもそれほど――《強め》の役目のほかは――意味が変わらない場合と 〔ほんとうはそれほどやはり変わらないのですが 省略があることによって〕変わる場合とがあると思います。  ( f ) ぶらじゅろんぬさん【は】なに【が】好きですか。  ( g ) ぶらじゅろんぬさん【が】なに【は】好きですか。  これらは 話しかけている相手が ぶらじゅくんの場合(= f )と ぶらじゅくん以外の人の場合(= f および g )とに分かれると思います。  また《なに》の意味する内容が ふたつに分かれるはずです(= f )。( g )は その《なに》は 何かすでに話し手と聞き手のあいだで決まっているものを意味するはずです。そのひとつの場合に限ると思われます。  こうなりましょうか?  (あ) 《なに》= 何であるか分かっていないもの( = what )の場合  (あ‐1) 相手が ぶらじゅくんの場合。   ( f ) ぶらじゅろんぬさん【は】なに【が】好きですか。    ・この問いに対して たとえば《りんごが好きです》と答えることになります。  (あ‐2) 相手がぶらじゅくん以外の人の場合。   ( f ) ぶらじゅろんぬさん【は】なに【が】好きですか。    ・この問い対して ぶらじゅくんの好みを知っているなら 《りんごですよ》と答える。知らなければ 《さあ 何だろう?》とでも答えましょう。  (い) 《なに》= 特定の何かとして暗黙の内にでも決まっている場合(= something known ; that certain thing )  (い‐1) 相手が ぶらじゅくんの場合   ( f ) ぶらじゅろんぬさん【は】なに【が】好きですか。     ・こういう《なに》は 一般にいやらしいもの・言いにくいものを示していると思いますが おおむね《はい》か《いいえ》かで答えるでしょう。どうしても 判じ得ないときは 《〈なに〉って どういうことかなぁ?》とでも答えましょう。  (い‐2) 相手が ぶらじゅくん以外の人の場合   ( f ) ぶらじゅろんぬさん【は】なに【が】好きですか。     ・ 上の(い‐1)の( f )の場合と同じことになると思います。   ( g ) ぶらじゅろんぬさん【が】なに【は】好きですか。     ・ 同じくになりましょう。      *  さて まづは ( g )について文じたいを分析しておくなら けっきょくこれは 最初のガ格の前に 中心主題をみちびくハ格が省かれているかたちだと見られます。   ( g‐1 ) 〔ぶらじゅろんぬさん【は】〕 ぶらじゅろんぬさん【が】 なに【は】好きですか。  中心主題と関係主題とが同じ場合に当たります。  そうして 《なに【は】》と《なに【が】》との違いは この場合のハ格は第一中心主題をみちびくのではなく そうではなく 関係第二主題以下の語句を《取り立て》るために用いられているものです。   なに( what )【が】好き?  とふつう言うところを ミカンもグレープフルーツも好きでないならほかに何を取り分け好きなのか? と尋ねる場合に   〔ぢゃあ〕 なに【は】好き?  と問うはずです。   ( h ) 私ハ(=第一中心主題格) みかん〔ガ〕ハ(=副次中心主題格=取り立て格) それほどハ(前項に同じ) 好きでハ(=前項に同じ)ありません。   そうして   ( h-1 ) 私ハ みかんガ(=関係第二主題格) 嫌いだ。  このガ格は 第一中心主題(私)にちなむ何ものか(つまり 関係主題)を 話し手が引き出して来て 提示するかたちです。   ( i ) 私ハ 〔名前ガ〕 ぶらじゅろんぬです。  というようにハ格のあとに ふつうは関係第二主題を提示するためにガ格が用いられるはずです。省略され得ます。  これらを踏まえていれば 語句の順序を入れ替えても だいたいだいじょうぶなのだと思います。   ( i-1 ) 名前ガ 〔私ハ〕 ぶらじゅろんぬです。   ( h-1-1 ) みかんガ 〔私ハ〕 嫌いだ。  ただし ( g )は 入れ替えではなく ( g-1 )からの省略形だと思われます。あるいは 《ほかの人ガではなく ぶらじゅくんガ 何を好むか?》と言いたいときには ふつうは   ( g-2 ) ぶらじゅろんぬさん【は】 なに【は】 好きですか。  のように取り立て格としてのハ格を用いるとは思います。両方とも 取り立て格のようです。

