死刑廃止論者の死刑執行

このQ&Aのポイント
  • 死刑制度の廃止論者である法務大臣が死刑執行を命令するという矛盾が起きている。死刑制度そのものの是非についての真意は分からないが、人の普遍的な問題を含んでいる。
  • 死刑執行の命令は法務大臣の権限内であるが、本当の論点は法的な死刑制度そのものである。国の機関が人の死を決めることの是非について考える必要がある。
  • 死刑制度には被害者家族の憤怒や苦しみを乗り越える安息を与えるという考えもあるが、結局は死刑によって愛する家族が戻ってくるわけではない。死刑制度は人が人を殺すことに変わりなく、冤罪の問題もある。
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死刑廃止論者の死刑執行

死刑廃止論者の死刑執行 千葉氏は死刑制度の廃止論者だったと言われていますが、法務大臣として2名の死刑執行を命令しました。省内からの圧力だったか、あるいは自らの選挙戦敗北から次期への布石が働いたのか、誰も真意は読み解くことはできません。 みなさんは、死刑制度の是非について、どのようにお考えですか? これは質問と言うより、「見方」をお聞きするものです。 このテーマはあまりに重く、簡単に何が正しいとか、おかしいとは言えない話題です。 人の普遍的な問題を含んでいるからです。 かつて、鳩山邦夫法務大臣は死刑囚をパッカパッカと13人も執行を命令しましたが、私は法務大臣の死刑執行の"命令"の有無はあまり大きな問題でないと思っています。なぜなら、最高裁など国の司法機関で法律に基づいて判断した以上、法務大臣がこれを否定するのもおかしな話ですから。 本当の論点は、「法的」な死刑制度そのものです。つまり、本当に国の機関が「人の死を決めていいのか」です。例えば、アメリカの大統領は、アフガンやイラク、ベトナムでも何万人という民間人を殺害してきました。しかし、その戦略を支持した大統領や国務長官などは有り余る報酬で老後を優雅に生活しています。そう言う歴史はよくある話で、日本でも起きています。「大量殺戮すれば免れ、数名でも個人だから死刑」という矛盾を含んでいます。 一方、自分の愛する子供を突然、殺されて心のやり場のない苦しみにある家族がいっぱいいるのも事実です。なぜ、最愛の家族を亡くしたのに、殺人者が刑務所で生きながらえているのかという絶えがたい憤怒が家族に湧き上がるのも必然です。全国犯罪被害者の会が今も立場を主張しています。 一方で、我々は、自分の「意志」でこの世に生を受けてきた訳ではありません。また、人を殺すために生まれてきた人もいません。近代の哲学者カントの認識論には、人間の思考にある後天的なものを明確に取り上げています。例えば、鳩山邦夫氏の両親が、小さい頃に離婚し精神的に情緒不安定になり、非常に生活にも困窮していたとしたら、場合によったら、窃盗や、生きるための非人間的な行動に陥ったかも知れない。これを100%、否定できないでしょう。人は誰も社会で育ち、規制改革などの失敗も含め、国の制度や施策の影響を受けています。自殺者が多いのも、ある意味、国の施策の原因が何パーセントかあるでしょう。 では、もし、刑務所内で飯を食って長らえているのは許せなくて、なんとか、死をもって償うこと以外、家族にとって許容できるものが無いという考えだけが優先されるとしたら、上記のような後天的な国が作った要因はどうなるのだろう?死刑を執行する国そのものにも遠因があるはずである。 さらに、死刑執行が本当の意味で、被害者家族に、苦しみを乗り越えられる安息を与えることになるだろうか?殺された愛する家族が戻ってこないという事実は、未来永劫、決して消えないし、結局、被害者自ら運命を乗り越える以外に無いのも事実である。 果たして、怨念と敵(かたき)によって、残された人間は苦しみを乗り越えることができるのだろうか?何も生まないと私には思えてしようがない。例え、国家であろうと、死刑制度は、人が人を殺すことに変わりない。冤罪の問題もあり、凶悪事件の抑止に直結するとも思えない。 内閣府の死刑制度に関する調査によると、最近は85%ほどが容認となっているようである。ここ何年か増える傾向にあり、秋葉原殺人事件のように「誰でも良かった」とするような理解を超えた残虐性が増えていること事にも原因があるのかもしれない。 一方、世界的には死刑制度は廃止の流れが強い。 みなさんも、是非一度、感情論だけではなく、人はなぜ生きてきて、何で苦しみを乗り越えられるのか、また、社会制度を果たして絶対的なものとして受け入れていいのか、自問して欲しい。

