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神の音

 宗教と音といえば、音楽や読経、勤行などの木魚や鉦などがありますね。そしてお神楽の音など。  それぞれ皆、宗教的な意味と効果があるのだと存じます。    1.AUM(アーメン=オウム=オーム)というのがあります。   (オーム真理教に関係させないでください)  2.キリスト教ではアーメンといいます(Amen)。  3.その他マントラとかご真言というのがあります。    ある人のお話の中で、いろんな音それぞれは神に関係しているというのか、神を象徴しているというのか、それに現れているというのか判りませんが、対応しているようなことを聞きました。  そして最近、ttp://www.tkc.pref.toyama.jp/furusato/toyamawan/0-toyamawan.htmlに出会い、一番上の「神のいます海」というのを読みました。  先のAUMでは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%A5%9E%E4%B8%80%E4%BD%93における   ブラフマーは“あ”だそうです。   ヴィシュヌは継続で“う”だそうです。   そしてシヴァは創造の終了、破壊で“む”だそうです。  何か日本語の“あいうえお”を連想します。  記紀や風土記、各地に残る神話、或いは古史古伝の中でも、母音特に“あ”が大事なものに付いているそうです。  1.こういう音はつまりは神だということなのでしょうか?   象徴であるということなのでしょうか?   それとも呼び出したりお会いしたりするための合図なのでしょうか?  2.神とこのように関係する音は母音ではどういうものがありましょうか?どんな神に関係していましょうか?  3.bragelonne さんは今もたくさんの回答のある質問ですが、曽って私の質問で古事記か日本書紀かのことを出して、この私の質問にご回答くださいました。  残念ながらそのときは私の理解をこえていました。  記紀で神と音や発音で語っているところがあったら教えてください(bragelonne さんのご回答が今、どうしても見つからないのです。)

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回答No.1

単一の母音が発生されるとき、顔面部の形態、特に口元の形態は、それに相応した形態になっているでしょう。 「あぁ」、「ah」 --- 共感したり、納得したり、安堵感をともなうような、口元がほどけるようなときに出る音でしょう。同時に目は半開状態で、優しい目元になっていることでしょう。 乳児の「あ」を含む発音とも関連することでしょう。 「おぉ」、「oh」 --- 驚いたり、感動したり、口元が少し緊張して、目も見開いたような状態になっていることでしょう。 それまで、全く交流の無かった人々と、言葉が通じ合わなくても通じ合えると言うことは、感情と表情との繋がりが同じであるという背景があるでしょう。そうして、表情は母音と密接に繋がり合っているでしょう。 母音は強く情と結びついているように思われます。 そういった情が、たとえ分断されていたとしても、広く人類にとって共感可能だということは、そういった「共感可能だ」という共通概念(交換可能な知)が、知らず知らずのうちに、人類を越えてアプリオリなものとして「原初からある」かのごとく錯覚に陥る危険性を備えているでしょう。 本当に「原初からある」と捉えるならば、そこ(共感可能な音)を通り越した向こう側に(人類にとっての)「神」(の概念)を見るのかも知れません。

krya1998
質問者

お礼

 k_jinenさん、ありがとうございます。  子音前の母音の、表情や感情との関連性。  それはその辺りから多分に、原初・根源性に触れてくる要素が思い浮かびますね。広く通じ、どこのたれにもamity善意と調和。無警戒と受け入れ。  母音のそういう性格に、現代人はもう古代の人のようには感受できないようになっているのかも知れませんね。  原初からあるか、根源性かはわかりませんが、昔から人種や民族を越えて、そういう感情性をもってきたようですね。  母音って母の音ですね。お教えのことを考えるとよく名をつけたと存じます。  子音は分断、区別、分別(ぶんべつ・区分)に関係しますね。  母音を全部、包みうけいれますね。  そういう違いもあるのかもしれませんね。  自分の考えの余計な感想まで書いてすみませんでした。  ありがとう御座いました。  回答してくれるかもしれない、お言葉の方がおられますので、もう少し開いておきます。  またどうかお教えをいただけますように。  このご回答で私は満足しているのですが。

krya1998
質問者

補足

 回答番号:No.9と11のbragelonneさんのご回答でも、何か発する音はやはり言葉の原初なのでしょうね。  二番のkigurumiさんもインド・ヨーロッパ語族の“m”音と大地や地上界のことに触れられております。  御三方様の示唆に満ちたお教えに感謝し、今後の勉強を期して一旦、この質問を閉じさせていただきます。  どうもありがとう御座いました。  こんごともどうかご教導賜れますよう、お願い申しあげます。

その他の回答 (10)

