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神様はいますか?

祖父と母が神様はいると言います。 理論で問い詰めると、矛盾点がボロボロ出てくるのですが、 彼らは「説明できなくても正しい」のだと経験則を振りかざすのです。 私は、心の拠り所を作るために、自分で自分を洗脳をしているのだと思います。 みなさん、神様はいるのですか? 特に理系人間の方、矛盾点がたくさんあったとしても、神様はいるのでしょうか?

  • a21se
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noname#110201
noname#110201
回答No.6

いる。 >心の拠り所を作るために、自分で自分を洗脳をしているのだと思います。 そうじゃない。 心のよりどころそのものが、神様だ。 >理論で問い詰めると、矛盾点がボロボロ出てくるのですが 神様、というのは、理論で考えちゃだめだ。 水素と酸素を化合させて水になるような存在ではない。 神様は、心で感じられるだけ。 私は理系だが、有名な数学者オイラーが、エカチェリーナ2世の前で、無神論のディドロに対して神の存在を証明した、という話がある。 ↓ここにもそのエピソードが書いてあるから読んでみるといい。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%AD%98%E5%9C%A8%E8%A8%BC%E6%98%8E 私の意見では、神様に現世的なご利益をあてにしちゃだめだ。 そういう意味では、No4の方の意見に一理あると思う。 でも、神様は人を助けないの。 見守るだけ。

a21se
質問者

お礼

私は断固として神様を否定したいわけではなく、 本当にいるなら真実を知りたいです。 ただ、現段階では、いないとしか思えないので、 いると証明or説明する人がいるなら、 その矛盾点をたたきます。 オイラーなどの天才でも、解けない謎(宇宙とか地球が存在する理由)は必ずあります。 そこで、(1)彼らはその雄大さに見せられたか、 (2)自分が解けない謎があることに苛立ちを覚え、 意図せずとも自分自身を洗脳をした。 そして、普通の人では対抗できないような天才的な屁理屈を生み出すことで、 神の存在を証明したように見せた。 こう考えれば、やはり神は思い込みだと言えます。 論理的に証明しているように見える表現でも、 実際、途中で飛躍しすぎていたり、 うまいこと話をつけているだけなのです。 読んでみて、やはりそうだと思いました。 たとえば、 「地球・人間が存在するのは偶然にしては出来すぎている。だから、神がいる。」 飛躍しすぎだと思います。 >心のよりどころそのものが、神様だ。神様に現世的なご利益をあてにしちゃだめだ。 神様は人を助けないの。見守るだけ。 なるほど、神様という表現は非常に曖昧ですね。 「心のよりどころそのものが神様」 「神様は見守るだけ」 というならば、この神様はいてもおかしくない。 というよりも、いないことを証明できない気がします。

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  • -rino-
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回答No.19

こんにちは^^ 居ると思う人の世界には居るんでしょうし、居ないと思う人の世界には 居ない者なんじゃないですかね? 物体として証明されていないものって、全てそうじゃないですか? 私個人の世界には、今のところ神も仏も霊も居ません。 神が居ると信じてしまえば、居る世界を生きることになります。 ラッキーなことがあるたびに「神様のお陰」「信じてきたから守られた」。 アンラッキーが起こると「信心が足りなかったからだ」。 私は神が居る世界で生きても楽しくないという価値観だから信じてません。 神が居ると信じていなければ、居ない世界を生きることになります。 ラッキーなことがあると、「周りに恵まれてるからだな」と思うし、感謝も出来ます。 アンラッキーが起こると「自分なんてまだまだだな」って努力も出来ます。 私は神が居ない世界の方が楽しいです。 霊でも同じこと。 金縛りに合っても、脳が起きてて体が動かないから怖い夢みたんだな~で 済むことを、別に殺されるわけでも無いのに 「悪いことの前触れだ!」「悪霊にとりつかれてる、御払いしなきゃ!」 なんて形の無いものに怯えて暮らすのは楽しくないので、信じてません。 神も霊も、例え存在が証明されたとて、自分には見えず影響も感じないなら 居ても居なくても同じ。ちゃんと物体がある物でも、見ることも触ることも 聞くことも無ければ、自分の世界では「存在しない物」。 『携帯電話』は存在しますが、原始時代さながらの生活をしている人にとっては 存在しないのと同じこと。そういう人に実物を見せずに 「携帯電話は存在する」と説明したって、何の意味も無いでしょう。 「へ~~。で?」って話です(笑)矛盾点は補えない。 携帯の存在を知った後でも、無い世界を選んで生きる人もたくさん居ます。 『どちらが正しい』という話ではなく、どう思って生きるのが貴方にとって 楽しく生きれるのか、そういうことだと思いますよ^^ 貴方にとって神が居ない方が楽しい世界なら、それで良いと思います。 おじい様とお母様の世界には存在し、貴方の世界には存在しない。 それだけのことじゃないですか?

