大垣地方の方言で石田三成さまの一大決戦!?

このQ&Aのポイント
  • 大垣地方の方言で石田三成さまが関が原での一大決戦を計画していたが、家康の作戦変更により関が原を素通りされ、石田様は慌てて徳川軍を迎え討とうとした。
  • 大垣地方の方言で石田三成さまの大垣城攻めの計画が家康によって阻止され、関が原への進軍を余儀なくされた。
  • 大垣地方の方言で石田三成さまが関が原での大決戦を予定していたが、家康の作戦変更により計画は狂い、石田様は急遽関が原に軍を集結させた。
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この方言を正しく直して下さい。関が原、大垣地方の方言です

 地元の百姓が言う。  なんでも石田三成さまは、小西行長、宇喜多秀家、島津義弘、豊久の諸将とともに、大垣城に立て篭もり、東海道をこっちに向かって来よる、家康の軍勢を赤坂で食いとめてな、ここいらで、どえりゃあ、一大決戦をおっ始めるつもりでおられたらしいだがや。  「ふーん」  ところが、その徳ぎゃあ軍の総大将の家康が、赤阪の岡本の本陣に到着するとなもし、  「おい、おめゃあさん、聞いとりゃあすと」  「はいな」  家康は、大垣城を攻めるのをやめ、関が原を素通りして、石田様の佐和山を一気に攻め落として、大阪城に攻めいろうって、こういう計画を立てた訳だがや。  「ふーん」  そうしてその計画が何時しか間諜の耳に入ってなもし、石田様の知るところとなったぎゃため、石田様も、さすがに慌てなさってな、  「うん、分かる」  急に作戦を変更して、昨夜 大雨の中を大急ぎで、大垣城にいた全部隊を関が原に移動させ、徳ぎゃあの全軍を迎え討とうとされた訳だがや。  「あいやあ、もう少しで食い物が、踏み散らされるとこじゃったぞなもし」  「うん、良かったぞな」しかしこうなると、やはり関が原での大決戦は まぬがれまい、と言った。 出来るだけユーモラスな表現にしたいのですが、この地方の方言が分かりません。宜しくご指導をして下さい。お願いします。

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  • ssykpu
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回答No.2

地元の百姓がこきゃぁーがる。  なんでも石田三成さまは、小西行長、宇喜多秀家、島津義弘、豊久の諸将とともに、大垣城に立て篭もり、東海道をこっちに向かって来る、家康の軍勢を赤坂で食いとめて、この辺で、どえらげない、一大決戦を始めるつもりでおられたらしい。  「ふーん」  とこが、その徳川軍の総大将の家康が、赤阪の岡本の本陣に到着するとさいが、  「おい、おみゃーさん、聞いてるきゃあ」  「はいな」  家康は、大垣城を攻めるのをやめ、関が原を素通りして、石田様の佐和山を一気に攻め落として、大阪城に攻めいろうって、こうゆー計画を立てた訳だぎゃ。  「ふーん」  そうしてその計画が何時しか間諜の耳に入ってな、石田様の知るとことなったため、石田様も、さすがに慌ててな、  「うん、分かる」  急に作戦を変更して、ゆんべ 大雨の中を大急ぎで、大垣城にいたもろ隊を関が原に移動させ、徳川の全軍を迎え討とうとされた訳だぎゃ。  「おやまーえーとこ、まあはいちいとで食い物が、踏み散らされてまうとこだったな」  「うん、良かったな」とろっくっしゃぁーこといっとらんでもこうなると、やはり関が原での大決戦は まぬがれまい、と言ったんだがや。

h1r0s13
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。大変興味深く拝読させて貰いました。真心より感謝致しております。

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  • ssykpu
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回答No.1

地元の百姓が言う。  なんでも石田三成さまは、小西行長、宇喜多秀家、島津義弘、豊久の諸将とともに、大垣城に立て篭もり、東海道をこっちに向かって来る、家康の軍勢を赤坂で食いとめて、この辺で、ものすごい、一大決戦を始めるつもりでおられたらしい。  「ふーん」  ところが、その徳川軍の総大将の家康が、赤阪の岡本の本陣に到着すると、  「おい、おまえさん、聞いてるのか」  「はい」  家康は、大垣城を攻めるのをやめ、関が原を素通りして、石田様の佐和山を一気に攻め落として、大阪城に攻めいろうって、こういう計画を立てた訳だ。  「ふーん」  そうしてその計画が何時しか間諜の耳に入ってな、石田様の知るところとなったため、石田様も、さすがに慌ててな、  「うん、分かる」  急に作戦を変更して、昨夜 大雨の中を大急ぎで、大垣城にいた全部隊を関が原に移動させ、徳川の全軍を迎え討とうとされた訳だ。  「おやまあ、もう少しで食い物が、踏み散らされるところだったな」  「うん、良かったな」しかしこうなると、やはり関が原での大決戦は まぬがれまい、と言った。

