• ベストアンサー

どのカテ:この聖書の賞賛の言葉の解釈を質問したい。

こんにちは、皆様にご相談があります。 聖書の中にこんな言葉があります。 ___________引用___________________ 大能の王であり、公義を愛する者であるあなたは堅く公平を立て、ヤコブの中に正と義とを行われた。 ________________________________ (著作権切れした聖書の詩篇の言葉、、検索してでてきた言葉なので何ページにでてくるのかは知りません) おそらく、賞賛の言葉なのでが、もしかしたら、皮肉や嫌味の可能性もあります。 どこのカテゴリーで、質問すべきでしょうか?

noname#104693
noname#104693

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#163492
noname#163492
回答No.1

ムツカシイ質問ですね。 哲学のカテゴリーで質問されたらいかがでしょうか。 宗教のカテゴリーはここにはありませんが 哲学のカテゴリーに宗教に関する質問がたくさんありますよ。 それにあのカテゴリーの常連さんには知識人がとても多いようです。

noname#104693
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 ではさっそく哲学カテに行って来ます。

関連するQ&A

  • 聖書にイエス本人のみ言葉がないのは、なぜ?

    ギリシャ語の新約聖書には「ヤコブの手紙」があります。この「ヤコブ」という名前は、イエスの使徒の中に二人いました。ゼベダイの子そして、アルパヨの子です。 しかし「ヤコブの手紙」は、イエスの異母兄弟のヤコブであったようです。ならばこの時代に贖いによる死の前にイエス本人の手記でみ言葉を記した「イエスの言葉(手紙)」なるものが存在してもおかしくはないように思えるのですがいかがでしょうか。 まだ、発見されていないのでしょうか。

  • 海外小説を読むのにおすすめの聖書

    海外小説にはたくさんの聖書の言葉が引用されています。 中には()で出典を書いてある翻訳もあるので、元になった箇所の前後を読んでみたいと思う時があるのですが、おすすめの聖書はどれでしょうか? 数年前に「詩編付き新約聖書」を買ったのですが、これには入っていない項目(雅歌とか哀歌のように、おそらく旧約の方?)もあります。 ちょっと調べてみたのですが、聖書(特に旧約聖書)はいろいろな宗教や宗派によってたくさんの種類があるようです。 自分の楽しみで日本語に翻訳された小説を読んでいるだけです。 原書を読んだり、その作品の研究をしようというわけではありません。 こんな場合に都合のいい聖書を教えてください。

  • 収穫感謝祭で使う聖書の箇所

    キリスト教保育を勉強しています。感謝祭での礼拝のお話しを準備しています。「聖書の箇所をお話しの前に話した方が」と牧師先生からアドバイスを受けたものの、私自身はキリスト教に詳しくなく、適当なものが探せません。聖書に詳しい方、教えて下さい。 「小さな種の中にも神様からいただいた、命が入っているよ」っていう主旨のお話しで適当な箇所ってありますか? 聖書は、新訳の方からで探してます。ちなみにヤコブの手紙と、マルコによる福音書はチェック済みです。 カテゴリーが妥当でなくて、すみません。聖書に詳しい方、よろしくお願いします。

  • 英語聖書からの引用における著作権について

    英語の電子書籍を出版予定です。 その中に英語聖書(NKJV)から数節引用をします。 このサイトに著作権についての記載があるのですが、500節以下であれば、 引用文に、例えば、(Matthew 1:1 NKJV)のように追記するだけで問題ないでしょうか? https://www.biblegateway.com/versions/New-King-James-Version-NKJV-Bible/#copy

  • 聖書の朗読をニコ動にアップしても大丈夫?

    こんばんは。 手元にある聖書は以下の3冊です。 英語は出来ないので日本語の訳を朗読して録音したいと思っています。 (1)バイリンガル聖書(新改訳と世界で最も読まれているNIV(新国際訳)がひとつになったもの) (2)バイリンガル聖書・新約(NIVと新改訳) (3)新約聖書(新改訳) どれも「いのちのことば社」というところから出版されています。 この中で読んでも著作権が大丈夫なものはありますか? もしなければ朗読用に新規に買ってもよいと思っているので、 どんな訳ならいいのか教えてもらえたらうれしいです。 よろしくおねがいします。

