解決済みの質問
ri_rong様、こんにちは~
従来の伝統的な西洋絵画においては、まず「主題こそがありき」であって、いかにそれを表現するかという点に忠実に描かれてきました。
一方、マネ以降の多くの画家達と同様に、クロソウスキーは独自の絵画表現によって主題である≪事物の本性≫を≪姦淫とは何ぞや≫へと「変質ないし変形」せしめているのでしょう。
ri_rong様のご推察はごもっともかと思われます。
擬態(シミュラクル)が鏡の役割を果たすというならば、絵画を観る者によっては、一つの表徴をもう一つの表徴とを取り違えてしまう疑いや虚偽の危険性をも孕んでしまう場合があるかもしれません。
以前の回答でわたくしが述べた赤いヒト等に関する偽った解釈も、これに相当するという考えに至りました。
>あの地面に横たわってニヤケている赤い洋服のヒト
>僕にはやはり、あれは影だと思えます。そしてあの顔は、女性ではなく太陽を見ている。ですから、天の笑いを映した影だと思うんです。くるくる回る、想いのようです。
>けれどこれが、『事物の本性』ではないのでしょうか。
はい、そうですね。
天の笑いを映した影。
だから赤の色調を帯び、かつ、戸外で戯れているのでしょう。
レダに比べて白鳥が小さいという点はいかがでしょうか。
レオナルドに限らず従来の絵画においては、レダと白鳥はおおむね等身大に描かれています。
でも、この絵画は違います。白鳥がやけに小ぶりなのです。
本来であればゼウスの化身の白鳥はレダと交わるためそれなりの大きさが求められるはずです。
これでは…鏡にまるで「さかさま」に映っているかのようですよね。
ギリシア神話的にも両者の立場が逆となり、レダが白鳥(ゼウス)を誘う女状態?!
天の笑う影は実質上はレダの影だからレダと等身大なのですね。
さしずめ陽光の下でレダが一層放縦に白鳥を誘う行為に加担する共犯者、といったところでしょうか。
太陽の陽の光と影が常に同一性を孕むものならば、「姦淫とは何ぞや」は「姦淫という行為ですらも善悪の同一性からは免れない」というのは乱反射しすぎでしょうか。
「姦淫は悪いったら悪いんだよ!」と格好良かったお方のコメントが待たれるところです。
岩波でプラトンですか。そんな信仰への序奏の形もあるのですね。う~ん、なるほど~
信仰に繋がるかはわかりませんが、こののちゆるゆる読んでいきたいと思います。
ああでも、独り善がりな思いこみ解釈が容易に想像されます(笑)
ご紹介いただいたテクストは、いずれもストレートながら何とも美しい文でして、思わず癒されるような心地が致しました。
ラテン語は超早期挫折者なので原文をまるごと諳んじてしまおうかと思います。
フィチーノさんは「フィレンツェにかつて恋人がいたにもかかわらず」存じ上げておりませんでした。
遥か昔のことですがちょっと焦ったかも(非日本人)
コミュニケーションの過程では、時に誤認識の恐れも生じ得るわけで、これの訂正と正しい認識のためには、まずは何よりもわたくし読み手側の自助努力なのだと気づかされました。
ピーターハリーのように一見ミニマル・アート風味で、でもわかる人とっては「ああ!フーコだ!」という「逆向きの発想」はとてもスノッブでユニークですよね。
通常の価値観ではフーコ等の思想によって絵画にメスが入りますから。
現代社会すべてを記号化・擬態化させ、そのシミュレーション世界においては真の現実より記号・擬態こそが至上であるというボードリヤールの擬態理論に、多くの作家たちはインスパイアされたようです。
>ボードリヤールの『物の体系』を読んだとき、真っ先に思ったのは様式の喪失です。これが現実感を損なわせる。
>《ジュピター》を聴くときに感じる無常感は、きっとこれなのではないかと思いました。
>規範化された制度を訴えたフーコと、その制度の喪失を訴えたボードリヤールは意見がまるで反対なんですが、《ジュピター》を聴きながら読みますと、どちらも「ああ、無常」と思えるんです。
面白い「気づき」ですね。 是非音楽カテでもお聞きになられてみては。
第四楽章は特にドラマチックな無常の勢いを感じます。
ですがこれも「最後に作った交響曲」というバイアスに起因するものだったりして(笑)
無常の中で、時に立ち止まり、或いは捨て、そしてまた枯渇する魂によって歩きだし何かを得たり得なかったり。
その一方で、自分の分身のような存在とは容易に分かち難いものなのかもしれません。
ps:御多忙とのこと、全くこちらは急ぎませんし、〆て下さっても結構です。どうかお気づかいなさらないで。
主人はとりあえず年2回の経過観察の身です。どうか御大事になさって下さい。
投稿日時 - 2009-06-02 15:12:42
補足
ご回答ありがとうございます。
>レダに比べて白鳥が小さいという点はいかがでしょうか。
