キリスト教洗礼の必要性とは?洗礼についてのアドバイスを教えてください

このQ&Aのポイント
  • キリスト教の洗礼について悩んでいる方へのアドバイスや必要性を解説します。洗礼を受けたり受けなかったりしたキリスト教関係者の経験も紹介します。
  • キリスト教の洗礼を受けることの意味や目的、洗礼を受けることで得られる恩恵について詳しく解説します。
  • 洗礼を受けないとクリスチャンになれないのか、教会員になれないのかについて考えてみましょう。また、洗礼を受けたキリスト教関係者の経験やアドバイスもご紹介します。
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キリスト教、洗礼についてです。

キリスト教、洗礼についてです。 現在、日本イエスキリスト教団(プロテスタント)に通って救道者用の学びを受けております。 通い出して9か月くらいになるのですが、洗礼のことを牧師様が良く話すようになりました。 「受けなさい」とは言われないのですが、学び=洗礼ということを知り、洗礼を受けるべきかどうか悩んでおります。 洗礼を受けないとクリスチャンにもなれないし教会員にもなれなく毎週礼拝献金してますが毎月の決算報告書も頂けなかったり(これは構わないのですが)聖歌隊とか参加できない事も多く寂しい時があります。 しかし悩んでいる理由はこれだけではなく、もともと昔、洗礼も聖餐式もない無教会に通っていたということもあり、(無教会は受けなくても信仰により天国には入れるとの教えです) 本当に洗礼は必要なのか?洗礼を受けなければ天国に近づく事はできないのか?と考えが私の中にあります。 聖書を読んだり祈ったりしてますが答えがみつかりません・・ カトリック、プロテスタント、救道者などキリスト教関係者の方で洗礼された(もしくはしようと思った、しないと決めた)きっかけは何ですか?何かアドバイスを下さい。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.6

カトリック信徒で昨年の復活祭に受洗した者です。 秀逸な回答が多数ありましたので簡潔に私の経験だけ書きたいと思います。 いま質問者様がお悩みになっておられる洗礼を受ける「確かなきっかけ」。私の場合は福音の持つ価値観、教えをこの先の人生で否定することはまずないなという確信に至った時に洗礼を決意しました。ただし、「欲深い自分、その崇高な教えを守れるだろうか…」という不安は受洗前も後もありますが…。 確かに理解し難い教義はたくさんありますし、カトリック教会の門をたたいて受洗までの3年程の間、いろいろと考えてみましたが教義としてまだ理解できてないなと思う事もあります。また、理解していたつもりが人生の様々な出来事の中で、これまでとは全く異なる理解に変わる事もあります。 しかし、いろいろ考えて得た答えは、人間の世界ですら理解できないのに世界を創った神をどうして理解できようか、という事でした。 ただ、理解できる事だけでもその教えは確かに正しく、決して離れる事はないなと思った時、スッと受洗を受け入れようと思いました。 大切な事は、あらゆる出来事、あらゆる形を通じて私たちに語られる神様を信じる事ができるかどうか、という事に集約されると思います。 既に他の回答者様がおっしゃられた通り、洗礼はカトリックでは7つの秘跡のひとつです。 奇跡は目に見える神様の業ですが、それと対極に、秘跡は歴史を通して神様が示された目に見えない(秘とう言葉の通り)神様の業です。秘跡の中に神は臨在すると言われています。それが本当に確かな救いをもたらすか、正直なところよく分かりません。隠されて目には見えないのですから当然といえば当然です。話は大きくなってしまいますが、いつでも神様は臨在するというのがカトリックの教えではありますが、本当にそうかは誰にも分かりません。ただ、歴史を通して現されたこの秘跡の中には絶対に神は臨在しているはず、もし臨在しないのならキリスト教会は店閉まいした方がいいある司祭がおっしゃられておりました。 質問者様はどのようにお考えになるでしょうか。それをどう捕らえるかによって、洗礼は様々な意味に変化することでしょう。 すみません。簡潔どころか、冗長な文章になってしまいましたが、時に人間の理解を超えるけど、私は神様の教えや価値観から決して離れませんよ、という神様への素直な約束が洗礼を受ける時の決意と想いでした。 長くなりましたが確かな想いの中で、良い日を迎えられることを心より祈っています。

meipiano2010
質問者

お礼

神様の教えや価値観から決して離れませんよ、という神様への素直な約束が洗礼を受ける時の決意>わかりやすい回答ですね。私も同じ気持ちです。ありがとうございました。

その他の回答 (5)