  • 聖書の中の『右の頬をぶたれたら...』

    こんにちは。宗教というカテゴリーが見当たらなかったので、 とりあえずここへ質問します。 聖書の中でイエスが『右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい。』 みたいな言葉があったと思うのですが、誰の書いたどこの項目だったか どなたか教えていただけませんでしょうか。

  • 「選釈」という言葉について

    「選釈」という言葉のついた表題の本があります。たとえば「詩篇選釈」。この場合、旧約聖書の詩篇150篇の中から「選」んで解「釈」したという意味と想像できますが、中味は読んでいないのでわかりません。その他、古い日本文学の本の題に「選釈」または「撰釈」という言葉のついたものが見られます。しかし国語辞典とか広辞苑には出ていないのです。造語なのでしょうが、けっこう古くから本の題に使われているようなのに辞典に出ていないというのはどうしてでしょうか?どうしてこの言葉は辞典に無いのでしょうか?そして、この言葉が本の題になっている場合、その意味は上記のように編集された多くの言葉の中から著者が選んで解釈したものということでよいのでしょうか?できれば文学専門のかたに答えて頂きたいのです。

  • 旧約聖書の律法は破棄されたのではないんですか?

    聖書中一人だけ律法を破ることを教えている者がいます、 エフェソス 2 「15 この方は自分の肉によって敵意を,すなわち[数々の]定めから成るおきての律法を廃棄されました。それは,二つの民をご自身との結びつきのもとに一人の新しい人に創造し,平和を作り出すためでした。」 確かにここで、パウロは律法は廃棄されたと言っているので、イエスの言葉を参考にすると、 パウロは天の王国に関連して一番小さい者ということになるんですが、実際にパウロは自分の事を一番小さい者と言っています。 エフェソス 3 「8 すべての聖なる者たちの中で最も小さな者よりさらに小さな者であるわたしにこの過分のご親切が与えられ,こうしてわたしは,キリストの測りがたい富に関する良いたよりを諸国民に宣明し, 9 定めのない過去から,すべてのものを創造された神のうちに隠されてきた神聖な奥義がどのように管理されるかを人々に示すことになりました。」 さらに、イエスは、 マタイ 10 「34 わたしが地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和ではなく,剣を投ずるために来たのです。」 で、平和を投ずるために来たと考えてはなりませんと言っていますが、パウロは平和を作り出すだめでしたと、エフェソス2の中で、続けてダブルでイエスの言葉と対立しています。 しかし、パウロは自分のことを一番小さい者であると理解した上でこれらの言葉を言っているのが非常に気になったのですが、まず、 テモテ第一 1 「15 キリスト・イエスが罪人を救うために世に来られたとは,信ずべく,また全く受け入れるべきことばです。わたしはそうした[罪人]の最たる者です。 16 それなのにわたしが憐れみを示されたのは,わたしの場合を最たる例としてキリスト・イエスがその辛抱強さの限りを示し,永遠の命を求めて彼に信仰を置こうとしている人たちへの見本とするためだったのです。」 ここで、パウロは自分が最たる者で、イエスが辛抱強さの限りをしめした見本であるということ、 ローマ 9 「3 わたしは,自分の兄弟たち,肉によるわたしの同族のために,自分自身がのろわれた者としてキリストから引き離されることをさえ願うのです。」 キリストから引き離されることを願うと言っており、 ヨハネ 16 「8 そして,その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。」 で、真理の霊は罪と義と裁きの証拠を与えると書いてあるのに、パウロは、義と自制と裁きについて話すと書いてあります。 使途 24 「25 しかし,彼が,義と自制と来たるべき裁きについて話すにつれ,フェリクスは怖れを感じ,「今のところはもう下がってよい。よい時があったらまた呼ぶだろう」と答えた。」 この3つの証拠がなんなのかは聖書中誰も触れていないので、この証拠を提示できる組織は真理の霊から来ている組織であるのは間違いないと思いますが、すくなくても、ここではパウロは罪と義と裁きに関してではなく、自制と義と裁きに関して話しているのは間違いないと思います。そう書いてあるからなのですが。 じゃあ、パウロは何なのかと考えると、イエスがマタイ5で言っていて、自分自身でも言っているように、天の王国には関連しているが、イエスが辛抱強さの限りをしめして助ける一番小さいものと呼ばれる者達の見本だというのは話がつながっています。 そうすると、 イザヤ 48 「10 見よ,わたしはあなたを精錬した。しかし銀[として]ではない。わたしは苦悩の溶鉱炉であなたを選んだ。」 で、再び集められるヤコブの家の特徴として、苦悩の溶鉱炉と、イエスが辛抱強さの限りを示した最たる例をつなげると、このイザヤ48はパウロを見本としてパウロの言葉通りに行動している者ということを考えると、この者達は 同章「1真実によらず義によらずに語り告げる者たちよ。」 と書かれていて、同じく 同章「あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば!そうすれば,あなたの平安は川のように,あなたの義は海の波のようになるであろうに。」 と書かれているので律法を破ることを教える者とここで繋がります。 さらにこの者達は、 同章「9 わたしはわたしの名のために怒りをとどめ,わたしの賛美のためにあなたに対して自分を制し,あなたが断ち滅ぼされることのないようにする。」 で、神の名の為に怒りをとどめて助けられる者達は誰なのか、 同章「2 彼らは自分を聖なる都市からの者と呼び,イスラエルの神に寄り掛かったからである。その方の名は万軍のエホバという。」 で、聖書に神の名を署名したのは誰なのかというのが、OKWaveで最初に質問した質問の詳細なのですが、さらにエホバの証人が嘘を教えているというのであればキリストに属する最たる例であると(イザヤ48「真実によらず」により)自ら証明していることになるんですが、まず、 モーセの律法は本当に破棄されたのか、本当に破棄されていないのか、どちらかを強力に証明する聖句を使って詳しく教えてください。 エホバの証人は助からないというのであれば、このイザヤ48章に当てはまる組織はどこですか? 聖書だけを使って、さらにその聖句の解釈を裏付ける他の聖句を使って教えてください。 ・パウロは自分にねたみをおこし、それによって神を学ぼうとすることでも喜ぶと書いてある。 ・パウロは分裂している者達に誰の、何が正しいのかとは言わず、あなたたちは皆キリストに属しているのですの一言で終わっている。 ・パウロは全てを知っているが全ては話さないと言っている。 ・パウロは自分がヤコブの家のベニヤミンの部族なのだと言っている。 ・パウロは分裂、分派、敵意を示し続ける者は滅ぼされると言っている。 ヨハネ 13 「33 小さな子供らよ,わたしはあと少しの間あなた方と共にいます。あなた方はわたしを捜すようになるでしょう。そしてわたしは,『わたしの行く所にあなた方は来ることができない』とユダヤ人たちに言いましたが,今はあなた方にも同じように言います。 34 わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです。」 これらの理由によりどこについて行けばいいのか、今すごく悩んでいるのですが、 本当にエホバの証人以外はすべて背教だったのか? 本当にエホバの証人は世界3大悪宗教なのか? 律法が破棄された、破棄されてないという対立教理に関してどちらかをとることになった証明の聖句を教えてください。お願いします。