回答No.18

神様はいると思いますよ。 私は自然の働きそのものが神様のお働きの現れだと思っております。 風が吹くこと、雨が降ること、日の光から、鳥のさえずりまで。 天地自然の働きがそのまま神様のお働きの表れのように思います。 人間は自然の働きなしでは命すら保てません。 息が出来ること、体が動くこと、健康なこと。 これらすべて神様のお恵みなのだと思います。 人間は神様のお恵みの中に生かさされて生きているのだと思います。 自然が神様のお働きの現れならば人間は神様の中に、 生かされて生きてると言えるでしょう☆ 世の中には目には見えない道理というものがあり、 その法則に基づいて世界は運行されております。 その自然の理、道理こそが神様の作られた法なのです。 悪いことをしたものには悪い報いがある。 良いことをしたものには良い報いがある。 このような道理も神様のなせる業だと思います☆ 神様がこの世界を守っておられるからこそ。 世の中はその道理、法則に基づいて秩序を守っていられるのです。 でないと、悪が栄えて善者は滅びてしまいます。 そうではない、悪いことをした人はやはり警察につかまったりします。 それに、悪いことをしたものには悪い報いがあるものです。 神様のご支配されておられる世界だからこそです。 そのようなわけで神様を認めざるおえません。 私は神様を信じています。 神様は人間を愛してくだされてあります。 人間に幸せになって欲しい、助かって欲しいと願いをかけられおります。 人間はそのような神様の真の愛の中で生かされてあるのだと思います☆ 恵まれている事実を神様に感謝していきたいですネ☆ あなたの祖父と母さまが仰るように。 私も神様はいるのだと思いますよ☆