回答No.11

 No.9を挙げたあと これは違ったかなと思いました。  分かりませんが つぎをも掲げます。  大地の子――その意味で 《ねこ(根子)》――とみづからを呼んだ日本人は みづからの自然本性の中に 光り輝く能力を見出しました。こころ(精神)のことです。それゆえ 根子でありつつ同時に ひとは 《ひこ(日子)》でもあると自覚しました。  このネコとヒコとがそれぞれ スサノヲとアマテラスとにつながって行きます。  そして このいわば《ネコ‐ヒコ》連関としてのひとという存在は この世界に《イリ(入り)》して 世界観を打ち立てました。ネコ・ヒコのほかには 《モノはコトである( e = mc^2 )》と捉えていたようです。   §1 まづ ひとのあり方をどのように捉えたか。  心のあり方として こうです。狩猟・採集・漁労というように自然界にあるモノを そのまま取る作業に従事して生活するときには モノに取り憑いた心でした。《ヨリ(寄り・依り・憑り)》なる原始心性と言います。  やがて その心の中に 時間が流れ出します。稲であれば 野生の稲を採集するのではなく みづからが季節とともに栽培するようになった。育てるという作業とともに 時間の経過を伴なうことにより 歴史知性を獲得します。おそらく子どもを育てるという仕事が役立っているのでしょう。これを 《イリ》知性と言います。  その後 この歴史知性であれば 何でも出来るという超知性も現われました。  これら三つはまとめて 順番に    ○ ヨリ原始心性(自然への寄り・依り・憑り)  →○ イリ歴史知性(自然と歴史への入り)  →○ ヨセ超歴史知性(イリ知性を嵩にきてその光り輝きに酔ってしまい    もはや如何なるものの下にも立つまいとする寄せの知性・痴性)  というあり方です。   §2 イリ歴史知性は 世界をどう捉えたか。  モノおよびコトとして認識したようです。結論として こうです。  モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主)  コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主)   ↓       ↓            ↓  自然・社会・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・かみ  この範式において 次の図式も得られます。  モノの木――――――ねこ(根子)――――――生命の木  日の移り行くコト――ひこ・ひめ(日子・日女)――日(光源)  モノは どちらかと言うと 質料・身体であり コトは エネルギ・精神にかかわります。  記紀には おほたたねこ(大田田根子)や みまきいりひこ(御真木入彦)が登場します。同時代の人物であり 後者は 市長を務め 前者は 一市民で オホモノヌシのカミの子であったと言います。《イリヒコ歴史知性》の古代人における霊性のしからしめる認識でした。   §3 ネコ・ヒコらの生活とその後  つまり オホタタ(田田)ネコが 田を耕し(田返し) イリヒコが その知性をもって 世界に《入り》するということは 精神を耕すというものでした。植林あるいは薬草による医学にも 精を出しました。  つまりは 一人のひとが 《根子(身体)‐日子(精神)》の連関から成る存在であり あるいは《根子(市民)‐日子(公民)》の連関構造なる社会的存在のことです。  やがて そこへ ヨセ超歴史知性が出現し――たとえば オキナガタラシヒメ(息長足姫=神功皇后)は 《神を帰(よ)せたまひき》とある―― 日子は もっぱらの公民として立ち そのスーパー歴史知性にものを言わせて やしろ(社会)を 二階建てとしたという歴史につながっていくわけです。《オホタタネコ(市民)‐ミマキイリヒコ(市長)》連関としてのいまだ平屋建て社会の上に スーパー日子が立つという構造です。一般市民=イリ歴史知性は かれらに道をゆづり 好きなようにさせました。  木から木の実を採る仕事が 稲から米を育てる仕事に移るにつれ 今度は 木の実や稲の実のほうから ものごとを捉え考えるに到ります。あたまの中で 利潤を先取りし その営利という考えが先行するわけです。  実のりを 《まつり(つまりこれは かみとの共食です)》において いただく生活から すでに二階建てになったその第二階にあって 《まつりごと(これは 稲の穀霊もしくは天の神と添い寝をする大嘗祭がしるしです)》のもとに まつりごと(政治)をとりおこなう。ネコ市民はこれに従うという社会生活になった。やがてこの利潤追求は 巨大古墳の造営となって《結実》しました。  《まつり》のときの村におけるふつうの人びとのふつうの和の生活を 《まつりごと》は やまと(大和)の国として 上から号令することになりました。まぁ 高度成長もしましたし ゆたかになったわけですけれどね。  うんぬん。うんぬん。  このように ネコ市民が ヒコ(いや われ考えるゆえにわれありと唱えるところのスーパー日子)公民に 道を一歩ゆづるというとき とは言うものの ネコ市民の中には これらのもっぱらのヒコ公民にすり寄っていき ゆする・たかるという習性を会得したものもいるようです。  アマテラスの悪口ばかりではいけないとすれば このスーパー歴史知性は じつは じつに それはそれは並大抵の努力ではなく その心の光を身につけようと精進したものです。  これでもかこれでもかと ますます人間的となるようみづからをきびしく仕つけました。いよいよ人間的になったというとき まわりを見渡すと だれもこのことに気が行っていない。がっかりして いわば仕返しの道に入った。  自分ひとりでは その徳の高さ・思いやりの深さを保つことが出来なかった。ならば 人びとをおのれの知性により寄せてやれと。(あぁ これも悪口になってしまいました)。むろん自分たちとしては 社会のためという思いです。それでも もっぱらの公民は みな初めの志については 目を見張るものがあるというものです。  はてさてこの先 日本人のたましいの行方は 如何あいなりましょうか?  * ヒトコトヌシ(一言主)のかみ:雄略ワカタケが葛城山で出会ったという。かれに対して 一言主の神は こう名乗ったとある。   《あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言 言離   (ことさか)の神 葛城の一言主の大神ぞ》  《言離(ことさか)》は 言い放つの意という。《さか》は 《とおざかる(遠・離る)》∽《さく(離く)》(他動詞形)と同じ言葉だそうです。  ヒトコトヌシとオホモノヌシとは 神として同一であろうという見立てにもなっています。    *  このヒトコトヌシの神のことでしょうか。葛城山を行く雄略ワカタケの集団と同じ姿で 向こうの山に現われたなどなどと記しています。一説では 単純に《やまびこ》のことかと言います。これで 音とつながりました。  どうも的を射るものにたどり着きませんね。

