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幸福とは?

「幸福」とは、一体なんでしょうか? ずっと考えているのですが、正体がわからぬままで、時折他人に「幸福?」と聞かれても、「わからない」と答えるばかりです。 私が生きてきた中で、思ったこと、感じたことは、「幸福感」と「幸福」は別ものではないかということと、「幸福」は相対的なものではないのではないかということです。これはあくまでも私の感性が創ったイメージなので、論理的に説明することは難しいのですが…。 私の日常、人生の中にも「幸福感」は、少なからずあります。(美味しいものを食べた時や、眠りにおちる瞬間や、美しいものに触れた時等々…) しかしながら、「幸福感」は瞬間的な感覚であり、持続性に乏しく、「幸福」と呼ぶに足らないものではないかと、そう思っております。 「相対的なものではない」というのは、私の中に幻想が含まれているのかもしれませんが、「幸福」は何かと比較して見出すものではなく、“そのもの”が発するもの、もしくは“そのもの”が証明してくれるものではないかと、そんな気がしています。(頭の片隅には“絶対的”というイメージが…) 少なくとも、私は不幸な感覚や状態と比較して、「ああ、幸福だなぁ」とは思えませんし、他者と比較して得たとしたら、それは優越感ではないかと、そう思っております。 皆さまの考える「幸福」をお聞かせください。尚、私は哲学書などを読んだことがないに等しい、頭の中で堂堂巡りを繰り返しているだけの素人ですので、ご回答の際にその点を考慮していただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.9

お釈迦様によると、一般向け(在家)の幸福論として、 「現在あるもの、現在与えられた物、現在の能力で手にすることができるもの」 で、満足することが出来た時、幸福であるといえます。 謂わゆる「小欲知足」のことです。

kageri
質問者

お礼

ありがとうございます。お釈迦様の幸福論は、「なるほど」と納得してしまいますね。私の場合、まずは、「現在あるもの、現在与えられた物を受け入れること」でしょうか。もうすこし考えてみます。 お答えいただき、ありがとうございました。

kageri
質問者

補足

すみませんが、すこしお聞きしたいのですが…。「小欲知足」の精神は魅力的だと思うのですが、その精神はどのようにして持つことができると思われますか。または、なにが必要だと思われますか。(頭の中で簡単に作れるものでもないかと…。) 愚問で申し訳ないのですが、もし良かったらお聞かせください。

その他の回答 (13)

  • marutaka
  • ベストアンサー率23% (27/113)
回答No.14

” 山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う、ああわれ人ととめ行き、涙さしぐみ帰りきぬ、山のあなたのなお遠く、幸い住むと・・・”カール・ブッセの有名な詩です。幸いを尋ね求めても、見つからないという意味ですね。 幸福は彼方にあるのではなく、自分の住むところ、つまりは自分自身の中に見出さなければならないのではないでしょうか?すでにご指摘のとおり、”そのもの”すなわち、あなた自身が発するものだと思います。  多様な価値観、相対的な思考、視点の転換等を持ち、柔軟に生きることが幸福に繋がると考えます。自分自身だけではなく、他人の幸福をも入れて・・

kageri
質問者

お礼

お答え、ありがとうございます。 >”そのもの”すなわち、あなた自身が発するものだと思います。 そうですね。そのように思っておりました。(ただ私は、marutakaさんのように、幸福に繋がる自分の姿を見出せていませんが…。)「他人の幸福も入れて」というのは、あまり考えたことがありませんでしたね。 >つまりは自分自身の中に見出さなければならないのではないでしょうか? 仰るとおりですね。(質問自体が愚問に思えてきました…。) でも長い間関心があったことなので、いろいろな方の意見が聞けて良かったです。 この場を借りて、お答えいただいた皆さまに…。どうもありがとうございました。