回答No.17

神や仏は自分の心の事です。それも認識し難い方の心の事です。人間は自我意識が有ります、是は左脳に存在する意識です。分離脳の研究でノーベル賞を受賞したスペリー博士の研究に在ります。 左脳に一人、右脳に一人それぞれ独立した人格が一人の人間には二人存在している。是はその研究成果の一つです。人間が生きていて、起きていた時に自我意識が作用している時は、時間的には5パーセント位という報告が有ります。と言う事は残りの95パーセントは自我意識以外が握っていると言う事になります。 自我意識が引っ込んでいる時は「無意識や潜在意識」が自分の身体と心を支配していると言う事になります。自我意識が「演技したり、歌を歌った場合」人為的、或いは計らい、或いは作り物に見える処が有ります。いわゆるほんまものに見えないと言う事になります。 「ほんまもの」と言う事から考察した場合に、演技や歌という行為を人間が行う場合に「自我意識の痕跡が見えないように」行う事が要求されます、是はどういう事かと言いますと、自我意識に引っ込んでもらって、その人自身の働きに働かせると言う事になります。自我意識には「無」でいてもらって仏性の働きそのままで行為をするということになります。 禅問答と言うものが有りますが、是などもその事を証明しています。禅問答は理知的に、或いは分析的に、或いは科学的に、或いは論理的に生きている人間には理解出来ないように見えています。処が人生には割り切れない問題もたくさんあると言えます。それは感情や命そのものや魂等の問題です。 人間の悩みや、苦しみとは何であるとか言えば、それは疑問であり、不安や恐怖と言えます。是は言葉を替えて言うならば心の分裂、心の対立と矛盾の事です。この事は人間の脳の構造上避けて通れない問題と言えます。心の矛盾は二元論からと言います、処が人間の頭そのものが二元論そのもので出来ています。それは脳の機能が違っていると言う事に根ざしています。 人間の悩みや、苦しみは、左脳と右脳の機能の違いが分かっていない事によります。左脳の分別脳に、分別出来ない問題が割り込んできたことによります。その良い例が「精神疾患」というものです。負のスパイラルに入って何十年も同じ問題に苦しむという悪循環に陥っているという事が有ります。是は能力のないコンピュターにその能力以上の問題を割り振ったという事になります。 ここに禅問答が生まれた理由が有ります。人間の苦しみは「何をしても、或いはしなくても、人生の終わりには死が待ち受けていて、その死によって全てが無くなってしまう、何になるのか?或いは何時死が訪れるのか、死が怖い!」という不安から、恐怖に至るまでの全てが人生を台無しにしてしまうと感じられるからと言えます。 この問題を解くカギが「禅問答」には有ります。結論から言うならば、禅問答が解けたという事は「生死の問題が解決した」という意味が有ります。これは、生死には不安を感じなくなるという意味です。禅問答が分かる瞬間というものが有ります。この事が関係してきます。 禅問答は自我意識の分別する能力では解く事は出来ません、是は能力の問題です、分別するという事は、割りきってゆく事だからです。割り切ってゆくとい事は有限に属する問題が専門の脳と言えるからです。禅問答は有限の割り切れるという問題と性質を異にしているからです。処が自我意識が懸命に問題に取り組もという事が大事な事になります。 懸命に取り組む時に、解けない事が分かってきます、この事が大事な処です、自分では出来ないと自我意識が認めた時に、自我意識の替りに出てきて問題を解いてくれるものが有ります。是が仏性と言えます。無意識を働かせていた者です。それが出てきて瞬間にそれらの問題を解いてしまいます。これで心の矛盾は解消してしまいます。悩みや、疑問の解消という事になります。 禅問答に取り組んで苦しんでいる姿と、精神疾患で苦しんでいる姿は同じ苦しみと言えます、それは降りかかった問題を解く能力のない方の脳で解こうとしているという事です。とく事が出来ないと認めるという事は「我が折れた、或いは我が死んだ」時と言えるからです。その時には右脳の意識である「仏性」が出てきます。この時に自我意識が「神」と出会う事になります。 ここで精神疾患の完治という事になります。或いは悩み苦しみの解消となります。左脳の自我意識が右脳の意識「神」に会って和解したという事になるからです。それは心が二度と争わなくなるという意味が在るからです。右脳の意識は神、仏そのものと言えます。只分かり難いと思います。それは無意識の自分の身体と心を働かせています。自分の心拍数でさえも増やしたり減らしたり出来ます。その事が分かる時には「絶対肯定という立場に立つことになります」 是は「すべて神の思し召しのままに」という事です。是は消極的なものでは有りません。大変積極的な立場となります。自分が否定しないならば何でも可能という事になるからです。ただし一つだけ言っておくことが有ります、是は分かり難い事です、まだ神に会っていない人には何を言っても無理が有ります。自分の頭の半分は神で出来ていますが、理解するという事と事実とは一致しないかも知れません。

