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プラトンとアリストテレスの神観について

今自分の論文(神の姿とは、生まれる前から身についているものであるか、それとも社会や経験によって作り上げられるものなのか)について書いていて、疑問に思ったので質問させていただきます。(ちなみに哲学専攻ではなく、カナダの大学で宗教学を一般教養で取っています) プラトンのイデア論を見ると、プラトンは神(goodness)の姿はイデアとして知っているという考えを持っているように感じられます。多神教の社会の影響やピュタゴラス学派の影響がその後続いて、その神観も変わってきているようですが、この変化を如実に見ることができる箇所などはあるでしょうか? また、基本的な質問ですが、プラトンがソクラテスについて書く時、ソクラテスの考えに同調していた(師としてあがめていたからには、その考えにも納得していた)のでしょうか?ソクラテスのせりふは、プラトンのものであると考えてもいいのでしょうか?プラトン自身の作があまりないので、悩んでいます。 またプラトンが輪廻を信じる原因はなんだったのでしょうか?輪廻を信じるとき、イデアは天のどこかの神聖な想像界をさすのではなく、過去の記憶をさすのでしょうか? アリストテレスはimmovable mover(全てを動かす根源たるもの)を神と定めているようですが、アリストテレスはイデアは経験の中で作られるものだといっています。ということは、神という存在も、経験のなかで作られるものであるとみなしていいのでしょうか? どなたか助けていただける方、回答をいただければ幸いです。

みんなの回答

回答No.7

プラトンもアリストテレスも名前くらいしか知りません、ですが「神の姿とは、生まれる前から身についているものであるか、それとも社会や経験によって作り上げられるものなのか」と云う言葉に引かれましたので書いてみたいと思います。 人間の心や感情は「自我意識」が感じています。それは脳の機能によります。自我意識に感情を湧かせているものが存在している事によります。自我意識には分かり難く出来ています。 人間の体や心は左脳に在る「自我意識」だけでは対応できない処が在ります。それを補っているものが右脳に在る「無意識に封印された意識」です。その意識は体や心をうまく調節しています。 人間に元々備わっているものです。生まれた時から備わっているものです。何も教えられなくとも、乳を飲んだり怖がったりする事を知っています。何も教えられなくとも生きてゆく事を知っている脳の事です。 昆虫でも動物でも本来持っている「命を働かせるための機能」と云っても良いと思います。ツバメが行き先を知っている事や、カマキリが巣を作ったり、クモが蜘蛛の巣を上手に張れる機能です。 人間の脳は他の生物よりも進んではいますが、当然それらの機能が備わっています。その脳の機能、或いは人格を神と云います。その人格の機能は永遠と云う概念を知っています。何故ならば生まれもしないし、死にもしないからです。在るものでもないし、無いものでもないからです。 もっと論理的に言うならば、自我意識は有限しか知りえません、なぜならば「分別」で出来ているからです。分別とは割り切れる事の総称と云えるからです。割り切れる事を有限と云う定義にしてあるからです。自我意識の機能では有限の壁を越えられないと言う事になります。 是が人間の苦しみと云う事になります。有限の壁を超えたい、或いは永遠の命が欲しいと言う事になります。ですが分別脳の機能では不可能な事となります。死に対する恐怖感は右脳の神が与えています。それは「大丈夫、全てを受け入れなさい」と云っています。その意味が分からなくて自我意識は「罪悪感、或いは、心の違和感」として勘違いをして受け取ってしまいます。 それが「神」として恐れている原因です。神は自分の心に存在しています。その事を過去の偉人が残しています。「汝自身を知れ」と云う事になります。その結果が「神と和解した」と云う事になります。心に波が立たなくなると言う意味です。 仏教では悟りを開くと言う事になります。自我意識が仏性に会って人間が生きたまま仏になると言う意味になります。自我意識が自分を働かせている「命を働かせている意思」と出会うと言う意味です。その心は、今まで自分を苦しめて来たものが分かって、その原因を知った事によって、その原因を取り除く事が出来たと言う意味になります。 如何云う事かというと、今までは自我意識が主導権を握って、右脳の働きを無視、或いは嫌っていたと言う事、その無視をされた右脳の意識が、自我意識に働きかけをしていた事が分かった、と云う意味になります。 今度は右脳の働きが分かって以後は「自我意識は出しゃばらなくなる」と云う事です。右脳の意識が主導権を握って自我意識がその意識に従うと言う事になります。是が神と和解して、神の僕となる。と云う意味です。「神の御心のままに」と云う事です。 仏教でも同じ事を説いています。「我を捨てよ」と云う事です。自我意識が苦しい想いをしてきました、自分を忘れて、仏になれ。と云う事です。 神、仏は、教えられなくとも 宇宙の成り立ちや魂の行く先を知っていると言う事になります。