回答No.13

『幸福』とかを考えるのは、『死』というものが先にあるからなのかなぁ~? 『死』というものがなければ・・・・こうなりたい、こうしたい、こうありたいという『願望=夢』を抱くことも見ることもないのかもしれない。『夢』をみるために『こころのより所は必要だから求める』と、言わせてしまう。とっても短い時間だから人の一生は・・・・それ故、その限られた時間を楽しみたい気持ちから、『こころのより所』を支えに生きにくいこの世の中を生きていこうとするんじゃないのかなぁ~。自分の生き方、理念にこだわること、が、こころのより所だとしたら・・・・やっぱりなんか矛盾してる。もの=『自分自身を道具としての生活』この生き方を『偽もしくは、悪』=不幸で、『純粋な精神生活』=『真もしくは、善』=幸福と、かんがえたくなる。が、そもそも生き方、理念とて枠で自分を縛り付けてる。 器を二つこさえて違うラベルを貼ってみただけのこと。中身はいっしょ-。どちらの生き方もどこかでなにかに縛り付けられる。一方からみれば、幸福に見え、反対にもう一方から見ても幸福に見える。おかしいよね、結局、何かから逃れることできないのに・・・・・『無欲』になれないんだろうね。 トンチンカ~~ン~~♪人は、欲深き生き物なんだな・・・・

kageri
質問者

お礼

ありがとうございます。考え方は人それぞれで良いと思うのですが、私の発言にすこし補足させていただくと、「こころのより所は必要だから求める」と書いたのは、平たくいうと、ほとんどの人は(自分を含め)、ひとりきりでは生きてゆけないと思っているからです。(たぶん私とlittlekissさんでは、「こころのより所」のイメージが違うのではないかと思うのですが…。私にとっての「こころのより所」は、今在ると思っています。) ご了承いただけたら幸いです。

  • souken
  • ベストアンサー率32% (14/43)
回答No.12

「幸福感」は持続性に乏しいと仰っていますが、それが「幸福」なのでないでしょうか。確かに美味しいものを食べた時や眠る瞬間などは時間的にも短いですが、それ以外の、例えば欲しい物を手に入れた時というのも暫くは満足できますが、すぐにその状態に「慣れ」てしまうために持続性に乏しいと感じてしまうのではないでしょうか。人間は楽しい事も嫌な事もある程度ならすぐに「慣れ」てしまってそれに対する感覚が鈍磨してしまうようです(それが「当たり前」という状態ではないでしょうか)。環境適応と言えばいいのでしょうか… 望蜀の例えもありますし、その刹那的な「幸福感」が積み重なって「幸福」となるのではないでしょうか。 …でも実際の所、私は、nekoucchaliさんの仰っている「小欲知足」が最も良いとは思っています。中々そうはなれないので日々悶えておりますが。

kageri
質問者

お礼

ありがとうございます。 >刹那的な「幸福感」が積み重なって「幸福」となるのではないでしょうか。 これは私も考えたことがあり、同感できる部分もあります。(でもそれだと、私の場合、あっという間に「不幸」になってしまう可能性も…。) 「持続」というのは、次の瞬間(時間)にも繋がる安定のようなものでは、とも思っており、そう…「持続性」をイメージしたのは、私の願望であるのかもしれませんね。 ご回答、ありがとうございました。

回答No.11

『こころのより所は‘幸福’でなくとも必要かもしれませんが・・・・』 幸福でなくても必要とありますが・・・・先のタイトルのところの『幸福』を『夢』『自由』に言葉をおきかえても同じことが言えると思います。知らぬ間にこころのより所を持てば・・・・そこから、そのさきに『理想』が心の中に描かれてしまいます。『希望』というものが・・・また、それが、『苦』を人に負わすことになるんです。皮肉ですよねぇ-。そうとわかりながらも、こころのより所を求めてしまうのは、人間の性なのかもしれませんね。わたしもそんな愚か者の一人です。

kageri
質問者

お礼

再びお答えいただき、ありがとうございました。「こころのより所を求めてしまうのは、人間の性なのかもしれません」というのは、そうなのかもしれませんね。私は、「こころのより所は、必要なものだから求める」と思っています。(観念的なものではなく、実在するものが“こころのより所”だと良いと思いますね。)