これも特徴的だと思いました。さらに、構図ですね。太陽について、あるいは光の向きについて注目すると、絵の構図が古典とは「さかしま」になっていますよね。レオナルドの絵は画面手前に光があって、まずレダが、そして右背後の白鳥はその影に見えます。
ところがクロソウスキーの絵は、画面奥に光があって、まず女の背中が、そして左手前に小さな白鳥と男がいます。男の右手の位置や白鳥の重なりから、どちらが手前かわかるようになっていますよね。
クロソウスキーの絵では、白鳥はゼウスではなく、すでに本来の生き物の姿に戻っているかのようです。仰るようにこの白鳥は、交合できないでしょう。からかいとか、ちょっかいを出すくらいしかできない。クロソウスキーの考える姦淫とは、あるいはそういうものなのかもしれません。
フーコの言うように、セクシャルとかラブとかというものが、近代の発明品なのだとしたら、その発明品の部分だけをこの小さな白鳥は表現しているのでしょう。
>「姦淫という行為ですらも善悪の同一性からは免れない」というのは
クロソウスキーの女の場合、影としてあるべきところに横たわっているのは白鳥ではなく男です。男はきっと女の影で、望みは、白鳥のくちばしか? という感じです。
やはり姦淫は悪です。悪であることがとても重要なのです。この悪を取り除くのことが、まさしく自然の摂理に反する――現代人にこのように思われるのも、これはこれでひとつの貴重な事実であり、発明の恩恵であるだろうと思います。悪は「除かれない」からこそ、程よく世の中を説明するモデルとして利用できると思うんですね。もしも悪を無くしてしまったら、もうそのモデルは使い道がなくなります。
>フィチーノさんは「フィレンツェにかつて恋人がいたにもかかわらず」
これは何かの暗喩でしょうか。彼は生涯、独身でした。
僕の嫁さんは、空飛んでます(パイロット)。嫁さん――誰でもそうだと思いますが、男にとって、嫁さんは常に嫁さんです。結婚してもうすぐ二十年ですけど、僕は彼女が真っ白な服を着て僕のところに来た日のことをまるで昨日のように、よく覚えています。
そういうもんだと、思いますよ。
>独り善がりな思いこみ解釈
それがいいのです。
投稿日時 - 2009-06-04 09:15:35
お礼
>ピーターハリーのように
第一印象として国会議事堂の壁に飾ったら、さぞかし見栄えのする絵だなと思いました。思うこともあり、やはりつぎの質問を考えてみることに致しましょう。また、よろしくお願いします。ありがとう。
投稿日時 - 2009-06-04 09:16:36
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ベストアンサー以外の回答(10件中 1~5件目)
ri_rong様、お礼を拝見致しました。 どうもありがとうございます!
先の回答にて肝心なことをお伺いするのを忘れておりました。
すみません。
>フィチーノを好きだったバタイユが、キリスト教を攻撃するとき、それは「動かない太陽」に対するものだろうと思いますし、『太陽について』という小品から、なぜそう思うのか、一節を抜き出しておきます。
週末に『バタイユ入門』を読みました。
絶望のどん底や淵、紆余曲折を経験しながら常に休まず模索しつづけたバタイユの究めようとしたもの、そしてその情熱って、いったい何だったんだろうかと。
フィチーノ氏というのはフィレンツェにいた方だったのですね。
そういえば、どこかの質問で「恋人はフィレンツェにいます」とおっしゃっていらっしゃいましたよね。
wikiはあまり好きじゃないの。だって記した人の氏名が公に公表されないから。
何て疑り深いんでしょう(笑)
我が子の聖書を見ても載っているわけがないのですよね。
でも猜疑心で斜め読みするwikiに記載のフィチーノ氏は、ちょっとユニークで教会内ではむしろ異質な方のように思えるのです。
もしも彼を理解するのであれば、先に我が子の聖書を全体的に読了すべきでしょうか。
そして彼の著書なり関連書物は先のようなラテン語原文しかないのでしょうか。
仮に和訳で手頃な物がありましたら、お手すきのときにご教授下さいませ。よろしくお願い申し上げます。
ps:
>>「失ってから得る何か」というものがあるのかもしれません
>僕の感じる無常感は、ひょっとしたらお書きの内容そのままかもしれないですが、どうでしょうか。僕には、どうもマシュマロさんがそこを仰っている気がします。
はい。そうです。
で、バタイユにも無常の極みであっても「捨てない何か」「無常だからこそ見いだせる何か」があったような気がしてならない、だから心惹きつけられるのだとわたくしは思っております。
彼の大好きだったフィチーノ氏は何か関連する言葉はあるのでしょうか?