  • kigurumi
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回答No.6

No.5です。 プラトンは、ごくごく一部の人しか、イデア界(全くの善)を知りえず、知りえたと自称する人に言うとおりに生きていればいい って考え。 アリストテレスは、ごくごく一部の人ではなく、全員がイデアを内に秘めており、経験を通してそれを実践できるって考え。 プラトンの考えはカトリック派、アリストテレスの考えはプロテスタント派。 >神の姿とは、生まれる前から身についているものであるか、それとも社会や経験によって作り上げられるものなのか。 私はアリストテレスの考えに賛同するので、経験を通して知りうるという考えです。 だって、羞恥心とかって、所属する社会の概念ですよね。 裸になることは恥ずかしいって生まれながらも獲得しているのかというと、裸族いるじゃないですか。 すっぽんぽんで人前でいても、全然恥ずかしいと思っていない。 ということは、集団が裸でいることは恥ずかしいことだって定義して、子供にしつこく教えたから、子供は何歳かすると、自分が所属する集団の価値観を自分の価値観として、身体反応するまでになったわけですよね。 生まれて3歳くらいすると、記憶する脳の部分ができあがる。 だから3歳以降になり、「裸になるなんて恥ずかしい 服を着なさい」って言われたことを記憶でき、3歳以降になると、人前で裸にならなくなるわけです。 逆に脳が壊れて閉まった人は、人前で裸になりますし、所有物という概念も無くなるので、人のものをとって持ち帰ったりしますよね。 高齢者の万引きも、結局は他人の所有物という概念が希薄になるが、まだ人のものは盗んではいけないという概念も残っているので、こっそりバッグに忍び込ませて、そしらぬ顔をして持ち帰ろうとするわけです。 完全に脳のその部分が破壊された人は、手当たり次第、バッグがなかったら服の中につめこみます。 あきらかにおかしい格好ですが、本人は盗んだという意識は無い。 持ち帰るために服を収納の道具として使う、手に持たないのは、さらに物を掴んむために手を開放しておくため。 そのようなことを考えると、集団の価値観が、我々の倫理になっているわけです。 では、集団の価値観はどこまでが正しいのか。 実はわかっていない。 多数決で、集団の倫理を決めている。 でもその集団でも殺人だけは悪だと思うか? ノーです。 殺人すらも儀式や集団の利益のためには、正義となりうる。 従って結局は、どこまでつきつめても、人間は経験を通しても、全くの義は知りえないわけです。 全くの義を知りえた と思っても、それは有限の義なわけです。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.5

