• ベストアンサー

そもそも「哲学」ってなに?

そもそも「哲学」ってなに? 自分なりに考えてみたけど、多次元的な事象を1次元的な「言葉」に変換すること、もちろん事象を見る方位期間によって様々な「言葉」で表現できる、ていう。私の思考はここまでが限界です。 皆様の様々なご意見をお聞かせください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.4

環境認識において、それぞれ個別の対象や現象を有する 学問(物理学、生物学、社会学etc.)を除いた全て。

OtamaFJ
質問者

補足

なるほど。私の観察からすると「確かにそうだわ」と思いました。 ということは「学問でない」けど「哲学」て表現する、てことですね。 (特定の学問分野と思ってる人々が多い) レスありがとうございます。

その他の回答 (8)

  • HANANOKEIJ
  • ベストアンサー率32% (578/1805)
回答No.9

ものの見方・考え方のことだと思います。昔、「ものの見方、考え方」という哲学の本を読みました。 世界観・人生観(歴史観)といってもよいでしょう。 NHK高校講座の倫理の授業で、いろんな哲学者や思想家のことを学べます。 http://www.nhk.or.jp/kokokoza/radio/r2_rinri/ 自然観を組み立てるには、物理、化学、生物、地学、理科総合、数学などを学ぶことが必要です。 社会のことは、現代社会、倫理、政治経済、地理、日本史、世界史も学んでください。 論理、記述については、国語、数学を学ぶのでしょうか。 岩波書店から哲学講座が出版されています。1960年代の古い岩波講座「哲学」2,6を持っています。 2は、「現代の哲学」、6は、「自然の哲学」です。真下信一「哲学の現代的状況」や、坂田昌一「現代科学の現代性」など、今読んでも、新鮮です。坂田昌一博士は、名古屋大学理学部で理論物理学を研究、教育しておられました。一昨年、ノーベル物理学賞を受賞したお二人が、名古屋大学物理学科の出身でした。 NHK高校講座の国語の授業で、坂田昌一博士の「科学の現代的性格」という文章を学んだことがありました。 問題、課題をつかまえること。「核兵器の廃絶」でもよいでしょう。生きているうちに、実現できるかどうかわかりませんが、その運動に参加することです。 OtamaFJ さんの暮らしている都道府県に、課題があると思います。環境問題、政治の問題、暮らしの問題、農林漁業の問題。頭の中で解くことはできても、現実は変わりません。問題をつかんで、よくよく考えて、解決のために動くのです。坂本竜馬のように。直江兼続や前田慶次郎のように。 そのときに、横井小楠や、細井平洲、孟子、孔子、老子などの教えが役に立つと思います。 最近、「エントロピーの法則」という本を読みました。28年前の本ですが、見事に予見があたっています。祥伝社、ジェレミー・リフキン著、竹内均訳です。古本屋でさがしてみてください。 http://www.ruralnet.or.jp/zensyu/syoku2.htm

参考URL:
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/
noname#131234
noname#131234
回答No.8

主観的な言葉は、1次元的です。 主観はどこまでいっても主観でしょう。 普通ならぼやき、最悪の場合、宗教的ドグマという形で社会に害悪を及ぼすようになる。 ところで 自分が有名な陶芸家であると仮定してください。 陶材にもいろいろあることを知るようになります。 最適な陶材を探している自分が、哲学する自分です。 ろくろを舞わす、ダイナミックな一体感が手通我苦体系です。 また自己の最高傑作が幸せと呼ばれるもの。哲学とはそういうものだと思います。 他者の最高傑作を一元的・一次元的・時系列的と「批判」することは出来ますが、 じつは 「自己の最高傑作」を作り出す為には、四命尊堯する心をもつことが早道なのです。 一方、 「1」という概念について考えてみてください。 「1」は、抽象的中立です。「一」は超越しています。「I」は、直感的客観です。 主観ではない。主観ではない概念は存在します。 「1」という言葉をもう一度、考えてみるべきではないでしょうか? 「いち」について考えることが正統な哲学です。