  • vp88
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質問者が選んだベストアンサー

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  • ray_ray
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回答No.9

死刑制度は廃止すべきだと考えています。いかなる場合でも人が人を殺す権利はありません。ましてや国が人を殺す権利はありません。 死刑は国による殺人です。 個人が人を殺した場合は殺人罪、では国が人を殺した場合はなぜ殺人罪にならないのか。勝てば官軍だからでしょう。 また、普通の市民であり、人ひとりの命は地球一個分と同じぐらい大事、という意味合いのことを口にする多くの日本人がなぜ国が人を殺すことを認めるのか、子供のころから理解できませんでした。戦争を放棄をしている日本だからこそ、国による殺人を公に認める制度は廃止するべきだと思います。 犯人を殺しても社会から犯罪が消えることはありません。 死刑制度は見せしめの役割があるという意見もあるそうですね。はたして役に立っているのでしょうか?多くの国が死刑制度を廃止、もしくはこの10年執行していないはずですが、では、それらの国々で犯罪率がいちじるしくあがったということはありません。変わらないのです。つまり、死刑制度があろうとなかろうと、犯罪はおきるのです。見せしめの効果はほとんどありません。 罪を犯した人だけが悪いのでしょうか。 わたしは中学・高校時代、自分の母親と、母親の同棲相手でわたしをレイプしようとした男性を殺したいと、憎しみの中で彼らが様々な方法で死ぬシーンを妄想しながら思春期を過ごしました。実際には手に掛けなかったのですが、もしわたしが彼らを殺害した場合、わたしだけが悪かったのでしょうか。 また、家族以外にも社会制度に追い込まれて人を殺す場合もありますね。もちろんいけないことですし、あってはならないことですが、それは殺人者だけが悪いのでしょうか。彼らがそういった行動に至る前に、手を差し伸べず見て見ぬふりをしてきた人は悪くないのでしょうか。 ざっくりとですが、わたしの考えをまとめてみました。質問者さんのお考えに近いかもしれませんね。時々知人と議論になることがありましたが、賛成してくれる人はいなかったなぁ。 では、なぜ日本では死刑制度を支持する人が多いのかも、ちょっと考えてみました。 日本人が死刑制度を容認するのは仇討ち・ハラキリの名残ではないでしょうか。 今では廃止された制度だとはいえ、日本に住んでいれば子供のころから時代劇などで親や配偶者などの仇をうつ物語を見聞きし、またそれが「正義」として扱われている環境で育ってきました。また、ハラキリも同様ですね。感情の部分で「死んで償え」という文化が現在でも残っているのかもしれません。 日本人の多くは死んだらどこに行くのか深く考えていない 特定の宗教に依り頼んでいないので、死んだら山の上から天に昇るのか、氏神になるのか、仏になるのか、極楽浄土に行くのか、キリストのいる天国に行くのか、そうじゃないなんとなくの概念の天国に行くのか、草葉の陰から見守るのか、幽霊になるのか、無になるのか、生まれ変わるのか、無宗教の場合バラバラです。 わたしの感じるところとしては、多くの日本人は死んだ後のことをあまり深く考えていません。よって、死んだあとのことではなく、現生のことだけを考えます。今がよければよいのです。だから、死ぬということが最高に恨みを晴らせる方法だ、と考えるのかもしれません。死刑で死んでもアイツは生まれ変わったら幸せになるかも、それは許せない!とか、そんな風に思う人多くないでしょうね。 ちなみに、仇をうったら恨みは晴れるのかなぁ。わたしが恨んでいた人が、知らないところで数年前に死んだと知った時、それでも憎しみは消えませんでしたよ。憎しみは相手が死んだことではなく、別の方法によって取り去られました。