実を言うと、週末はついはしゃぎ過ぎて禁断のハイヒールを履きまくり、ちょっと今日はお疲れ&たそがれモードなのです(笑)
投稿日時 - 2009-06-01 14:29:41
補足
ご回答ありがとうございます。
>絶望のどん底や淵、紆余曲折を経験しながら常に休まず模索しつづけたバタイユの究めようとしたもの、そしてその情熱って、いったい何だったんだろうかと。
僕が思うには、やっぱり自分探しじゃないのかな。彼がまだ本の虫だった頃、プラトン関係の書物をずいぶん読み漁っていたようです。聖書ではなく、これは想像ですが、もっと「ゆるやかな」人間関係を望んだのだと思います。けれど、その一方で(これは文字通りですが)プラトニック、行いにはつまり一途だったんでしょうね。
フィチーノはどちらかというと、プラトンに留まらなかった。エジプトの神々を見据えていましたね。時代背景も手伝ったのだと思います。地中海貿易を通じて、アラビアから異郷の書物が入ってくる。メディチ家はその時代に覇を唱えた領主で、フィチーノの父親はコジモ・デ・メディチの侍医をしていました。
コジモは若いフィチーノに言ったそうです。「お前は、魂の医者になるのだ」とね。それから彼は、プラトンの復興を目的にしたアカデミーを設立しました。
和訳は無いですから、全集に引かれる一節をご紹介しましょう。
――魂は霊的な光、すなわち永遠の真実が神から知性に注がれるとき、またその光があらためて神へと還るとき、自らの不滅を感受する。このように、始めと終わりは神であり、その中間である知性――驚くばかりに明るい環――は閉じられる。知性は最初と最後の両端に参与しているゆえ、永遠である。つまり、父の似像として創造された「心」とは、神の鏡であり、それは自らの起源へと神の光を、その不滅の像を還す。一方、身体は神の陰である。魂は陰と暗の上なる永遠性の像であり、場所や時に限定されることなく、思惟によって境界を超え時空を駆け巡ることができる。
宇宙普遍の明瞭な範型の像である魂が、それを生んだ神を愛さないはずがない。神から流出し「心」を満たす光に歓ぶ。(ジェンティーレ、「プラトンの復活」)
どうでしょう。感じとして、なんだかこれまで交わしてきた対話の全体を見るような感じが致しませんか?
>我が子の聖書を見ても載っているわけがないのですよね
どちらかといえば、僕は神に「ゆるい関係」を望んでいます。聖書はあまりに頑固であり、むしろ岩波文庫でプラトンを読むほうが性分に合っている。その息吹を感じたなら、無理をせず、気の向くままに思索にふけるのが良いのではないでしょうか。
>もしも彼を理解するのであれば、先に我が子の聖書を全体的に読了すべきでしょうか。
投稿日時 - 2009-06-01 16:01:01
お礼
聖書であれば、哲学のカテゴリーで、b氏の話に耳を傾けたほうが建設的です。フィチーノであれば、やはりまずプラトンを読むべきだと思います。ソクラテスは面白い人物だし。和訳では左近寺祥子さんの『恋の形而上学――饗宴注解』などがありますね。
>何か関連する言葉はあるのでしょうか?
そうだなぁ。枯渇する魂(anima sitibonda)――という言葉があるんですが、それゆえ僕らは、何ものにも増して対話を求める――という事だと思います。
投稿日時 - 2009-06-01 16:02:09
ri_rong様、こんにちは。
映画『天使と悪魔』で「聖テレーザの法悦」がアップしたとき、
「ああ!バタイユ!(文庫版『エロティシズム』の表紙)」と興奮してしまいました。
もう「ベルニーニの傑作」とは浮かんできません(笑)
http://www.wga.hu/frames-e.html?/bio/b/bernini/gianlore/biograph.html
>そしてあの双子たちは、無邪気にレダと白鳥を見上げています。それは母性を感じているからでしょうか。そうではなく、僕はそこに「誘惑」を感じるのです。
はい、おっしゃるとおりです。
わたくしも赤ちゃんたちがレダと白鳥に母性を感じ仰ぎ見ているとは思えません。
ri_rong様のおっしゃる「誘惑」。
それはレダと白鳥の関係を暗示させ心惹き寄せるもの、という意味でしょうか。
そしてそれはクロソウスキーのあの絵画における赤いニヤついたひとと同じ役割を担っているようにすらわたくしには思えるのです。
>姦淫は悪です。悪であることを知っているからこそ、人間は姦淫をするのではないでしょうか。←oui.
>姦淫をするとき、人は(これは想像ですが)姦淫が「なぜ」悪いのか? と、問うているような気がします。←bien sur.
>であれば、なぜ問うのか? それは、姦淫が悪であることをすでに「知っている」からではないでしょうか。←exactement.