回答No.10

実体のないもの。ないのにあると信じてそれを心のより所にしてしまおうとする。 おかしいんだけど(矛盾してる)ないという事実から目をそむけちゃう。なぜかしら実体があるかのように自分でいろんな感じに理由付けちゃって、幸福感なんて言葉もどっかからもってきて、さも、幸福ってものはこうこうこういうものですよと決め付け(定義)たようなことを自ら言い出しちゃう。それでもって、あるかのごとく思い込んで、そのうち実体はある!と、自分の中でゆらぐことのない思いへと変わる。しばらくして、壁にぶつかったとき・・・・自分で作り出した定義と違った方向に物事が流れていったとき、定義づけてしまったことで自分で自分を身動きできない状態にさせてしまう。ちょっと、離れたところにたつとそのこともよくわかるのに・・・それでも、なんかかんかに憧れを抱き、夢や願いを捨てずにはいられないわたしです。『幸福』=存在しないもの。

kageri
質問者

お礼

ありがとうございます。「幸福=存在しないもの」というのは、潔い考え方ですね。(心のより所は、“幸福”でなくとも必要かと思いますが…。) お答え、ありがとうございました。

  • kierke
  • ベストアンサー率10% (3/29)
回答No.8

お礼有り難うございます。 補足で、私の言うみんなとは よくみる人でしょうか。家のひとや駅であう人や 会社の人、たこやきやのおばちゃんなどです。

kageri
質問者

お礼

再びお答えいただき、ありがとうございました。 「元気だ」ということは、本当に大切なことですね。

  • shunic
  • ベストアンサー率0% (0/2)
回答No.7

難しい事はわかりませんが、私にとっての幸福は成長だと思います。 夢をかなえる為に自己を磨き、一歩一歩成長しているのが実感できた時に幸せを感じます。 まだ夢は実現していませんが、案外今が一番幸せなのではと思います。スポーツでも恋愛でも同じだと思いませんか?

kageri
質問者

お礼

ありがとうございます。shunicさんにとっての「幸福」は、成長なのですね。成長を実感できることは、羨ましい気がします。スポーツはしませんが、あるスポーツ選手をみて、宗教にも通ずるようなもの、もしくは神聖なるものという印象を持ったことがあります。恋愛のなかで「幸福感」を感じることはあります。そして恋愛は「幸福感」を感じ易いもの、とも思います。 ご回答、ありがとうございました。

  • misoka
  • ベストアンサー率35% (56/160)
回答No.6

たとえば、恋愛をして、その想いが叶ったとしたら... 加山雄三のように、海に沈む夕日なんかに向かっちゃって 「幸せだなァ」と実感するかもしれません。 たぶん、そこには理屈なんてないでしょう。 また、たとえば、大きな仕事をし終えて、充実感を感じたとしたら... やっぱり、何の迷うところもなく幸福を噛み締めるかもしれません。 「幸福」というものは、そもそも一つの、代替不能な一回きりの 体験であるわけですから、他のあらゆる体験同様、「相対的」と 言えば相対的とも言えますが、むしろ、そもそも 「相対的に考える」ということ自体が、意味をなさないような 性質のものであると考えた方が正しいような気もします。 つまり、常にその瞬間の理屈抜きな主観が問題になるわけで、 他人がどう見ようが、自分(とその関係者)が幸福を見つけてしまえば、 外野はまったく関係ない、くらいのものであると思うわけです。 そういう幸福って、最近ご無沙汰だけど、一体どこに落ちてるんだろう、 なんて思ってしまった場合は、有名なメーテルリンクの「青い鳥」の 出番ですね。 ただ、無闇に追い求めることをもって「幸せ」とするような 解釈だと、全然見当違いなんだろうな、と思います。だって、 そんなこといつも飽きるほどしていることですものね。 その結果って、結局ちっとも幸せじゃない。 あの話の趣旨は、きっと、そういうことではないのでしょうね。 だからといって、縁日で売ってる青いヒヨコを買ってきても 何の解決にもならない危険性が高いようです。 なかなか難しい問題です。 たぶん、人生最大のテーマです。