h1r0s13
質問者

お礼

ありがとうございます。再度のご質問を期待しております。文面を変えても構いません。

h1r0s13
質問者

補足

ごめんなさい。方言を使いたかったのです。この地方の方言には疎いものですから。かと言って、怪しげな方言も使いたくないものですから、出来るだけユーモラスな「言葉使い」を取り入れたく質問をしました。言葉足らずで恐縮しております。

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  • この文章を面白く替えて下さい。

     地元の百姓が言う。  なんでも石田三成さまは、小西行長、宇喜多秀家、島津義弘、豊久の諸将とともに、大垣城に立て篭もり、東海道をこっちに向かって来よる、家康の軍勢を赤坂で食いとめてな、ここいらで、どえりゃあ、一大決戦をおっ始めるつもりでおられたらしいだがや。  「ふーん」  ところが、その徳ぎゃあ軍の総大将の家康が、赤阪の岡本の本陣に到着するとなもし、  「おい、おめゃあさん、聞いとりゃあすと」  「はいな」  家康は、大垣城を攻めるのをやめ、関が原を素通りして、石田様の佐和山を一気に攻め落として、大阪城に攻めいろうって、こういう計画を立てた訳だがや。  「ふーん」  そうしてその計画が何時しか間諜の耳に入ってなもし、石田様の知るところとなったぎゃため、石田様も、さすがに慌てなさってな、  「うん、分かる」  急に作戦を変更して、昨夜 大雨の中を大急ぎで、大垣城にいた全部隊を関が原に移動させ、徳ぎゃあの全軍を迎え討とうとされた訳だがや。  「あいやあ、もう少しで食い物が、踏み散らされるとこじゃったぞなもし」  「うん、良かったぞなもし」しかしこうなると、やはり関が原での大決戦は まぬがれまい、と言った。 … 出来るだけユーモラスな表現にしたいのですが、この地方の方言が分かりません。宜しくご指導して下さい。お願いします!!

  • この文章を面白くして下さい。

    … 以下の文章です。何分、尾張地方の方言が分りませんので。 地元の百姓が言う。  なんでも石田三成さまは、小西行長、宇喜多秀家、島津義弘、豊久の諸将とともに、大垣城に立て篭もり、東海道をこっちに向かって来よる、家康の軍勢を赤坂で食いとめてな、ここいらで、どえりゃあ、一大決戦をおっ始めるつもりでおられたらしいだがや。  「ふーん」  ところが、その徳ぎゃあ軍の総大将の家康が、赤阪の岡本の本陣に到着するとなもし、  「おい、おみぇあさん、聞いとりゃあすと」  「はいな」  家康は、大垣城を攻めるのをやめ、関が原を素通りして、石田様の佐和山を一気に攻め落として、大阪城に攻めいろうって、こういう計画を立てた訳だがや。  「ふーん」  そうしてその計画が何時しか間諜の耳に入ってなもし、石田様の知るところとなったぎゃため、石田様も、さすがに慌てなさってな、  「うん、分かる」  急に作戦を変更して、昨夜 大雨の中を大急ぎで、大垣城にいた全部隊を関が原に移動させ、徳ぎゃあの全軍を迎え討とうとされた訳だがや。  「あいやあ、もう少しで食い物が、踏み散らされるとこじゃったぞなもし」  「うん、良かったぞなもし」しかしこうなると、やはり関が原での大決戦は まぬがれまい、と言った。 … 出来るだけユーモラスな表現にしたいのですが、宜しくご指導して下さい。お願いします!!