vp88
質問者

お礼

冒頭で書いたようにこの問題、誰が正しく、誰がおかしい、というような指摘は、あまりすべきではないと思っています。数学のような回答は無いと思っています。 ぼくは、ray_rayさんの書かれたことの中に、深く共感できる一文がありました。 「いかなる場合でも人が人を殺す権利はありません」という指摘ですが、これは我々がどんな宗教にあろうと、無かろうと、あまりに普遍的、根元的命題だと思います。 キリスト教の死生観を背景に説明されている人もいますが、ぼくは「人が人を殺す権利をもっているか否か」という命題を前に、宗教観というより、もっと哲学的論理的な次元だろうと思っています。 私が投稿文に書いたように、人は自分の意志で生まれてきた訳ではありません。もし自分が選択的に後天的環境を選べるのなら、多くの人は「鳩山家のお坊ちゃま」のように数億円のお小遣いをもらえる家に生まれたいでしょう。一方で、死刑囚としてこの世から抹殺された永山則夫などは、カタカナしか読めない母親のもとで極貧の家庭環境で育ちました。結局、生活苦で母が息子を捨てるという現実が起こり、永山則夫には子供心に深い傷が残ります。人を信じられなくなります。 永山則夫は死刑判決後、何千冊という書物を刑務所で読みあさり知識欲を満たしていきますが、その哲学的、思想的思索がどんなに深くても既に手遅れとなりました。本を何冊か出版し、被害者家族に印税を全て送ろうとしますが、彼の深い思慮は社会で生かされることは無く短い生涯を終えます。 このような非選択的、後天的社会制度の中に産み落とされるのは、天皇陛下でも公園の浮浪者でも同じでです。幸運か不運かはまさに千差万別の人生を生みます。アフガンやアフリカ難民ではなく、日本社会に生まれただけでも幸せかも知れません。 このような社会状況を差し置いて、所詮、不運な境遇で適応できなかった存在者を、果たして制度として国が生存権(ルソーなどが言う自然法)を奪っていいのだろうか?死刑囚は密室に幽閉され事実上、人生を奪われたも同然である。人間として存在意味は充分、失っている。 もし我々の社会が人間の存在と生きる尊厳を認めるように振る舞いながら、一方で社会制度に圧殺された不運な人を「法制度」で生命を奪うなら、それは恐ろしく傲慢な「人間否定」の思想を私は根底に見る。それこそ矛盾ではないか。 獄中で幽閉されているものへの"仇"と"怨念"による存在者の「全否定」は、残された被害者家族にとって、何かの未来をもたらすだろうか? 私が言いたいのは、もはや対象(幽閉者)に向かうべきではないのである。自らの精神に未来や価値を生み出すしかないだろう。それこそ後天的世界で生きている我々の揺るぎない事実なのではないだろうか。

その他の回答 (9)