回答No.1

ぶらじゅろんぬさん、こんにちわ。 あまり何も考えていないのですが、 ちょ、ちょっと待って、 このような話し方をする人は そんなにいないと思うのですが、 「わたし【ガ】 おまえ【ハ】 好きだ。」 という文はあり得ませんか。 これなら、「you love me.」 としか解釈できなくないですか? 「(お姉ちゃんぢゃなくて)俺!【ガ】  かあちゃん【ハ】 好きだ。」 のように話す人も少数ながらいまして、 あり得なくもないと思うんですわ。 何も考えずに思ったこととりあえず書きました。

bragelonne
質問者

お礼

 ちょ ちょっと待って。――まづは にゅうとらるさん ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  ( b ) 「わたし【ガ】 おまえ【ハ】 好きだ。」  という文はあり得ませんか。  これなら、「you love me.」  としか解釈できなくないですか?  ~~~~~~~  ☆ ちょ ちょっと待って。やはりふたつの解釈がありえるのではありませんか?   まづ ハ格を前に持って来ておきます。  ( b’ ) おまえ【ハ】 わたし【ガ】 好きだ。  すなわち   ( b-1 ) You love me. ( It is you who love me. )   ( b-2 ) I love you. ( It is me who love you. )    というふうにです。( b-2 )は 《おまえについて言えば おまえを好きなのは わたしなのだよ》と。( b-1 )は 《おまえが好きな相手は わたしなのだね》と。  ★ ~~~  ( c )「(お姉ちゃんぢゃなくて)俺!【ガ】かあちゃん【ハ】 好きだ。」  のように話す人も少数ながらいまして、・・・  ~~~~~  ☆ ええ。ですから 解釈例を別にすると それは 語順の入れ替えの問題だと思われます。つまりは解釈としては   ( c-1 ) Mom loves me; not my sister.   ( c-2 ) Not my sister but I love mother.  というふうにです。  つまりは ハ格とガ格とは それだけでは 行為の主体と客体が どちらがどちらであるかは 決まらない。こうなると考えられませんか?   

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     次のふたつの文例は 構文として同じと見ていいのでしょうか?  (J‐1):ぽーる‐ハ ぽーら‐ガ 好きだ。  (K‐1):ぽーる‐ヌン ぽーら‐ガ チョーワへー。  すなわち 日本語の《 A‐ハ B‐ガ C‐ナリ/スル。》構文は 次のように意味が明確にふたつの別の内容に分かれます。  (J‐1)‐a :ぽーるガ ぽーらヲ 好む。: Paul loves Paula.  (J‐1)‐b :ぽーるヲ好むのは ぽーらだ。: Paula loves Paul.  言いかえると この( a )( b )ふたつの意味は 文だけからは決まらないのであって 自由にどちらかを意味し得ます。文脈によって 意味がどちらかに決まります。  【問い】 韓国語の《 A‐ヌン B‐ガ C‐イダ/ハダ。》という文の形は 構文として捉えることが出来ますか?  そして 捉えられるのならば 日本文と同じように 両義性を持ち得ますか?  言いかえると ハ格≒ヌン(ウン)格が 主格と対格の両義を持ち得ますか?  ガ格≒イ格(=ガ格)は だいたい 主格を意味すると思われます。〔行為主格(我ガ行く)だけではなく 様態主格(春ハ曙ガよき)や現象主格(雨ガ降る)になるのだと思われます〕。

  • ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。

     =文例( a ) あるいは   ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。  これらのハ格およびガ格のはたらきについての探究です。  このほどその種の質問をつまり  【Q:日本人は 論理思考をそなえている。】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6604063.html  として設けてやり取りをすることができました。これをもうひとラウンド延ばしたい。  このハ格・ガ格の構文に主題を絞って そこでおこなえた探究の普及版が欲しいとともにもうひと伸び たとえばほかの言語との比較対照などにおいてなおフロンティアがあるのではないか こう思ったところからです。  出発点のたたき台を述べますので 情報交換をよろしくお願いします。  1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。     A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。  2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。  3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意志表示が――最小の単位としてひとまとまりとなって――表わされる恰好です。  4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。  5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。  6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。  7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ガ〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。  非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと相転移していることになるのではないか。  7. 和文の論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係――は 超論理の宇宙の中に潜在性として内包されている。  果たしていかに?

  • ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。∽《聖なる甘え》

      ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  あるいは   ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。  これらのハ格およびガ格のはたらきについての探究です。あるいはさらにこの《A‐ハ B‐ガ C》なる構文の持つ意味について問い求めます。      *  作業仮説です。  (あ) 始原的な自己表出について。   (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっており これは いわゆる《聖なる甘え》につうじているのではないか?    ( a-0 ) ぼく・・・〔注文〕・・・うなぎ    ( b-0 ) 象・・・鼻・・・長い  (い) これらの幼児のごとき表現のかたちが ひとの始原的な自己表出につうじており それは 人びとを理性ないし論理の一辺倒に落ち入る罠からすくっている。のではないか?    (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。格活用していない《無格》の語のありさまを 絶対格に活用していると見なす。  (え) つまり ハ格やガ格は 取り消しても よい。つまり なくても あたかもなお文(判断もしくは意思表示)を成すかに見える。  (お) そうして ほかの見方からすれば むろんそれでいて     (ω) 論理的な意味連絡  をも示すことが出来る。そこから 意味として《ぼくは うなぎを 注文する。⇒ S-V-O. の文型》にまで伸びる。  (か) まとめて次のようです。    ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  について見れば:           ( a‐α) 《ぼく》も《注文》も《うなぎ》も みな 話題として単純に推し出された恰好である。       つまり あたかも幼児ことばのごとく 主題の羅列である。       ただしこれが全体として 文=意思表示であるなら そこに話し手の判断があり意味がある。すなわち 次のような文意を示すことも出来る。      ( a‐ω) 示し得る論理的な意味連絡として:        ( a-ω‐1 ) 〔ぼくについて言えば〕 ぼくが注文するのは うなぎだ。        ( a-ω‐2 ) ぼくの注文は うなぎだ。        ( a-ω‐3 ) ぼくは 注文する。うなぎを。(⇒ いわゆる S-V-O の文型)  (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。同時にそう成っているというところが ミソである。  (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも ふくみ持っている。  ぎゃくに言えば 英文の用いている文型というのは (ω)の線形による論理を示すような意味連絡のみを示すかたちに成っている。  (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。  (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか?      *  参考までに いまの仮説をなるべく理論的にのべます。  1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。     A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。  2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。  3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意思表示が――最小の単位としてのひとまとまりとなって――表わされる恰好です。  4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。  5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。  6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。  7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ガ〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。  9. 非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。  こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと みづからを保ちつつしかも相転移していくことになるのではないか。(α)のアソビと(ω)の筋道とを同時にふくむ。  10. 和文における論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係(ω)――は その超論理(α)の宇宙の中に潜在性として内包されていたのだ。尺八のひと吹きごとにつくられて行く。    11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。     *  果たしていかに?  自由なご批判をあおぎます。