noname#79859
noname#79859
回答No.16

祖父と母の言う神が何を意味するかが重要です。 神とは永遠に変化することのない完璧な自然法則のことです。 特定の人間や個人ではありません。 人間が宇宙を創造することはできません。 また、物質の世界では限られた感覚でしか自我を表現できず それ以上の存在を通常は認識できません。 つまり生まれながらにして神という存在を完全に理解することも 表現することもできません。 その限界ゆえに自然法則の働きが不完全に思えることがあります。 がしかし今以上に知性と理解力と愛が増せば その捉え方が間違っていることに気付いていきます。 神とはどこかに偏った点の存在ではないのです。 光が差し込む偉大な人でもありません。 論理と理性に従っている限りは間違いは起きません。 それは祖父や母も同じです。 自身が納得のいく理性に従って判断する限り 神の働きを顕現していることになります。

a21se
質問者

お礼

さきほど、祖父に呼び出されました。 宝くじは当たらない。 それ以外の神のお告げでさえも、100%は当たらない。 ただ、今まで自分たちは、それを信じることで、 助けられたことが何度もある。(つまり経験則である。) そして、これは自分たちの閃き、勘であると言っていました。 これによって、全てに辻褄が合いました。 彼らの言う神とは、勘のことを表現した物であり、 勘を研ぎ澄ませたり、信じる力を高め方法のひとつとして、 お祈りをするのです。 「自分たちはそういう性格で、そういう道を積んできた、 学問の道を進んでいないということもあって、 当たる確立がどうとか、理に適っているだとか、 そういうことはわからない。 ただ、人に言われたことではなくて 自分で信じた道でないと後悔するのではないかと思った。 今まで、自分(祖父)がそうしてきたように。」 昨日何時間にも及んで議論した甲斐がありました。 通じ合うことはできなくても、 そういう考えもあるとお互いを理解しあうことはできるんだなと、 本当にそう思いました。 「逆もまた真なり。自分の道を進みなさい。」 最後に、祖父はそう言いました。

noname#80659
noname#80659
回答No.15

神性と邪性という言葉がありますね。神も悪魔もひとの中にいるとおもいます。

回答No.14

答の内容に今回のケースを異なる点があればご指摘ください。 ●神の存在 神の定義(何を持って神と呼ぶか)によります。  ・キリスト  ・宇宙の創造主  ・みんなの心の中にあるもの 今回でいうオリジナルの神様というのは、くわしいことは秘密とのことなのでわかりませんが これまでのお話から少なくとも下記のような特性をもつと仮定して話を進めたいと思ってます。  ・知覚できない    ⇒ 知覚できるならば見してもらえば問題解決(例えそれがゴミでも)  ・心から信じることで、結果として質量世界に「得」を   もたらす(質問者さんの成功率を生み出すお話より) 知覚できないものを神としているならば、お互い存在証明することができないので いるかいないか回答者さんに証明責任はありません。(←重要) ご家族の方といくら議論しても証明できない点に注意してください。(←重要) ●損得勘定から信じるという行為 「得だと思うから神はいる」では「信じる」という行為から対極にあると思います。 つまり、損だと思ったら信じないわけですよね。 それでは「信じている」とは言い難いと思います。 ●神に対する立場 信じるか信じないかですが、もうひとつ選択肢があると思います。 「考えない」です。 一見投げやりな態度ですが、そうでもありません。 考えてもしょうがないことを考えないのは、それだけ有意義なことを考える時間が 作れることを意味します。 今回、回答者さんが悩まれているのは上記の立場があやふやなため生じてしまっていると思います。  ・神を信じている    ⇒家族と同意見のため問題に発展しない  ・神を信じない    ⇒家族に神を信じていない立場を伝え、そのことで今後議論したくないことをお願いする     アクションがとれる  ・考えない    ⇒考えないので気にならない 結果として上記3つから立場を明確にできれば解決すると思われます。 質問者さんが神を信じない立場をご家族に伝えるのはよいですが、 決して神が存在するかしないかで議論しないでください。 (サンタクロースのそれと同じでタブーです) 質問者さんに迷いがあるならば精神衛生上よろしくないので、 そのときは具体的な話をしていただければと思います。 また、ご家族へのアプローチ方法でお悩みの点があれば追加でご質問ください。

