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1)差別をしない人間はいると思われますか?
2)「差別をしてない」、といった時点ですでに「差別をしている人に対して差別をしている」という矛盾についてどう思われますか?(もしこれが矛盾であると思われるなら、という前提がありますが)
3)今の社会の風潮として、
イ)差別はしない方がよい
というものがあると私は感じるのですが、
ロ)差別しない人なんていない
という事を認めた方がよい社会になりえると思われますか?
投稿日時 - 2003-09-29 20:12:14
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回答(12件中 1~5件目)
分かりやすく説明できてるか不安ですが・・・↓↓↓
様々なハンディを持つ人々が、健常な人々と何か同じように行動する時にそのハンディが負荷となる場合、公平を保てるように援助することが、平等だとした場合に、ハンディを持つ人に対してその援助を行わず、まったく同じような扱いをすることが、差別だというように、民法の先生から教えられました。
もともと法律用語らしく、海外における差別の考え方はこういう視点からの判断で、日本に輸入され、差別という言葉が使用された際にネガティブな感覚と共に、広まったと大学の教授(民法の先生)がおっしゃっておられました。ご参考までに。
投稿日時 - 2003-12-16 00:57:50
1)自分と違う価値観や属性の人を受付けなかったり、不快に思う感情や感覚を持たない人はいないと思います。
そういう心の動きを客観視して、不快に感じたり苦手な人に対しても分け隔てなく接することが出来る、接しようと心がけている人はいます。
2)「差別」は制度や行動に現れるものだと思うので、差別をしてないと主張することそのものに矛盾は感じません。
3)「いじめ」はなくならないと思っています。「差別」はなくせます。なくさないといけない。
前述の通り「差別」は制度や行動にあらわれるものを差すと思います。「○○地区のものには売らない」「○○人とは付き合わない」「女性は仕事が出来ない」その人の適正やポテンシャルではなく、慣習や通念で判断してしまう事や、それを許す制度はなくせます。
逆に今後は通念や慣習による「差別」で物事を判断する人は、自分自身が不利益をこうむるのではないか?
賞罰ではなく、機会や可能性を失うという意味で。
感情的な違和感や、不快感というのは根強く残ると思います。というか消せない。人間は社会生活を営む動物であり、いろんなフェイズでグループを形成する。家族・友達・村(居住地域)・国(人種)...。誰かとグループを形成するということは、「グループに属さない人」という属性のグループができる。極端に言えば誰かと仲間になるということは誰かを敵にするということではないでしょうか。
だから感情的な側面が強い「いじめ」はなくならないと思います。「いじめによる不幸な事件」はなくさないといけない。
その点に関しては、「いじめ」をなくすのではなく、人間の性質として「いじめ」の存在を認識し、悲劇に発展しないようコントロールする方が大切なのかなと思います。
自殺するほど追い込んだり、集団リンチにより死亡者がでないようにする。
スポーツ選手、タレント、現在活躍する多くの人が子供時代いじめられっこだったと告白しています。いじめられること自体は長い目で見れば必ずしも不幸ではないと思います。「いじめ」る人は悪いとか、「いじめられる」人に問題があるとか、「傍観者」もいじめる側と同じだとか、そのような議論は不毛だと思います。学校、会社などそのコミュニティでどんなグループが形成されているか把握し、陰湿・過激ないじめに発展しないようにコントロールする。「コントロールする」という部分が難しいのかもしれませんが。
まとめると、「差別心」など感情的な部分は消せない、あってしかるべきものだが、制度・行動面で公平さを保つことは出来るはずだ!
投稿日時 - 2003-10-03 20:14:29
もっかいきてしまいましたが、なぜかというと。
・差別偏見、蔑視、これらの行為を質問とされていることは分かります。
・商品の差別化、ある企業や売り手が、商品を、あえてコスト高にし、さらにより高値をつけ販売することで、「高級感」なるものを出して商品を売るという、他商品に対する差別化。
より、平均的な、より普通なことを、自然であるとあえて強調し、「無難さ」を他商品に対する差別的地位として商品イメージに植え付け、販売するという差別化。
以上の二つの差別で、後者だけは今も社会的に容認されていますが、原理は、前者(差別蔑視偏見)も後者(「販売戦略」)も共に同じです。
存在する差異(違い)に、実体では無い「価値の上下」を吹聴し、「このような価値(お得)もありますよ」と、提示しているのです。耳を貸すか貸さないかは、聞く方の問題です。
このように、経済社会では、実体の無い価値というものが、「意味を持ちえる」のです。
そして、猫に小判、現代人以外の動物に、そのような価値のための差別化はほとんど通じないでしょう(おそらく)。
なぜなら、
価値と言うものには、直接的な実体が伴わないからです。
例えば、鯛と秋刀魚があって、猫がどちらを選ぶかというと、食いやすいほうを選びます。
僕もそうします。どちらもほしくなければ、タダでもくわないでしょう。足りなければ、両方くいます。
しかし、鯛が高級だからという理由で確かに鯛を選ぶという、「経済判断をするもの」も、存在するでしょう。
差別の無意味さも、ここにあるように思います。