>知っているのに、なぜ姦淫するか。ひとえにそれは、問い掛けた「なぜ」に対して、答えが見つからないからだろうと思います。言い換えれば「なぜ」を知るために、姦淫をする。姦淫を悪だと僕が呼ぶのは、問い掛けている者は、それが悪である事をすでに「知っている」からです。←oui…mais non,
姦淫が悪であり禁忌を帯びる性質のものである以上、逆にそれを侵犯するが故に、一種特別な魅力や情熱を感じたり、或いは歓びと悦楽などを見出すのではないでしょうか。
だからこそ人間はときに禁断の姦淫にふけったり、或いは日々それを夢想するのだと思うのです。
>ゼウスはなぜ白鳥に姿を変えたのでしょうか。
>神話によれば、レダは姿を変えたゼウスが白鳥の正体であることを知らないことになっています。これって、本当でしょうか――けれどもそれは、知ることが叶いません。
>白鳥がゼウスであることを知っているのは、あるいは観客だけではないでしょうか。
>絵を見つめる観客、その観客にとってのみ「姦淫」は成立するのではないでしょうか。
ああ、なるほど! さすがの洞察力で、大変参考になります。
「白鳥がゼウスである」ことの認識が「姦淫」へとたしかに繋がりますね。
個人的には「白鳥がゼウスかどうか」レダには関心がなく、むしろ「ゼウスの化身と見抜いていたし、もしくはあえて知りつつも知らないふりをして”脆くも口説かれた”」という確信犯のほうが、より一層エロティックな感覚が増すように思われませんか。
つまり、白鳥であるのに強く求められ、抵抗を装いながら乳房をついばまれる「不思議な非日常性」を「けしかけている当の白鳥以上に」レダは楽しんでいるように映ります。
>そして彼らの目は、決して互いを向き合いません。この向き合わない視線だけが、この絵のなかでは唯一の真実のように僕には思えます。
>彼らは、互いの存在を知らない。にも係らず、観客はそこに男女の交わりを予感してしまう。
本当にri_rong様のおっしゃることはとても興味深い考察ですね。
向き合わない視線、ですか。 唯一の真実。
交錯しない視線とは裏腹に各々は相手の身体部分に触れており、お互いに愛撫しあっているようにも見えます。
ちょっと白鳥の脚のあたりが不鮮明で、これは単にけしかけているだけにすぎないかもしれませんが。
>僕にはやはり、あれは影だと思えます。そしてあの顔は、女性ではなく太陽を見ている。ですから、天の笑いを映した影だと思うんです。くるくる回る、想いのようです。
>けれどこれが、『事物の本性』ではないのでしょうか。
ああ、赤いヒトが「影」であり、見えざる太陽を見ている、そして「天の笑い」を映し出している。
たしかにこの箇所を手で覆うと、意外な事に、絵画全体が何らsensualではなくなってしまいますものね。
『事物の本性』でもあり、絵画における一つの要でもあり。
傍らに位置する家の内開きの窓に薄く見える白い人影のようなものは一体なにに見えますでしょうか。
わたくしの環境では判明しづらく、白鳥の羽が映っているのか人が覗き込んでいるのか不鮮明で残念でなりません。おわかりになりますか。
>>哲学的な考察が適当でなく、解決しようのない「心の闇」
>自分の影が見えるとき、背後には明るい陽光が射しています。ですから振り返れば、そこには太陽が見つかるでしょう。
>信仰とはその向きを変えて太陽を見ることに近い気がします。
これに関しては記して下さった引用も含めまして、いったい何と感謝を申し上げたらよろしいのかわかりません。
本当にありがとうございます。
そうですね、自分の影の背後には必ず太陽の存在がありますものね。
太陽のあたたかい恵みの光を背中全体に感じ、ふりかえって仰ぎみる。
わたくしの筆舌し難い「心の闇」など、他の方々にすれば恐ろしくくだらないレベルなのです。
表層的な容貌と要領の良い運動神経しか取り柄がなかったことに対する驕りと悔しさ。
美しく華奢なハイヒールを泣きながら全処分したあと、空っぽの空間に「杖」を一本置いたときに思わず泣き伏して、「もう女ではなくなったのだ」という屈辱感とレントゲン写真を除けば何ら以前と外見上変わらない不条理さ。
でも世の中にはもっとシビアな状況下で悶々と悩む女性も多くいらっしゃるわけでして、わたくしは本当に恵まれていることを忘れてただ甘えていただけにすぎなかったのです。
それに、忌まわしいはずの「心の闇」により、逆に「いままで測り知れなかったの得難い恩恵」を最大限に享受しております。
夫との関係改善と復活を積極的に促した原動力でもあり、それからの逃避願望の強い希求は、かつてないほどの自我の放出とカタルシスの効果をもたらしてくれているのです。
影は陽光あっての影にすぎませんが、影のおかげで、また、より一層陽の光があたたかくも眩しくも思えるのだとしたら、あながち一掃する必要もないように思われます。
ふとしたときにのみ顔をのぞかせる「心の闇」は漠然とした不安でもあり陽の光と異なる刹那的な灯でもあり。
そして本当のあたたかな陽の光。
これからは、ゆるゆると、真の陽の光を見るために自らふりかえる姿勢をも一から学んでいきたいと思っております。
「信仰が不要である、必要性を全く感じない」という状況というのは、実は「周りにうまく流されて生きている部分が大きくて、その場合自らはあまり能動的に生きていない、むしろ生かされている状態なだけ」のようにも思えてきているので。どうなのでしょう。
ああ、やっぱり、普段は3分ともたない思考力を長引かせようと無理すると、トンチンカンな発想に陥ってしまうわけでして(笑)
>視界に姿が現れる場合を考えてみます。容易に思いつくのは、鏡に映し出したときでしょう。それと、影です。明るい陽光の下に立つとき、影が並んでいるのが見える。凝態とは、これなのではないかと思うんですが、どうでしょうか。
はい、これにつき、もう一日ゆっくり考えさせてください←つまりまだ理解不十分
例の双子の赤ちゃんの数ですが、レダが二つの卵を産んだという設定に比べると解釈にばらつきがあるようですね。
カストルとポルックスのペア説、レオナルドの双子x2、あるいは5つ子が描かれた絵画もあるようです。
また、ミケランジェロやセザンヌ、クロソウスキーは意図的に赤ちゃんと卵の殻を描いていません。
やはりri_rong様のおっしゃる「誘惑」と絵画全体の表現性との相関関係に尽きるのでしょうか。
ちなみに今まで触れておりませんでしたが、ピーター・ハリー などは「シミュレーショニズム」という現代美術の範疇の作品を製作していますよね。
現在『知の欺瞞』をゆるゆる読んでいる最中ですが、ボードリヤールの唱えた「シミュラクル」とクロソウスキーのそれとは何か根本的な差異がありうるのでしょうか。
以下のCellシリーズは、フーコにインスピレーションを得ての刑務所の独房、監房であり、縦横に巡らされたパイプで隔離された空間、社会同士があたかも繋がっているかのようで大変面白いと思いました。
http://www.museomadre.it/opere.cfm?id=134&evento=51&pt=1
http://www.peterhalley.com/ARTISTS/PETER.HALLEY/1980-85.Index.htm
ps:「失ってから得る何か」というものがあるのかもしれません。
その一方で「一時の感情に流されずに失わなかったことにより後日得られる何か」もありえるのではないでしょうか。
投稿日時 - 2009-06-01 10:34:41
お礼
>映画『天使と悪魔』
ほう。見てみたいなぁと思っていた映画です。
>逆にそれを侵犯するが故に
これが、まだ知らないことを追い求めるときに、どきどき感を産むのでしょう。ただし、超えようとするのが悪だということを知っている。それゆえ、その先に待っているだろうものは、快とか善だと思ったりはしませんか?
