解決済みの質問
まず第一に鎖国政策を採ることにより、外貨を稼ぐことが出来なくなり、産業が国内に限定すると、大きな発展を望むことが出来なくなります。
また、幕府や諸藩の税収の大半は、年貢にて(米や麦)納めさせていましたが、米の品種改良や豊作などが続くと米の市場価値が下がり、純粋な税収としての評価額が下がるわけです。
ですから、俗に言われる旗本の収入が減り、(給料は年貢の米を支払われていた)生活に困って内職などをしていました。
諸藩は幕府の縮小版に、参勤交代や幕府からの助役(強制労働の人物金の負担)江戸屋敷の維持費等により密貿易などをしている薩摩でさえ、裕福ではありませんでした。
もちろん諸藩や幕府は、大商人にお金を借りていますからその金利も支払っていました。
投稿日時 - 2003-05-05 14:33:48
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ベストアンサー以外の回答(2件中 1~2件目)
元禄期の幕府財政の貧窮は
1)徳川家康が残した莫大な金銀は、その後の江戸の町づくりや神社仏閣・京都御所の大規模造営に費用がかかった
2)その頃から、佐渡などから産出される金銀が減り、幕府収入が減っていった
3)その一方で、幕府出費(例えば大奥の維持費)が増えていったこと
が原因です。今でいうところの言葉で置き換えると
1)は無駄な公共工事
2)税収不足
3)肥大した行政
それを改善しようと、構造改革を行ったのが、徳川吉宗・田沼意次です。
しかし、文化・文政以降幕府財政の貧窮の原因は
1)海外からの脅威などで治安に対する不安が国内に広がった
2)天候不順が相次いだことで年貢収入の減少
3)11代家斉の時の派手な暮らしぶりによる大奥維持費の増大
が主な原因です。
つまり、元禄期と変わりがありません。ただ1)についていえば、新たに消費マインドの冷え込みが重なったことでしょう。
こうみてみると、現代日本と近い姿が見えてきますね。
投稿日時 - 2003-04-23 16:53:06