浅くしかやってないのですが、全体像としてこんな感じに捉えています。 ソクラテス以前から昔から漠然としながらも語られていた何か。 それをプラトンはイデアとなずけたんですね。 idea(考え、発想)の語源だと思いますが。 で、それは全く義(goodnessと同じことだと思う)と定義した。 そしてそれは普遍(どんな条件であっても変らない)であるとした。 だから、イデアは永遠不滅であるとした。 肉体は有限ですよね。 人間は普遍、永遠不滅の世界にいたが、肉体という有限に閉じ込められたことで、滅びるが、イデア界に属していた魂は普遍の属性を持っているので、滅びないとした。 ところが有限の肉体を持ったことで、魂も不純になり、死んでも全くの義の世界に戻れなくなると考えた。 全くの義の世界は、全くの義の魂という属性が無いと入れないとしたから。 >多神教の社会の影響やピュタゴラス学派の影響がその後続いて、その神観も変わってきているようですが、この変化を如実に見ることができる箇所などはあるでしょうか? うーん プラトンじゃないでしょうか。 漠然とした概念を、イデアという名前をつけて定義したのが、プラトンですから。 >またプラトンが輪廻を信じる原因はなんだったのでしょうか? イデア論を編み出したからじゃないかと。 かつてそこに人間はいて、肉体を持ったことで不純物になり、全くの善とは違う属性になったが、魂が清いなら有限(悪)が滅んでも、魂が清いのなら戻れると考えわけだし。 >プラトンがソクラテスについて書く時、ソクラテスの考えに同調していた(師としてあがめていたからには、その考えにも納得していた)のでしょうか? うーん ソクラテスが死刑になるとなったとき、プラトンはソクラテスに脱走を勧めましたよね。 茶番裁判に対して、真面目に対応するのは馬鹿馬鹿しいって感じで。 ところが、ソクラテスは人間は単に生きるのではなく善く生きるべきであり、例え茶番裁判であろうと、多数者が決めた判決に対して、脱獄という<不正>をしては、善く生きたものになりえない ってことで、脱獄せず服毒自殺したわけですよね。 (毒を自ら飲むのが、罰だったので) で、そのソクラテスの生き方に<驚愕>して、イエスキリスト話に後になる論を出したわけですよね。 プラトンはソクラテスの生き様をみて驚愕した、というのが、ペトロがイエスが死刑を受容したことに驚愕したって名前だけ変化した。 プラトンはソクラテスの考えを継承して、さらに発展させたわけですが、プラトンが語るソクラテスはソクラテスの本当の生き方だったのか、プラトンの理想像がソクラテスの人物像としてプラトンによって描かれることになったのか、よくわからないんです。 >輪廻を信じるとき、イデアは天のどこかの神聖な想像界をさすのではなく、過去の記憶をさすのでしょうか? かつていて、死後また戻れると信じていた。(正し善い生き方をしたもの限定、これはキリスト教の思想にモロ影響を与えた、だからキリスト教はプラトン主義って言われるわけです。プラトンの思想そのままであり、礎がユダヤ教の考えとは全く違うから。だから新約聖書はギリシャ方面で成立したわけです。だってプラトンのお膝元だから。) >アリストテレスはイデアは経験の中で作られるものだといっています。ということは、神という存在も、経験のなかで作られるものであるとみなしていいのでしょうか? えっとですね。 プラトンの考えは、<イデア界を知っているものの言う通りに生きていれば、イデア界を知らず(全くの義はなんなのか知らず)誤った生き方をして、死んでもイデア界に戻れなくなるってことにってことにはならない。>という考えだったんです。 信者は、我々賢いキリスト教の指導者の言うことに納得しなくても、言う通りに従ってさえいれば、天国に行けちゃいます っていうキリスト教の方針と一緒。(だってプラトン主義だから) で、人間はプラトンは肉体を持ったことで、イデア界から離れてしまっており、イデア(全くの善)は人間の外にあり、その世界に死後帰還することができる って考え。 アリストテレスは、外にあるのではなく、人間は既にそれを持っている(人間の内にある)という考えをすることで、プラトンの思想を批判したわけです。 で、既に人間は清いものを内に秘めている、にもかかわらず、どうして苦が生じるのか となって、<過剰と不足>が元凶だってしたわけです。 内にあるのに、過剰しぎることは不足すぎることで、不幸を発生させている とした。 それで、<経験を通して>なのが過剰なのか不足なのかを知ることで、イデア(全くの善)を定めることができる ってしたんです。 例えば、ケーキ うまくて心が穏やかになりますよね。 でも、食べ過ぎてしまったら、お腹壊しますよね。 じゃあ 腹八分で「このへんでやめておこう」という自制を働かせれば過剰による不幸は起こらなくなると、経験を通して学べる。 <義をみてせざるは勇なきなり>と、なんでもかんでもつっこんで義を貫徹しようとすると、暴君の場合、あっちが強いから、自分の世界を批判する奴 ってことで捉えられて死刑になっちゃいますよね。 勇気が過剰なのではなく無謀と呼ぶ。 ソクラテスもあまりにも過剰すぎたために、無謀になり、死刑を受けることになったってことなわけです。 茶番裁判にも真剣になり、自分が無謀を起こしていると気づけなかった。 つまり過剰すぎて不足すぎた。 アリストテレスは、人間の中にイデアを知る能力があり、経験を通して、それを知ることができるってした人。 (中庸) キリスト教は、神は人間の外におり、自分達の言うことさえ聞いていれば、死後天国(神のいる国)に戻れる ってしているわけで、プラトン主義。 アリストテレスは、全くの義を人間は知る能力を内にもっており、生きているうちに知りうり幸福になることができる って考え。 質問に対する的確な答えはできませんが、ざーっとやった倫理学の流れで、そんな捉え方を私はしました。

noname#131236
noname#131236
回答No.4

日本語に訳してみるといいです。文意が全然読みとれていないようです。 判断という領域を想定したとき、「善=Good」は、 知性(intelligence)を「経由して」得られる神の価値的側面となります。 簡単に言えば「神>善」(無闇に神についてからるべからず。という戒めがあり、キリスト者にこんなことを書いてみせると怒られますから要注意。レポートには書かないでくださいね。) プラトンの考えとアリストテレスの考えが同じであると主張しているのは、アウグスティヌス・反神ダーウィニストのイギリス人(そのもとねたがPorphyrios)です。「イギリス人が言うことはいつも正しい」という病気には気をつけてください。 教条主義的なので、指導教官は、カトリックか無神論者です。担当教官の論文を洗い出し、どのタイプかあらかじめ見斬っているほうがよいでしょう。 a posterioriは、経験自体では、ありません。 悟性範疇では、情念/理性範疇では、経験的因果の推論(日本語的なら邪推)という風に解釈する必要があります。 最低「トマスの第1-3の道」の文章を読んでいないとレポートになりません。