だとすると、超えたものを求めるときのどきどき感は、そりゃ一入だろうと思います。
>確信犯のほうが、より一層エロティック
確かにエロティックですが、これは確かめようがないという、知を超えるどきどき感じゃないのかな。僕はここで「確かめようがない」というのは本当なんだろうか、とすぐに思ってしまうから、夢がなくなったりします。
>傍らに位置する家の内開きの窓に薄く見える白い人影のようなもの
よくわかりません。こういうところに窓が付くのは、彼らの背中を映しているのだろうと思うのですが、むしろご奉仕を終えたガリバーとロベルトかもしれません。専門家の解説が待たれます。
>ピーター・ハリー
知らない芸術家でした。監獄をモチーフにされていますが、これはアドヴァイスが無いと僕には無理です。先導していただけますと、付いて参ります。
>ボードリヤールの唱えた「シミュラクル」
これは、新しい視点ですね。実は、音楽のカテゴリーでモーツァルトの《ジュピター》について質問をしようかと思っていたんですが、ここで絡みました。ここは質問者に与えられた特権でもって、この話題を少し広げてみます。
ボードリヤールの『物の体系』を読んだとき、真っ先に思ったのは様式の喪失です。これが現実感を損なわせる。《ジュピター》を聴くときに感じる無常感は、きっとこれなのではないかと思いました。規範化された制度を訴えたフーコと、その制度の喪失を訴えたボードリヤールは意見がまるで反対なんですが、《ジュピター》を聴きながら読みますと、どちらも「ああ、無常」と思えるんです。
>「失ってから得る何か」というものがあるのかもしれません
僕の感じる無常感は、ひょっとしたらお書きの内容そのままかもしれないですが、どうでしょうか。僕には、どうもマシュマロさんがそこを仰っている気がします。
投稿日時 - 2009-06-01 12:45:04
ri_rong様、こんばんは!
いつもあたたかい励ましのお言葉を本当にありがとうございます。
>これがおそらく、あの絵の持つテーマで最大の難事だと僕は思います。それが、レダに求愛するゼウスがやっていることは、果たして姦淫なのか? という問いでしょうね。
>クロソウスキーもまた、同じことを問い掛けている気がします。
はい、そうですね。
通常、観る者の側が絵画の価値評価の判断を下すと想起されがちですが、あの絵画に関しては逆に、観る者をシビアに峻別しているかのように思われるのです。
それとも、ひとりの人間の内に両義的な見解が生じさせ得るものといいますか。
「えええ」とこちらがシラジラしくほくそ笑んでしまいそうな卑猥さ、羞恥心といった感覚を抱く一方で、一旦瞳を閉じてまた開けると虚心坦懐の境地といいますか、「この情交ってはたして姦淫なのか?」と思いたくなる感覚。
simulacre=模像、凝態(シミュラクル)の道理とは、これらを意図するただの像に過ぎない、ということを指すのでしょうか。
>この質問のNo.7が、僕の哲学に対するスタンスです。どうでしょうか。
>このように、哲学は日常の些細な疑問、そして身に降りかかる「ちょっと嫌だな」と感じるくらいになった抑圧に対して、「どうするか」というところから始まると思います。
はい、あなたのスタンスはまさにわたくしの理想とするところのものです。 大変参考になります!