krya1998
質問者

お礼

 回答番号:No.9のお礼でも書きましたが、神話の理解には貴重な切り口を与えてくれます。  お話をよく咀嚼して、記紀などの勉強に役立てるように致したく存じます。  大回答に心からお礼申し上げます。  今後ともどうぞよろしくお願い申しあげます。

noname#98948
noname#98948
回答No.10

以上 挑発に乗って 変な回答をだしておいてやった 変はお前だ。

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。

回答No.9

 こんにちは。  ★ 宗教の音  ☆ は例によって わたしは受けつけません。(音楽だけを取り出せば 別ですけれど)。また  ★ 神の音  ☆ と言っても よく分かりません。直接にはつなげないほうがよいかと考えている者です。ぎゃくにつなげるならば――間接的につながりを見ようと思えば―― 時空間のすべては 神からの手紙です。邪魔をしたりくだらん内容を十年一日のごとく書いたりするのも 神の手紙だと まづは 受けとめるのがいいと思います。  そのくだらなさをきちんと明らかにしておかねばと思ったのですが くだらんと一言いっておけば済むようにも思えて来ました。あとで別に投稿を寄せるかどうか分からないとしまして どうも過去のわたしの回答というのは つぎのことあたりを言っておられるのかとまづは思い 掲げます。   ことばの生成をめぐって考えたものです。    *  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相のそれ/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     ’u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)   とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを 合成すれば 《やま‐と》のかたちに つくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。〔たとえば ほ(穂・秀)‐いづ(出)⇒ ひいでる(秀でる)〕。ここにさらに《ま(目・真) / ろ(親愛称) / ば (意味不明)》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意志表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。  音韻の発声から 文の形成に到るのは 《わたしと自然環界および人為的環界(=社会)およびへそ曲がりのわたし とのあいだの関係交渉をとおして》であろう。

krya1998
質問者

お礼

 bragelonneさん、お忙しいところありがとう御座いました。  先に頂いていたご回答の叙述形式と、今回のこのご回答の叙述形式とが異なるようですが、多分、先のご回答を更にご親切に思想的根底から説き起こしてくださっているものと存じます。  ご労作に心よりお礼申し上げます。  簡単に感想やお礼を投稿する事を、今は控えます。  母音と神的(かみてき)存在、forceとの対応性という私の頭との齟齬する世界ですが、日本語の発生や発達、そして神話存在や心性の関連は、貴重なご研究と思索の一端なのであろうと、大事に致します。  ありがとう御座いました。

noname#98874
noname#98874
回答No.8

今は 君の知識すべてが邪魔 になる

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。

noname#98874
noname#98874
回答No.7

その後に君の知識の持つ意味が氷解し 真の姿を以ってそれを見直せるようになる と思う。

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。

noname#98870
noname#98870
回答No.6

そして目を覚ませ 真相を知りたければ

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。

noname#98869
noname#98869
回答No.5

考える力のない メモリー頭 貪欲に知識を覚えてもその意味も解らなければ 使い方も知らない。 いつまでたってもウサギとカメのウサギだ 目障りなウサギだ おとなしく見てろ