  • Sierra-5
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回答No.10

殺人犯でも死刑囚でも人は人です。人の形をした悪魔ではありません。私やあなたと全く同じ人です。血も赤い色のものが流れています。哲学的ゾンビでもなく、痛みも苦しみも感じる存在です。違いは偶然、糞みたいな育ち方をして、犯罪者になったことです。それこそ本当に"ビッチの息子"に生まれたことだけが原因かもしれません。 死刑容認派や、ちょっとおかしな死刑賞賛派の人たちはよく、人を殺したら生きる権利も認められないと言いますが、なぜ犯罪者の権利が制限されるか彼らはわかっていないのではないかと思います。本能的な報復感情にのみ従っているのかもしれません。その証拠に彼らになぜかと質問しても罵倒の言葉が帰ってくるだけです。同じく人を殺したら命で償うなどという意見もありますが上と同じことです。犯罪者の権利が制限される理由を考えてこなかったがゆえ、宗教の教義のように信じこんでしまっただけでしょう。 犯罪者の権利が制限されるのは、必ず、その制限によってそれ以上のメリットが得られ、かつそれ以上にいい方法がない場合のみであるべきだと考えます。すなわち、 ※犯罪者の権利を制限することが遺族の人たちの心情にとって必ずプラスになり、それ以外方法がない場合。 ※犯罪者の権利を制限することが唯一無二の犯罪抑止力となり、次に苦しむはずだった被害者を確実に助けられる場合。 ※そして更生のためにそれ以外方法がないため制限する場合。 このどれにも該当しない分の権利は、犯罪者と言っても同じ人間ですから、他の人間と全く同じ扱いをしなければなりません。 死刑にする、つまり命を奪う刑は、犯罪者一人の死によって、確実にそれ以上の人の命を助けることができて、かつ、それ以外の方法がない場合のみ適用されるべきです。 ですが、死刑が重大犯罪への抑止力として働くかどうかすら様々な議論の対象になっているところです。 ましてや他に犯罪抑止の方法が、代替として議論されている終身刑(私はこれを支持してるわけではありませんが)をはじめとしていくらでもあるのは自明であり、実際死刑廃止後に廃止前より低い犯罪率を達成している国もあります。 さらにこの抑止力以外の仕組みで死刑が他の人の命を守ることはありません。 遺族の感情を多少ばかりなだめることができても平等に考えればそのために死刑はやりすぎということになります。被害者遺族のことを考えるならそれ以外の方法で最大限の支援やケアをするべきでしょう。そしてそれが犯罪者を育て上げてしまった我々社会にある、間接的な責任でもあります。 死刑は犯罪者の命を不当に軽く見た結果なされる極めて感情的な刑罰だと考えます。 自由意志などを信じた人間による、悪い意志を持った人間は縛り首にしてしまえ、という、現代の魔女狩り行為です。魔術を信じて、悪い魔術を持った魔女を火あぶりにしてしまえ、といった中世の人間と全く同じ状態です 死刑賞賛派の人間は廃止派の人間に対して感傷に浸っているとか遺族の感情を軽く見ているとかひたすら中傷に走っていますが、こちらから見れば、犯罪者であれども一人の人間の権利を完全に無視して被害者側への感傷に耽け過ぎているのは容認派賞賛派の人間ですし、上で述べた理由から被害者の感情がどうであれ少なくとも私の意見は変わりません。 そもそも遺族の感情を軽く見なければ容認派に移るという考え方は、逆に言えばそういう遺族への感傷的な理由で自分は容認派にとどまっているんだよと容認派が自分で公言しているようなものです。 但しもちろん被害者の遺族の処罰感情を否定しているわけではありません。これらは当然のことでしょう。 しかし我々は第三者として公平な立場から何が出来るかということです。 上で述べたように、私は死刑は国家による殺人だという立場ですが、世界的にも死刑は間違いだと考えられ、死刑廃止の流れが加速する中、最近の日本の世論調査では死刑を容認する人間が全体の85%程度にまで達していると聞きます。 間接的にではあれども、主権者である国民はこの殺人の主犯格であり、今も刻々と手を血に染めているものと考えています。一度血に染まった手が清浄に戻ることは二度とないとも考えています。 そこにさらに死刑賞賛派の廃止派の話をひとつも聞かない不誠実な態度を見ていると、この人達は歴史という法廷に立たされたとき、いったいどうやって裁判官の目からその血に染まった手を隠し通すのだろうかと不思議でたまらないほどです。 死刑という不当な刑罰を受けた人間はいずれ加害者ではなく被害者として慰霊される日が来るかもしれません。殺された人間と殺した人間が隣同士の慰霊碑で同じ扱いを受ける日です。犯罪者を死ぬほど憎んでいる容認派はその悪夢の日をどう思うでしょうね。