  • 再びこの方言を正して下さい。

    大垣、関が原辺りの方言が分かりません。 地元の百姓が言う。 「田子作、おい、田子作、ああ良かった、良かった、大変なことになるところじゃったぞ。もう少しで食い物が踏み散らされるとこじゃった」 「なんじゃい、何が良かっただか」 「いやーな、聞いた所によると、石田三成様がここんとこの赤坂の岡本の本陣でな、どえりゃあ一大決戦をおっ始めるつもりでおられたらしいだがや。なんでも、小西行長様や、宇喜多秀家様や、島津義弘様や、豊久の殿様なんかと大垣城に立て篭もってな、東海道をこっちに向かって来る家康様と一戦おっ始めるつもりだったらしいわ」 「そりゃ大変じゃ」 「ところがな、徳川様の方じゃ、大垣城を攻めずに回り込んで、関が原を素通りして、石田様の留守にしている佐和山を攻め落としてな、大阪城に一気に攻めいろうって、こういう計画を立てたんだと」 「ふーん」 「その計画が石田方の間諜の耳に入ってな、石田様も、さすがに慌てなさってな、」 「うん、分かる、分かる」 「急に作戦を変更して、昨日の大雨の中を大急ぎで、大垣城にいた全部を関が原に移動させたんだとよ」 「んじゃ、関が原で大決戦てわけか。いやあ、お前の言うように、もう少しでわしっらの食い物が、踏み散らされるとこじゃったぞなもし」 「うん、良かったぞなもし」 以上の文章です。

  • もしも大垣城に立てこもっていたら?

    歴史にもしもが無いのはわかっていますが 関ヶ原の戦いのとき 石田三成は大垣城に居ましたが家康が佐和山城を攻めると言う流言に踊らされて関ヶ原に誘い出されました もしもこの時 このまま大垣城、あるいは堅固な岐阜城に立てこもって篭城戦になっていたら 結果はどうなっていたと思いますか? 家康はもとより、東軍の武将は殆どが城攻めは苦手な連中な気がします(だからこそ野戦に誘い出したんでしょうけど)

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    宇喜多秀家(岡山)、小西行長(熊本)、島津義弘・豊久(鹿児島)などは、遠方から関ヶ原に出陣しています。 兵(足軽)は、国元から引き連れてきたのですか。 そうであれば、敗戦後、国元へ帰ることができたのでしょうか。 敗戦後の兵はどうなったのだろうか、という疑問です。 よろしくお願いします。

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    徳川領255万石に対し石田三成は20万石であり圧倒的な差が存在した。 それに対し、三成は分散する反徳川勢力を知力と大義(豊臣政権における家康の専横の危惧)により結合し対抗することを計画。 しかし、パズルならば各一片の形は変化しませんが、反徳川勢力の内部は幾らでも手を突っ込めますし元々が不安定。 「反徳川」というパズルは短い期間しか輝きを発することができない宿命。 その結果、三成の知力に頼った反徳川勢力連合の時間(の経過)に対する弱さを家康に突かれ、三成は急かされるように関が原に誘導される。 (似たような状況は現在にもありますが・・・) 以上が正しいならば、石田三成に生き残っていただくためにはどうしたらよいでしょうか?

  • もし、関が原で西軍が勝利してたら?

    東西の大名(石高の隣、○印は関ヶ原に布陣した大名、●は寝返った大名) 徳川家康 ○ 255.0 西軍 毛利輝元 120.5 前田利長 83.0    上杉景勝 120.0 伊達政宗 58.0    島津義久 73.0 加藤清正 24.5    宇喜多秀家 ○ 57.4 福島正則 ○ 20.0   佐竹義宣 56.0 細川忠興 ○ 18.0   石田三成 ○ 19.4 浅野幸長 ○ 16.0   小西行長 ○ 20.0 池田輝政 ○ 15.2   増田長盛 20.0 黒田長政 ○ 18.0   小川祐忠 ● 7.0 加藤嘉明 ○ 10.0   大谷吉継 ○ 5.0 田中吉政 ○ 10.0   脇坂安治 ● 3.3 藤堂高虎 ○ 8.0   安国寺恵瓊 ○ 6.0 最上義光 24.0   小早川秀秋● 35.7 山内一豊 ○ 6.9   織田秀信 13.5 蜂須賀至鎮 17.7   長宗我部盛親 ○ 22.0 本多忠勝 ○ 10.0   朽木元綱 ● 1.0 寺沢広高 ○ 8.0   赤座直保 ● 2.0 生駒一正 ○ 15.0   吉川広家 ● 14.2 井伊直政 ○ 12.0   長束正家 5.0 松平忠吉 ○ 10.0   毛利秀元 ○ 20.0 筒井定次 ○ 20.0   戸田勝成 ○ 1.0 京極高知 ○ 10.0   真田昌幸 3.8 本多忠勝・井伊直政・松平忠吉の所領は徳川家康の、毛利秀元・吉川広家の所領は毛利輝元の領地に含まれます。 あなたが、輝元あるいは三成、もしくは西軍サイドで勝利したあとの処断・処遇を任せられたとしたら・・ どういった裁きをしますか? 歴史に詳しい方や、自分だったらこういう処断・処遇にするといった考えの方など、様々な回答をお待ちしてます!