  • 《ぼくハ 〔注文ガ〕 うなぎだ。》は 非線形だ。

     和文と英文とを 人びとのその内面における発想のあり方にかんして くらべてみたい。  まづ和文の特徴を述べます。   ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  あるいは   ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。  これらのハ格およびガ格のはたらきについて捉えようとするなら そこには《非線形》の構造が横たわる。という見方を提出したい。  そうして仮りに英文が   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ハ 持つ ひとつ・長い・鼻‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  のごとく表わされるとしたら これらの文型は いわゆる《 S-V-O 》などとしての一本の線形の論理で固められている。と見られます。  ぎゃくに和文は ( b )の文例が ( b-1 )にも( b-2 )にも相転移し得て その元の文が 非線形の構造を有していると推し測られます。  このとき 端的に言うかたちで問うのですが:  【Q‐1】  この線形論理にしたがう英文を母語として用いる場合には その発想(もしくは 自己の思いの表出)のあり方は どんなふうになっているのか?  【Q‐2】 あるいはつまり 英文をも和文をも使いこなす場合には その発想のあり方は 違っていると思われるが それは どのようにか?   【Q‐3】 延いては 日常生活における態度や暮らし方・生き方は 違って来ると言えるか? 思想の次元にまで影響はおよぶか?  《A‐ハ B‐ガ C》なる構文と《 S-V-O 》文型との比較対照になります。      *  作業仮説です。  (あ) 発想ないし始原的な自己表出について。   (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっているのではないか?    ( a-0 ) ぼく・・・〔注文〕・・・うなぎ    ( b-0 ) 象・・・鼻・・・長い  (い) これらの幼児のごとき表現のかたちが ひとの始原的な自己表出につうじており それは 人びとを言わば理性ないし論理の一辺倒に落ち入る罠からすくっている。のではないか?  これは 言ってみれば《聖なる甘え》という現象ではないか?    (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。ハ格やガ格やヲ格といった格活用をしていない《無格》の語のありさまを 絶対格に活用していると見なす。  (え) つまり ハ格やガ格は 取り消しても よい。つまり( a-0 )や( b-0 )の文例のごとく 格活用の標識がなくても あたかもなお文(判断もしくは意思表示)を成すかに見える。  (お) そうして ほかの見方からすれば むろんそれでいて     (ω) 論理的な意味連絡  をも示すことが出来る。そこから 相転移した意味として《ぼくは うなぎを 注文する。⇒ S-V-O. の文型》にまで伸びる。  (か) まとめて次のようです。    ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  について見れば:           ( a‐α) 《ぼく》も《注文》も《うなぎ》も みな 話題として単純に推し出された恰好である。       つまり あたかも幼児ことばのごとく 主題の羅列である。       ただしこれが全体として 文=意思表示であるなら そこに話し手の判断があり意味がある。すなわち 次のような文意を示すことも出来る。      ( a‐ω) 示し得る論理的な意味連絡として:        ( a-ω‐1 ) 〔ぼくについて言えば〕 ぼくが注文するのは うなぎだ。        ( a-ω‐2 ) ぼくの注文は うなぎだ。        ( a-ω‐3 ) ぼくは 注文する。うなぎを。(⇒ いわゆる S-V-O の文型)  (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。構造的に同時にそう成っているというところが ミソである。  (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも 自己の中にふくみ持っている。  ぎゃくに言えば 英文の用いている文型というのは (ω)の線形による論理を示すような意味連絡のみを示すかたちに成っている。  (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。  (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか?      *  参考までに いまの仮説をさらになるべく理論的にのべます。  1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。     A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。  2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。  3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意思表示が――最小の単位としてのひとまとまりとなって――表わされる恰好です。  4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。  5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。  6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。  7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ガ 〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。  9. 非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。  こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと みづからを保ちつつしかも相転移していくことになるのではないか。(α)のアソビと(ω)の筋道とを同時にふくむ。  10. 和文における論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係(ω)――は その超論理(α)の宇宙の中に潜在性として内包されていたのだ。尺八のひと吹きごとにつくられて行く。    11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。  12. 英文では すでに発想の初めから その論理のきづなは こしらえられているであろうか? 線形のごとき S-V-O文型は 窮屈ではないだろうか?