  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.5

洗礼を受けないとクリスチャンにもなれないし 教会員になる事とクリスチャンになる事は別ですよ。 礼拝に行ってないクリスチャンも多いし 奉仕に疲れて信仰を失ったと言う人も多い まあ 希望者全員が聖歌隊には入れるなら寂しいよね・・ 歌いたいなら余計に またクリスマスのイベントもチョット寂しい・・ これは確かにありますよ。毎週行って仲間はずれにしていないけどそんな感じを受ける。 私自身の洗礼においては流れと言う感じ。教会に行く前から信じていたし洗礼に関しては気にしてない それよりも本当に信仰があるのか・・・こっちが大切だと思う・・ 私自身こうして回答してますが基本無所属と言う感じ 来会と言う感じかな・・ 奉仕するのも構わないが義務でするというのも嫌だし 教会に行くことには拘ってませんね。 まず祈ってみてください。

meipiano2010
質問者

お礼

教会員になる事とクリスチャンになる事は別ですよ>そうなんですね。 私自身の洗礼においては流れと言う感じ>そういう方もいるのですね。 本当に信仰があるのか・・・こっちが大切だと思う・>わかります。 「絶えず祈りなさい」ですね。ご回答ありがとうございました。

回答No.4

わたしはクリスチャンです。 今から30年前に洗礼を受けました。 正直申し上げまして、洗礼の意味、キリスト教的意味を十分理解するために、私の場合は25年近く経っています。 わたしがひとことでお答えするならば、洗礼はぜひお受けください。一日も早く洗礼の志願を教会へ申し出て、洗礼への準備をしていただくことを、心からお勧めします。 キリスト教は、「いま」を語る宗教でありつつ、「歴史的」宗教であるということが出来ます。 キリスト教、特にプロテスタント教会はその成り立ちから、いろいろな立場でものをいうことが許されておりますが、やはり、キリスト教の歴史性を無視して、キリスト教を語るとしたらおかしなことになるでしょう。 他の方が「洗礼は救われるための儀式ではない」といった意味合いのことをおっしゃっておられますが、先に申し上げたキリスト教の歴史から申し上げれば、このコメントは「当たらずとも遠からじ」と言ったところだと思います。 2000年のキリスト教は、洗礼と聖餐(パンとぶどう酒の食卓)と福音の説教を中心にして成り立ってきました。これは揺るぎのないことです。 そして洗礼の位置づけは、キリスト教にとって中心的なことです。 カトリック教会や正教会(いわゆる旧教)では7つの大事な秘跡を保っていますが、プロテスタント教会の多くはこの洗礼と聖餐の二つです。 