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Nagarjuna(那伽龍樹), Arjuna

 スペルは似ていますが、古代インドの氏名としては慣習的に使われる語尾でしょうか。  一方は般若心経、他方はマハバーラタの王子の一人。  どちらも信仰的には比喩に用いられ、一方は水、他方は火ですね。  (デヴァナガリから写していますので、英語スペルとは違うかもしれません)

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  • saregama
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回答No.1

サンスクリット語の名前のアルジュナは、現代ヒンディー語読みではアルジュンです。 龍樹は150‐250 年頃の人で、マハーバーラタのアルジュナにあやかった名前ですから、似ていて当たり前です。 ナーガはインド神話の蛇神の総称、Naaga(蛇神転じて龍)+ Arjun(英雄)でナーガルジュン、サンスクリット語でナーガルジュナ、日本語で言えばさしずめ龍雄ってとこでしょうか。 蛇神(ナーガ)は中国に入って龍と同一視され水と関連付けられますが、アルジュンと火の関連は聞いたことがありません。英雄ですから銃砲撃戦の時代ならば火と関連付けられないこともありませんが、アルジュナといえば弓ですから。

krya1998
質問者

お礼

 ご回答がないかもしれないと半分諦めていました。有り難う御座います。  竜樹はアルジュナにあやかったのでしたか。  アルジュナは偉大なバーラタ族物語の中の5人兄弟の中の真ん中、弓の競技である国のお姫様をいただきますね。  出迎えたおかぁさまは、5人のお嫁さんにしなさいと。  弓で的を射るのは、ヨガの修行では自己をきちんとして狙いをしっかりさせる隠喩でしょうね。  みんなにプラナを供給するということも隠喩でしめされているのですね。  火は燃え立つ意志なんですが、ナーガは蛇の神様なんですね。ヴィシュヌの蛇や蛇の王様って確か違う呼称でしたね。  インドには竜はいませんで、中国からインドに逆輸入は考えれませから、蛇が竜になったのですね。  来年は辰、そして次が巳。  つまりはアルジュンにあやかって、ナーガルジュンとなっていったのを漢字表記してきたのでしたか。  有り難う御座いました。

krya1998
質問者

補足

 有り難う御座います。  私たち、パラマハンサ・ヨガナンダのSelf-Realization Fellowshipのものは、五人の兄弟が尾骶骨から頚椎までのチャクラを象徴するものと教えられています。  中国の五行とは違って宇宙と人体における、創造界構成の要素として、尾骶骨から頚椎はそれぞれ五つつの要素(実際の物質ではなく)として下から土、水、火、プラナ、そして虚空(アカシャ・エーテル)となっていまして、アルジュナはつまり火の要素というわけなんです。  そしてお嫁さんのDraupadiはKula kundalini the coiled life force that energizesというわけなんです。    長く、竜樹とアルジュナのスペル的類似に不思議を抱いておりましたが、一方があやかったのだということで氷解しました。  そしてArujunaとは英雄という事であったのですね。つまりは水神的英雄ですか。  弟がNakula、水要素ですからそれとの関係とは異なるのでしょうね。まったくややこしいことがたくさんあって、難渋しております。  有り難う御座いました。  多分、お礼をするのですが、もう少し閉じないでご回答をお待ちしたいと存じます。

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