  • 《ぼくハ 〔注文ガ〕 うなぎだ。》は 非線形だ。

     和文と英文とを 人びとのその内面における発想のあり方にかんして くらべてみたい。  まづ和文の特徴を述べます。   ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  あるいは   ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。  これらのハ格およびガ格のはたらきについて捉えようとするなら そこには《非線形》の構造が横たわる。という見方を提出したい。  そうして仮りに英文が   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ハ 持つ ひとつ・長い・鼻‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  のごとく表わされるとしたら これらの文型は いわゆる《 S-V-O 》などとしての一本の線形の論理で固められている。と見られます。  ぎゃくに和文は ( b )の文例が ( b-1 )にも( b-2 )にも相転移し得て その元の文が 非線形の構造を有していると推し測られます。  このとき 端的に言うかたちで問うのですが:  【Q‐1】  この線形論理にしたがう英文を母語として用いる場合には その発想(もしくは 自己の思いの表出)のあり方は どんなふうになっているのか?  【Q‐2】 あるいはつまり 英文をも和文をも使いこなす場合には その発想のあり方は 違っていると思われるが それは どのようにか?   【Q‐3】 延いては 日常生活における態度や暮らし方・生き方は 違って来ると言えるか? 思想の次元にまで影響はおよぶか?  《A‐ハ B‐ガ C》なる構文と《 S-V-O 》文型との比較対照になります。      *  作業仮説です。  (あ) 発想ないし始原的な自己表出について。   (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっているのではないか?    ( a-0 ) ぼく・・・〔注文〕・・・うなぎ    ( b-0 ) 象・・・鼻・・・長い  (い) これらの幼児のごとき表現のかたちが ひとの始原的な自己表出につうじており それは 人びとを言わば理性ないし論理の一辺倒に落ち入る罠からすくっている。のではないか?  これは 言ってみれば《聖なる甘え》という現象ではないか?    (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。ハ格やガ格やヲ格といった格活用をしていない《無格》の語のありさまを 絶対格に活用していると見なす。  (え) つまり ハ格やガ格は 取り消しても よい。つまり( a-0 )や( b-0 )の文例のごとく 格活用の標識がなくても あたかもなお文(判断もしくは意思表示)を成すかに見える。  (お) そうして ほかの見方からすれば むろんそれでいて     (ω) 論理的な意味連絡  をも示すことが出来る。そこから 相転移した意味として《ぼくは うなぎを 注文する。⇒ S-V-O. の文型》にまで伸びる。  (か) まとめて次のようです。    ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  について見れば:           ( a‐α) 《ぼく》も《注文》も《うなぎ》も みな 話題として単純に推し出された恰好である。       つまり あたかも幼児ことばのごとく 主題の羅列である。       ただしこれが全体として 文=意思表示であるなら そこに話し手の判断があり意味がある。すなわち 次のような文意を示すことも出来る。      ( a‐ω) 示し得る論理的な意味連絡として:        ( a-ω‐1 ) 〔ぼくについて言えば〕 ぼくが注文するのは うなぎだ。        ( a-ω‐2 ) ぼくの注文は うなぎだ。        ( a-ω‐3 ) ぼくは 注文する。うなぎを。(⇒ いわゆる S-V-O の文型)  (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。構造的に同時にそう成っているというところが ミソである。  (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも 自己の中にふくみ持っている。  ぎゃくに言えば 英文の用いている文型というのは (ω)の線形による論理を示すような意味連絡のみを示すかたちに成っている。  (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。  (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか?      *  参考までに いまの仮説をさらになるべく理論的にのべます。  1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。     A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。  2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。  3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意思表示が――最小の単位としてのひとまとまりとなって――表わされる恰好です。  4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。  5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。  6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。  7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ガ 〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。  9. 非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。  こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと みづからを保ちつつしかも相転移していくことになるのではないか。(α)のアソビと(ω)の筋道とを同時にふくむ。  10. 和文における論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係(ω)――は その超論理(α)の宇宙の中に潜在性として内包されていたのだ。尺八のひと吹きごとにつくられて行く。    11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。  12. 英文では すでに発想の初めから その論理のきづなは こしらえられているであろうか? 線形のごとき S-V-O文型は 窮屈ではないだろうか?