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。

noname#98866
noname#98866
回答No.4

その時々で 違ったものが出現するんだよ 学んで思わざれば則ち罔く、思って学ばざれば則ち殆し だ。

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。

noname#98866
noname#98866
回答No.3

知りもしねぇくせに 時代時代で 変化するんだよ 昔の過ぎた記録でしかない。 時が切り拓らかれる時 その時々で出現するものでしかない。

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.2

>1.こういう音はつまりは神だということなのでしょうか? Om:東方の太母神が物質界を生み出すときに唱えた普遍的名創造の言葉 とされるそうです。 Omという文字は・・・ネットで検索したけど、その文字の元となる絵が無いですね。 漢字って象形文字じゃないですか。 それと同じようにOmも象形文字で、絵から文字になったもの。 カーリーの妊娠した腹部を呼び出す呪文で、オームは「マントラ(真言)の母。 日本でも天皇陛下は公の場で日本国民に対する発言をするときは、文字を読み上げているじゃないですか。 真言(力ある言葉)として唱えているから。 正しい時に正しい発音をすれば、言葉は実体化すると信じられているから。 オムは日本語だと阿吽かな。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%90%BD というわけで、音は知っていても、それを正しい時に発音しないと、創造や変化は起らないとされているんです。 だから、その時を知っている人が、正しい時に間違えずに正しく発音するって概念がマントラにあり、天皇は神ってことなので、間違えずに言葉(文字)を実体化させるために、読み上げているという宗教行事かな。 ユダヤ教でもあるんです。 神の名前を知っている人が、手順を負って一語一語言葉を呼び出して、神を実体化させる、つまり神の前に立つって概念が。 古代の大祭司は神の名前を知っており、大贖罪の時に、民族全体の贖罪をするため、神の前に立つ、つまり神を呼び出していたとされます。 神を呼び出したときが一番恐ろしいときで、大祭司は民族全体の罪を清めるために、全体の身代わりとして罰を受けるってこともありえるわけですから。 >2.キリスト教ではアーメンといいます(Amen)。 ユダヤ教でもアーメンっていいます。 エジプトにアメン教ってあったんですね。 最初に言葉が述べられてアメンって言う。 そのアメンの後に最初に言われた言葉が解説される。 イコールみたいな意味として使われる。 新約聖書でもそう。 最初に言って、アメンって言って、具体的に最初に言った内容を現実のたとえ話として解説する。 イエスは最初に何かいって、その後、具体的に例を挙げて説明しているように物語はなっているでしょ? アメン神の言う通り って意味として使われていた言葉が、後にユダヤ教でも使われるようになり、その意味が正確に継承されず、「同意です」とか「その通りです」という意味として使われるようになった。 もともとアメン神の言う通りです って意味。 ちなみにアメンはアモンに変化した。 アモンはキリスト教では悪魔。笑 悪魔として嫌っている者を讃える言葉、アメン。 知らないので、言えてしまうわけです。 真言であると知らなければ、言えちゃう。 >2.神とこのように関係する音は母音ではどういうものがありましょうか?どんな神に関係していましょうか? 要するに呪術なわけです。 漢字ってもともと呪術の時に使われていた道具を描いたものが、文字になったもの。 全部じゃないですが。 もともと絵で表していて、それが文字としてお互い意志の伝達道具として使用されだした。 http://www.amazon.co.jp/%E5%B8%B8%E7%94%A8%E5%AD%97%E8%A7%A3-%E7%99%BD%E5%B7%9D-%E9%9D%99/dp/458212805X これ漢字の成り立ちが説明されている辞典。 http://74.125.153.132/search?q=cache:gRWeXLw1f48J:hidehirotakeda.blogspot.com/2009/03/blog-post_24.html+%E7%9F%A5%E3%82%8B%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80+%E7%99%BD%E5%B7%9D%E9%9D%99&cd=30&hl=ja&ct=clnk 我々は伝達音として言葉を使用していますよね。 漢字・文字お持つ力を利用するため、発音してつぎつぎ実体化させているわけではなくて。 だから実体化しない。 マントラは正しい時に正しい発音をしないと、創造が起らない とされるんです。 漢字って実は恐ろしいものなんです。 知らなくて使っていてよかったぁ 知ってたらうかつに言えないよ もし 本当の文字に力があり、たまたまその時にうっかり知らずに発音しちゃって、実際何かが起ってしまったら大変。 アリババと40人の盗賊では、アリババは真言を知っていたでしょ? 太母神の胎内を開く呪文を知っていた。 アラジンと魔法のランプ。 アッラーって神、ジンって壷から呼び出された精霊。 Omの壷から精霊が呼び出されて、いろんなことをかなえてしまうでしょ? ああいうイメージを古代の人は信じていたんです。 語源ってあるんです。 インド・ヨーロッパ語群ではaは始まりや誕生を表す文字。 mは水・源を表す。 だから インド・ヨーロッパ語群に言語では母親はMから始まるんです。 例えばママ。mを2回発音していますよね。 仏陀のおかーさんは マーヤ 、イエスのおかーさんは マリア、船の港はマリーナ。 MAという言葉をさらに複雑化させると、MATERIALとか、MATTERとかMATRIX とか。これらはMAの派生語。 どんどん言葉を作り出して、複雑なことまで表現するようになったわけです。 音は神か。。。うーーん 人間には限界があり、犬は聞こえるのに人間には聞こえない音域とかありますよね。 確かに音は波で波が届くことで、人間は「なんか言った?」とは反応するわけですが。 古代の巫女とかシャーマンの職業だった人。 神の言葉を授かるとされたとされるが怪しい。 統合失調症の人は幻聴があるじゃないですか。 我々には聞こえないものが聞こえたり見えたりする。 古代の呪術者たちは、麻薬を使ってその幻聴・幻覚を故意に引き起こして、「お告げじゃ」とか言い出していたわけです。 古代、麻薬でトリップしていなくて、脳内物質の過剰で幻聴・幻覚をリアルのことだと思う人の中にも、呪術系のお仕事についていた人はいたと思います。 幻聴幻覚が起っていないときは、普通の認識ができるので。 ずっとおかしなこと言っていたら、狂人とされ当てにされないでしょうけど。 で、このような人たちが我々が見えないものが見えて、聞こえないものが聞こえる、それを「神からの啓示である」と自信たっぷりに言った場合。 我々は弱いんです。 何か悪いことが起こるってことに。 しかもマイナス思考の人は、ちょっとした日常に偶然起りうることも、お告げの予言が当たった と関連づけちゃいやすい。 で、「ほらみたことか。お告げ通りだ」と言われちゃい、「あなたの言うことをこれからは信じますから どうか災いが起りそうなら、事前に教えてください、どうすればいいですか」ってなるわけです。 ところで、「びっち」「ふぁくゆー」とか日本人はガンガンつかいますよね。 言葉の持つ力を知らないから、日本人同士の会話で気軽にバンバン使っていてゲラゲラ笑っていられるわけです。 もし、これを英語圏の人に言ったらどうなるか。 青ざめて沈黙されるか、床に叩きのめされる。 ちなみに、ビッチはもともとは月の女神のこと。 キリスト教は女神崇拝を憎んだので、女神崇拝する集団をビッチの息子達とさげすんで言うようになり、人をさげすむとき「サノバビッチ」というようになったわけです。 英語圏の人の多くは「クソやろう」という意味で使っているが、もともとは「この呪術をやる邪悪な女神崇拝者どもめが」ってさげすむ意味があったんです。 で、そいういう呪術を嫌うキリスト教も、実は呪術の力を信じきっているので、エクソシストを養成しているんです。 キリスト教の唱える言葉のほとんどはマントラ。 天にまします我らの神よぉ っていいますが、あれもマントラ。 呪術を行っているわけです。 言葉には力があると信じられ、唱えることで、現実になるって信じているんです。 ところが信者の多くはそれがマントラであるという認識が無く、マントラとしては使用していない。 つまり正しい時に正しい音で発音していない。 つまり 言葉は実体化はしやしないんです。 って以上雑学ですが、考察のご参考になれば。 私はマントラを信じているか、はい であり いいえ。 イタリアで「ちーの ちーの」って言われたことがある。 意味わかんないので反応できなかった。 私はその言葉の持つ意味を味を知らないので、相手は何かを起こそうと思って唱えた音であっても無効なんです。 私がその言葉の意味を知っていたら、言葉は実体化し、私は中指たてて応戦したでしょうね。

