○「自分も配慮が足りなかった」と反省しているのなら許せるけれど、「自分に責任はない」と開き直るのは許せない、というのは、きわめて日本人的な感情論で、責任の有る無しとは関係のない事です。
世間一般でもマスコミの論調でもこのような考え方はよくあるようですが、問題をすりかえてしまっては良くないと思います。
○仮に警官に何らかの責任があって、訓告や懲戒などの「処分」を受ければ、それで満足ですか?
少年の死という「不幸な出来事」を悲しみ、一方で、「処分」という警察官に取っての「不幸」は喜ぶのでしょうか?
○何か大きな不幸な出来事があると、特に当事者に取っては、身内を失うと言う大きな悲しみにたえられず、「誰か他人のせいでこうなった」と考えたくなってしまうものです。また、第三者である私たちも、つい「責任者は誰だ」「誰が一番悪いんだ」「誰々にも責任はある」と思ってしまいます。
しかし、誰も悪くないのにおこる事故もあります。
また、「犯人探し」をみんなでして、誰かに責任を取らせて、その人を処分すればそれで終わり、という決着で良いのでしょうか?それで同じような事故は今後おこらないようになりますか?誰かに責任をとらせれば、不幸な出来事が起こらないような、より良い社会になりますか?
不幸な事故ではなく警察や役人の不祥事があったような時でも、「世間がうるさいから」と謝罪の記者会見を開いて、スケープゴートになる当事者を「処分」して決着を付けることが行われています。これで本当に不祥事がなくなるのでしょうか?
○仮に警官に何らかの責任があったとしても、その責任を取るために「処分」するかどうかを決めるのは、その警官の属する都道府県なり警察庁/警視庁です。責任を取るように求める事ができるのは当事者である、少年(およびその家族)です。私たち一般大衆が、「責任を取るべきだ」と要求する事はできません。警察官を裁く権利は私たちにはありません。
もちろん、言論の自由はありますし、意見を言う事はかまわないと思います。
○誰が悪いとか、誰にも責任があるとか、他人を批判しあうばかりで問題の解決にならない事はやめにした方が良いと思います。そんな議論は、いい加減な事を言いたい放題しているワイドショーの三流「評論家」に任せておけばよいと思います。
○仮に、あくまで仮定の話として、警察官の責任を追及する声が、このトピックから広がり、大きな世論となり、世論におされて警察官が「処分」され、その事を苦にして警察官が自殺してしまったとします。警察官の家族は大きな悲しみを持ち、「皆が父を責めるから自殺してしまった。父の死の責任は世論にある」と考える可能性も十分にあるでしょう。そうしたら、「警察官に責任がある」とはやし立てた人たちには、警察官の死に対して「責任」があると思いますか?どのように「責任を取り」ますか?
投稿日時 - 2003-05-05 09:44:45