OtamaFJ
質問者

お礼

ありがとうございます。「言葉自体が1次元的」に思えて仕方ありません。 >「いち」について考えることが正統な哲学です。 様々な定義があるんですね。小生には難解です。

  • momonga14
  • ベストアンサー率20% (13/65)
回答No.7

こんばんわ。 そもそも「そもそも論」ほど難しい問いは無いですね。 そもそも人間ってなんだ? そもそも世界ってなんだ? そもそも何で生きてるんだ? そもそも質問者様は何故このような問いを持ったんでしょう? それを考える事もこの問いの回答になると思います。 この「そもそも論」を自分で考えるのではなく他人に聞くのはある種の思考停止だと思いますよ?失礼ながら。 「哲学」に限らず人間は「そもそも何?」と問います。何故問うのでしょうね。 「言葉に変換」と仰ってますが、それは「解釈」と言う意味でしょうか?実はそれが哲学的動機そのものだと思います。 生命・世界・人間・宇宙、これら得体の知れないものを人間は放っておけないんでしょう。だからあらやこれやと解釈してとりあえずホッとするのではないでしょうか。 人間は言語を操る存在ですからね。思考だって言語がなければできません。 では何故「解釈」すればホッとするのか。 ニーチェは「征服欲」だと言ってます。 この得体のしれない存在を言語化することで自己に取り込む、そのような意味だと思います。 では何故征服すれば安心するのか? ここから先は私も良く分かりません。哲学的回答もあるかもしれませんが、恐らく生理的な分野に入ると思います。 思考や感情以前に、人間は生理的存在ですから。 失礼致しました。

OtamaFJ
質問者

補足

>他人に聞くのはある種の思考停止だと思いますよ あくまで参考にしたいのです。よろしゅう。 レスありがとうございます。

  • ratesu
  • ベストアンサー率13% (16/122)
回答No.6

考えること。

OtamaFJ
質問者

補足

何の為に? 目的もなく考えるのは楽しい遊びみたいですね。 しかし、問題解決のために「考える」なら、目的もあっていいと思いますよ。考えて、創造する。これが自然な流れ。

回答No.5

 こんにちは。  ★ 多次元的な事象を1次元的な「言葉」に変換すること、  ☆ たぶん そこに価値判断を容れると思います。容れないと言っても すでに《言葉に変換すること》は 一人ひとりの主観において為されます。  たしかにそのときにも 価値判断とは言っても 倫理学のように善悪判断の範例や規範をそのまま出すというわけでもないでしょう。ないでしょうが 哲学としても ひとの志向性といった領域に首を突っ込んでいるでしょうから 価値判断のさまざまなあり方やそれらの形式をしっかりと考えておくことと思います。  それに 信仰ないし神についても 哲学としての見方をしっかりと持つはずです。  つまり《言葉に変換すること》には 主観とその判断のあり方がからまっていますし ほんの少し志向性として《その変換した内容を 自己の生活や社会の中でどう処理するか あるいはどう実現するか》といったまさに主観的な意志の問題をも扱うと考えます。  つまりは このようなさまざまな主観の内容に関して そこに無論のこと 普遍性を問い求めていくはずです。  ★ もちろん事象を見る方位期間によって様々な「言葉」で表現できる、ていう。  ☆ ですから この《事象を見る方位や期間》の違いによっても変わらない普遍的な内容を問い求めると言ったほうがよいのではないでしょうか?

OtamaFJ
質問者

補足

あなたの言葉を読んでいると、正直あたまの悪い私には理解できません。 この世界が分断されていないように、学問も分断せず、環境認識学みたいな全方位で壁のないの学問を新たに作られることをお勧めいたします。 レスありがとう。

noname#136007
noname#136007
回答No.3

. #2です。連続投稿すみません。 ある哲学者は、 「哲学とは、知的エロスである」 と言っています。 僕は、この定義が気に入っています。 .