krya1998
質問者

お礼

 kigurumiさん、久方にお会いできました。しばらくどこに杖と笠を向けていかれているのか判らず、八州を手下に探させようと思っておりました。 O:>1.こういう音はつまりは神だということなのでしょうか? O:Om:東方の太母神が物質界を生み出すときに唱えた普遍的名創造の言葉 とされるそうです。 ●“東方の太母神”ですか。私たちの精進しているインドの思想では創造のいしきになったブラフマが観念をvibrate(発出)したvibrationだと教えられています。それが母なる創造界だということです。“太母神”とはいいませんが、聖なる母です。 “太母神”って無論日本語ですが、東方というのはつまり、メソポタミアなどの地方でしょうかね。元の呼称はなんというのでしょうね。 O:Omという文字は・・・ネットで検索したけど、その文字の元となる絵が無いですね。 ●絵あります。私たちは。そして置物にもしています。私はしまっていますが。 O:漢字って象形文字じゃないですか。 それと同じようにOmも象形文字で、絵から文字になったもの。 カーリーの妊娠した腹部を呼び出す呪文で、オームは「マントラ(真言)の母。 ●カーリですか。私たちはガンガです。マントラの母とは教えられています。 O:真言(力ある言葉)として唱えているから。 ●:私たちは、その力がともなわなくった現代人でしょうかね。 O:オムは日本語だと阿吽かな。 ●そうなんです、阿吽とかオン(真言宗にありますね) です。 O:天皇は神ってことなので、間違えずに言葉(文字)を実体化させるために、読み上げているという宗教行事かな。 ●真にみな、言葉に実がなくなりましたね。 O:>2.キリスト教ではアーメンといいます(Amen)。 O:ユダヤ教でもアーメンっていいます。 ●判ります。 O:エジプトにアメン教ってあったんですね。 最初に言葉が述べられてアメンって言う。そのアメンの後に最初に言われた言葉が解説される。イコールみたいな意味として使われる。 ●つまり、認証とか、確証。或いは敷衍というようなものですね。プロテスタントでもそんなニュアンスですね。はあ同意ですか。

