• ベストアンサー

「所産的自然」 は人間を指しますか?

質問は議論ではなくて、ただ確認したいだけなのですが、産出的自然は神で→世界を産出しているわけで→それが「所産的自然」と呼ばれる→その枠の中には「人間」も含まれていますよね? 能産的自然は、産出的自然の「行動」が「能産的自然」と呼ばれているわけですか? 知っている方がいましたら、教えてください

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

「所産的自然」に人間も含まれるかという問いに関しては、その通りですが、後半、ちょっと用語に混乱が見られます。 「所産的自然」と対比されるのは「能産的自然」です。このふたつが対概念であることをまず頭に入れておいてください。 スピノザは質問者さんが書いておられる“産出的自然”という言葉は使いません、というか、まああの人はラテン語で書いたわけだから、日本語の定訳ではありません、と言った方が正確ですね。もしかしたら"natura naturans" をそう訳したものがあるのかもしれませんが、おそらくこれは「能産的自然」ということだと思います。 これは日本語訳より英訳の方が頭に入りやすいんです。 「能産的自然」は原語で"natura naturans"、これを英語にすると"nature naturing" になります。 「所産的自然」は原語で"natura naturata"、これを英語にすると"nature natured"。 "nature" には動詞はないですから、"create" を当てはめて考えてみるといい。"nature creating" と、"nature created" のちがいです。 ちょっとやっかいなのが"nature" という語。 この「自然」という言葉に引きずられないで。これは“大草原の小さな家”を取り巻いているところのようなイメージの「自然」を指すのではありません。 日本語では昔この言葉を「じねん」と読んでいたのだけれど、いまでも「じねんじょ」というのがあるでしょう? あれは山なんかに「自然に」生えている山芋なんですね。いまはそんなふうに「自然に」という言葉にかろうじてそのニュアンスが残っていますが、人間が手をくわえていないもとのままの姿、おのずからなる本来の姿、という意味があります。 スピノザに特徴的なことは、この "natura" と神は同じものなんです。 スピノザは一般的に「汎神論」と言われますね。スピノザにとって、神は超越的な存在ではない。唯一の神が自然として存在しているというのです。 そういうふうに考えていくと、"natura naturata"、すなわち "nature created" 「所産的自然」というのは、神によって生じる、無限にさまざまな様態(ありよう)のことというふうにまとめることができます。もちろん、人間も様態、自然という全体の部分なのです。 では "natura naturans" 、あるいは"nature creating" 、「能産的自然」とはいったい何か。簡単に言ってしまえば、「所産的自然」を生じさせたもの、ということになります。じゃあそれは神のことじゃないか。そうなんです。 ただ、神と神によって生じたもののの関係、原因となるものと、結果となるもののことをいうとき、「能産的自然」-「所産的自然」という言葉を使います。 言葉を換えればスピノザにとって神とは ・唯一の実体であり ・内部に無限に多くの様態を含むものであり ・それ自身の本性の必然性によって活動する自由原因である と言えます。 この三番目の神のことをいうとき、「能産的自然」という言葉を使います。 ちょっと荒っぽい説明なんですが、おおざっぱな見取り図として理解してください。

lemonctiy
質問者

お礼

なるほど。ラテン語を日本語訳(英語訳)したのとでは意味と言うか、ニュアンスと言うか、それが違うのですね。能産的自然が「行動」と呼ぶのにもニュアンスが違うと言うか、そういうことですね。「原因」、「起こりうること」、と呼んだほうが通っている、ということでしょうか。上手く言えないのですが、内容が理解できたような気がします。ありがとうございました!