noname#204885
noname#204885
回答No.8

日本で死刑が支持される理由は、逆説的ですが、日本では人の命が非常に重いからだと思います。だから、「殺人」と言う「特別」な犯罪に対しては、特別な刑を科すべきだと言う考えが出てくるのだと思います。 欧州は、あくまで私の印象ですが、日本ほど殺人と傷害の間の断絶感はありません。日本では傷害事件までは冷静になっていても殺人と聞くと頭に血が上る人が多いですが、欧州では、そのような傷害と殺人で大きく取扱が異なると言うことはなく、傷害の延長上に殺人があるようなイメージではないかと思います。欧州の方が命の重さが日本より軽いことの証拠としては、例えば、鉄道事故や航空機事故の死亡補償金の金額の差などにも端的に現れています。米国などの懲罰的な例を除けば、日本ほど、死亡事故に対して高額の賠償金を支払ったり大きな社会的責任を取らされる国はありません。 ではなぜ欧州は命の重さが軽いのかと言うと、私はこれこそキリスト教の精神が関わっているのではないかと見ています(右の頬をぶたれたら云々の話ではありません)。私が見る限りでは、一般に欧州人(と言うかキリスト教の人)は、人の死は神様が決めることと考えておられ、日本人のように、まだまだ続くべき命を理不尽に奪われたとはあまり受け取らないようです。一種の運命論ですね。いわゆる「神に召された」と言う表現もそのような思考を反映させた言葉ではないかと思います。葬式を見ても、キリスト教の葬儀は、もちろん厳粛なものではありますが、全体にあっけらかんとしていて、日本の葬式のように皆がむせび泣くと言うことはそうありません。歌う讃美歌も穏やかで明るい感じで、知らない人が見たら葬式か結婚式かわからないくらいです。 そのような非情とも言えるリアリズムの文化が培われた背景には、おそらく、長らく戦乱や疫病に悩まされた欧州の苦難の歴史があるのだと思いますが、このような考え方が真に「人道的」かと言うと、ちょっとそれは異なるような気がします。他の回答者の方が、欧州人が人道的ならばなぜ殺人事件の発生率が日本より高いのかと言う疑問を呈されていましたが、その理由は上に書いたとおりで、「人の命は神様が決める → その人が殺されたのは神に召されたから → 殺人事件を特別視せず特別な刑も科さない」と言う論理構成になっているように思います。 このような欧州の命の軽さは、旅行に行ってもちょくちょく遭遇したりして、例えば、観光地で危険な個所があっても日本のように柵など設けていないと言うような点にも表れています。昔、「自己責任」が「大人であること」と同じ意味で扱われていた時は、これこそ欧州社会の成熟度の現れと言う言い方がされてましたが、事実は少し違っていて、人の生死は神様が決めることと言う思想が根底にあるのだと思います。 さて、結論ですが、以上の考えからすると、日本で多くの人が死刑廃止に賛成するように持っていくには、以下のような考え方を普及させることが有効であると言うことになります。 ・殺人事件を傷害事件と比べて特別扱いしない。 ・人の命は地球より重いなどと考えない。 ・人の生死は運命で決まっていると考える。 ・死亡事故に対して、加害者に必要以上の責任を被せない。 こんな諦観に満ちた考え方はいやだ~!と思う人が、たぶん日本人では多いのだと思いますが、それは、それだけこの国が幸福な歴史を歩んできたと言うことの裏返しだと言う気もします。

  • suzukiyo
  • ベストアンサー率26% (11/42)
回答No.7

きれいごとで社会が回るほど今の社会は成熟していません。 だれも人を殺すことがないような社会になれば、死刑制度を廃止してもいいと思えるけど、 今はまだ時期尚早だとおもいます。

  • tukihana
  • ベストアンサー率23% (11/46)
回答No.6

死刑に賛成の人だろうが反対の人だろうが、自分が手を下す当事者ではありませんよね。 死刑判決を出す司法関係者も死刑の執行は行いません。 絞首台のスイッチはその重みを知るために、求刑を行った検察官、判決を下した裁判官、 命令書にサインした法相の三者が押してはどうでしょうか? また希望するならば被害者遺族がスイッチを押せるようにもするべきでしょう。 これは死刑反対を唱えてるわけではありません。

  • shinta0x
  • ベストアンサー率35% (86/244)
回答No.5

死刑は必要。 既に道徳も怪しく宗教の縛りが極端に弱い日本では抑止力として必須だと思います。 むしろ死刑対象を増やすべきだと思います。 ・銃規制が厳しい日本での銃器による犯罪(暴力団) ・連続婦女暴行(再犯) ・無差別殺人(通り魔的犯行) 冤罪の可能性がある事件等は別にして、現行犯逮捕などは死刑確定後早期の執行を行うべきでしょう。

