解決済みの質問
こんばんは。よろしくお願いします。
今日、あれやこれやとググっていて
定慧・孝徳天皇後胤説と藤原不比等・天智天皇後胤説を知りました。
ご存知のとおり、定慧と藤原不比等は正史によれば中臣鎌足の子であるとされています。
しかし、中臣鎌足は孝徳天皇の后(名前がわかりましたら教えて下さい)を妻としてもらい、
その時その女性は孝徳天皇の子を身ごもっていた。
これが定慧である。
また鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらい、
その時鏡王女はすでに天智を身ごもっていた。
これが不比等であるという説があるそうです。
この説の真偽についてどう思われますか。
またその理由を教えて下さい。
※このカテゴリーでときおり
「そんな昔のことはわからない」というような趣旨の回答を目にしますが、
そういった類の回答はご遠慮ください。
(それを言っちゃあおしまいです。)
投稿日時 - 2009-08-19 22:03:41
そんな昔のことはわからない、ですよね。
だから、歴史は面白い。記紀もどれほどの信憑性があるか
わからないし。素人が想像力を働かせる余地がありますね。
で、定慧でした。
元々、鎌足は先に孝徳に近づいてから、中大兄に乗り換えたわけです。
そのときにお荷物になった孝徳種の定慧を唐へと。
不比等については、後の竹取物語のヘタレ役(車持皇子)のモデルに
なったりしてます。これは不比等の生母が車持氏だったため、
バレるように書かれたという説があります。
つまり、不比等の母は車持氏ということが、当時の一般的な
認識だったのでは?
私としては、鎌足自身の出自に興味があります。
百済王家の余豊璋とか?
白村江のときはどこで昼寝してたのか、書紀にも出てないようだし。
中大兄がピンチのときに、右腕がおらんのはまずいでしょ?
投稿日時 - 2009-08-25 23:37:47
お礼
回答をありがとうございます♪
そんな昔のことはわからないのは、事実なんですよね。
そこであれこれ考えていくところに歴史の面白さがあると思います。
回答者様はそういった歴史の面白さをわかっていらっしゃる方だと
思いました。
しかしながら、このカテゴリーでは、
「そんな昔のことはわからない。したがって考えても無駄だ。」
という趣旨の回答がときおりあるのですよ。
っていうか回答だとはいえないし。
はあ~。
と、グチはこのぐらいで。
定慧はやはり孝徳の子だとするのが有力ですか。
しかし、女性の出自くらいわかってもよさそうなのに
名前や出自は不明なんでしょうか?
そうでした、竹取物語では車持皇子のモデルは不比等のことではないかという説がありましたね。
なるほど、それが一般的な認識であったとするのは筋が通っていると思います。
鎌足は百済王家の余豊璋だという説があるのですか。
興味ある説ですね!
大変面白い回答で、楽しく読ませていただきました。
また、大変参考になりました。
感謝いたします。
投稿日時 - 2009-08-26 11:40:07
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