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無神論者についての質問

こんにちは。よくこういう事をふと考えてしまう事があるので他の人(自分より深い知識や意見をお持ちの方)の意見を聞いてみたくなりました(有り難いサイトです・・・)  無神論者って居ますよね?簡単にいうと「神様を信じない人」でいいのでしょうか?(この「簡単にいう」こと自体否定されるのかも・・・) 私は別にどこかの神を崇拝してるわけでもなく、ごく普通(?)に理解できない事があったり(神の仕業とか)、何かピンチの時とか(困ったときの神頼み)に神っていうものが出てくる程度です。  無神論者という人たちは、そういう自分(人間)の能力で解決できない時とかも「神」というのは頭をよぎらないのでしょうか?(そうだとかなり強い人な気がします)  それとこれは私がふと思ったのですが、無神論者というのは、ひょっとしたら私たち以上に「神」というものに何かを求めた事があり、現実を見て信じなく(論じなく)なったのかとあるのでしょうか?  PS 私は「神」が居る居ないの意見ではなく、ただ↑の疑問に答えていただきたいです(討論っぽくなるのが嫌ですから・・・) よろしくお願いします!

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  • kierke
  • ベストアンサー率10% (3/29)
回答No.5

私の場合少し違うかも知れません。もちろん無神論者です。神は世の始めから存在していないと言う人だけが無神論ではなく、始めいたが今死んだというのも無神論です。私は後者です。神の造ったシステムは残っていても造った本人はいない。バッハの曲は残っててもバッハが死んでいるのと同じです。 では、ここからdotiteさん(可愛いネームですね)の疑問にお答えします。 1.「神」というのは頭をよぎらないのでしょうか? はい。死人に頼らないのと同じです。 2.無神論者というのは、ひょっとしたら私たち以上に「神」というものに何かを求めた事があり、現実を見て信じなく(論じなく)なったのかとあるのでしょうか? はい。無神論者と言うより私は求めたし、信じなくなってから確認する為に潜入しましたがよけいに信じられない現実を見、確信しました。 私がなぜ信じなくなったかは、教育 → 文系の学問 → 哲学 #「科学」「哲学」と人は言う。その時、人は何を指してこう呼ぶのか?#ってとこに書きました。そんな感じですね。また、なぜ確信したかは討論ぽくなるから止めます。

dotite
質問者

お礼

回答していただきほんとうにありがとうございます!!  私はちょいkierkeさんの考えに影響されそうです! 今はいない!!!いても特に何も与えない、、こう思っときます・・・ あと、「よけいに信じられない現実を見、確信しました」ってのはもちろん神様ではなく、それを取り巻く「人間」ですよね?? やっぱ人間がダメだぁ・・・  PS 「科学」「哲学」と人は言う。その時、人は何を指してこう呼ぶのか? ってとこ見学しました・・・全然ついていけない(理解できない)です(^_^;;  やっぱ皆様すごいと思いました、私なんかが結構考え込んでなんとなく「わかってきたなぁ」とか思っていても、まだまだ全く外野です(笑)  こんなレベルの投稿に合わせて頂いてありがとうございました!

その他の回答 (6)

noname#155689
noname#155689
回答No.7

私は純粋な無神論者ではないので 参考程度に聞いて頂ければ、という感じですが 「神様を信じない」というよりも 「安易に神様を信じるコトが信じられない」という感じです。 人間の思惑ではどうしようならないようなコトは多々ありますが それを神に結びつけてしまうのはどうか? そういう人は神をどう考えているんだろう? 神をどういうモノだと思っているんだろう? 神(という概念)には多様な解釈があり それらが様々な宗教や哲学となっている訳ですが それを調べれば調べるほど といっても私は仏教と基督教の、ほんの一部を趣味で調べただけなんですが その概念は難解です。 だって、例えば西洋に脈々と流れている神の概念を再考し 神(西洋なので真実在といった意味になる)を語ろうとして 普通の人には何を行ってるんだか理解が出来ないのが 現代哲学ですし 基督教の歴史においても 真摯に神を追及するがあまり難解になってしまった宗派は ローマ・カトリックから(布教に適さないと)異端宣言を受け 葬り去られていたりするわけですから。 そうのような、神や真実への真摯な追及を放棄し 安易に神にすがる現実逃避的な姿勢を ニーチェは「ニヒリズム」という言葉で批判しましたが 私の考えも、それに近いかも知れません。 例えば、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」において アニメではナウシカは神の意思との共生を図りますが コミックでは決別の道を選びます。 実は、聖書においてもマタイ伝は他の伝に対して 矛盾に満ちたものだったりします。 そのような理解困難なモノを どうして簡単に信じちゃうんだろう? 私はそれが不思議です。