  • 信玄と家康

    神君家康が生涯に渡って私淑していたのが先輩武将である武田信玄だそうですね。よく関ヶ原合戦が三方ヶ原の模倣であると聞き及びますが、それは戦略的に云っているのでしょうか、それとも戦術的な話なのでしょうか、もしくは両方か? 戦略的というのは会津征伐に託けて謹慎中の石田三成をつり出すためにあえて京阪地方を手薄にする。 戦術的というのは大垣城に籠もる西軍主力を誘い出すため佐和山を突く振りをして西軍に背後を見せる。 どちらも家康の思い通りな状況を創出することになるのですが、かつて信玄にやられたことをやっている訳ですね。

  • 秀吉に続く家康の死、さてその後の歴史は?

    全ては座興という事で御容赦願いしたいが、秀吉の死後半年を出ずして、家康もまたあの世に旅立ったとします。 何しろこの時代、後の徳川幕藩・官僚体制とは異なり、一人の英雄の死で、如何様にも歴史が変わる可能性がある訳で、信玄に於ける武田家・信長に於ける織田家他、例を挙げればそれはもう枚挙に暇がない。 さてその後数十年程度のスパンでは、我が国の歴史はどうなったと予想されるでしょうか? 最終的な覇権は一体誰の手に?、関ヶ原と類似の天下分け目の戦いは?、豊臣家・徳川家の行く末は?等々、皆様の御存念が有りましたら、希望的観測或いは偏見に満ちた回答でも宜しいので、是非御聞かせ願いたいと存じます。 (以下、私が考える一例) 家康の勢威に渋々従っていた野心の塊伊達政宗が、ここぞとばかりに不倶戴天の敵上杉・佐竹と同盟を結び、関東への・ひいては中原争覇への道筋を付ける。 何しろ正宗は、ほぼ天下統一を成し遂げた秀吉の治世下に於いてすら、内々で反乱を企てた武将、家康亡き徳川家にさほど拘泥するとは、恐らく考えられない。 加えて三者合算の石高は二百数十万石を越え、ゆうに関東平野で徳川と決戦し得る勢力となる為、あながち荒唐無稽な仮定ではないでしょう。 一方西に於いては、豊臣家の奉行派と武断派の争いが激化、そこに毛利・宇喜多・前田他の諸将が加わり、それはもう応仁の乱の如き状態に陥る。 そして勝ち残った東・西の勝者に依り、小関ヶ原の如き最終決戦が為され、一事的な天下統一が実現。 ・・と、まあこういった感じですが・・。

  • 貴方が下す、石田三成への評価

    豪華絢爛たる戦国乱世の人材の内、長らく低い評価に甘んじていた代表的人物となれば、何と言っても石田三成ではないでしょうか。 私が子供の時分、まるで聖人君子の如く扱われていた加藤清正辺りがいる一方で、さながら権臣・佞臣としてそれはもう散々な評価が下されておりました石田三成、もっともその後両者に対する風向きが、少々変わったとの印象もありますが・・。 或る意味、徳川家康が側面支援そして企画・監督して、三成がキャスティング・主演した感のある関ヶ原、結果のみを考えれば、単に豊臣家の滅亡を早めただけとの御指摘もある一方で、彼のみが故秀吉への餞・レクイエムを手向けた唯一の子飼いであった、そうも取れるはず。 その後の歴史を知り得る我々から見れば、大坂の陣は付け足しに過ぎず、徳川政権成立へと至った最大のエポック・メイキングはやはり関ヶ原でして、豊臣の天下に別離を告げる或る種のセレモニーであった事は明確でしょう。 そもそも宇喜多秀家・上杉景勝といったごく稀な例外を除き、殆んどの大名家は家康の権勢に及び腰であった事実を見れば、彼が尻を叩かねばとても西方に10万もの大軍(もっとも実際に参戦したのは、その内の3割程度ではありましたが)を掻き集める事は不可能でした。 一方、人間の功利性を知り尽くした家康との比較に於いて、余りに正義・忠義といった倫理面のみを世を計る物差しとして捉え過ぎた甘さがあり、且つ敗れはしたが、東西20万もの大軍を参集せしめ、関ヶ原の戦いという後世に残る一大イベントを催して、なし崩しに徳川へという流れだけは食い止めた訳で、どうにかこうにか豊臣家の体面を保ったとの印象を持ちます。 さて前置きが長くなりましたが、主観・客観の如何に関わらず、皆様がお持ちの三成に対する評価・印象を御聞かせ下さい。