• ベストアンサー

シルクロード

こんにちは。 シルクロードについて教えて下さい。 1.シルクロードは、中国と欧州を中央アジア経由で結ぶ「東西貿易路」として有名ですが、中央アジアとインドを結ぶ「南北路」としては活発ではなかったのでしょうか。インドは現代のみならず古代も重要な巨大市場だったと思われるので、貿易が活発になりそうなものですが、それにもかかわらず中央アジア・インド路が発達しなかったのは、中央アジアとインドを結ぶ道(アフガニスタン)が険しいため、中央アジアを経由しない海上交易が主流となったからでしょうか。 2.もしそうだったとすると(海上交易が主流であったとすると)、古代インドの人々が中国の絹を手に入れるのも、主に中国・インド間の海上交易によったのでしょうか。ローマ・インド間の海上交易については歴史の教科書にありますが、中国・インド間の海上交易については聞いたことがありませんので、どなたか教えて下さい。

  • kaesn
  • お礼率100% (58/58)
  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数5

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (811/3029)
回答No.1

陸上路が険しいことも事実ですが、当時イスラム諸国ではインド中東間の海上交通が極めて盛んだったのです。当然こちらが主要交通路になります。 中国産の物資となると、インドでとれないものは絹はそうですがそのくらいでかなり限定的です。そして市場としてもインド国内での中国市場となるとヨーロッパにおけるものよりかなり小さいです。 そうなると経済の必然で、中国物資はイスタンブールやロンドンに流れ、そちらから海路インドに行くのが主要な流れとなります。 それに昔の貿易(交易)ですから、ヨーロッパ行きにインドの物資を載せて、帰りは空荷で行くわけはありません。インド行きのヨーロッパ物資と一緒に扱われるのが一般的だと思われます。

kaesn
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございます。 中国産品がインドに行くのに、中国・インドの直接交易ではなく、「中国→イスタンブール・ロンドン→インド」という迂回路を辿っていたのは、大変興味深い事実です。世界地図を見ると、インドと中国は地理的に近そうに見えるのに、実際には直接交易はあまりなかったのですね。 大変勉強になりました。

その他の回答 (1)

  • henmiguei
  • ベストアンサー率45% (1764/3869)
回答No.2

シルクロードとは文字通り 中国の絹を中東やヨーロッパに 運ぶために古くから地元の人たちが 使っていた其の地方の切れ切れの交易路を つないで出来た物です また、出発点は中国であって 中東やヨーロッパではなかったのです 貴方の誤解はシルクロードが ヨーロッパ基点だと思われていることです 中国基点(出発地)なのです 中国からインドへは パミール高原やヒマラヤ越えという 難所中の難所があり そのために対インド交易が発達してこなかったのです しかし海上交通によって交易はあったようです。

kaesn
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 中国・インド間にも海上交易があったということですね。勉強になりました。 ちなみに、私もシルクロードの基点がヨーロッパであると考えている訳ではありません。古代最大の交易品である「絹」に注目すると、明らかに中国基点であると言えますし、交易路として「相互」の物品往来があった点を重視すると、基点はどこにもないと言えますが(私の考えはどちらかというと後者に近いのですが)、いずれにせよ、少なくとも基点がヨーロッパということはあり得ませんね。 ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 中世にアジア人がオーストラリアに到達した可能性

    オーストラリアの歴史をWikipediaで見る限り、17世紀初頭に発見されたとあり、アメリカ発見よりかなり遅いです。また、アボリジニのことと白人による発見以降のことしか記載がありません。 でも、インドネシアなど東南アジアやインドからそう遠くない位置にあり、少し北の海域では中世の頃からイスラム教徒や中国人による航海が盛んに行われていました。 彼らが南方にある巨大なオーストラリア大陸のことを知らなかったはずはないと思うのですが、イスラム教徒やインド人、中国人が中世にオーストラリア大陸に航海した記録、アボリジニとの交流の記録はないようです。 古代から活発な交易が行われていた海のシルクロードの少し南に位置するオーストラリア大陸にイスラム教徒や中国人が到達した可能性は高いと思いますか?知ってはいたけれど、入植や交易の価値がないので放置していただけですか?全く知らなかったというこは考えにくいと思います。

  • 日本史に影響した国の範囲

    幕末まで。 日本史で関連すると言えば、今でも教育プログラムである中国だと思います。 日本の場合は陸続きでないので、海を隔ててですが、どこまで影響していてその歴史を知っておくべき勉強すべきと思いますか。 範囲は 1.外国はあまり考えなくていい 2.中国は影響あるので知っておくべき(勉強すべき) 3.中国、朝鮮は影響あるので知っておくべき(勉強すべき) 4.インド、モンゴル、中央アジアとかその他も。 どれでしょうか。 漢字文化圏という言い方にも議論がありますが、ベトナムもただ歴史を知るのは当然良いとして、日本史について知るうえでの意義ってあるでしょうか。 安土桃山時代などは東南アジアも交易あって 江戸時代はオランダも交易ありましたね。 明治以降はロシアとかも知っておいたらいいのかもしれないですが、。

  • 南蛮貿易が中継貿易であった理由

    1543年にポルトガル人が日本に来航してから、 日本はポルトガルやスペインと南蛮貿易を行なっていました。 南蛮貿易は中国やインドとの中継貿易でもあり、 輸入品には中国産の生糸や絹織物もありました。 そこで質問なのですが、 なぜ南蛮貿易は中継貿易でもあったのでしょうか。 日本は中国と交流がなかったわけではありませんよね? どうして直接手に入れなかったのでしょうか。 また、ポルトガルやスペインでは 生糸などは生産していなかったのでしょうか。

  • アジアの貿易について

    当方、日本とアジアとの貿易について調べています。 私はこれから日本がアジアとの貿易をする上で、ここ数年で大幅に経済が伸びてきている、インドや中国との貿易関係は日本にとってとても重要な問題になってくると思っています。 日本とアジア諸国との貿易について詳しく書かれているサイトや、みなさんの考えを教えて頂けたら幸いです。

  • 古代国家が学んだ律令と坊条制は中国のオリジナル?

