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心の哲学:心の哲学的説明と科学的説明の違い
心について科学哲学の立場で勉強していますが、壁にぶつかってしまいました。 それは、心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。 哲学では、心に関する「概念」を論理分析していくことだ。科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。との説明がありました。しかしながら、哲学での「概念」は当然のこととして科学理論をも踏まえたものであります。 そうすると、哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、そのような概念とは、科学理論とどのような違いがあるのだろうか、という疑問に突き当たってしまったわけです。 これは、哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。アドバイスと参考文献の紹介をお願いします。
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お礼
ご回答の皆さまへ No50 の回答にお礼をし書いている現在も、議論ははるかに先を行っております。お礼が遅く申し訳ございません。serpent-owl さんから結論をいただきましたので、少しコメントさせていただきます。 serpent-owl さまへ 長い間、本当にありがとうございました。また返礼が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。serpent-owl さんにゼイゼイと息を切って、振り落とされまいと、付いて行くのがやっとという状況です。 多岐にわたるご回答をいただきましたが、お礼としてまして、私の最大の関心事に限定し理解できたことと、私の本質問から得た私の考えを述べたいと思います。 「心」に関する「知」が有する性質=「開放系の知」であり「完結していないもの」である。このパースペクティブからは「過去への視線」と「未来への視線」が得られる。 過去は現在の累積でありその無限性から説明が困難である。未来は本質的原理的に予測不可能である。予測不可能性から少なくとも「心の可能態」に関する説明が必要ではないか。すなわち、「脳」、「心理学」、「哲学」など、いわゆる物から観念までの各階層のいずれかに還元するのではない『その全体が絡み合った複雑系としての「心」を眺めてみる必要』がある。 科学は、自らの拠り所であった実証主義から現象(世界)を説明することに限界があることの自覚から人文諸学への歩み寄りが始まっている。このような現況からすると、「哲学の見方」と「科学の見方」の区分に神経質になることもないのではないか。要は、真理を追究する態度で重要なことは、「その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む」ことではないのか。 大変貴重なそして重い回答でした。心という事象をいかに説明するのか、ということを勉強していくうちに、哲学での分野での説明と、科学での分野での説明の態度に疑問を持つようになりました。それは、哲学で使用している心に関する知識は科学的知識をも根拠としてしているのではないか、それなのに科学において心は学の対象足りうる資格を有するのかという問題を有するのではないのか、この2つの疑問のために、一体「心を説明する」と言うことはどういうことなのだろうか、という問に突き当たる羽目に陥ってしまったのでした。 serpent-owl さんの回答から私が学んだものは、 「心の性質(本質)を理解せよ、そしてそこから出発せよ。既存の論理に還元するな。」 でした。 serpen-owl さんは、心の本質を「カオス」ととられておられました。「開放系の知」としての本質です。先に引用しました「心の科学は可能か」(土屋 俊、認知科学選書)で、土屋は結言に代えて心の説明の困難性について、心の「文脈依存性」を指摘しています。すなわち「私」と「社会」を内容に含む概念は形式的処理が困難である、としています。serpent-owl さんの回答にも通じるものがあると感じました。 そこで、心の概念を説明していくうえで問題とすべきは、「複雑系」、「文脈依存」で性格づけられる心を説明するに相応しい「論理」を見出していくことだと思います。心の概念を説明する論理として「カオス」、「量子論」、「進化論」・・・(たぶん他にもあるはずですが、これから勉強していきます。)が議論されているのだと思います。 「心の可能態」に思いをいたすと、なんだか「心」がますます果てしなく遠くのものになるように感じますが、とりあえず、第一歩を踏み出すために、私に何ができるかを考えてみたいと思います。 本当に貴重なご意見ありがとうございました。多くの方に参加していたできましたので、その方々にお礼をしなければいけません。もう少しオープンにしておきます。そして、少しずつ終末態勢とさせていただきたいと思います。