OtamaFJ
質問者

補足

エロスは特定の学問じゃないから、上の方の意見にも似た感じがして好感をもちました。 レスありがとうございます。

noname#136007
noname#136007
回答No.2

. 他でも、類似の回答をしましたが、OtamaFJ さんの思考は、どうも、短絡的な物を感じます。 自分で考える事は、大事ですが、それだけでは危ういと思います。 孔子が次ような事を言っています。 学んで思わざれば則ち罔し 思うて学ばざれば則ち殆し http://meigen.shiawasehp.net/k/koushi04.html 哲学とは何か? これは、多くの哲学書に、様々な定義が書かれています。 立ち読みでもいいです。ネット検索でもいいです。 これらを元に、考え、その上で質問されてはいかがでしょうか? .

OtamaFJ
質問者

補足

大卒でなく知能の低い私ですが、短絡的な思考でしょうか。 私の場合は直感的な右脳系で、環境認識する「左右脳」の連携が30代になってやっとできてきた次第ですので、思考については赤子同然かも。

noname#160590
noname#160590
回答No.1

私は単純にしか答えられませんが… 考えることが好きな人のための、“玩具(がんぐ)”かな。

OtamaFJ
質問者

補足

そういう人が多いですね。 何か、認識を深める、という目的があれば、意味もあるのでしょうが。

関連するQ&A

  • 哲学と言葉

    哲学というのは言葉で表現するので哲学と言語は切っても切れないような存在ですよね? 頭で思考している間も言葉で思考していることがほとんどだと思います。 けれど言葉になかなか表現できないような、現在の言葉では補いきれない思考などが浮かぶこともあります。 私は哲学に関して専門的な勉強はしていないので是非哲学を専門に学んでいる方達に教えてもらいたいです。 歴代の哲学者達の本など(入門書に近いものですが)読んでみると、“言葉を数式のように扱い、答えを説いていく”と感じるような文章が予想以上に多くて、数学者に似たようなものを感じました。 数学者の方達も数式を解く時、提唱する時、数式はイメージ、ヴィジュアル、直感で浮かび、またそれを直感で解けるもの、解けないもの(存在し得ないもの)との区別感じとり、解けると感じたものを信じてその数式に挑んでいくと聞きます。でもなんとなく理解できますよね? 漠然としていて文章もめちゃくちゃなんですが哲学者と数学者は結局同じことをしているように感じます。 はっきりとした違い、境界は何かを教えて欲しいです。 どんなめんからでもいいので根本的な違いを教えてください。 酷い質問の仕方でスミマセン。よろしくお願い致します。

  • なぜ哲学はスリリングで軽やかなのか?

    素人ではありますが、哲学には興味があり、そうした本をずいぶん読んできました。 そうしたなかで、前々からあまり快く思っていないことがあって、そのことについて聞きたくて投稿しました。 私は、哲学にかかわる本は、「スリリングな」「軽やかな」「しなかやな」等々の論考であると、ひじょうに独特、かつ極めてワンパターンの形容句で表現されていることがとても多いという印象を持っています。 もともとは、おそらくは「ニューアカ」のころから始まった形容方法だと思うんですが、それから何十年もたつというのに、いまだに飽きもせず、同じように、しかもどんな本ですらそのように表現をしていることに、かなり辟易としています。まして、言葉にセンシティブであり、思考の硬直を最も嫌う分野であるはずの哲学にかかわる仕事をしている方たちが、こうしたパーターン化された(しかも日本語としてわかったようでよくわからない)表現を繰り返し繰り返し使っていることに、抵抗を感じていないことが不思議で仕方ありません。 さらに言えば、こうした表現は、いいことであるという前提で使われていると思いますが、それがいいことだと決めてかかっていることも、思考の停止のようで抵抗があります。しなやかじゃなくて強直のほうがいい場合だってあるかもしれないでしょう。 そういう印象を持たれる方はいらっしゃらないでしょうか?またなぜそういうことになっているのだと思われますか?