    古代律令時代における「律令による国家整備」と「坊条制による都作り」は中国から学んだそうです。 では、中国はそれらをどこから学んだのでしょうか? これらは中国のオリジナルでしょうか? それともシルクロードなどを通じてヨーロッパなどから輸入したものでしょうか? よろしくお願いします。

  • なぜ中国にカレーは伝わらなかったの?

    歴史を勉強していて疑問に感じたことです。 インド発祥の仏教が太古の昔にシルクロードを通じて中国に伝播したのは有名な話です。 他方、同じくインド発祥のカレーが仏教とともに中国にもたらされたという話を聞きません。 達磨や玄奘などの中国とインドの交流に寄与した人達は、仏教だけを伝えて、カレーを伝えることはしなかったのでしょうか?

  • 中央アジアの日本語ガイドブックについて

    中央アジアの日本語ガイドブックを、いつも海外へ行くときと同様に『地球の歩き方』にしようと思ったのですが、どうも情報量が少ない気がします。 どなたか、他に詳しいガイドブックを知っていませんか? 最新版が古くないものを探しているのですが・・・。 また、英語ガイドブックでなら知ってる、という場合も教えてください。 自分が訪れようと思っている中央アジアとは ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、他にコーカサス三国などです。 地球の歩き方『中央アジア サマルカンドとシルクロードの国々 2011年~2012年版』 http://www.arukikata.co.jp/guidebook/book/D15.html

  • 二つのエンタシスを結ぶ線

    柱の中程を太くするエンタシスは、ギリシャのパルテノン宮殿と法隆寺に見られる。ギリシャの建築技術がシルクロードで、東に向かったのなら、ペルシャ、アフガニスタン(ガンダーラ地方)、そして何より中国にエンタシス建築があるはずである。そのような建築技術の東伝の跡を証拠つける遺跡はありますか。

  • Asia

    もともと、アジアは世界のトップだったと思います。 インドにはスパイスがあって貿易も盛んだったし、 中国も歴史が深く、アジアで2つも文明が誕生しました。 ところが、いつからか世界は西洋に支配されるようになりました。 いってみれば、アジアが遅れてしまったのです。 それは、どうしてなんでしょうか? どうして西洋は植民地を増やし、アジアやアフリカを支配することができたのでしょうか。 もうひとつ、私はアジアがこれから変わっていくことによって世界がかわるのではないかと思っていますが、 みなさんはどう思われますか? また、どうすればアジアが変わっていくと思いますか?アジアの発展を妨げる問題は何だと思いますか? たくさん質問してすいません。アジアに関心深い方、詳しい方、回答をお願いします。

  • 古代のギリシャとインド哲学の関係について

    古代世界におけるギリシャとインドについていくつか質問があり、自分の手に負えないため皆さんの知識を拝借したいです。 1 「ミリンダ王の問い」という本があるように、アレクサンドロス大王がインドまでやってきてから古代ギリシャとインドの哲学者達は少なくとも接触はあったはずなのに、どうしてその後お互いの交流が途絶えてしまったのでしょうか?ヨーロッパで仏教がちゃんと紹介されたのは1800年頃だと思います。なぜ古代中世の西洋にはインド思想の影響が見受けられないのでしょうか。 2 インド思想(仏教など)は急速に東アジアに広まりました。東に広まったのなら、同じようになぜ西には広まらなかったのでしょうか?インドの哲学者たちはわざわざ中国まで出向いて経典や教えを授けてきた歴史があります。それならなぜ西側にも向かおうと思わなかったのでしょうか。 3 古代ギリシャ哲学の影響力はギリシャだけに留まらず全ての西洋世界の根底になるほどの影響力を与えました。それに比べてインド哲学は古代ギリシャに比肩する高度な論理体型を構築していたのに、宗教面では大きな影響を及ぼしたもののアジアの中心哲学となることはできませんでした。なぜインド哲学はギリシャのようにアジアの中心哲学になることができなかったのでしょうか? 4 これは私が勉強した上での認識ですが、古代世界において古代ギリシャと並ぶ高度な哲学・論理学を構築したのはインドだけです。なぜギリシャとインドだけが宗教ではない高度な論理体型を構築しえたかについて、この二つは両方ともインド・ヨーロッパ語族に属しています。そして印欧語族というのは文法の格変化がとても豊富なため、私はこの点に共通性・そして根拠を見いだせると推測しているのですが、専門家の方がいらっしゃいましたらご意見をお伺いしたいです。 5 五番目の質問は全く根拠がない推測なのですが、ブラフマー(梵)とアブラハムは音がにていると思いませんか? Brahma 、Abraham ブラフマーのお尻の文字だけを頭に持ってくると「a」Brahmとなります。これはただの偶然でしょうか?語源的な知識をお持ちの方がいれば解説をお願いしたいです。 古代、インドにやってきたアーリア人はメソポタミアの地方からやってきました。つまりインドに侵入したアーリア人は元々の段階でメソポタミアの思想の影響を少しは受けていてもおかしくないと思うのですが・・・ 皆さんのお知恵を拝借したいです。よろしくお願いします。