また、pokoperopo様の質問センスの素晴らしさもさることながら、実際に哲学の命題として相応しい対象の取捨選択も大切なのだと感じ入りました。
例えば個人的には、前回記した「わたくしのバタイユ=レダの股間」。
あいにく、哲学的な考察が適当でなく、解決しようのない「心の闇」となり下がってしまっております(笑)
度重なる流産、早産の危機、二度めの出産時の昏睡状態といったアクシデント、セックスレスと夫の浮気と解消、わが腹より出でし子供達と子離れの難しさ、将来必ず迫られる人工股関節置換手術への不安、日常の開脚の不自由さと大好きだった激しいスポーツの制限。
全てわたくしの「股関」に帰結し、レダの淫らに開いた脚や股関に思わず目が向かっていたのも事実です。
どうしても最後の項目だけは「現在の医学をもってしても、もしくはいかに考えようにもどうしようもないこと」であり、ふとした折りにsensualで不安定な衝動に陥ってしまったりして。
何故かしら、でもまあ、他で充分すぎるほど恵まれてるから良しかしら(笑)
上述の不思議なエロティックな心の闇を探って将来の不安に駆られるよりも、むしろ自分にとっての「信仰」とは一体何なのか、何故今までそれに気づかなかったのか、と自問自答しているほうがはるかにマシな気がするのです。
レオナルドの描いた双子の赤ちゃんの件ですが。
双子願望は彼の左手と鏡文字に映った手を真っ先に思い浮かべました。
対の状態が非日常性を表現しながらも、まるでその裏表というか2つの側面をもってして完全体を成すような、そんな風に映りました。
ri_rong様はどのようにお考えになられたのでしょうか。
さらに、本題の絵画に話を戻します。
ri_rong様は、あの地面に横たわってニヤケている赤い洋服のヒトから何をご想像なさるのでしょう。
画像が小さいので凝視できないながらも、何やら白鳥をけしかけているようにも思え、もしくは故意に三すくみで戯れているようにも思えるのです。
以前の古典的モチーフとしてはあくまでレダと白鳥のみだったはず。
う~ん。この絵画は怪しすぎマス。
やっぱり、わたくしは虚心坦懐には果てしなく程遠い女なのかもしれません(笑)
投稿日時 - 2009-05-30 00:15:10
補足
マシュマロさん、ご回答をありがとうございます。
>通常、観る者の側が絵画の価値評価の判断を下すと想起されがちですが、あの絵画に関しては逆に、観る者をシビアに峻別しているかのように思われるのです。
まさに、同じことを考えていました。あの絵は、鑑賞者を峻別している。その峻別は、神話やレオナルドの絵に描かれる双子のようなものだと感じます。描かれた双子が画面から消えた代わりに、クロソウスキーの絵は画面がその双子を演じている。以前に、僕が投稿したテクストの持つ「誘惑」について、その内容を覚えておられるでしょうか。
そしてあの双子たちは、無邪気にレダと白鳥を見上げています。それは母性を感じているからでしょうか。そうではなく、僕はそこに「誘惑」を感じるのです。
ところで、姦淫は悪です。悪であることを知っているからこそ、人間は姦淫をするのではないでしょうか。姦淫をするとき、人は(これは想像ですが)姦淫が「なぜ」悪いのか? と、問うているような気がします。であれば、なぜ問うのか? それは、姦淫が悪であることをすでに「知っている」からではないでしょうか。
知っているのに、なぜ姦淫するか。ひとえにそれは、問い掛けた「なぜ」に対して、答えが見つからないからだろうと思います。言い換えれば「なぜ」を知るために、姦淫をする。姦淫を悪だと僕が呼ぶのは、問い掛けている者は、それが悪である事をすでに「知っている」からです。
単にその事実を、指摘しただけです。
さて、ゼウスはなぜ白鳥に姿を変えたのでしょうか。神話によれば、レダは姿を変えたゼウスが白鳥の正体であることを知らないことになっています。これって、本当でしょうか――けれどもそれは、知ることが叶いません。
例えばあなたは、「絶滅危惧種の鳥」から名前を変えたのが、僕だということを知っています。けれども、観客たちはそれを知りません。白鳥がゼウスであることを知っているのは、あるいは観客だけではないでしょうか。
絵を見つめる観客、その観客にとってのみ「姦淫」は成立するのではないでしょうか。
クロソウスキーの絵に戻ります。絵の中で男は、女の左足を右手で支え、左手の白鳥を女の乳房へけしかけます。そして彼らの目は、決して互いを向き合いません。この向き合わない視線だけが、この絵のなかでは唯一の真実のように僕には思えます。
彼らは、互いの存在を知らない。
にも係らず、観客はそこに男女の交わりを予感してしまう。あなたは、ご主人の姿を見るとき、クロソウスキーの絵の如く、そこに「自分の姿」が見えるでしょうか。これは断言しても良いが、姿は見えないはずです。
視界に姿が現れる場合を考えてみます。容易に思いつくのは、鏡に映し出したときでしょう。それと、影です。明るい陽光の下に立つとき、影が並んでいるのが見える。凝態とは、これなのではないかと思うんですが、どうでしょうか。
>哲学的な考察が適当でなく、解決しようのない「心の闇」と
自分の影が見えるとき、背後には明るい陽光が射しています。ですから振り返れば、そこには太陽が見つかるでしょう。
とても重い悩みを、お持ちのようです。僕に言えるのは、信仰とはその向きを変えて太陽を見ることに近い気がします。太陽は決して、影というエロティックな闇のために輝いているのではないはずです。フィチーノを好きだったバタイユが、キリスト教を攻撃するとき、それは「動かない太陽」に対するものだろうと思いますし、『太陽について』という小品から、なぜそう思うのか、一節を抜き出しておきます。
投稿日時 - 2009-05-30 16:53:44
お礼
――人間が精気によって歓喜し、その表情が笑う毎に内的に輝き、精気によって膨らみ、表情、特に非常に星辰的であり、笑う時に天空のような回転運動をする眼によって、輝いていることが見られることから、光は星辰的な諸精気の喜びによって起こされた天空の笑いであるということが理解される。(神意の喜びによって起こされた天の笑い、つまり光は、全てを暖め、喜ばせる)――Quod lumen sit risus coeli ex spirituum coelestium gaudio proficiscens, indicant homines, qui quotiens laetantur spiritu, ridentque vultu, splendent certe intus, dilatanturque spiritu, vultu quoque splendere videntur, oculis maxime, qui maxime sunt coelestes, quique in risu motum coeli instar efficiunt circularem. (Risus coeli ex numinum gaudio proficiscens, id est, lumen omnia fovet atque delectat. Cap. VIII.)