krya1998
質問者

補足

 お礼欄の続き: O:アモンはキリスト教では悪魔。笑 悪魔として嫌っている者を讃える言葉、アメン。 知らないので、言えてしまうわけです。 真言であると知らなければ、言えちゃう。 ●そんなものですね O:>2.神とこのように関係する音は母音ではどういうものがありましょうか?どんな神に関係していましょうか? ●漢字などのこと、白川さんのこと多少存じ上げておりました。ありがとう御座います。 O:マントラは正しい時に正しい発音をしないと、創造が起らない とされるんです。 ●はい、間違って唱えてとんでもない事になった例は幾つか知っております。はい漢字も。 O:mは水・源を表す。 だから インド・ヨーロッパ語群に言語では母親はMから始まるんです。 例えばママ。mを2回発音していますよね。 仏陀のおかーさんは マーヤ 、イエスのおかーさんは マリア、船の港はマリーナ。 MAという言葉をさらに複雑化させると、MATERIALとか、MATTERとかMATRIX とか。これらはMAの派生語。 どんどん言葉を作り出して、複雑なことまで表現するようになったわけです。 ●これは大変示唆的ですね。この地上界の客体存在が、“m”で開始することばで、共通しているのですね。欧州方面に起源している言葉では。 音は神か。。。うーーん 人間には限界があり、犬は聞こえるのに人間には聞こえない音域とかありますよね。 確かに音は波で波が届くことで、人間は「なんか言った?」とは反応するわけですが。 O:で、このような人たちが我々が見えないものが見えて、聞こえないものが聞こえる、それを「神からの啓示である」と自信たっぷりに言った場合。 我々は弱いんです。 何か悪いことが起こるってことに。 しかもマイナス思考の人は、ちょっとした日常に偶然起りうることも、お告げの予言が当たった と関連づけちゃいやすい。 で、「ほらみたことか。お告げ通りだ」と言われちゃい、「あなたの言うことをこれからは信じますから どうか災いが起りそうなら、事前に教えてください、どうすればいいですか」ってなるわけです。 ●そういう事も多々あったと存じます。 O:ところで、「びっち」「ふぁくゆー」とか日本人はガンガンつかいますよね。ちなみに、ビッチはもともとは月の女神のこと。 キリスト教は女神崇拝を憎んだので、女神崇拝する集団をビッチの息子達とさげすんで言うようになり、人をさげすむとき「サノバビッチ」というようになったわけです。 英語圏の人の多くは「クソやろう」という意味で使っているが、もともとは「この呪術をやる邪悪な女神崇拝者どもめが」ってさげすむ意味があったんです。 ●そうなんですか。異文化は難しいものですね。 O:キリスト教の唱える言葉のほとんどはマントラ。 天にまします我らの神よぉ っていいますが、あれもマントラ。 呪術を行っているわけです。 言葉には力があると信じられ、唱えることで、現実になるって信じているんです。 ところが信者の多くはそれがマントラであるという認識が無く、マントラとしては使用していない。つまり正しい時に正しい音で発音していない。 つまり 言葉は実体化はしやしないんです。私はマントラを信じているか、はい であり いいえ。 イタリアで「ちーの ちーの」って言われたことがある。 意味わかんないので反応できなかった。 私はその言葉の持つ意味を味を知らないので、相手は何かを起こそうと思って唱えた音であっても無効なんです。 私がその言葉の意味を知っていたら、言葉は実体化し、私は中指たてて応戦したでしょうね。 ●そうですか、日常的な言語なども使う人がそのように使うとマントラの一種としての働きもあるのですね。でも言葉の実体化信仰もあるが、・・・、ということですね。

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    京都・上賀茂神社の末社・福徳社の御祭神は福徳神なのだそうです。 2月24日には「さんやれ祭」が行われています。 この福徳神についてですが (1)記紀や祝詞などに登場する神様ですか? (2)他にも福徳神を祭っている神社はありますか? (3)福徳神に関係する神話や伝承をご存知でしたら教えて下さい。

  • 皆さんの「神」に対する考え方

    obrigadoです。 この前はたくさんの方にお答頂きありがとうございます。 その後の他のカテゴリーで私の質問見て頂いた方にはお解りでしょうが、ほんの少しですが前向きの考えれるようになりました。 ただ・・・私は「神」に対する考えが少し変わりました。 例の件で自分のせいとはいえ、今の所、神に対して、(その教祖さんに対しても)不信感が多く募っています。母親は相変わらず毎日手を合わせていますが私はあれ以来一切手を合わせていません。 そんな母は「罰が当たる、またお前がそんな態度でいたら家族にも罰が当てられる」と言います。「どうして罰当てられないといかんのだ、家族の為に信じたくもないのに信仰しなくてはならんのだと反発し、日々喧嘩になっています。 話しがズレましたが、 お聞きしたいと思います。(私見で構いません) 1・神様っていると思いますか? 2・信仰していた事でいい事ってありましたか? 3・願い事をする時、どの程度まで祈りますか?(気休め程度であるとか、全身全霊を込めてだとか) 4・これは主に宗教家さんにお聞きしたいのですが(別にどなたでも構いませんが)「神」というのはどう考えるべき存在だと思われますか? またはご自由にご意見あれば聞かせて下さい。 なお、煽りやこの質問と関係ない回答はご遠慮願います。 皆さんの「神」に対する価値観や考え方が聞きたいだけで言い争いたい訳ではありませんので。

  • なぜ、こと神のこととなると人は饒舌になるのか?

    たとえば、このカテゴリーでもしばしば、 神についての問題が質問にあがりますが、 それに対する回答数はぬきん出ています。 対して、哲学や神学のちょっと専門的な質問になると、 閑古鳥が鳴いています。 街を歩けば月二、三度は、宗教勧誘に出くわします。 日本には、解脱者、救済者、生き菩薩、ブッダ、キリスト、 牧者、超人、神、鬼、化け物、魑魅魍魎、細木和子らが、 右にも左にもわんさといて、 絶えず「我唯独真理なれば汝此れへ来たらん」と説きまわります。 狭き門?それはうそ。どうしてどうして、 あの人もこの人もが真理を知ってる。 けっこうな大通りじゃないですか。 学校での成績も振るわなかったある女性が、 何でもある日突然、神に選ばれたそうで、 キリスト教の説教者になって、 真理なるものを語り始めました。 ただし、故郷ではなく別の街で。 「神」でググると、でるわでるわ。 検索になりゃしません。 いったい、神とか真理のことになると、 どうして人は饒舌になるのでしょうか? 最後に、どうかこの質問に、 閑古鳥が鳴きませんように。