  • 日本語とはどういう言語か。

     この探究におつきあいいただければありがたいです。  まづことばの生成するところを仮りにしめします。      *  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)   とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。      *       *      *  ☆ ここで   やまと‐は ま秀ろば‐なり。  の文を分析します。いきなりですが:    ○ 日本文の二重構造 ~~~~~~~~~~~~~        やまと‐は     〔すがた‐が〕     ま秀ろば‐なり。    _______________________    (α) 主題提示層における分析( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。文型)    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐法活用(断定法)    ・《やまと》を主題として提示します。それについては《姿》が どうであるか    と言えば  《秀である》。という表出ないし表現の運び。    (β) 論理提示層における分析(いわゆる S-V-O。 ないし S-V-C.文型 )    (1) やまとガ                秀‐ナリ。        主格( S )              補語( C )‐述格( V )       ・ Yamato               superb is.    (2) やまとニツイテイエバ 姿ガ     秀‐ナリ。        補語( C )      主格( S )  補語( C )‐述格( V )      Talking of Yamato,    its landscape      superb is.   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二重構造というのは  (α) 主題提示層( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。)  (β) 論理提示層( S-V-O. )    これら二つの提示層を持つと見るゆえです。ところが 英文などでは (β)の直線的な論理形式一本から おおむね 成ると思われます。  ここらへんから 探って行きたいと思うのですが いかがでしょう。情報交換をよろしくどうぞ。

  • 日本語とはどういう言語か。

     この探究におつきあいいただければありがたいです。  まづことばの生成するところを仮説としてしめします。      *  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)   とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。      *       *      *  ☆ ここで   やまと‐は ま秀ろば‐なり。  の文を分析します。いきなりですが:    ○ 日本文の二重構造 ~~~~~~~~~~~~~        やまと‐は     〔すがた‐が〕     ま秀ろば‐なり。    _______________________    (α) 主題提示層における分析( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。構文)    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐法活用(断定法)    ・《やまと》を主題として提示します。それについては《姿》が どうであるか    と言えば  《秀である》。という表出ないし表現の運び。    (ω) 論理提示層における分析(いわゆる S-V-O。 ないし S-V-C.文型 )    (1) やまとガ                秀‐ナリ。        主格( S )              補語( C )‐述格( V )       ・ Yamato               superb is.    (2) やまとニツイテイエバ 姿ガ     秀‐ナリ。        補語( C )      主格( S )  補語( C )‐述格( V )      Talking of Yamato,    its landscape      superb is.   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二重構造というのは  (α) 主題提示層( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。)  (ω) 論理提示層( S-V-O. )    これら二つの提示層を持つと見るゆえです。ところが 英文などでは (ω)の直線的な論理形式一本から おおむね 成ると思われます。そうではないでしょうか?  ここらへんから 探って行きたいと思うのですが いかがでしょう。情報交換をよろしくどうぞ。  (日本語を問うていますが 言語類型論になりますので 外国語カテに挙げました)。