  • 「哲学」を安易に使いすぎ?

    よく、投資の哲学とか、 経営の哲学とか、 遊びの哲学とか、 宗教の哲学とか、 政治の哲学とか、 ○○の哲学という言葉が世の中に氾濫していると思うのですが どうでしょうか? 哲学=思想 なのでしょうか? 皆様の意見をお聞きしたいです。

  • |短文|そもそも「状態」とは何ですか|

    |短文|そもそも「状態」とは何ですか| | |時間と空間と時空間および、時間でも空間でもない、というような観点から思考錯誤してください| | |とくに、回答しづらいな、と感じになった方は、思考過程をそのまま文字記号に落とし込んでください。| | |最適化された洗練されたクリアな味だけが勝負玉|じゃぁありあせんと思いませんかねぇ| | |哲学の識者だけが分かる言葉でも回答okです| | |なお返品|苦情|ご意見ご要望なども歓迎します|アーメン|Ξ

  • 哲学は、理屈を屁理屈で固め更にその上から屁理屈を塗

    哲学は、理屈を屁理屈で固め更にその上から屁理屈を塗りたくってる学問なのだろうか? 屁理屈とは? 屁理屈の利点、欠点、限界、盲点とは? 哲学とは、純粋に様々な問題について 考え、深淵や本質に至りるのも哲学だが、 現代哲学は、存在や知識について思考し、 それを言語よりも、曖昧性が低い数学を使って 表現する学問なのではなかっただろうか? 皆さんにとって、 屁理屈とは?純粋な哲学や現代哲学とは? 哲学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。

  • 哲学は怖い学問ですか?

    私は高校生の頃に倫理を勉強してからというもの、哲学や宗教に大変興味を持っています。現在24歳・男です。 たまにこちらで哲学的思考にとらわれてしまい、常に悩み苦しんでしまっている方の書き込みを目にします。 哲学を深めれば深めるほど、哲学無しには生きていけなくなってしまうのでしょうか? 私は哲学を"個の宗教的価値観"として捉えているので、他者に押し付けたりしませんし(押し付けた時点でその哲学は宗教へと変化してしまう)、他者の哲学をまるまる信じてしまうこともしません。 しかしやはりニュースなどを見ると、哲学的な観点で見ることが多いです。例えば、殺人事件のニュースを見たときに『加害者はどういう生き方を送り、どういった価値観を持って人を殺してしまったのだろうか』とか、『もし、この○○が××だったならばどうなっていただろうか』などなど、真剣に背景の推測をすることが多々あります。 倫理の資料集などで様々な宗教や哲学者について簡単に学んできましたし、それらが自分の生き方に大なり小なり影響を与えてくれたのも確かなので、哲学的思考は捨てたくありません。・・・もう癖になっているので捨てられるわけもないのですが・・・^^; もしかしたら私の"哲学"という言葉の使い方は間違っているかもしれませんが、哲学の専門家の方がいらっしゃいましたら回答していただけると助かります◎ よろしくお願いいたします。

  • 哲学をする(使う)と言うこと

    見ていただいて、ありがとうございます。 私は以前、哲学を思考し掘り下げて、行動へ繋げていました。 やっていく内に、掘り下げているとき哲学の構造と自己内部の構造が理解できるようになり 哲学者が言わんとするものの真理と在り方と自身の構造が違うところがある場合 よくよく確かめて、納得がいくものだけ自己内部構造の構造改革に使うようになりました。 哲学的理論構造を常に自分の思う(望む)形に変化させいき、自己の確立として使っています。 勿論、自己内部構造が変化すれば言動も変わっていきます。 普段、使うことに対しての深い話しが出ないので、他の皆さんはどう使っているのか気になりました。 ひょっとして、別の使い方があるのかもという疑問もあります。 違う使い方をしてある方、同じ使い方をしてある方。 いろいろな意見や話しを聴いてみたく、質問することにしました。 ご回答のほど、よろしくお願いします。

  • 大学で哲学、倫理学を学ぶ意味はありますか?