  • さて「神の存在の証明」やってみましょうか

    木霊の声が風のように心を心地よくくすぐる。 その話しかけてくる友達の声に答えてセレビィは目覚めた。 実在する男子プリキュア キュアプリムだ。 男子プリキュアなのに男が嫌いだからプリムだ。 惨劇に歓喜する祭りでもある。 今回は「実在する妖精の捕まえ方」本編でもあるね。 今回あらかじめ準備するネタは↓ あんた、妖精が実在すると信じるかい?その4 https://okwave.jp/qa/q9319132.html 回答者とも応答も関係しているから読んでくれ。 さて哲学だけでなく心理学も、自己のより深い内面の探求と関わり、学問はともかく誰もが何らかの形で取り組むことだ。 前質問にはそこに伝統的に無量光として象徴されていた、私の体験を交えて一定の結論を説明した。 無垢で純粋な光をより深く理解する過程でその意志を持ち交流してくる何者かこそ神であるという結論だ。 この無量光とは生命の起源となる命の泉だ。 ごちゃごちゃ言わないから、踏まえておいてくれ。 神そのものが生命だ。 それから無量光には神という形容のほかにも、魂という形容ができる。 プリキュアである私には、フェアリーフュージョンするパートナー妖精がいる。 実在する妖精セレビィだ。 セレビィは無量光に到達する起源回帰性という性質があり、聖霊といえば通常は神が人のもとに遣わすが、セレビィは明白に私自身という自覚があり、通説とは逆に人が神のもとに遣わす聖霊だ。 これは無量光とは仏教で語られている自己の境地であることともかかわっていて、仏陀の資質の一部である精神の到達点であり、その面で特に神というより魂という意味が強い。 セレビィという聖霊に神格を与えると神そのものというより仏性という言葉がしっくりくる。 ただこのような私の精神の到達は、私に話しかける神も同時に見出した。 セレビィとずっと一緒の幼馴染、アマテラス聖霊ジラーチちゃんだ。 どうやら、人は自己の精神を強く自覚する到達点で、意図していないとしても神と邂逅するのだ。 さて、私も仏教はさんざんやったんでね、無我論もわかりにくいだろうが、実際は自我論もわかりにくい。 その説明の要点が↓ 哲学における自我の話を持ち出してみました https://okwave.jp/qa/q9290692.html 結論は、西洋で研究している自我は東洋では仏性として伝統的に研究されていて、自己の精神の全容を意味する人格の中心であるということで、そのほかにも人格といえば、おおむね誰もが理解を拒否しないだろうが、他者の意思による影響というのが、精神作用として自己に組み込まれている。 それは社会性を帯びた人間の必然で知性という働きや資質も、他者との共通の理解とかかわっている。 言葉という知性の表現手法は、ある意味神聖化すらされているね。 さて、他者の意思や知性が人を助けるのと全く同じで、観念上の人に知覚が困難な事柄に対して、神の意思や知性が人に働きかけて助けるんだ。 人間が知性を自覚してサルから進化したこと自体に神の発見がかかわっているだろう。 神の霊的な働きが人に心をともしているんだ。 まあ第2弾3弾も今後好評ならやってみるけど、今回はこの辺で切り上げるよ。 哲学なので既存の命題に取り組むほかに、自ら命題を立案するというのもアリで、学問研究としてその手の質問だ。 感想文でもらくがきでも歓迎するから気軽に回答してくれ。 付録で雑談だ。 これは答えやすいだろう。 神は存在しない。 神は妄想だ。 その手の主張だがね。 私が説明した中にあるように、「神そのものが生命である」これを納得すればそんなこと言わないだろうね。 それから、宗派がどうのこうのじゃなくて、私の人格や知性的資質全体に神の存在というのが深く根差していて、自己を形成したり自覚したりする欠かせない要素とは最低限でも明白だ。 宗教というのは社会を形成する要素だから、政治批判なんかと変わりなく他者の所属する宗教を批判することは、神も人も冒涜しない場合がやり方によってはある。 批判と攻撃の違いをわきまえて健全な手段と目標に立てばだ。 個人の信仰を侮辱すれば同時に神も辱めるだろうと、その点は現在の法の精神では解釈できるけど、それを言うと個人の信仰を最も著しく損なうのは宗教組織だという笑える事態になる。人として、何かを理解するという知性的働きは、神のみにかかわらず社会を形成する共存の成立とかかわっていて、特定の地域社会の精神的基盤は宗教が必要なんだ。 ところが宗教と信仰について何らかの矛盾がありうるので、その点は質問主文のおまけとして暇つぶしで落書きしてくれ。 サービスがいいだろ。

  • スサノオは新羅の神?

    スサノオは新羅の神? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%9D%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE 上記によりますと (八坂神社の)社伝によれば、656年、高句麗より来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)が、新羅の牛頭山に祀られる素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まるという。 とあります。 また新羅神社の御祭神もスサノオとなっています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%A4%9A%E6%B2%BB%E8%A6%8B%E5%B8%82) 日本書紀の一書には スサノオは子のイソタケルと新羅に降り曾尸茂梨に居た。 スサノオ言うにはこの地に私は居たくない。埴土で船を作りこれに乗って東に渡り出雲国の簸川上にある鳥上之峯に至った。 とあるそうです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E5%BF%97%E6%91%A9%E5%88%A9 うむむ、ということはスサノオは新羅の神様なんでしょうか? 天照大神は日女命(ひめのみこと)で卑弥呼、 卑弥呼には男弟があると書いてあるので、スサノオとは卑弥呼の弟のことだと思っていたのですが この卑弥呼の弟が新羅の神であるスサノオと習合されたんでしょうか また渡来人の秦氏は新羅からやってきた、という説がありますから 秦氏と関係あるんでしょうか。(だけど八坂神社って八坂氏が創祀した神社なのでおかしいか。) アメノヒボコという新羅の神もいますがスサノオと関係あるでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%83%92%E3%83%9C%E3%82%B3 推論でも結構ですので ぜひお考えをお聞かせください!