>あの地面に横たわってニヤケている赤い洋服のヒト
僕にはやはり、あれは影だと思えます。そしてあの顔は、女性ではなく太陽を見ている。ですから、天の笑いを映した影だと思うんです。くるくる回る、想いのようです。
けれどこれが、『事物の本性』ではないのでしょうか。
投稿日時 - 2009-05-30 16:59:07
ri_rong様、こんにちは~。
回答が二つに分かれてしまってごめんなさい。
昨夜のわたくしのフーコ話が余計だったですね、すみません。
>何かの折に気になる――という存在として、僕にはどうも「リカちゃんのヘソ」があるのですが、それがきっと僕にとっての拘束具なのだろうとは思っていまして、あるいはそれが靴なのかと思いました。まあ、考えてみれば可笑しなものでしょう。
>だって、「ヘソ」ですよ?
>でも、僕にとっては、これがバタイユです。
リカちゃんのおへそ。拘束具。レダの靴。バタイユ。
リカちゃんもさることながら、幼少の頃に「おへそを隠さないと大変でしょ」と何度か家族から言われたことがあります。
「へそもち」という福音館の絵本を思い出しました。ご存知でしょうか。
雷様がカミナリを落として大好物の人間・動物のおへそを盗みまくっていたので、とあるお坊様が知恵を絞って五重塔のてっぺんにおびき寄せて困らせて、おへそをモチーフにした「へそ餅」を雷様に持たせて退散させた、という童話です。
「おへそ」を取られた人間や動物たちは力が出なくてヘナヘナに描かれてました。
今、我が子たちに「大事なおへそを取られたら困るからちゃんと隠しなさいね」などと諭す時代ではないようで。
おへそって結局、閉じられた「穴」だし、実際の人形の生産性、効率性にも響くから、大人の判断で消失しちゃったんでしょうかね。
そのうちに、手脚がさほど自由に動かなくてもいい、何パターンかの黄金ポーズがとれればそれでいい、なんていう更なる身体的改造論が出てきたりして。
だとしても、それも文化として一つの形態なのかもしれませんし。
ある意味、半生をずっと共にしてきた?リカちゃん人形だからこそ、むしろri_rong様の方が感謝してもよろしいのかもしれなかったりして。
ri_rong様にとってのリカちゃんのおへそは、わたくしにとってはレダの股間。
そうそう、レダに求愛するゼウスがやっていることといえば「姦淫」ですよね。
何故レオナルドがあの主題を描く気になったのか、双子の赤ちゃんと同じく、今ちょっと考え中です。
これに絡み、ri_rong様の「姦淫の悪さに「なぜ」は無い。それほど、悪いのだ。だから知らないのも無理はないと思うが、遅くはないから知ってくれ。ところで、「知る」ということは、知っているか?」を見て、「いかにもri_rong様らしいなあ」と、わたくしは微笑みつつ2つのことについて考えました。
クロソウスキーのあの絵に描かれたタブーの一つがこの「姦淫」であり、「エロティシズム」という言葉が氾濫する遥か昔より禁忌と侵犯行為を具現化する行為だということと、【「知る」ということを「知る」】について、です。
昨日『外の思考 ブランショ・バタイユ・クロソウスキー』という古書が届きました。
開封して、フーコの指摘する『アルキビアデス』の箇所と以下のテクストを想起しました。
「われわれの主要な能力がいかなる状態にあるかを悟ることである。自分の弱点を認識してしまったあとでは、それを、いっそう重要な用途に役立てたいとは思わないだろう。 ところが今日、ごく少量のものをも飲み下す能力のない人々が何かの論文を買い求めて、それをむさぼり読もうと企てる。 だから彼らは吐き出すか、あるいは消化不良を起こす。 その次に、下痢や風邪や発熱がおこるのであり、まず彼らは自分の能力について考えておくべきだったのである…。」『自己への配慮』p77-78
>バタイユが恥部に拘ったのは、このように歴史の浅い概念に、なぜ人間はそれほどまでに捕らわれるのかという――知識人ならではの、疑問があったんじゃないでしょうか。
>さて、クロソウスキーの描く女性の股間もまた、開いたままで閉じている。
>初めて彼の絵を見たとき、僕は、あのバタイユの目じゃないかと、そのものじゃないかと思いました。絵を見る者にとっては開き、また別な者にとっては閉じる瞳のようなものです。僕たちはきっと、一度、目蓋を閉じなければならないのかもしれない。
>そしてもう一度開いたとき、世界はきっと変わっているのだろうと思う。
なるほど…。
これを拝見して、以前頂いた「プラトンの洞窟の囚人たち」と「ダ・ヴィンチのおかれていた境遇全てと何に縛られていたか」のご回答を思い起こしました。 凄く、不思議。
あとでみんな繋がってくるように思える感覚。
でまた、切って繋げて、の繰り返しのようでもあり。
ああ、何故今日は思いだすことばかりでちっとも先に進まないのでしょう。
いえ、元々ちっとも進んではいないのですけどね(笑)
投稿日時 - 2009-05-29 11:16:39
お礼
二通目ですね。ありがとうございます。
>レダに求愛するゼウスがやっていることといえば「姦淫」ですよね。
これがおそらく、あの絵の持つテーマで最大の難事だと僕は思います。それが、レダに求愛するゼウスがやっていることは、果たして姦淫なのか? という問いでしょうね。
クロソウスキーもまた、同じことを問い掛けている気がします。
ご指摘のように僕はあの質問で、答えを書いた。そして、あなたが引用なさるところは、本当に僕があの答えを書くときに考えた部分と近しい。
まだ質問は開けておきます。是非、いっしょに考えてみましょう。
投稿日時 - 2009-05-29 13:10:13
ヤッター!