関連するQ&A

  • 人間が持つ自然放射能

    あちこちで聞きますし、先日もNHKでセンモンの先生が仰っていましたが、判り難いの質問hします。 人間も本来放射能を持っている(3000ベクレル~4000ベクレル、時には6000ベクレルの場合も)とのことです。これは人肉1kgあたりにすると100ベクレル近くになりますがこういう認識でいいのでしょうか。 最近変更された食品の許容放射能は、牛肉などで50ベクレル/Kg だったと記憶しています。 牛などは人間の持つ自然放射能よりも格段に低いことになりそうです。こういう認識でいいのでしょうか。必要がないといえばそうかもしれませんが、松阪牛やら鹿児島県産黒毛和牛などの(自然)放射能汚染度は計られているのでしょうか? TVで出てきた放射能汚染におびえる主婦のかたたちは、食品からは限りなく0(ベクレル)になるようにしてほしいといっておられます。 ハンバーガーを正直に6ベクレルありますと書いたら返品が相次いだそうです。 私も食品から放射能が出るのは気持ちが悪いですが、本来 それらは0ベクレルのものなのでしょうか。なら人間が6000ベクレルもあるのは不自然な気もします。 外国からの食品は国内基準よりもっと多いのが普通だとも聞きましたが、日本人の感覚は世界標準なのでしょうか。 フクシマの反動だから仕方がないということならそうかも知れないと思いますが、それなら新基準は福島県の食品関係者の方を意味なく苦しめているような気もします。

  • 自然界、人間は必要不可欠?不要?

    タイトル通りです。 自然界にとって、人間の存在は必要なものなのか、特に必要とされないものなのか、それぞれ、その理由も含めて、ご意見、お待ちしております 。 私は、「特に必要とされない」派です(存在否定ではありません、念のため)。 理由は、人間は、生態系ピラミッドの頂点に居ますが、食物連鎖の輪の中に居るわけではないからです。リサイクル(?)で運営されている自然界では、人間が居なくとも、バランスよく回っていくだろう、と思うからです。 よろしくお願いいたします  m(_ _)m

  • 人間が人間としての自覚を持って生きるためには

    こんばんは。 遥か2500年も昔に 釈尊はこの世界の全てを論理的に理解して 「人間が人間として自覚して生きれば 人間は自然淘汰の競争原理を克服して 永遠に滅びない」ことを悟られたようです。 しかし 今現在 人間は人間として自覚することを疎かにして自らを滅ぼそうとしています。私は 人間よ人間に戻りなさいと言いたい。 釈尊の時代 人間は神の言葉(ロゴス)を創り 言葉でお互いに対話することにより共同体という社会を構成して繁栄していました。人間は(真、善、美)も創りよりよい生き方を模索しました。 しかし 強固な共同体は神を頂点としたピラミッド構造(階級社会)となり 人間ではない者が出てきてしまいました。 釈尊は 誰もが自分の思うようにならないので苦しんでいたりするのや人間が争うのを観て どうしたらいいかと考えました。 彼は この世界を五感で「あるがまま」に観ました。なんと彼は 全ての物が移り変わる「諸行無常」であることに気づいたのです。さらに あらゆる事象の「因果律」(エントロピーや不確定性原理等も含む)にも気づきました。 当時の人間は「輪廻転生」という概念も創りだしていました。 釈尊は 神の言葉をも創りだしたり 、「慈・悲・喜・捨」(慈しみ、憐れみ、随喜、落ち着き)の心を持つ人間は 一番尊い生き物であると確信しました。「天上天下唯我独尊」 それならば 一番尊い生き物である人間は 人間として自覚して生きれば 人々は「輪廻転生」という概念を信じているので 来世も人間として生まれると思うだろう と考えました。「極楽浄土」 また 人間でないものになろうとする人々は 争い殺し合い自然淘汰されるだろうと思いました。(神になろうとする者や人間としての自覚の無い者等) 1)この世界に「神」が存在するならば (神は全知全能であるので極楽浄土も輪廻転生も存在する) 一番尊い生き物である人間は人間として自覚して生きれば極楽浄土に逝き 来世があるならば人間にしか生まれ変わらない。 人間として自覚しない生き方をすれば 来世で人間に生まれ変わることはない。 2)この世界に「神」が存在しないならば  一番尊い生き物である人間は人間として自覚して生きれば争うことを止め助け合い その子孫は決して滅びることはない。 人間として自覚しない生き方をすれば 自ら争い殺し合い自然淘汰される。 釈尊はこの世界の全てを理解し 五感で認識できないものは考えても何も生み出さない(非我)として 人間が自ら人間として自覚して生きれば その子孫が生き残り人間は滅びないと信じたのです。釈尊の苦しみは無くなり心は静かになりました「涅槃静寂」 私は 「人間としての自覚をもって生きる」=「中道に生きる」ことができればもう何もいらないような気がするのですが。 貴方は 貴方が予想もしない災難に直面した時 「人間が人間としての自覚を持って生きるためには」 どのような新しい哲学を創った方がいいと思いますか?  「対話」による真理の追究が哲学だとも言えますが 何かございましたら よろしくお願いします。