その違いについて、ここで申し上げることはいたしませんが、宗教改革以降、キリスト教にとって最も大切な事柄として宗教改革者たちやそれを受け継いだ人たちが、この二つの事柄を本当に大切にしてきたのです。 なぜでしょうか? それは、この2つのことは「神の出来事」としてきたからです。 「神の救いの手段」とも表現される、洗礼は、キリスト教にとって命とも言える事柄です。 2000年のキリスト教会は、この洗礼を「神の救いの手段」として、これを福音として語ってきたと言っても過言ではありません。 ぜひ、お読みになることをお勧めしたい本があります。 それは「洗礼―新しいいのちへ」という本です。 キリスト教会で洗礼はどのように位置づけられ、どのように扱われ、洗礼を受けた(る)者たちにどのような意味があるのかを読みやすく書かれています。 既に教会礼拝へ出席されているとのことですから、十分お読みになれると思います。 私たちが「信じた」と言っても、それは大変心もとないものです。わたしも既婚者でありますが、妻を愛する熱い思いは、夫婦ゲンカのたびに、どこかへ消えてしまっています(^^; ましてや、キリスト教の「なにか」を信じたとしても、いとも簡単に、それは捨てられてしまえるような、弱くむなしい事柄のように思える日がくるものです。 そのような時、「あなたは洗礼を受けている」という事実、この揺るぎない事実、水をつけられ、また水に浸されたあの感覚を思い起こし、「わたしは洗礼を受けている。神のものとされている。」と証ししてくれます。 キリスト教信仰の大切な「法則」があります。それは、救いは「向こうから」ということです。わたしたちの危うい思いを超えて、その救いは確かな「向こうから」来る、というのがキリスト教信仰の法則です。 洗礼も、いまのあなたにとってさほど必要と思えるような事柄ではないかも知れません。しかし、あなたが望まずとも、洗礼の水は目の前で流れている訳ですから、そこに手を伸ばせば良いのではないでしょうか?その水は「神の救いの手」ですから。 「血は水よりも濃い」と昔の人は言いました。確かにそうです。しかし、そのつながりの危うさも私たちは知っています。相続争いなどがそうです。 しかし2000年のクリスチャンたちはこういってきました「確かに血は水よりも濃い。しかし、水は血よりも強い」と。 ここでいう「水」とは洗礼の水です。 私たちが、状況や環境、老いなどで救い主を忘れてしまうようなことがあっても、あのお方はこの「水」の出来事故に、「決して忘れない」と言われるお方だ、というのです。 わたしは、この洗礼によって救われた、救われているといえます。まわりから、また、わたし自身がそれを否定したとしても、とても救われたように見えなくても、それにも関わらず、救われているのです。洗礼によって、キリストとむすばれましたから。