kageri
質問者

お礼

ありがとうございます。「そこに理屈はない」というのは、共感します。 >「幸福」というものは、そもそも一つの、代替不能な一回きりの体験であるわけですから この部分を読んで、「生きていて幸福だ」と答える人の理屈を垣間みたような気がします。(理屈を感じてしまい、すみません。misokaさんの「幸福」とは、また別の話ですね。) >だからといって、縁日で売ってる青いヒヨコを買ってきても >何の解決にもならない危険性が高いようです。 この文章、愉しいです。 本筋から外れたお礼ですみません。ご回答に感謝いたします。

  • kierke
  • ベストアンサー率10% (3/29)
回答No.5

今日もみんなが元気だ。というのが私にとって幸福。 無事に帰れてまた何ごともなく朝が迎えられたという のが私の幸福感です。

kageri
質問者

お礼

お答えいただき、ありがとうございます。kierkeさんの「幸福」は、シンプルでいいですね。ところで、「みんな」というのは、kierkeさんのご家族を指しているのでしょうか…?もしよろしかったらお聞かせください。 

  • taka77
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.4

確かに、あなたの言う通り幸福は、相対的なものではないと思います。 昔、私はある先生にこんな事を言われたことがあります。「事実は1つだけだけど、真実は無数にある」 例えば、よくしゃべる子がいて、その人のことを”うるさい”と思う人もいえば、”明るい子”と思う人もいるのです。このように人はそれぞれ感じ方が違うし、「幸福」の基準は自分自身にしか分からないと思います。私は裕福だから幸せだとはおもいません。うまく言えないけど、ものがあるからじゃなくって、心が満たされてたら私は幸福だと感じます。

kageri
質問者

お礼

ありがとうございます。仰るとおり、基準も感じ方も人それぞれでしょうね。「心が満たされる」というのは、素敵なことですね。 お答えいただき、ありがとうございました。

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    20歳♂、大学生です。 自信について質問させてください。 恋愛をすることにおいて、自分に自信を持つことが大事だとよく言われます。 この自信とはいったいどのようなものなのでしょうか? 私は今まで常に他人との相対的な評価の中で生きてきました。 学生時代におけるスポーツや勉強、自分が他人と比べてどうなのかということを気にし、他人より優れていればそれで自信を得ていたと思います。 しかし、上には上がいます。スポーツを例にとってみると、いくら野球がうまくてもイチローや松井、松坂よりは下手でしょう。 そう考えると、他者との相対的な比較の中で自信を得られるのは、一番の人だけかあるいは一流といわれる極一部の人間に限られますよね? しかし、現実には自分に自信を持っている人はそこそこいると思いますし、仮に少ないとしても、極端に少ないわけでもない。 となると自信は他者との相対的な比較から生まれるものではないということになります。 繰り返しますが、私には自信の正確な定義、そしてどうすれば自信が持てるのかがわかりません。どなたか、教えてください。 お願いします。