  • 自然淘汰って…。

    どこかの県の町長さんだったか? 随分前に『自然淘汰』発言して 反感かった人…いましたよね? 動物の世界では自然淘汰って よくつかわれる言葉なのかは 分かりませんが、 『自然淘汰』という言葉を 人間社会の中で あてはめるとすれば どんな時につかうのでしょうか? 何をもって 『自然淘汰』になるのでしょう?

  • どうして自然消滅なんでしょう?

    別れたいと思ったときに話し合おうともせず自然消滅させるのってとても悲しいことだと思いませんか? その時はもう愛情が残っていないのかもしれませんが、それまでは一緒に楽しく過ごしたわけですよね?私は自然消滅という別れ方がどうしても納得できません。 私は今まさに自然消滅されつつあります。違う人間なので違う考え方や行動をするのは当たり前だと思います。でもそれをお互い話し合って相手を思いやりつつ近づいていくからこそ愛情が深まっていくのだと私は思います。 でもやはり私の考え方とは違う人もいるからこのままメールも無視していれば離れていくだろうって思えるのでしょうか?とても淋しく感じます。 自然消滅させようとするのはどんな考えからなのでしょうか?教えてください。

  • 「自然の『摂理』」について教えてください。

    日本で仕事をしている外国人に、ボランティアで「日本語」を教えています。 今、使っているテキストの章では、「生命誕生」に関する 記述があります。 その中に、さかんに「自然の『摂理』」と言う言葉がでてきます。 例えば: ●我々はこの生命の誕生を、人の手に及ばぬもの、神の 領域に属するものとして「自然の摂理」と呼び、謙虚な 態度で受け入れてきた。 ●しかし、人間は、いつからともなくその謙虚さを忘れ、 神の領域にまで踏み込み始めた。「自然の『摂理』」であったはずの 生命の神秘に科学の光を当てるようになった。 ●例えば、胎児が体内にいる間に、精密な検査によって胎児の性別 どころか、「正常」か「異常」かを見極め、必要ならば 胎内で手術・治療することも可能になった。これらは すべて、人間の「自然の『摂理』」に対する一つの挑戦に ほかならない。 こうした記述で「自然の『摂理』」と言う言葉がさかんに 使われています。 この「摂理」については、三省堂の「例解 新国語辞典」では、 「存在するもの一切のなりゆきを神とか大自然が支配する仕方」 とあります。 しかし、この通りの説明をしたら、その外国人は余計に混乱することは 目に見えています。これらの文章で使われている「摂理」について、 分かりやすい説明、例文を教えていただけないでしょうか。