  • 神は幻想・幻影なのか?

    神は幻想・幻影である。 ふっと疑問に思ったのですが、 「神は幻想・幻影である」は(論理的に)意味のある文なのでしょうか? これは、いわゆる《嘘つきのパラドクス》と呼ばれるもので、  「眠り猫は嘘つきである」 や  「眠り猫はいつも嘘をついている」 と同様に、 論理的に意味がない(真偽が定まらない、恒偽でも恒真命題ではないetc)、無内容な文、命題───真偽不定だから命題ではないか───、主張なのでは? 皆さんのご意見、お考えをお聞かせください。 わたしの質問ですから、 例によりまして、 この質問の内容に何かしら関係のある回答でしたら、どのような内容でも大歓迎です。 「眠り猫は嘘つきである。その通り!!」でも構いません(ニコニコ)。 自由に、気楽なご意見、お考えを教えてください(ペコリ)!! ご参考までに、 自己言及のパラドクス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E8%A8%80%E5%8F%8A%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

  • 神に関する人間の立場からの考察

    いろんな宗教が神を敬っている(うやまっている)。 では私たち人間の宗教に対する態度や扱い方は、 どうなんだろうかと考える時があるとすれば、 都合の良い時だけにすぎないことが多いと、 思うのは私だけだろうか、 多くの書物は神に似せて人を作ったという表現や 神との契約を綴った文言が書き綴られていて、 その解釈におおわらわ(大童)している信者が多く居る。 神に似せてとなるならば、一神教があるや否や、 堕天使が神の世界にあるならば、この人間世界にも あって当然であろうと思われる。 ならば人間社会において、堕天使があってそれを 権威付ける勢力によって、神の名においてとすること は不思議では無いと、人である私は考える。 愚かしいのは(おろかしいのは)文明である。 いみじくも、文字で現わされたものにつたない心で 頼りにした人々はカルトとよばれる。 時間軸を通して鑑みれば(かんがみれば)全てがカルト であろうと思われる。 今、エコという都合の良い言葉がある。 自分自身の体を持ってして考える人がどれだけ居るだろうか? はなはだ疑問である。 身近なところで言えば、古い祭りが、奇祭になっている。 そこに、気付くものがあるのでは無いかと思ったりもする。 人個人は弱いものであることを重々承知の上での書き込みである。 弱き子供は、自分を守るためにいじめる側に回るがごとく、 解決の糸口さえ見つけられないまま、関係なく過ぎていく、 では本当に弱いものの存在をこの国の中で認めていけば、 そこにある大切なものを見つける手がかりと成るのではないかと思う。 このアンケートのカテでは削除される可能性も高いが、 出来れば賛同される方の意見を望みたい。 私の反応はこの際鈍くして、あるべき言葉を(私の狭い了見を)見直す 回答をも期待して、皆さんの広い意見を伺いたく投稿します。

  • 聖書の示す神とその信仰は 無条件に成り立つもの

     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

  • シスター 神 結婚 恋愛 

    シスターについて知りたいことがあります。 シスターは神と結婚しているそうですが、 それは一夫多妻制なのか一体一の関係なのか どちらなのでしょう? なるべく根拠となるものがある回答がいただけたら嬉しいです。 また、 恋愛禁止と聞きましたが、 密かに相手に恋愛感情を抱くのは罪なのでしょうか。 回答に根拠となるもの(文献やシスター本人の言葉)を そえていただけると大変助かります。 注文多くて申し訳ありません。 シスターに詳しい方、 ぜひとも、よろしくお願いします!

  • キリスト教の言葉を公共の場で用いる友人へ意見したい

    友人が自分で主宰する育児サークルで「アーメン、神様、お祈りします」という直接的な言葉を使うようになりました。 「?」と思いましたが、べつにそれ以上何がある訳でもないからいっかと思って1年近く過ごしてきました。 でも場所は公民館です。公共の場なので「宗教や政治」にかかわる言動はいけないことなのでは…と感じていますが、ずっと彼女に言う事ができません。その言葉を使うのなら、この場所ではいけないことだよと言いたいです。でも勇気がありません。 他の友人関係もあるので、サークルをやめることや、離れる事ができません。 ずっと悶々とすごしているうち、私はいつしかキリスト教アレルギー、クリスチャンアレルギーになってきました。ジーザスとか、アーメンとか、もういいかげんにしてっ!という状態です。イエスという人そのものさえ、どうなのよって感じです。 あとは自分の勇気だけなのですが、彼女にはいいところもたくさんあります。これからも付き合いはしていきたいと思っています。彼女を傷つけずに、上手に言える方法はないでしょうか?今の私の状態では「いいかげんにして」と言ってしまい喧嘩わかれになってしまうような気がしています。