dotite
質問者

お礼

回答していただきありがとうございます!! >「神様を信じない」というよりも「安易に神様を信じるコトが信じられない」という感じです。  私も近いかもです!神様を信じる事ができないのではないのですが、例えば宗教ならそれを説明する人間が信じられないです(^_^;; 今までのお礼の考えと矛盾していたり、神に対する概念が変!って思われるかもしれませんが、それは私は「神」に対して追求できているわけではなく、ただすぐ揺れ動いてしまう感情でその時その時考えてしまうからだと思います・・・(^_^;;  多数の回答を頂きましたが、私が「神様」から抜けれないのは、ただ単に現実逃避してるのと、基本的に頭が悪いので、レベル低の不可解現象でも科学の知識も無いし、説明されても理解できないからでしょうね・・・(苦笑)  

  • ametsuchi
  • ベストアンサー率31% (81/257)
回答No.6

先ず、「神」とはユダヤ・キリスト教の「God」でしょうか?「神」なる訳語自体、明治以降です。と言っても、太政官令(明治2年?)でもまだ、キリスト教は禁止されてたんですが...。安土桃山頃は、そのまま「デウス」、幕末~明治初め頃のカトリック系の訳語では「天主」ではなかったかな? 「カミ」という言葉自体は極めて古くからあり、アイヌ語の「カムイ」も、借用関係かどうか分からんが、同じ語源からでしょう。これはそれこそ、「八百万の神々」で、山にも海にもどんな所にも宿っていました。「古事記」を見ても南方系と北~西方系の神話がゴチャゴチャに入り交じっていることが分かります。 「神」という漢字がある以上、中国にも「カミ」概念はあります。日本の「カミ」に「神」という漢字を当てはめるのが適切かどうか分かりません。 前置きが長くなりました。私の言いたいことは先ず、「神」を論する以上、これを明確にしないと話にならんということです。話がかみ合いません。「無神論者」なる概念も単なるレッテルに過ぎないと思います。 で、本題。話の前提からして狂っているので答えにならないと思いますが、 0)「神」の存在を信じるか? 信じない。というより、(私にとっては)信じる意味がない。 1)科学的に説明の付かないことに「神」を関与させることについて: ナンセンスである。分からないこと、説明の付かないことを上手く説明しようと人類、特に科学者は努力してきた。わからんことを何でも「神」のせいにするの科学と文明に対する愚弄である。但し、「神」などという訳のわからんものを考えることができるのは(多分)人間だけの特権であり、「神」概念の創造も人間の歴史の上で重要な一歩であったろう、とは言える。 2)「苦しい時の神頼み」をするか、したことがあるか? ない。「神」を信じる信仰心の厚い人にも、信じない罰当たりにも”神様”は平等に処遇する。だから、「神様」の存在を仮定するのは無意味。 -------- 蛇足ながら、伝統社会の人々が、大地の神に敬意を表して獲物や酒をささげる土着的信仰心には敬意を表しており、ユダヤ・キリスト・イスラムの一神教徒らが、これらの信仰心を土足で踏みにじるような行為に対しては、怒りを禁じえません。

dotite
質問者

お礼

回答していただきありがとうございました!!!  最初投稿する時も、全然こういう書き方ではダメだってわかっていたのですが、書いてしまいました・・・説明が足りないだけでなく、こういう書き方は失礼でした!!本当にすいません・・・  私の「神様」の概念はキリスト教でも他の宗教のでも、とにかく人間ではとても出来ない事が出来る存在の事(イメージでは意思がある)を軽はずみに「神」って 表現してしまうんです・・・ (ナンセンスですよね・・・)  PS 私は「無神論者」に対して反感を持ってるんじゃないんですよ!!どっちかというと私もそう「神はいない」って感じで確信を得たい気持ちの方が大きいです。けど確信はやっぱ得られない、それはどんな合理的な説明を受けて頭では納得しても、心のどっかで「居たらどうしよう・・・」みたいな感じの恐怖観念?とピンチの時に現実逃避?として神を登場させる弱い心が「存在」するのです・・・

noname#4643
noname#4643
回答No.4

宗教が絡む「神」を信じないだけという人は結構居そうですよね。何しろ、八百万の神がいる国ですから、無宗教でありながら競馬の神様やパチンコの神様をことのほか崇拝する人はずいぶん居そうです(^^;)

dotite
質問者

お礼

回答していただきありがとうございます<(_ _)> そうですね、、私も今まで10神様は勝手につくってしまってると思います(^_^;;