    大学の哲学や倫理学の知識だったら自分で本を読めばいい話です 論理的思考を身に着けるのだったら数学科や情報学科の方に行けばいいし、そっちの方が身につきます 批判的思考や深く考える思考も大学で学べば身につくことではない また倫理学については、大学の生半可な倫理学を学ぶより大学の法学を学んだ方がよっぽど高度に倫理学をしていると思います その辺の倫理学の数十倍は高度に実践哲学の様相を示している。かなり踏み込んだ次元まで粘り強く思考し、複雑な難題に取り組んでおリ、しかもそれが現実・実践・実用に直結している。 大学で哲学、倫理学を学ぶ意味はあるのだろうか?

  • 哲学の目的は何ですか?

    哲学というとなにやら難しいイメージがあります。 そもそも哲学というのはどういう学問で、その目的とは何でしょうか? 人は何のために生きるのかとか、どう生きるべきかなどと探るのが哲学でしょうか? それとも自分が存在する理由を見つけ出すのが目的なのでしょうか? 何かの真実を見つけ出すものでしょうか? 宗教との決定的な違いは何でしょうか? 哲学は、科学的なものですか? 物理学などの思考実験との違いは何でしょうか? 哲学者は、統合された哲学ともいうべき「究極の哲学」を目指しているのでしょうか? それとも宗教の宗派の違いのように、全く別々の流派に分かれているのでしょうか? また宗教って楽しい学問ですか? 初心者にもわかりやすい入門書などあれば教えてください。 ちなみに哲学というと西洋のイメージが強いですが、日本の歴史のなかで哲学と呼ばれるものをはじめた人はだれでしょうか? いろいろ質問してすみません。哲学について何でもいいですから教えてください。 よろしくお願いします。

  • 哲学できるようになるには?

    私は現在ある大学の哲学科に在籍しています。 入学してから今まで受けてきた大学の哲学の授業は、主に教授の話すことを聞いているだけの、講義形式のものがほとんどでした。 しかし、これから進級するにつれて、哲学書などを読んで、自分の考えを発表したり、他の学生たちと議論したりする、学生主体の演習が増えてきます。 そして私は、これから受けることになるであろう、この演習形式の授業に不安を覚えています。 なぜかというと、私は自分の考えを言うことが苦手だからです。 自分の考えを言うことが苦手だというのは、自分の考えに自信がなかったり、恥ずかしかったりするからではなく、そもそも自分の考えというのが頭に思い浮かばないからだと思うのです。 不安を覚え始めたのは、以前、授業のときに教授に「価値って何だと思う?」とか、「理性って何だと思う?」とか、「自分って何だと思う?」ということを聞かれたときからです。 私はこのとき、質問に対して自分の考えが全く思い浮かばず、何も答えることができませんでした。 哲学のなかでは初歩的な質問なのかもしれませんが、私には十分難しく感じました。 他の学生たちも私と同じように答えることはできないだろうと思っていたのですが、予想に反して、しっかり自分の意見を言っていました。 また、「ニヒリズムを克服するためにはどうすればよいか、自分の意見を述べよ」という授業がありました。 このときも私は、「私たちの行いが無意味だと言われれば確かにそうかもしれないし、克服なんてできるのだろうか」と思うだけで、何の考えも思い浮かびませんでした。 なんとなく面白そうだなという安易な考えで、大学の哲学科を専攻してしまったのですが、哲学という学問の難しさに非常に戸惑っています。 哲学は自分には合わないのかなと不安になってしまいます。 こんな私でも、哲学を学び、過去の哲学者たちの様々な思想に触れていくうちに、哲学的な問題に対して自分の考えを持てるようになるのでしょうか? それとも哲学ができるかどうかは生まれ持ったセンスの問題なのでしょうか? 何かアドバイス等ございましたら、よろしくお願いします。