  • makosei
  • ベストアンサー率21% (193/898)
回答No.13

加藤茶「あんた神様かい?」 志村けん「あんだって?」 加藤「あんたは神様かい?」 志村「とんでもない、私は神様だよ」 ドリフによる神様コント。神様のイメージとしては白装束に身を包んだ白髪の男性。  このような、物体としての神は100%いないでしょう。  でも、信仰の対象としての神なら100%います。  プラグマチィズムによれば、神を信ずることで人がよい方向へ導かれるなら、その神は実在する、ということになります。

noname#85957
noname#85957
回答No.12

神はいると思えばいる、いないと思えばいない、これが答えです ちょっと考えれば、この世は大きな法則の元で動いている事が 分かります、求めていけば神が見えてくるのです(感じると 言った方がいいかな)、参考まで

  • hokyu
  • ベストアンサー率24% (257/1030)
回答No.11

質問者様言うところの【カミサマ】の定義が分からんのだが、私にとってはンなモンはいない。 汎用的に表現するなら科学的・物理的には存在しないが精神的には存在する人もいるってこと。 元々カミサマってのは人の心が生み出した偶像でしょ。故にこそ信じる人の心の中に存在するってのはある意味事実。 カミサマの存在を論理的に証明あるいは否定するなんて無意味なこと。そもそも我々は今目の前にある【ナニカ】の存在を証明することすら出来ないレベルの存在だろう? 視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚等の情報など全て脳が認識させてる幻に過ぎない(と思わされてる)のだから、私が今見てる(つもりになってる)PCですら本当に存在してるのか分かりません。 それこそ全てはマトリックス的仮想空間内の情報でしか無かったとしても、誰一人それに気付く者はいない。気付いたとして、それを証明する手段など存在しない。 質問者様から観た【世界】がどういうものかは知る由も無いが、少なくとも私にとっての【世界】は決して確固たるものでは無く、いたってあやふやで不確かなものです。

回答No.10

質問者様は、祖父と母に「神が存在すること」を洗脳される程に聞かされているのでしょうか。それとも質問者様本人が疑問に思って尋ねたのでしょうか。 祖父と母が神を信仰するのと同じように、あなたが神を信仰しない(信じない)のも自由です。他の方のご意見でもありましたが、私の意見は、神への信仰は、その人の心に宿るものだと思います。いろいろな考えがあって、いろいろな神が存在し、解釈があってよいと思います。 人が生きていく上でいろいろな困難に遭遇することがあると思います。そんな時に、前向きに考えて困難に立ち向かい、乗り越えることを1人ですべて行うのは非常に大変だと思います。家族やパートナー、同僚や様々な人々に支えられて困難を乗り越えることも多いと思います。人間の精神的な弱さや悩みを心で支えてくれるのが信仰だと私は思います。 何か実際に存在するものではなく、生きていくための知恵というかガイドラインみたいなものなのかと思います。他人が作ったそのガイドラインを信用して実行するか、自分自身のガイドライン(生きていくための方向性)を信用して心にしまっておくかだと思います。 質問者様は、質問者様の意見があって当然ですし、祖父と母なりの見解があってしかるべきです。だからといって、誰も他人に、その信仰を強制したり、否定したりはできないと思います。 回答が遅くなってすみませんが、神様がいるかということですが、いると思っている人の心にはいると思います。

