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無神論者についての質問

ametsuchiの回答

  • ametsuchi
  • ベストアンサー率31% (81/257)
回答No.6

先ず、「神」とはユダヤ・キリスト教の「God」でしょうか?「神」なる訳語自体、明治以降です。と言っても、太政官令(明治2年?)でもまだ、キリスト教は禁止されてたんですが...。安土桃山頃は、そのまま「デウス」、幕末~明治初め頃のカトリック系の訳語では「天主」ではなかったかな? 「カミ」という言葉自体は極めて古くからあり、アイヌ語の「カムイ」も、借用関係かどうか分からんが、同じ語源からでしょう。これはそれこそ、「八百万の神々」で、山にも海にもどんな所にも宿っていました。「古事記」を見ても南方系と北~西方系の神話がゴチャゴチャに入り交じっていることが分かります。 「神」という漢字がある以上、中国にも「カミ」概念はあります。日本の「カミ」に「神」という漢字を当てはめるのが適切かどうか分かりません。 前置きが長くなりました。私の言いたいことは先ず、「神」を論する以上、これを明確にしないと話にならんということです。話がかみ合いません。「無神論者」なる概念も単なるレッテルに過ぎないと思います。 で、本題。話の前提からして狂っているので答えにならないと思いますが、 0)「神」の存在を信じるか? 信じない。というより、(私にとっては)信じる意味がない。 1)科学的に説明の付かないことに「神」を関与させることについて: ナンセンスである。分からないこと、説明の付かないことを上手く説明しようと人類、特に科学者は努力してきた。わからんことを何でも「神」のせいにするの科学と文明に対する愚弄である。但し、「神」などという訳のわからんものを考えることができるのは(多分)人間だけの特権であり、「神」概念の創造も人間の歴史の上で重要な一歩であったろう、とは言える。 2)「苦しい時の神頼み」をするか、したことがあるか? ない。「神」を信じる信仰心の厚い人にも、信じない罰当たりにも”神様”は平等に処遇する。だから、「神様」の存在を仮定するのは無意味。 -------- 蛇足ながら、伝統社会の人々が、大地の神に敬意を表して獲物や酒をささげる土着的信仰心には敬意を表しており、ユダヤ・キリスト・イスラムの一神教徒らが、これらの信仰心を土足で踏みにじるような行為に対しては、怒りを禁じえません。

dotite
質問者

お礼

回答していただきありがとうございました!!!  最初投稿する時も、全然こういう書き方ではダメだってわかっていたのですが、書いてしまいました・・・説明が足りないだけでなく、こういう書き方は失礼でした!!本当にすいません・・・  私の「神様」の概念はキリスト教でも他の宗教のでも、とにかく人間ではとても出来ない事が出来る存在の事(イメージでは意思がある)を軽はずみに「神」って 表現してしまうんです・・・ (ナンセンスですよね・・・)  PS 私は「無神論者」に対して反感を持ってるんじゃないんですよ!!どっちかというと私もそう「神はいない」って感じで確信を得たい気持ちの方が大きいです。けど確信はやっぱ得られない、それはどんな合理的な説明を受けて頭では納得しても、心のどっかで「居たらどうしよう・・・」みたいな感じの恐怖観念?とピンチの時に現実逃避?として神を登場させる弱い心が「存在」するのです・・・

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