  • 新約聖書と旧約聖書の整合性及び聖書は全ては神の霊感により書かれた時代を

    新約聖書と旧約聖書の整合性及び聖書は全ては神の霊感により書かれた時代を超えた普遍的真理の書物なのか? 教えて下さい。 私は中年の男です。20代後半で 洗礼を受けました。 その後人間関係に悩み、牧師に 相談をしたのですが、牧師の尊大な態度に失望し、教会へは行かなくなりました。 洗礼を受ける前は三浦綾子氏や遠藤周作氏の著作を 読んでいて、今にして思えば福音派とリベラル派の違う考えの本を同時に読んでいて、自分の中でも整理がついていませんでした。 しかし、ある日カール.ヒルティの幸福論を呼んで、福音派よりのリベラル的要素を持った著作にふれ、洗礼を 受けたのですが、上記説明のように牧師につまずき挫折。 最近も福音派の教会に2ヶ月程通いましたが、やはり 牧師に躓きました。私が最初に通っていた教会はリベラルな教会でした。福音派牧師の痛烈なリベラル派批判。カトリックは異端だと裁き、リベラル派はクリスチャンでないかのような発言。本当に参りました。 福音派の方で、神社.仏閣に悪霊がいる等。極端な 考えをお持ちの方も存在いたします。 福音派の中で聖書信仰と言うのがありますが、個人的に旧約の神とイエスが同一とはどうしても考えられないのです。聖書にも矛盾を感じるんです。 箴言 13:24 むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。 22:15 愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。 23:13 子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。 23:14 あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。 29:15 むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。 箴言を一部抜粋しましたが、これが神の言葉だと心から 思えません。 恐らく、理性的な日本人にこれを読んで頂きこれが 神の言葉だと思うかと問えば、恐らく殆どの方が「思わない」と回答するでしょう。 福音書のイエスの言葉には威厳があり、やはり非常に 高いタイプの何かを感じる事は出来るのですが旧約と パウロ書簡は懐疑的に考えてしまいます。 例を出すと1コリント11:5「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります」この訳は新共同訳です。 聖書を時代背景も考えず、文字通りの真理だと考えるなら礼拝やまた個人の祈りの中で祈る時は女性は頭にかぶりものをしなければなりません。 私は神を信じない生き方は虚しいと思いますが、聖書に 矛盾、新約と旧約に整合性を感じられず、苦悩して います。信仰は捨てたくないのですが。今は正直どうしたら良いのか解りません。 リベラルな教会も考えてはいるのですが、それでも、聖書に確信が持てなくて 困っています。 乱文で申し訳ないのですが、よろしくお願い致します。