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     神は ひとつである。――次の趣旨説明にてその当否・成否を問います。  (あ) 神は どんな名前の神を持って来ても・あるいは《無い神》を持って来ても すべて全体として ひとつである。  それよりほかにあり得ない。  (い) 人間にとって 神だという存在――または 非存在――が 同じひとつでないことのほうがおかしい。  (う) ただし オシエは互いに違っている。  (え) 《信じる(その神を心に受け容れる)》と《考える(因果関係や排中律にしたがって経験合理性にもとづき推論する)》とは 別である。  (お) 神は 《信じる・つまり 思考に非ず》として受け容れるものである。  (か) 《考え》て理解できる内容の神なら それは 人間の思考や想像によってつくられたものである。  (き) ただし 《信じる神》について その信仰――非思考の庭なる動態――にもとづき その定義や説明をほどこすことは有り得る。  (く) ということは この神についての定義や説明あるいはさらに神学であっても そのような文章表現やシルシなどはすべて 神を指し示そうとするための補助線である。  (け) ちなみに かみという言葉・文字・発音も 神について知るための補助線である。  (こ)  もしこの補助線としての説明書きを 神であると錯覚したなら それは 《思考や想像の産物》としての神が出来上がる。そのように人間がこしらえた神であるとなる。  (さ) このような観念の神は その作った時点ですでに 死んでいる。つまり思考の問題であり 観念にとどまる。そこに 言わばいのちは ない。――信念とは成りうるところの思い込みがある。有限の移ろいゆかざるを得ない果敢無い《いのち》はあるかも知れない。  (し) ○ 《信じる》と《考える》との区別 ~~~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (す) 《非思考の庭》においていだかれるのが 神である。名前は いかようにもつけられる。  (せ) 《思考の緑野あるいは感性の原野》において持たれる神は ただの観念の神である。人間がつくった神である。人間に理解でき認識しうるものであるなら わざわざ神という謂われはない。必要がない。せいぜい アイドルと呼ぶがいい。  (そ) したがって 《非思考の庭》においていだかれる神を イワシノアタマと名づけるなら それが 神である。イワシノアタマという言葉は ただの補助線に過ぎない。  (た) もし実際の鰯の頭を――ということは 感性や思考の対象となる事物としての魚であるものを――神としたなら それは 偶像としての神であり もしさらにこの鰯の頭を自分のあたまの中に想像し思い込み神としたなら それは 観念の神である。人間のつくった神である。