noname#124369
noname#124369
回答No.4

●死刑を存続すべき 生命を奪った者は生命をもって償う

  • Lead90
  • ベストアンサー率17% (44/248)
回答No.3

死刑執行に無条件賛成 国民の85%が容認していることに、反対、意義を唱える必要はない。

回答No.2

 内容が重いので、軽い論点を提案しておきます (1)死刑を希望して犯罪行為を行った場合、その犯人を死刑することは、正しいのか?   死刑賛成論に対して 確かに死刑に類する犯罪であっても、死刑を希望する犯人にとっては、死刑は願望を叶えることに他ならない  刑罰の考えてとして応報刑の考えがあるが、死刑希望の犯人にとっては、死刑に該する犯罪を行うことが、自己願望の成就である場合に、簡単に死刑にしていいものだろうか? (2)受刑者自身が反省の上、死刑を希望し、社会も被害者遺族も死刑を希望しているならば、死刑にするべきではないか?     死刑反対論に対して 死刑で全てが同意している場合には、死刑の合意形成を尊重する必要性がある。受刑者が刑務所における苦痛を逃れ、死刑を希望する場合でも、死刑反対論は有効なのか?     哲学的な回答は面倒だが、最近論題になっている死刑のレアケースを考える必要性はあるだろう。 ちなみに、オイラは、原則死刑反対論だが、 受刑者も社会も死刑を要請する場合においては、被害者遺族が自費で死刑に処する権利を与え、公的経費なしでの私刑(リンチ)は認めるべきだと思う。 (ある意味ではあだ討ちご免状みたいなものだが) 逆説的に、犯行が死刑になるための行為ならば、死刑を許さず、終身刑を適応するべきだろう。  もっとも、死刑の是非論の上では、終身刑の適否などの外的要因もあるので争論つきない話ではあろう。 かしこ

  • nishikasai
  • ベストアンサー率24% (1545/6343)
回答No.1

>一方、世界的には死刑制度は廃止の流れが強い。 世界は欧米がリードしています。その欧米思想の根底にあるものは何でしょうか? キリスト教です。 キリスト教とはどういう教えでしょうか? 右の頬を打たれたら左の頬を出せという教えです。 人類愛を説いている教えです。 そのような宗教が日本には根付かなかった。良かった! 我々日本人は欧米がキリスト教の精神に基づいて死刑を廃止しているからといって死刑を廃止すべきではありません。 欧米の治安はどうなんですか? 日本と比べてどうなんですか? アイスランドやニュージーランドは多少日本より良いかもしれませんが、人口が比べ物になりません。サミット参加国で治安は断トツで日本が良いです。 キリスト教の人類愛を説きながら殺人の件数は圧倒的に欧米が多いんです。 日本は犯罪に厳しい国家です。残忍な凶悪事件には断固死刑を適用する素晴らしい国家です。この素晴らしい、世界に冠たる法治国家を欧米のアホな人道主義から守り抜かねばなりません。 良いですか。欧米が生意気に日本に死刑を廃止せよなどと言うなら「まず殺人件数を日本と同じ数にしてからものを言え!」と言いたいです。 君たちの国こそ日本の体制から学ぶべきではないのかと問い質したいです。

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    法務省は、死刑執行を法務大臣に迫るようです。 なぜ、法務省の官僚は死刑を執行したがるのでしょうか。 被害者感情などと言っているようですが、被害者の中には死刑執行をしないで欲しいと願う人もいますので、本音は違うところにあると思います。 最近ですと執行が取り沙汰される麻原彰晃がいます。 彼は廃人で、刑事訴訟法上執行できる状況にないようです。 拘置所も病舎に彼をいれているようなので、精神がおかしいと認めているのだと思います。 そのような状況なのに、なぜ彼の執行が取り沙汰されるのでしょうか。 結局、法務省は世論の反対の少ないところから執行しようという魂胆なのだと思いますが、なぜそこまで死刑にこだわるのか分かりません。 省益など何かあるのでしょうか。

  • 死刑廃止論者

    重犯罪がお起こる度に、死刑廃止論者がプラカードを持って裁判所に集まり 「死刑を廃止しろ」と叫ぶ。 その人たちによると「ヨーロッパではすでに死刑が廃止している」という。 では、ヨーロッパの死刑とはどんなものだったのか。それは ギロチンです。 つまり、ギロチンは第二次世界大戦後も行われていて、フランスでは1980 年代まで続けられていました。ドイツ、オランダも同様です。 ギロチンによる死刑廃止が即ち全面的な死刑廃止となったのです。 そういうことを言わない死刑廃止論者は卑怯です。 切断された首が転げ落ちる様をヨーロッパの民衆は楽しんでいたのです。 これだけでも残虐な刑罰と言えますが、日本での斬首刑は明治時代の初期に 行われた以降は禁止になりました。西南戦争終了後に初代鹿児島県知事を 務めていた方の首を日本刀で斬首したのが最後と言われています。 斬首刑が残酷だから死刑を止めた国と同じように語られたら、日本の法律は ヨーロッパに批准し残酷性を止めるために死刑を廃止するという本末転倒の 論理になってしまいます。 どう、思いますか。 私はこのままの死刑制度で良いと思いますが。