noname#1595
noname#1595
回答No.3

中沢新一は、マルクスやレーニンの書物に若いときから接していたと語っていましたが、同時に、それを誤読していたとも述べていました。彼の場合、育った家の問題を突き詰めた結果、おそらく、宗教に接するようになったのだと思われますが、無神論の定義をおおざっぱなものとして捉えた場合でも、スピノザ的な神は、別の代替物という形で、やはり、無神論者にも「神は存在する」と言いうるかもしれません。無神論者とは、「神はいない」という証明不可能なことを信じている背景に神があるとも言いうるのでないかと思えます。

dotite
質問者

お礼

回答ありがとうございます。ちょっと難しくなって来きましたね(^_^;;  しかも国語的にも難しく感じる私です(恥)  期待通り、私より知識があり考えを持ってる方々の回答を得られて嬉しいです。 そしてこの事に関係する人物が何人か名前が出てきましたよね、、そこでまた新たに気になる事があります。  無神論者も「神」に対してかなり探求されますよね?そして勿論信仰者も「神」に対して探求されますよね??   「神」に対してお互い探求してる両者ですが、何故、客観的に「神」を見ようとする無神論者と「神」に対して身を捧げる信仰者が居るのでしょう?  なぜ「神」への探求に対して違う道に分かれるのかまたふと思ってしまいました・・・

  • Tom-k
  • ベストアンサー率30% (21/69)
回答No.2

無神論者。言い換えれば唯物主義という事でしょうか。 目に見えるものは信じられても、目に見えないものは信じ難いものです。科学的だとか医学的とかの表現で使われる事もありますね。 > 無神論者というのは、ひょっとしたら私たち以上に「神」というものに何かを求めた事があり、現実を見て信じなく(論じなく)なったのかとあるのでしょうか? 旧ロシアのマルクス・レーニンがそうでしたね。 宗教の違いから最愛の恋人と別れなければならなくなり、それが元で精神世界を否定するようになりました。 人一倍、愛(神)を信じたが故に形として見えない現実に絶望感を抱いたのでしょう。 私もかつて宗教活動をしていた経験があり、程度は違いますが同じ思いをさせられた事があります。 今ではコンピュータを扱う仕事をしているので「神」所ではありませんね。(^^;) でも、偏り過ぎても駄目かなって思ってます。 人との信頼関係って目に見えないものですからね。

dotite
質問者

お礼

回答ありがとうございます!   >目に見えるものは信じられても、目に見えないものは信じ難いものです。科学的だとか医学的とかの表現で使われる事もありますね。  私は最近、科学者とかがやっぱ凄いと思っています、自然現象による災害の回避や病気を治療する方法なども人間が研究しまくってそうなるわけで(破壊したり発病するのも人間に原因がありますが(^_^;; )やっぱ人間が解決(?)していってるっぽく思えます。けど単純に「神様は居る」って思いますけど(^_^;; (ん~神様に関してはどんな事例を取って考えても難しいというかキリが無いですね)  マルクス、レーニンですか、、、たしか社会主義、共産主義ってなって来ますよね?こうなると話しがデカくなりますね。私にはついて行けない・・・(^_^;; ・・・こういう中途半端な考えはダメだと思いますが、この中途半端さがあるから争いも起きない気もします・・・難しいっす・・・

  • icchi
  • ベストアンサー率25% (5/20)
回答No.1

 こんばんは。  我々一般人が日ごろ想像する「無神論者」というのは、神様を信じていない人を指すようですが、信仰者(お坊さんなどの方)の方々に言わせれば、都合の良い時だけ神様を引き出して勝手にお願いする人々(例:日頃神仏を信仰していないのに、自分が何かにせっぱ詰まったら神頼みする人、そしてなんとか切りぬけたとしてもお礼をしない、事態が好転しないならば、神を罵る人)だそうです。  

dotite
質問者

お礼

回答ありがとうございます<(_ _)> ・・・そうですね、確かに都合良過ぎですよね。 (私は)人に対してもよく頼りますが(苦笑)力になってもらうと感謝し、力になってもらえなくても罵る事なんて決してありませんが、神様に対しては何故か指摘していただいた行動や感情を抱いてしまいますね・・・って事は 人>神様 って感じになっちゃいますね、これは変ですね(^_^;;  たぶん神様は目に見えない(?)からそうなってしまうのだと思います・・・が、すごいいい訳になってしまいますね・・・・ん~難しいです。

dotite
質問者

補足

お礼のところに書いた事を時間を置いて考えてみると少し違った答えが出たので補足という形で訂正しますね >たぶん神様は目に見えない(?)からそうなってしまうのだと思います・・・ と書きましたが、それプラス 神様に対して物事に関して期待をするだけでなく、「そういう感情すら寛大に受けとめてくれる」ような存在だと心の底で思っているのだと思います、人間にこんな甘えは通用し難いですしね。 ・・・・・・・っていうかこの考えがダメなのでしょうが、、、

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