差別には、実体、証拠、そういったものが伴わないのです。
(無差別がよいかというと、無差別殺戮などといって、非道である場合にも使われますし、では差別的殺戮はいたし方ないのかというと、非道であることにはかわりませんが、事実、社会には容認されています。
無差別殺戮を、差別殺戮に対して、差別視しています。
敵は殺してもいたし方ない。と。
でも、敵でない無関係な人は殺すべきではないと。)
しかし、実体を伴わない差別で、敵が生み出されている、ある方にとって敵と見なされている社会実態も、現にあります。
そうなってしまえば、敵存在だと言う想いが敵存在を産み、どんどんお互いに生き難くなるでしょう。
生産性は落ち、危険は増え、全体は貧困になります。
差別と選択は違うと言うことです。
実体が無いという点、証拠、論拠が無いという点で、差別と選択は違うのです。
差別は蒙昧で、本来選択は明白だともいえます。
差別という、実際意味を持たない判断材料が、選択を鈍らすのです。
そんな理由で、差別が選択を左右していては、美味く生きられないであろうと、私は考えます。
差別の混じった、蒙昧で際どい判断が、この世界を困窮に陥らせた、そのような、そうとう大きい原因としての差別も、あるでしょう。
差別など、角度を変えれば立場は逆転するようなものばかりで、視野の狭いものであると言えます。
そんな差別によって生まれた敵は、つまり、明日の同類に、容易に変われます。
差別は、昔の遺物です。
それを行えば行うほど、うまくいかない。
もう人間が生きることにおいて、重要な役には立ちません。資料として標本にするぐらいです。
邪魔をするだけだと、私は思います。
差別は必要なく、
こうだと言う事実、没価値的観測、それだけでよいのです。それを利用し、価値を付加することは無意味さを増大さすようなものです。
分からないという事実、それまでなのです。
選択の信憑性は、それを手段として行う限り、それは妥当性の判断です。
妥当性の判断であるから、その選択は柔軟で軽く、後の変化にも対応しやすいものと考えます。
差別と選択は、分けられるべきと、考えます。
差別を超え、妥当性を超え、平等性を、超えて行けたら、いいんじゃない?と、思いますね。
投稿日時 - 2003-10-03 17:47:08
powerandterrorさん、こんばんわ。
僕の意見もみなさんと同じことですが・・・
「モノを区別して、その価値を判断し、行動を起こす」ということは「生きること」とほぼ同じ意味だろうとおもいます。
そして、その価値判断によって傷つく人が存在するなら、それは「差別」と呼ばれてしまうでしょう。
「差別はしない方がよい」というのは、ちょっとおバカさんな意見であって、むちゃをゆーなと言いたいです。
「人をむやみに傷つけない」ならいいと思います。
あと「むやみに傷つかない」ことも大切です。
どっちにしても要勉強です。
めんどくさいナー。
投稿日時 - 2003-10-02 22:28:47
お礼
sowowさん、こんばんは。回答有難うございます。回答を読んでいく中で私が自分なりに感激したのは、「人を傷つけない」という概念に度々触れるができた事です。差別(discrimination)というのはもしかしたらあまり日本的な概念ではないのかもしれませんね。日本人(これにも定義が必要だという事は承知の上ですが、ここでは一般的に使わせていただきます)は差別するとかしないとかよりも、人を傷つけない、和を大事にする、ということに重点を置いているように感じます。聖徳太子の十七条憲法の第一条は「和を以って貴しとなす」で始まりますが和というのは日本人の中に受け継がれてきたとても希有な概念であると同時に、差別の問題を解決するヒントが隠されているような気がしてなりません。日々勉強ですね、sowowさん。お互いがんばりましょう。また機会があれば私の愚問にお答えを頂ければ嬉しいです。
投稿日時 - 2003-10-03 00:05:15
差別と区別のちがいなどはわかりかねますが、人(他人)が見ていて不快にならない生活をするのが一番ですので、みなさん差別の対象にやさしくすることで割り切っていると思います。
話が脱線しましてすみません
1についてですが、世界に自分のみしかいないと信じている人であれば、していないと思います。
しかし、その聖人ともいうべきおかたのみが差別をしないひとであるか、差別をする人がいない場合は差別という言葉自体が成立しません。
ですので、あなたの考えからいくと自己満足にとどまると思います。
2はわかりません
3のイは、同感です。
ロは、多くの日本人が、多数派に流されて差別が一層ひどくなる可能性があります。偽善心でも、意味がないとか毛嫌いするのもすっきりしません。
投稿日時 - 2003-10-02 20:56:03
お礼
最後の点ですが、私も同意します。「差別をする人はいない」と認める事からどうするか、これが大事なのですよね。みんな差別しているのだから別に差別してもいいではないか、なにが悪い!と開き直ってしまうのも一つの選択。自分も差別をするという人間の一人なのだから、それはそれで割り切って自分にできる限りの事をしようという選択。もう一つはその差別心を超越したいと思う、ということでしょうか。回答者さんの冒頭の部分は日本人の和の精神が出ていてなんだかとても嬉しかったです。自分は海外へ留学中なのですが、他人の事なんて気にしなくてもいい、というような態度をよく見るので、回答者さんのような精神、行動が懐かしい思いです。私も和を大切にして生きていけるようにしたいものです。回答有難うございました。
投稿日時 - 2003-10-02 23:46:57