  • 数学に従わない自然現象ってあるの?人間の心以外で。

    数学に従わない自然現象ってあるの?人間の心以外で。 大学で始めて物理を習ったのですが、 世界を数学で記述できることに感動しています。 そこで質問なのですが、 人間なり動物なりの「心」に関すること以外の全ての自然現象は、 基本的に数学に従うと考えていいのでしょうか。 数学に従わない自然現象、つまり、きまぐれに起きて数学では記述できない自然現象というものはあるのでしょうか。 もしも、無限の能力を持つコンピューターがあらわれたとしたら、 心、精神以外のあらゆるものを数学で記述することはできるのでしょうか。 よろしくお願いいたします。

  • 西洋での自然観について

    『近代科学を超えて』村上陽一郎著 での一節で気になる記述があります。 (Z会 現国問題集より抜粋) 西洋的発想に立てば、人間も自然の一部(被造物)である以上、人間の営みだけを人為として自然から切り離すことを不自然と受け取るー (中略) ー 日本や東洋に対して、機能としての両者(注1)の本質を、後者(注2)よりも融合的に見なす、というのはパラドキシカルかもしれないが、ー (注1)「両者」は自然と人間を指します。 (注2)「後者」は日本や東洋を指します。 質問なのですが、西欧では本当に人間も自然の一部または自然そのものとして考えられているのでしょうか? 旧約聖書では神は人に対して「地上の全てを人に支配させよう」というようなことを言ったのではなかったでしょうか? ですので人と自然を同一視するはずがないと思えます。 人が自然の範疇内であれば、自然という言葉には勝手に変化する意味合いもあり、それはまるで地球を遠くから眺めた時にあたかも人を微生物のように見るという印象を受けます。つまり人を自然に組み込むと結局は人間不在の考え方になるかと。 被造物すなわち自然、という定義もどうかと思います。 詳しい方のご意見をお待ちしております。

  • キリスト教の歴史に詳しい方助けてください!

    大学ので「キリスト教的自然観・世界観について」という課題がだされました。神、人間、自然の関係についてキリスト教的には、なぜ人間が自然を支配するのを神が許すのか、というところがわかりません・・・どなたか教えてください!

  • 人体に含まれる自然放射線の量?

    カテゴリが適切で無かったらごめんなさい。 通常人間の体は、特別な被曝などしなくても、自然界に存在するカリウムや炭素の放射性同位体などの放射性物資によって6000~7000ベクレルくらいの放射性物質を体内に持っていて、放射線を発していると聞きました。 体重1キログラム当たり約100ベクレル程度。 これは正しいですか。 通常、ベクレルというのは1秒間に発せられる放射線の数のことだと思いますが、 仮に1秒当たり5000ベクレルの放射能が有るとして、 一分間には 5000ベクレル  X60秒=300000ベクレル 一時間では 300000ベクレル X60分=18000000ベクレル 一日では 18000000ベクレルX24時間=432000000ベクレル つまり、普通の人間は、一日当たり4億3200万ベクレルの放射線を発していることになりますが、 これは何か間違っていますか。 なぜこのようなことを聞くかと言いますと、先日ネットの書き込みに、 「福島原発は今でも、一日当たり2億4千万ベクレルもの放射能を撒き散らしているらしい」 「え~、未だに一日当たり2億4千万ベクレルもの放射能が撒き散らされているんじゃ、やっぱり東日本はもう駄目なんじゃ無いの」 という様な書き込みを見て 「確かに、食品に100ベクレル含まれるかどうかで大騒ぎしているのだから、億の単位のベクレルってものすごいのかも」と思いながらも、「一日当たりってどうなのよ」と思いながら、先の「人間の体は、6000~7000ベクレルくらいの放射能を持っている」という情報を思い出して、 一日当たりに換算したら、人間が発する自然放射線の方が高くなってしまうと思うのですが。 もちろん「福島原発は今でも、一日当たり2億4千万ベクレルもの放射能を撒き散らしているらしい」と言う情報の根拠も不明なのですが、根拠の無い数値でも何となく不安に感じてしまう。 でもいくら何でも人間が発する自然放射線より低い訳無いですよね これって何か勘違いしてますか。