ri_rong様、あった、あった! こんばんはー!
で、「Le souci de soi」のパラグラフ8行目末からちゃんと出だしがありました@wiki!
しかも、肝心の「normes」と「valeurs」が青文字だったし~←泣き笑い
そのあと、ご紹介下さったサイトを拝見した上で『自己への配慮』の第二章 自己の陶冶 を一読し、更にサイトを拝見し、「ぶっきらぼう」にも回顧してまいりました。
実はね、あなたのお書きになっていることが何をおっしゃっていらっしゃるのか、正確には殆ど良くわからなかったのです。
あーだいぶ半分くらいスッキリしました。
あとは雨合羽様の箇所が残っておりますが…うう。人生わからないことだらけってことで。
>ウィキに書かれるあの文言は、フーコが「配慮」というものを説明する機会のために、取っておいたものであり、――そしてこの自己の配慮は「汝みずからを知れ」という掟と同じものではなく、この命令が成り立つための土台であり、基礎であることが、いずれ『アルキビアデス』の分析から明らかになるはずだと、フーコーは予言している。
>と、サイトに書かれたもの以上でも以下でもない、ということです。
ガーン!!!
あのセンテンスの意味するところのものがこれだったとは!!
『自己への配慮』を読んでもさっぱりチンプンカンプンだったのですが、ご紹介のサイトによって一気に「開眼」した錯覚に陥りました。
しかも、なかなか良いことが書いてあるような@第二章
明日の朝、是非とも再読してみます。
哲学って愚鈍なわたくしには骨折れて疲れるけど、逃げずにトライしてみようかなあ、って思ってみたりもして←短絡的
あとですね、「ぶっきらぼう」に回顧して発掘してきたあなたの
>フーコの国家とか権利とか規範性なんて言葉は、もう前世紀にとうに片付いていて、僕にとってはどうだって良いのです。
>それよりも、新しい分野を語る時期に来ていると思うんですね。
というご見識もわたくしにとっては得難いものであるのは言わずもがなですし、「20年前と変わらぬ我がスタンス」にもあらためて気づくことが出来ました。 すごく嬉しいです!
自ら進んでフーコのステレオタイプ的ワナ(代表的著作『監獄の誕生』の主要語彙)の囚人と化してしまった観がありましたから。
それにフーコ自身が、コレージュ・ド・フランスの講義で、あの『自己への配慮』を殊更に重要視していたという事実。
なまじ「便利だから」とフーコを語るのもヤバイのは言わずもがなですし、このフーコの「関心の変遷」というのは、あながちバタイユ等などにも通ずるものがあるのかなあって思ってみたりもするのです。
「一目をひくようなエロ・グロ」にばかり着目して自家中毒をおこしてばかりいるのではなく、清濁併せ持った視点でゆるゆると考察していけたらいいなあ、って考えつつあるのです。
これも全てあなたのおかげです。本当にありがとうございます!!!
ああ! gooやってて「良かったー!!!」と思える至福の瞬間。
…ちなみに、あの質問者様は…いったい…
まるで「洞窟の中を永久に迷走しまくっている戸愚呂の兄貴@幽々白書」状態ってことでしょうか…?
(↑こんなのご存じないですよね、笑)
投稿日時 - 2009-05-29 01:21:13
お礼
マシュマロさん、ご回答をありがとうございます。
>哲学って、逃げずにトライしてみようかなあ、って思ってみたりもして
・http://okwave.jp/qa4783455.html
この質問のNo.7が、僕の哲学に対するスタンスです。どうでしょうか。
>自家中毒をおこしてばかりいるのではなく、清濁併せ持った視点でゆるゆると考察していけたら
その通りだと僕も思います。あなたとの対話を通じ、僕はほんとうに多くのことを学び、そして受け取りました。おそらく、一生忘れない。それは、ただ晴れているだけの日より、どういうわけか雨あがりの日のほうが、世の中をすっきりと見通せる気がするのと同じで――先人たちはきっと、その点でどうやら、意見が一致しているようです。
あなたがその美しい瞳を閉じるとき、そして真珠のような涙が流されたとしても、太陽がまた顔を見せるかのように、その瞳は開かれるだろうことを、僕は信じて疑わない。再び開かれた瞳はおそらく、以前とはまるで違った、ずっと透明感のある光を帯びていると思います。さあ、がんばってこれからも生きて参りましょうか。
投稿日時 - 2009-05-29 12:58:52