  • 聖書のヨハネ11:49~53で質問があります。

    ヨハネ 11 「49 しかし,彼らのうちの一人で,その年に大祭司であったカヤファが言った,「あなた方は何も分かっていない。 50 そして,一人の人が民のために死んで国民全体の滅ぼされないほうがあなた方の益になる,ということをよく考えていないのだ」。 51 だが,彼はこれを独自の考えから言ったのではない。その年に大祭司であったので,イエスが国民のために死ぬように定められていること, 52 しかもそれがただ国民のためだけではなく,各地に散る神の子たちを彼が一つに集めるためでもあることを預言したのである。 53 こうして,彼らはその日以来,[イエス]を殺そうとして相談した。」 この部分で、大祭司カヤファはなぜイエスが国民のために死ぬように定められいて、各地に散る神の子たちを集める為にイエスを殺さなければいけないと思ったのかなんですが、 ヨハネ 12 「38 預言者イザヤの言ったこの言葉が成就した。「エホバよ,わたしたちの聞いたことにだれが信仰を置いたでしょうか。そして,エホバのみ腕は,だれに表わし示されたでしょうか」。」 で、預言者イザヤの言ったこの言葉が成就と書いてあるので、この言葉をイザヤ書から探すと、 イザヤ 53 「1 わたしたちの聞いたことにだれが信仰を置いたか。そしてエホバの腕,それは一体だれに表わし示されたか。」 と書かれていて、つまりこのイザヤの聖句の近くはイエスの事を言っているのは解ってきたんですが、問題はこの後で、もう少し読み進めると、 イザヤ53 「10 しかし,エホバご自身が彼を打ち砕くことを喜び,彼を病める者とされた。もしあなたが彼の魂を罪科の捧げ物として置くならば,彼は自分の子孫を見,[その]日を長くするであろう。その手にあって,エホバの喜ばれることは成功を収める。」 と、神はイエスを打ち砕く事を喜び、彼の魂を罪科の捧げ物とすることを喜ぶと書いてあり、旧約聖書の律法と預言者達の言葉にあるイエスの到来を信じていた人達は、同時にイエスは死ななければいけないと思っていて、他の箇所の預言通り蘇る返ることも信じていたはずなんですが、 ここからが質問の本題で、大祭司カヤファと、一緒にいた祭司長とパリサイ人達とは、「あなた方は何も分かっていない。」と書かれている事から考えると、同じイエスを殺すにしても一方は律法と預言の言葉を忠実に守る為に殺したいと思い、もう一方は律法と預言者の言葉を知らずにイエスを邪魔に感じ殺したいと思っていると感じました。また、これとは別に、 ルカ  22 「36 すると[イエス]はこう言われた。「しかし今,財布のある者はそれを持ち,食物袋も同じようにしなさい。そして,剣を持っていない者は,自分の外衣を売ってそれを買いなさい。 37 あなた方に言いますが,書かれているこのこと,すなわち,『そして彼は不法な者たちと共に数えられた』ということは,わたしに成し遂げられねばならないからです。わたしに関することは成し遂げられてゆくのです」。 38 すると彼らは言った,「主よ,ご覧ください,ここに剣が二振りあります」。[イエス]は彼らに言われた,「それで十分です」。」 で、イエスが言った不法な者たちとは、律法と預言者の言葉にあるイエスの死を邪魔しようとして、イエスを殺そうとして連行しに来た人に剣で斬りかかった使徒達のことでいいんでしょうか? そうすると、ニコデモの福音書に、 ~略~ ピラト「太陽にかけて、余はこの男にいかなるとがも見いださぬ」 ~略~ ピラト「お前達は、お前達の神は殺すことをしない、という。それで、余には殺すことが許されているというのか」 ~略~ ピラト「余はお前をどう取り扱ったらよかろう」 イエス「貴下に与えられた役割を演ずるがよい」 ピラト 「それはどういうことか」 イエス「モーセと預言者達は余の死と復活とについて予告している」 と書かれている部分ですが、これを読んでニコデモの福音書のこの部分は正確な可能性があると思ってしまったんですが、偽物なんでしょうか? 