  • 締め切った質問などで再度質問があります。

    http://okwave.jp/qa/q7314103.html ↑のURLのサイトで質問をして10件の回答を得ましたが、難しい内容が書かれていたようなことをお礼で言ってやりとりを完結させましょうと言ったら、回答が来なくなりました。 なので質問を締め切ったんです。 でも再度質問に答えてほしい内容があるんです。 http://okwave.jp/qa/q7314103.html の質問文の中にいくつか書かれている『信号が伝わってくる感じ』というので、精神科医に以下のような感じにわかりやすく表現したんです。 【2月に訴えた症状】 ★寝れなかった時とかにもパソコンをやっていた時やごはんを食べた後とかにあった辛いことですが、「見るな」「プッ」という幻聴と耳鳴りが混ざったような音が聞こえ、その音の中から何か嫌がらせでもされているような信号が伝わってくる感じがして非常に苦痛なことがあるんです。 その信号が伝わってくるせいで、口を閉じたり開けたりすることも、物事をする(動いたりする、じっとした後に動き始める、ごはんを食べる、飲むとか)ことも辛さを感じるんです。 何かされるような感覚である信号が伝わるのは、耳鳴りや幻聴(「おい」という男の人の声もそう)の声の中から伝わってくるだけでなく、テレビで人の顔を見ていても、そのような感覚があるんです。 例えばテレビ(例えばドラマ、バラエティ番組など)に出ている人の顔を見ると、その人が何か嫌なことをしてくるような感覚が伝わってくる感じがする。そうなるとテレビから目をそらしたり(違うところを向く、見る)、物事をすることに辛さを感じるんです。 嫌なことをされるような信号は、バイクや車などの音に幻聴みたいな声が混じっているのからも伝わってくる感覚があります。 →この場合での『信号』というのは、「嫌なことをされる」=「操られる」感覚でそれが他者や幻聴・耳鳴りから受けたかのような錯覚だと感じたということです。 言い替えれば、「幻聴・耳鳴り・テレビなどがきっかけで物事をすることを辛く感じた」だと思います。 【3月に訴えた症状】 ★耳鳴りや幻聴の音や声に属するものから嫌な信号みたいなのが伝わる感覚があり、つまりじっとした後に動き始めようとすると、体の動くという動作を止められるような信号が伝わってくる感覚があります。 テレビを見ていても似たようなことが起きることがあるんです。 テレビを見ていて、テレビの人の顔が自分のことをにらまれているような恐い顔に見えたり、テレビの人の顔を見るその中から嫌な信号(自分がテレビから目をそらしたりするとそれを止めてくるような感覚)が送られてくるんです。 →この場合の『信号』も「操られている」感覚を他者や幻聴から受けたかのような錯覚だと思います。 言い替えると、「幻聴・耳鳴り・テレビなどがきっかけでじっとした後に動き出す・テレビから目をそらしたりする動作ができなかった。(=動作に制限がかかった)」感じだと思います。 しかし家族の人はこのことについて「制限が入る」とは思えない、自分の意志で行っていることだとおっしゃってました。 【4月に訴えた症状】 ★頭が回らないことについてですが、頭を回らなくさせられるような信号 →これも他者に「操られた」感覚を受けた感覚だと言えるだろうと思います。それによって頭が回らなくなった、回りにくくなったことだと思います。 ★「おい」という幻聴の声の中から嫌な信号が入ってくる感じがして、その嫌な信号とは自分が何か言ってたり言葉をはき出したりすると、それを止められる(自分には黙らされる感じの信号だと感じる)信号が送られてきたこともあったり、脳内にある何かを治されるような動かされるような感覚があります。 親がおばあさんに電話していてそこから流れてくる悪い信号(ごはんを食べようとするとそれを止められたり動いたりしてもそれを止められるような感じの感覚)が伝わってきたことがありました。 →言い替えれば、幻聴・耳鳴り・親がおばあさんに電話していたのがきっかけで(その時電話している側のそばにいた)ごはんを食べようとしたり動いたりすると他者に「止められる」や、何か言ったり言葉をはき出したりすると、それを他者に「止められる」および脳内にある何か(=自分が過去に頭に入れた情報など)を他者が「治してくる」「動かしてくる」などがあった感覚です。信号=他者に操られた感覚 だと思います。 ★声に出さないで言っていたり、歌ってたり吐き出したりすると、犬が吠えた声の中や幻聴の「おい」という声や耳鳴りの中から、言ってる語の途中で黙らされる(止めてくる)感じの信号が伝わってきた。 → この場合も「操られた」感じを受けたことだと思います。