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意志の自由とは何か。

哲学の授業で論述問題が出されました。 意志の自由 重要な概念 決定・自由・意志・行為 機械論自然観(機械論的自然観) 因果法則 心と身体の関係 相互干渉説 黒板にこのように書かれただけなので、一体なにからやればいいのか… そもそも意志の自由って何ですか?? 束縛されない意志のことですか?? いろいろ調べているのですが、いまいち納得できません… わかりやすく教えていただけると嬉しいです。 よろしくお願いしますっ!

みんなの回答

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.7

 自分がやったことの結果が自分の世界観を形成し、思考判断を決める。  自分が持っている世界観とそれから派生する思考判断が自分のやることを決定する。  この対極とも思える事柄2つが、どちらも互いに同じくらい影響しあっている という事を理解する  これを前提とした上で普段の 思考 と 行動 を意識し、実際に行う  自分の運命、人生を 自在に形成していく  これが自由かな?

回答No.6

「自由」とは、いわゆる自然科学のカテゴリーにはない概念だと思います。それを「証明」するというのは、どうも何をやっているのか分かりかねます。証明の規準がはっきりしませんから。 「私は~を自由意志の下でやっている」といっても、必ずや「それには~の原因がある」「~をあなたの意志(といっても、意志の場所を指示することができないのだから)から出発して説明することはできない」という反論が待っているでしょう。あるいは「~は、あなたがそれをしたいからしているのであって、それは欲望に囚われているのであり、意志の自由ではない」など。 そこで「自分にいちばん不利な選択をする、例えば自分のいのちを投げ出しても、正義をつらぬく決意をする」とき「人は自己の自由を証明することことができる」というふうに考えたのはプラトン(ソクラテス)であり、カントであったのだと思います。「正義のため」というあたりに、「勝手のし放題」とは違う「自由」という語の含意が生きています。 やはりここらあたりを肝にして、論文を展開なさってはいかがかと。

noname#118718
noname#118718
回答No.5

論述なので、全てのキーワードを使う必要はないですね? 「意思の自由」の解釈として以下が挙げられます。 ・全ては事前に(因果法則の上で)決定されているから自由ではない ・(因果法則の上で)決定されてはいるが他者の強制からは自由である 例えで言えば、ある時点で何を食べるかは、食生活の習慣と体調などにより決定されているが他者から強制はされないということでしょう。 ただし、強制する他者の存在も既に決定せれていると考えることもできます。 ここら辺を論理的に述べていけばいいのではないでしょうか?

  • corpus
  • ベストアンサー率12% (25/200)
回答No.4

自由意志とは、「手を挙げる」から「手が挙がる」を引いて残るものである。 このようなことを、確か、ウィトゲンシュタインの弟子が主張しましたね。 ちなみに、ウィトゲンシュタインは、引いて残るものはないと言っています。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.3

僕が感じたことを。 この世は因果法則によって変化生滅し続けている。心と体も。それぞれの原因を元に現在の条件が在る。その条件の範囲から選択できる幅が決まってしまう。<その選択の幅から>限定的に自由に選択することが出来る。完全な自由意志などは無いのではないか。 生命はからだという物体を介して外界の物質と触れ、感覚を生み(心)感情(心所)を生む。体と心には相互関係が在るように思われる。身体は心(感覚)に大きな影響を生み出すから。親分は心のほうだろう。心は身体さえ変えてしまうから。 「私は正しい」「こう在るべき」「もっと欲しい」… 概念と現実世界の軋轢によって、無知・怒り・貪欲の感情をうみ、苦しんでいるように感じる。人を悩み苦しみの中に引きずり込む「悪感情」に対処するにはどうしたらいいか。 周りの環境や人間(生命)との関係を良好に整えると共に、選択の幅をより幸福に向かうものに向けていくために、身・口・意の三業を調律していく必要が在ると思われる。仏教で言う戒や四摂事。 無知・怒り・貪欲と逆の感情・離れる感情を繰り返し、癖にしていくことも重要だろし、概念も現実に則した軋轢の生まれない概念に書き換えるための努力も必須だと思う。 八正道の実践が必要になると思う。 こんな感じです。 何かお役に立てば幸いです。

回答No.2

教わるものではないでしょう。 というより 「いろいろ調べているのですが、いまいち納得できません」 ということについて「なぜなのか」を、とうとうと述べ立てるのが最も的を射た論述になるかもしれません。 個人的には、そのように思います。 だって、言葉で定義されたり、言葉で縛られているものではないでしょうから。。。

noname#91067
noname#91067
回答No.1

重要な概念についてだけ・・・自由を満喫できるのは生きている間だけに なります。生前や死後に不自由を感じることもなく、自由という概念を 持つことも必要がないからです。 有限な時間に拘束されてこそ抵抗する、或いは執着する気概が持て生きることが人生です。 お金の節約(して貯金する)でも空間の節約(収納法)でもなく時間を いかに節約するか(意志によって)で、新たな発想や行動する自由時間が持てます。

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