(1)多少論点がずれますが以前、このサイトで
自信が無いのに回答する回答者ってなんなの?
という一行の質問を見て、なるほどと、とても感心しました。
以来、ほぼ全ての回答で「自信あり」にしています。
もちろん参考意見です、と一歩引くのは日本的な奥ゆかしさであり、確かに
美徳かもしれませんが、今の自分がこう考えている、ということについて
は確信を持っています。少なくとも考えてないことは書いていないつもりです。
(その表現の手法として、あえて逆のことを皮肉として書くことはありますけど。)
本筋にもどると、政治での意見も全く同様です。
つまりそれは社会に生きてきたその人の意見であり、
すべての人が「自信あり」でいいんじゃないでしょうか。
あるいは社会において「間違っている」とされていることであっても、
あるいはたまたま知らないことがあったとしても、それで自信を失う必要は
無いですよね。どんな意見でも社会に生きたことで価値を持つと考えています。
ほかの人の意見のほうが説得力あるなぁ、と感じたら、その時点で
変えちゃえばいいんですから。
平たく言うと、自分の正しさへ自信を抱くのではなく、感じていることに
自信を持ってしまえば世の中も政治も、もっと楽しくなるんじゃないかな?
と思うのです。
(2)現代では自由の実現、つまり生きている間の幸福だと考えています。
・・・・と、危ない人と勘違いされそうなので一応書いておきますが、
私は宗教家とは、すべて死んだ後の幸福を主張するトンデモ人間の集まり
もしくは階級を作り上げ、自由を阻害する組織体と考えているので、
彼らと私とでは、信奉しているものはおそらく真逆のものだと思います。
正直、死んだ後のことなんて知らねーよ、というのが私のスタンスです。
その永遠ならざる私の短い人生で、なるべく多くの種類のご意見を
拝聴するよう心がけてきたのですがそこから得た一応の結論は、
「みんな言っていることがぜんぜん違うじゃん?」です。
そして、その違いがとても面白いものだと感じています。もちろん、
その意見をあわせ、強い集団を作ることが政治だ、と考える人もいるでしょう。
ですが私は(今のところ)「ならば国家はひとつの意思に傾倒してはならず、
意思の主体を構成員である国民の側に置くべきだ」と考えます。
国民の立場を重視し、考え方の違いをなるべく尊重する。
この観点から、国家は国民に苦痛・苦役を負わせてはならないと思います。
たとえば近代以降、最も重視されるのは質問者さんも感じられる通り
経済財政政策ですよね。ですが、報道されるように、いい使い方と悪い使い方が
あるようです。そしてもちろん、私が「いい使い方」と感じるものに対して
他人が「悪い使い方」と感じることもあるのです。
世の中というものは、みんな言ってることについてぜんぜん違うものなのです。
そこに全員が納得する使い方というものはほとんど存在しないわけです。
つまり、国家が国民に与える苦痛とは、強制力のある税金の徴収であり、
そして"社会の為に"支払ったお金が実は、意図した通りに使われて
いなかった、という事態ではないでしょうか。
ならばこれらのお金は国から引っぺがして、各人が思うように、
自分の信ずる善行にでも使えばいいと思うのです。
国家は生き方を規定する存在ではなく、各人の生き方に従い
それを実現する手助けをすればいいわけで、ことさらに
「やらなくていいこと」までやらせなくてもいいじゃん、と思うのです。
国(役人、つまり人間)の分配なんて、かならず恣意的で、ある程度は
無駄になるんですから。
ただ、この苦痛を味あわせる事に関しては名人の国家が出来ることが
ひとつあります。それは社会の敵に嫌がらせを行うことです。
社会の敵、とは侵略の意図を持つ外敵であり、法律を破って他人に害を与える
犯罪者であると考えます。決して、政治家の意思に反する者、ではなく。
その意味で、無政府状態は避けるべきだと考えています。
とまあグダグダ書きましたが、俗っぽく言うと早い話がとっとと減税せいや、
ということなんですけどね。ただ、この考え方は昨今、拝金主義だとか
市場原理主義とかいう批判のされ方をしているので、おそらく
今の日本では受け入れられないんだろうなぁとも感じています。
この日本人の意見を尊重したときに、急激な変革や押し付けは、
やはり問題があったんだなぁ、とも。
違う意見の人にも花を愛でる様に、じっくり、ゆっくり(あるいはジワジワと)
説得していったり、説得されていったりしたらいいんじゃないかな?
今の政治観はこんな感じです。
投稿日時 - 2009-06-28 21:27:59