言い替えれば犬が吠えた事や幻聴・耳鳴りなどがきっかけで一つの言葉を言っていたが、言葉の途中の部分でそれが制止された。要するに「あいうえお」と心の中や頭の中だけで言って、「あいう」は言えたが、「えお」は言えなかった感じだと思います。 【5月に訴えた症状】 ★4月15日前後にあったんですが、頭を回らないようにされるような信号がどこかから伝わってきた感覚があった → 他者に操られた感覚を受けて、頭が回らなくなったと言い替えることができると思います。 ★声に出さないで自分が(1)「言わない」「つなげない」「(顔)変えない」「なくならん」などの言葉をはき出すと、(2)「言う」「つなげる」「(顔)変える」「なくなる」などの反対の言葉に変えられる(自分が言う感じ)ような信号や、(2)の変えられた言葉から、(1)の言葉に戻される感覚の信号が入ってくる感じがした。 それは、人や犬の声がしたときや自分が物音を立てたり動いたりしたときにそういう感じがあった。  お葬式の時は、例えば通夜の日に(1)を(2)の言葉に変えられる信号が、(2)を(1)の言葉に戻される信号が告別式の日に伝わってきた。 → これも他者に操られたのを自分が受けた感じだと言えるんです。 それによって(1)否定言葉→(2)肯定言葉への変換が起きた、(2)肯定言葉→(1)否定言葉への変換が起きた。 これはすべて心の中や頭の中ではき出してしまった感じなんです。 ★「おい」という幻聴および誰かが心臓の動きを止めたり動かしたりして操った感じの信号とか 口を人形みたいに開けられないようにさせられるような信号が耳鳴りや幻聴の中から伝わってきました。口を開ける・開けない人形がいて、口を開けない人形みたいにされた。 → 他者に操られた感じを受けて、実際心臓は動いていたけど、心臓の動き(=鼓動など)が感じられなかったという意識があった時もなかった時にも、幻聴や誰かの声そのものに意識をとられたことだと思うんです。 わかりやすく書いたら、精神科医さんは内容を理解してくれたんです。 それで僕は以下の感じで質問をしたんです。 ●なぜ医者は最初幻覚と言って、それ以降は作為体験(させられ体験、操られ体験)と言ったと思いますか? それで質問をしたことに対し、以下の感じで精神科医さんは回答してきました。 ●いわゆる“第六感”という感覚に対する幻覚というふうに解釈されたのかもしれませんね。 回答を受けた僕は、以下のように質問しました。 ●第六感というのは、五感の障害(幻視、幻聴、幻味、幻触、幻嗅)とは違ったものでしょうか? 第六感という感覚に対する幻覚というのがどういうものか、知りたいんです。 第六感の障害? それで質問をしたことに対し、以下の感じで精神科医さんは回答してきたんです。 ● >第六感というのは、五感の障害(幻視、幻聴、幻味、幻触、幻嗅)とは違ったものでしょうか? ...限りなく近い現象ではないでしょうか。 >第六感という感覚に対する幻覚というのがどういうものか、知りたいんです。 ...「第六感が働く」「第六感でこう決めた」「虫の知らせ」「天の声」「ヒアラメキ思考」などという表現は一般的によく使われてますが ...すべて自己親和性があって、自分の心(脳)以外からやって来た異質のものとは感じないもので、不快感は伴いませんよね。 >第六感の障害? ...第六感を認知する時の障害なのでしょうね。自己免疫疾患というのがありますが(本来自己に属する組織を非自己と認識して、排除しようとし始める疾患群)、そこから類推すると、あなた自身の思考を、誤って他者の思考と認識して違和感を感じ(不快感を感じ)排除しているとも言えるのではないかと思います。 それと、僕は過去に聞いた音楽が頭の中や心の中で再生されて止まらないことがあるんですが、 例えば「スネ夫のおぼっちゃマンボ」という曲は頭の中や心の中で再生される前に何度もyou tubeなどで聞いたんですが、それが頭の中や心の中で再生されている時に、誤った歌詞で再生されていたんですが何らかのきっかけ(=職員さんの言動など)で誤った歌詞で再生されていたのが本来の正しい歌詞での再生に頭の中や心の中で変換が起きたんです。 僕はパソコンなどでいろいろな曲を聴いたんです。 しかも同じ曲を何度も最初のイントロから最後のエンディングまで聞いたこともあったんです。 主治医の先生から、過去にどこかで聞いた曲などが再生されるのは誰にでもあり得ることだが、高機能自閉症のほうがどっちかというと正確に再生されるということを聞きました。 例えば10年前にどこかで聞いた音楽や声などが今年でも頭の中や心の中で再生もあったんです。 そこで1つ質問します。 以上のことでどう思うか、考えなどを具体的にわかりやすく教えて下さい。