聖書をくれた人に聞いたんですが、読めば聖書じゃないことはわかると言って、サタンに惑わされそうだからと言い、質問も最後まで聞かないので、何が質問なのかも解ってもらえず困っています。 たとえば、「終わりまで堪え忍んだものが救われる」の聖句は、自分がサタンだと言っている人達の聖書にも同じように書いてあり、聖句を部分的に自分の都合のいいように利用している事を自ら証明してしまうようなやり方ではなく、聖句だけを使って、さらにその聖句の解釈を証明する聖句をもってニコデモの福音書が偽物である証拠と、不法な者たちが誰であるのかを教えてください。 お願いします。 回答が全く付かなかったの再度質問させてください。 上記の補足で、イエスを罪科の捧げものとすることをエホバは喜ぶとイザヤ書に書かれていますが、罪科の捧げものをレビ記から調べると、傷のない雄羊、子羊を罪科の捧げものとして置くならば彼らの犯した罪は許されるのである((例)レビ5:4~10)とあります。旧約聖書を読んで、もし当時自分がその場にいたら、イエスに、本当に殺したほうがいいのでしょうか、と聞いたと思います。そしてもし殺せと言われたら神の命令は絶対なわけですから殺していたと思います。 しかし、ペテロが聖書中、同じ事をイエスに質問してくれている部分が参考になったのですが、 マタイ16 「21 その時以後,イエス・キリストは,ご自分がエルサレムに行って年長者・祭司長・書士たちから多くの苦しみを受け,かつ殺され,三日目によみがえらされねばならないことを弟子たちに示し始められた。 22 すると,ペテロは彼をわきに連れて行き,「主よ,ご自分を大切になさってください。あなたは決してそのような[運命]にはならないでしょう」と言って叱り始めた。 23 しかし,[イエス]はペテロに背を向けて言われた,「わたしの後ろに下がれ,サタンよ!あなたはわたしをつまずかせるものです。あなたは,神の考えではなく,人間の考えを抱いているからです」。」 で、言っていることは逆ですが、イエスに死なないで欲しいと言うのは神の御意志ではないとわかりました。 が、問題は、ニコデモの福音書が偽物で、不法な者が使徒の事ではない理由がどうしてもわかりません。 11人は他の兄弟の1人について騙していた場合、まずこの一人が最初に助かり、12人全員が助かるという創世記を考えると、この一人が最初に助かるまで嘘を教えていなければ成就しないことになります。 もしそうなると、11人は足を洗ってもらう必要がある他は全身清い者であるとイエスが言っているわけですから、兄弟ということになり、旧約聖書の律法以外では、唯一の新しい掟である、兄弟が愛し合うことが守れなくなってしまいます。なぜこの疑問を解決したいのかと言うと、嘘を教えていてもヤコブの家の兄弟だった場合、正確でなくても、イエスを見ると神に見え、神を見るとイエスに見え、神とイエスが同じ者に見えてしまう者と敵対しても本当に大丈夫なのかという問題が出てきます。また、イザヤ48で真実によらず義によらず語り告げ、神も憎むが助けることに決めた再び島々から集められる、神の名以外はすべて間違っている者と敵対しているとイエスの命令を守れなくなってしまう可能性が出てくるので、どうしてもこの宗派は絶対で、他は滅びるという納得がいく証拠が欲しいんです。ニコデモの福音書がなぜ偽物とされたのか、イエスが仲介に入って助ける不法な者達が誰であるのかの納得がいく証拠をください。 やっと聖書を一回読み終わったのですが、覚えていない所もあり、もう一度読む必要を感じているのですが、とりあえず、この部分に関してまず納得したいのでここを読めばわかるという証拠とその証拠を証明する聖句を教えてください。お願いします。