  • みんなの日本語第38課の「ハ」と「ガ」について

    『みんなの日本語初級II』第3 8課について教えてください。 (第3 8課の「学習目的は、『動詞+の』で名詞化し、形容詞でいろいろな状況や   自分の好き嫌いなどを表現することができる」このつもりで学習していましたが、   複数の学習者がおり、『質問が出て』自信を持って回答できませんでした。) 問題は;単純でかつ複雑な『ハ』と『ガ』の問題です。 (現在私は、できるだけ簡潔(シンプルに)) ◎ 格助詞 と 副助詞 の違い 「が」 格助詞 が 単に語と語の関係を示すものである [は」副助詞 は語と語の関係を示しつつ 特別な意味を添える働きをする。   「山田さんが良い人。」 の 「が」 は、語と語の関係を示しているだけで、何ら特別な意味を添えるものではありません。   「山田さんは良い人。」 の 「は」 は、語と語の関係を示しつつ、山田さん以外の人も想定しながら 山田さんを取り立てる意味を添えています。    (言外に 山田さんの他の人は良い人でないということを類推させます。 ◎基本的には「は」は主題を表すのに対して「が」は主語を表す。 “ゾウは鼻が長い” “ゾウについていえば(主題)、鼻が(主語)長いです”となる。 ただ大抵の場合は、<<文の主題と文の主語>>は同じなので「は」と「が」の使い分けが難しくなる。 ☆文の種類によって「は」と「が」の使い分けは異なので、それを参考にするとより使い分けが分かりやすくなるの。 「は」は名詞文や形容詞文の時に用い、 「が」は動詞文の主語に用います。 ◎ <「机の上に何がありますか」> <本ガあります> (新しい主題)   <本ハどこにありますか><机の上にあります>  (既知の主題) *おじいさんとおばあさんガ住んでいました。おじいさんハ・・・。おばあさんハ・・・。 ◎はとがの違い 5つの用法 (1)名詞修飾(22課) (名詞を修飾する節内の主語につく ハ→ガ)  ☆これは           時計です   私は東京で買いました  ☆これは私が東京で買った時計です (2)対比(27課) (XとYを比べる際のそれぞれに付く助詞は ハ)  *ひらがなが書けます     漢字が書けますね  *ひらがなはん書けますが、漢字は分書けません。 (3)最低限(42課)  (最低限のことを示す場合 ハ。これは予想以上のモと比較してよくわかる)  ※漢字は2000字は覚えてほしい。え!2000字もですか。 (4)目前・話題(取り立ての ハ )用法 (取り立てのハ 17課) (目の前にあるものを指す  ガ) (話の中のものを指す    ハ)  そこに椅子がある。  あなたの部屋に椅子はある?  あ、雨が降ってきた。  雨は降っている(人に聞いている) (5)強調  (何かに焦点を当てて、話題のものを強調する)  ☆彼が一番力持ちだ。 現在はこの程度の知識しかありません。(ここれもテキスト・ネットなどでの独学で自信ありませんが・・・。) 長くなりすみません。本題質問です みんなの日本語 第38課の文型 1: 絵を描くの ハ 楽しいです。 <このハは                        > 2:わたしは星を見るの ガ 好きです。 <このガは                       > 4:わたし ガ 日本へ来たの ハ 去年の3月です。 <このハは                       > 第38課練習1 1:本を読むの ガ 好きですか。 <このガは                   > 2:お母さんは料理を作るの ガ 好きですか。 <このガは                   > 3:日本で生活するの ハ 大変だと思いますか。 <このハは                   > 5日本語の勉強を始めたの  ハ いつですか。 <このハは                  > ネットをみるとたくさんの指導・指摘・試案などあり混乱するばかりです。 大変勝手なお願いですが、

  • 日本語が論理表現にふさわしくないわけがない。

     日本語は 論理表現にふさわしくないか?  ( α ) もし日本語が論理表現にふさわしくないというのであれば その根拠をしめして欲しい。  ( β ) 考えられることは おそらく言語じたいの問題ではなく    (β-1) 論理的に述べない主体の問題である。あるいは   (β-2) 論理的に述べようとしても 人間関係における社会的な力関係からかえって はばかられるという社会力学の問題である。  といった要因があるのか。  ( γ ) 言いかえるとそれは 論理〔つまりいわゆる主格(S)や述格(V)や対格(O)など格どうしの連絡関係〕を省略しても差し支えない文の成り立ちを保っているからであろう。  それは 主題を次から次へポンポンと提示して言い進めるかたち〔――《 A-ハ B-ガ C-ナリ( C-スル)。》なる文型――〕を取っている。ただしそのかたちの中にも 英文などのS-V-O.の論理連絡は むろん 表わされるように成っている。  ゆえに 根拠にはならないと思われるが どうか?  ( δ )=( β-3 ) その上でさらに考えられるとすれば 言語外の要因から自由になっても 主体じしんが あたかも曖昧の美学を信奉してのごとく あいまいに表現しようとする。言ってみれば神道も仏教も 人びとの漠然とした思想(生活態度)ないし言語慣習がそういう傾向を持つ。ゆえか?  すなわち 言語じたいに責任はないけれども 主体じしん( β-1)と社会環境( β-2 )が歴史的に言語の表現形式をあいまいなかたちにすでに固定してしまった。つまりそういう定めなのか?  ☆ どうお考えになりますか?  上のような考えに沿ってにしろ独自のお考えによるにしろ どうすればよいか? ご見解はありますか?