meipiano2010
質問者

お礼

意味を十分理解するために、私の場合は25年近く経っています>少しホットしました。自分も意味不明なことばかりなので ・・「洗礼―新しいいのちへ」>タイトルからして読みたくなりました。探してみます。 キリスト教信仰の大切な「法則」救いは「向こうから」>奥深い言葉ですね。 洗礼は神様と結婚するようなものと何かの本で書かれてました。 ですから授かるとすれば人生の一代決心となります。 ご回答ありがとうございました。

  • 4059735
  • ベストアンサー率37% (71/187)
回答No.3

再び失礼します。文が読みにくいのは勘弁です; >お金は神様からの預かりものであり「献金」はその預かった一部を返し神様の為に使って頂く為にお捧げすること は正しいです。その通りです。ただ順序の問題です。 私が一番気にかかったのは >洗礼を受けないとクリスチャンにもなれない で、一体どんな話を聞いているのだろうと思ったからです。洗礼が免罪符のように扱われているのがおかしいと思いました。救われているなら何の問題も無いのですが、先ほども申しました通り洗礼は「今までは罪の中にいたが、キリストに贖われこれからキリストの側として立っていく」というのを公にする事です。 今までは求道者として「もらう側」だったのが、洗礼を受けて次は「与える側」になる事です。これをはっきり、神の目にも、自分の目にも、他者の目にもはっきりさせるのが洗礼です。マタイ28:19、20を読んで下さい。「弟子としなさい」と書いています。これは命令で、「弟子」とするにはまず、自分が弟子とならなければなりません。まあ、教会によって特色はありますが、聖書に従うという点とキリスト者は営利目的の宗教とは違うという明かしをする上でお金という非常にデリケートな問題に敏感になりました。自分は救われていて、主に従って主から預けられた一部を返す、だから献金する。はクリスチャンとしてとても麗しい光景です。ですが、教会には頭をキリストとした秩序があります。 あなたが本当に十字架を自分の事として受け入れているなら救われています。その時に聖霊は宿っているでしょう。きっと世の友達と一緒にいる時も色々な事で葛藤はあったのではないでしょうか。 >聖書の勉強や礼拝をきちんとしたいと思うようになったから を見て、そう思いました。前回答の御言葉をもう一度反芻して、そこに土台を据えて下さい。私の言葉より神の言葉を信じて下さい。クリスチャンは「聖書を読む」「祈る」「教会に行く(交わる)」の三つが出来ていないと正常な成長ができません。だからもう一度教会に通い、たち帰ろうとするのは本当に素晴らしいです。また、そのようにあなたを導いて下さった主を賛美します。前回も言いましたが、洗礼はスタート地点です。私達の最終目的はキリストに召された者としてキリストに似せられていく事です。似せられるために聖書を読み、学び、祈り、他のクリスチャンと交わります。 「キリストは教会を愛された」ウイリアム・マクドナルド 「主の御名のもとに集う」ノーマン・クロフォード は洗礼を受ける前の勉強教材としてよく使われます。「キリストは教会を~」からの引用で財源(献金)の部分に「新約聖書は一貫して、教会はその財源を教会内の人々にもつものであることが、述べらてもおり、示唆されている。教会の外部にある、まだ救われていない人々が教会を援助するために寄附をするということは一言一句も暗示されてはいないのである。キリスト者がささげることは、礼拝の行為なのであり、かくてキリストの貴い血によって贖われている人々に限定されているのである。」云々と詳しく書かれています。一度、読んでみてはどうでしょう。 私も信仰面は赤ちゃんで、これから成長させていただく小さな者です。前回は救われるようにと祈りましたが、次は成長のため、答えがみつかるよう祈らせていただきたいと思います。マタイ7:7を贈ります。

meipiano2010
質問者

お礼

現教会員の方は私のことを洗礼を受けていない為求道者と言います。洗礼を受けている方をクリスチャンと言います。洗礼式である子供は「神様に少しでも近づきたいと思ったから」と授洗理由を述べてました。 また説教の中でも「天国に近づく為にも洗礼を・・」と言われてました。洗礼と献金にも順序があるのですね。 質問で述べた様にもともと無教会に通い育った為、水の洗礼式を見たことも意味を詳しく知る事もありませんでした。ただ献金箱はありましたが玄関に置いてあるだけでした。ので本当に意味を理解したのは最近です。(当時は子供でしたので聞いてても理解してなかったのかも知れませんが) 現在求道者の学び以外、聖書も創世記~と、マタイ~いちから勉強しております。マザーテレサや三浦綾子さんの様に何らかの形で主のお手伝いができればと思っております。 「キリストは教会を愛された」「主の御名のもとに集う」>探してみます。 知識不足で頭も悪く信仰、希望、愛にも欠けてますが聖書と教会ととても未熟ですがお祈りを大事にしていきたいと思います。 お祈りととても丁寧なご回答ありがとうございました。