  • 幸福とは何ですか?幸福=結婚?なぜ?【長文失礼】

    唐突ですが、幸せになりたいです。 でも、結婚したいとは思いません。 でも子供は好きなので、欲しいです。 そして、自分の子供には美男美女に生まれて欲しいです。 "美男美女の子供が欲しいだけ"と、いうことではありません。 自分の遺伝子を、美男美女に継承して欲しい、 美男美女に自分の遺伝子を使って欲しいのです。 人類の幸福感は、自覚している限りの 遺伝子の欠陥(ルックスなど)を修正し、 できるだけ優れた環境・条件(年収、自然、地域性など)で、 次の世代に遺伝子をバトンタッチすることと、 最近、考えるようになりました。 だからパートナーの理想は、小顔で鼻の高い人です。 でも美男美女の子供が生まれてくれれば、 嫁の役目は終わります。 無事、嫁が出産さえしてくれれば、 私の目的は達成されるので、 嫁は不要になってしまうわけです。 無論、嫁も私と同じ事を考えていれば、 私も不要になりますね。 だから、その後の生活は、家政婦を雇えるだけの 大金があれば、限りなく幸せになれるなと、よく妄想します。 まだ結婚もしていないのにね。 これって愛が無いですか? 寂しいですか?ヒドイですか?最低ですか? ・・・でも何が? 職場でも、結婚しないの?とか聞かれたり、 "幸せになろうよ"とか言われることも苦痛です。 結婚=幸せが理解できていないのに、 幸せの価値観を勝手に決め付けられ、押し付けられ、 職場や世間にストレスを感じます。 「どうして私の幸福感を、周りに決め付けられなければ  いけないんだ!あなたがたに私の何がわかるの?えっ?」と 毎回、心の中で叫んでは苦笑いするのが精一杯です。 周りの親切なはずの世話が"余計"と感じる私には、 苦痛というわけです。 私が幸せと思う人生は、美味しいものを食べて、 面白いTVと便利なインターネット、PCがあり、 健康なカラダのまま死ぬまで生き続けることができ、 自分の子供が美男美女に生まれてくれれば、大往生です。 美男美女にこだわるのは・・・なんでしょうね。 美しくないと愛せないから。ただの美意識かな。 美しくないと自分の遺伝子が繁栄しないから・・・とか。 繁栄しないと安心できない。もはや本能か? それはさておき、これを実現するには、 大金があればよいわけで、大金を稼ぐことしか頭にありません。 だって女性はお金持ちが好きですものね。 その中には小顔で鼻の高い女性もいますよね? いない根拠が無いですものね。 ちなみに、こういう女性が、 財産目的で私に近づき、 財産だけ奪って別の本命に貢とか、 まぁ、貢いでもいいんですが。 美男美女さえ産んでくれれば。 美男美女に生まれたら、他人の子供では? ということも思いません。 それはある程度、自分のルックスに自信が あるからなのでしょうが。 イケ面とは思っていませんが、 ブサイクと思ったこともありません。 話が長くなってしまいましたが、 ようは世の中お金だと思っている独身男性です。 こういう幸福感っておかしいですか? こういう生き方、 アリですか? ナシですか? ※注意 『あなたのような発想しか出来ない男性が  お金持ちになれるはずが無い』とか、 『あなたのような男性は幸せにならない』とか、 『あなたの子供が美男美女に生まれるわけない』とか、 そういう根拠の無い中傷や文句は止めて下さいね。 あくまで真剣に相談している投稿なので。 客観的な根拠による的確な意見をお願いします。