noname#131236
noname#131236
回答No.3

テーマとして、ミッション系私立校中等部の内容なので、 大学の論文というのは理解を超えますが、ヒントという形で 方向性をスケッチいたします。 内容の土台は、トマス・アクィナスの神(性)に至る5つの道です。 カナダでは、中1の学習内容だったと思います。 プラトン関連) プラトン神学は、アウグスティヌスの理解したプラトン主義を 資料にしているはずです。 具体的には、porphyriosのde regressu animaeです。 (第一の道から第3の道まで) アリストテレス関連) 第4の道 アリストテレスのコスモロジー。神は経験ではなく、定義とします。(物理自然後論 XII 6-10に記載あり)神を経験であるとするのは根拠がない。ideaは作り出すものではなく、もっているもの。これはアリストテレスにも通じ、共通します。 余談=予断 第5の道は、人生の意味を神学的に捉えるという内容。これは、トーマス・カントで意見が分かれます。(認識のあり方が違うので) プラトンの作品に出てくる思考・神性について 小説「ツァラトゥストラは、かく語りき」と同様、まずは、プラトン(派)の思考として把握するべきでしょう。 おすすめは 新プラトン主義の誰かをあらかじめ「ことわって」使う という(アウグスティヌスの真似=間違った)やりかたでしょう。でなければ、「ティマイオス」。 >イデアとして知っているという考えを持っているように >感じられます。 論文を書くとき、感情はぬきにしたほうがよいとおもいます。 immanence goodness ぐらいは辞書を引いて覚えておいた方がいいですよ。どちらも「神」ではないようです。(専門の卒論なんでしょうから、しっかり勉強してください。提出は今年中ですか?英語が出来ないとやっぱり大変です。)

audrey0410
質問者

補足

どうも、丁寧な回答ありがとうございました。 ちょうどトマスアクィナスについて読んだところだったので、是非参考にさせていただこうと思います。 プラトンのgoodnessですが…神として理解してもよいと解説文で読んだのですが、違うのでしょうか? Both Plato and Aristotle found a principle of intellectual organization in religious thinking that could function metaphysically as a halt to the regress of explanation. In Plato, this is found in the Forms, particularly the Form of the Good. The Form of Good is that by which all things gain their intelligibility. Aristotle rejected the Form of the Good as unable to account for the variety of good things, appealing instead to the unmoved mover as an unchangeable cosmic entity. 神とはここでも言われていませんが、そのように解釈できるということではないでしょうか? ちなみにこのペーパーはprerequisitのいらないただの趣味でとっているクラスのものですので、卒論レベルには到底及ばないと思います…こういったことに私自身手を出すのは、この9月からですので、何もわからないところでやっている感じです。いろいろヒントをいただいて、本当にありがとうございました。

回答No.2

(1)アリストテレスはimmovable mover(全てを動かす根源たるもの)を神と定めているようですが、  ◇(1)の「アリストテレス」の部分に「プラトン」が入るのかと 思ったんですよ。  つまり、「全てを動かす根源たるもの」という記述を、「変化しない定まったものであり、一方的に人間世界に影響を与えるもの」だと いうふうに私は解釈したので、それがプラトンの考えだと思いました。 2.アリストテレスはイデアは経験の中で作られるものだといっています。  一方で、2.の文を読むと アリストテレスの考えでは、イデアは経験の中で作られるから、「既に定まっている、全てを動かすような絶対者ではなく、人間の営みによって変化し、イデアと人間世界は相互作用がある」としたのだと考えました。  文献などの資料は読んだことが無いので、質問文だけで判断しました。

audrey0410
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 私も同様に、 >>アリストテレスの考えでは、イデアは経験の中で作られるから、「既に定まっている、全てを動かすような絶対者ではなく、人間の営みによって変化し、イデアと人間世界は相互作用がある」 にもかかわらず >>immovable moverとして、定められた存在がある ということに矛盾を感じました。 人間が作り出す神観がイデアだ→神のイデアは変わる??? きっとどこかで勘違いしてしまっているのかもしれません… お手伝いいただいて、ありがとうございました。

回答No.1

神の姿  という言葉がいまいちピンときません...  それから、質問文の訂正をどうぞ。回答がないと訂正できなくてうずうずしているでしょう。。。(アリストテレスは~ で始まる箇所です。)

audrey0410
質問者

補足

私の意味するところの神の姿とは、形ではなくて『神たるもの~である』という定義のようなものです。神は宇宙を作った、神は人を助けるといった個人に特有の神の姿(個性)という意味です。 アリストテレスは~の後の文章を見返しましたが、自分でも何がおかしいのかわかりません…その程度の理解力ですので、配慮いただければ光栄です。

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