  • 4059735
  • ベストアンサー率37% (71/187)
回答No.2

長文失礼します。 ちょっと、そこおかしいと思って回答させていただきました。 まず、>洗礼を受けないとクリスチャンにもなれない はおかしいです。洗礼は救われるための儀式ではなく、救われた事を公に明かすための行為です。なので救われている確信も無いのに洗礼するっていうのは不可解です。 私が読んでいる聖書は「聖書 新改訳」(日本聖書刊行会)です。 そこから少し、確認してみましょう。 「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」ローマ書10:9.10 これが本当(信じて疑わず)に自分の口で言えるなら救われています。クリスチャンは聖書を神の言葉として信じ、イエス・キリストを神であると信じています。 「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」Iコリント15:3~5 この二つの聖書の言葉が救いの確信を確かめるのに最適な言葉です。教会に通っておいでのようなので、細かい事は省いていますが、何より優先すべきは人の言葉でも自分の感情や知識でもなく、聖書にどう書かれていてそれを信じるかです。ここをはっきりしとけばブレません。 もう一つおかしいと思った点 >毎週礼拝献金してます クリスチャンとして教会に加わっていない人、ましてや救われていない人が献金するのは変です。クリスチャンはキリストの名のもとに集い、福音を伝えるためにいます。いうなればクリスチャンはキリストを信じる同志で、その集まりが教会です。伝える側が、信じてもいない人からお金をもらってそれを費用に使うのはおかしいです。もっと明確に聖書の中から語ることができれば良いのですが、私の勉強不足ですみません。(でもちゃんとした理由があるんです) 言えることは、ただ教会が、賛美が楽しいから、友達がいるから、等の気持ちで教会に通うのはきっかけとしてはいいけど、それが目的だったら間違いだし、明確に救われている確信も無いのに洗礼を受けるのは異常です。それなら受けない方がいいでしょう。 「神の存在」「人間は罪人」「聖書は神の言葉である」「イエスは神である」「十字架は私のためである」「復活は事実である」「再臨はある」 この福音があなたの中に入っていますか?そして全て事実として信じていますか? 聖書はキリスト教の経典ではありません。‘教え‘ではありません。神の言葉(語りかけ)です。ここに信頼を置いていたら決して裏切られません。洗礼はゴールではなく、スタートラインです。あなたが救われる事を祈っています。

meipiano2010
質問者

お礼

クリスチャンとして教会に加わっていない人が献金するのはおかしい>そうなんですね。初めて知りました。 昔通ってた無教会の方は洗礼を受けてない人ばかりでしたが献金してましたのでして良いと思ってました。 あなたが救われる事を祈ってます>自分は救われてると勘違いいてたのかも知れません。ありがとうございました。

meipiano2010
質問者

補足

説明不足ですみません。 ずっと使用しているのは日本聖書協会発行の新共同訳です。 ですから「神の存在」「人間は罪人」「聖書は神の言葉である」等・・・信じてます。 長い間教会から離れてましたが幼い頃に覚えた御言葉は様々な危機から救われるきっかけとなりました。 自分はクリスチャンだと思ってました(周囲にもそう伝えてました)が現教会に通うようになり洗礼を受けてないのは求道者であることを知りました。 お金は神様からの預かりものであり「献金」はその預かった一部を返し神様の為に使って頂く為にお捧げすること ではないでしょうか? 教会に再度通い出したのはクリスチャンの友人が欲しかったのもありますが、聖書の勉強や礼拝をきちんとしたいと思うようになったからでもあります。

  • E-FB-14
  • ベストアンサー率14% (402/2868)
回答No.1

小生10年ほど前に洗礼をうけました。 ホーリネスの教会です。 当時は逆境にあり、人恋しくて近所の教会に通いだし、なり行きで洗礼を受けました。 そして現在、宗教に対する考えは健康食品のようなものではないかと思うようになりました。 元気なときには元気の出る薬になりますが、一度病気になると治癒するのを妨げるようになります。 今又逆境にあり献金すらもない状況にあります。このようなときには何の役にも立ちません。 体が元気なときには献金をして礼拝をして教会員と交わりがありますが、 今の私の状態は献金のお金すらなく、足も満足に歩けなくなりこのような状態に合って 神も仏もあるものか、というのが本音です。 やはり最後は自分で人生を切り開かなくてはなりません。 ですから教会へは何年も行っていません。 大変文が散文になり読みにくいと思いますが、勘弁してください。 何か夢を壊すようなことを書きましたが、これが私の本音です。

meipiano2010
質問者

お礼

何か夢を壊すようなことを書きましたが>気持ちなんとなくわかります。現在通っている教会で洗礼されたのに長いこと心の病で病院の薬とカウンセリングから手が切れない方がいます。ですから教会とは?洗礼とは?と時々考えます。ですから最後は自分で人生を切り開かなくてはなりません・・一理あると思います。 体調がお悪い中ご回答ありがとうございました。

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