  • 第四章 非経験の場なる神が どうして知られるのか

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論  第四章 非経験の場なる神が どうして経験存在である人間に知られるのか  § 1 《非思考の庭がわが心に成る》そのいきさつについて  (あ) 神とはなんぢゃい? とワタシは いぶかったり うたがったりする。  (い) 分からんと結論づける。《考えても分かるか分からないかが分からないナゾの何ものか》であると 想定し 定義づける。  (う) 《かみ》もしくは《何々の神》といった名は 神を示す仮りのものであり シルシであり 補助線であるとみとめる。  (え) ということは それでも或る日或る時 何ものかがわが心の窓をノックしている。と感じた。ということが起きたとき 主観としてその単なる感覚で これは神であるかも知らんと思って その雲をつかむような何ものかを心に受け容れた。(または そんなものは知らんと言って 棄てた)。  (お) このとき わが心なる非思考の庭が 成る。維持し持続するとき それを 動態としての信仰と呼ぶ。  § 2  《神を知る》という表現は――神という言葉からして そうであるが―― 精確ではない。  (か) ただただ その名前を心に受け容れただけのことだ。ブラフマンにせよ アミターバ・タターガタにせよ キリストにせよ あるいは単なるカミにせよ さらにはまた《無い神》にせよ。  (き) あとは 人間という存在の社会性――つまり生活の共同性 そしてそこから関係性(つながり・きづな または ときには不倶戴天の敵対関係)――をつうじて そのマボロシなる神の名が あたかも意味を持って来る。言いかえると 何が何だかワケの分からないナゾの何ものかであるということ――非経験の場とでも名づけるべきものであること―― ここから意味が出て来る。  (く) おのれの心の中で・おのが主観において 《絶対なる神と相対なる我れとの関係》が成っているというとき それは 神がこの経験世界を超えているからには・そしてそれは 非思考であり 何ら中身はないと言ったほうがよいからには 神は同じ次元ではありえない。  (け) つまり中身はからっぽである(つまり 非思考の庭である)ところへ しかも それが何であるかが知りたさに いろいろ考えることをも為す。つまり 補助線を引いて 《こたえ》を探りにかかる。  (こ) 手掛かりがないわけではない。それは 非思考であるにもかからわず(または 非思考であるがゆえに) ひとにはヒラメキという出来事があたえられる。そこから 観想・瞑想が得られることがあり 神についての仮りの説明とすることが出て来る。そういう《意味》が現われる。  (さ) ここから やがて オシエという代物も現われる。うんぬん。・・・  § 3 《神を知った》わけではなく 《神とわれとの関係》を 何とか経験思考において表現してみたものが 人間には持たれて来る。たとえば不老不死を願うところから 神については 永遠の生命といった当てはめが持たれる。知ったような感じになるということなのであろうか。  (し) ところで神は この経験世界に介入するか?   (す) 分かるわけがない。ただし ひとりの人間の主観内では 如何ようにもと言うほどに 説明書きが持たれる。それを共同化することは 出来ない。出来たら ほんとうに神は何であるかが分かったときだから。  (せ) 信仰は 非経験の場を マボロシとして心に受け容れるその受け容れることとしては経験的な意志行為である。そういう人間の特殊な現実である。  ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~    普遍真理(非経験)――信じる    世界事実(経験)――考える    主観真実――《信じる》+《考える(感じる)》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  § 4 介入はしないが 神は人間とその世界にお節介を焼くのだろうか  (そ) 初めは 神とは何ぢゃい? と問うに過ぎなかった。それは なぜなら 《かみ》という言葉をわれわれは持って使っているからである。  (た) おそらくこの言語習慣という社会関係性がかかわっている。はずだ。コトバとしての事実が 《かみとわれとの関係》を どこかで成り立たせることになるのかも知れない。  (ち) ナゾの何ものかについて それでも それが何であるかを探り始めると言ったとき 説明として《絶対・無限・不可変性》などの概念が挙げられるのは それとして分かりやすいものと 大方の人は受け取るのではないか。  (つ) そこからは いろんな説明やら果ては神学体系やらが 繰り広げられて行く。     《〈わたしはある〉 それがわたしである》(エフエー アシェル エフエー)  こういう説明もある。これが 神のことだという。つまりコトバとしてはすでに 存在として受け留めた表現例である。  (て) はじめの想定も そこから無理にでも概念化して捉えることも その概念からさらに神論として説明を繰り広げるのも すべてすでに 非思考ではなく 思考の緑野における人間のしわざである。基本としては 思考(考える)と非思考(信じる)との区分がなされており このような思考におけるこころみは 限界のあることも分かっている。  (と) けれども ときどき このような神論を弄んで しかもその補助線こそが絶対だと錯覚して――または 自分はそうではないのに 錯覚したい人たちがいると見込んで その需要に応じるとうそぶくかたちで―― カミの商売を展開するヤカラも出て来る。不届き者があとを絶たない。  (な) つまり この不届き者が 組織宗教である。すでに信仰ではなくなっている。もぬけの殻であり この蛻の殻が けっこう好まれるようでもあるのだ。その内実は ムレタガリ症候群であろうか。  § 5 信仰は 心の解放をもたらすか  (に) 《心の解放》は 初めの神の――想定としての――定義の時点では 何の関係もない。  それでも 神は 社会の生活共同やその言語習慣とかかわりを持つと見た点にかんがみれば やはりいづれかの――神論の《発展》の――時点で この《心の解放》ともかかわりを持つということになるだろうか。  (ぬ) 言いかえると 主観内面における《神とわれとの言わばタテの関係》は けっきょくのところ社会における《人と人とのヨコの関係》と ほぼひとしいという様相を呈するようになる。こういうかたちで 心の問題が捉えられるし 扱われて行く。  (ね) いかにか? 《真理》も 説明書きのシルシであり 究極においては ナゾの何ものかは 何が何だか分からないのだから 神という言葉にしても真理にしても その他その他にしても みな 単なるシルシであり 補助線である。  (の) つまりすべてはシルシであるから 《何者かが存在している》ことも《介在している》こともないと言えばない。そして シルシとして・コトバとして 存在があると言えばあるし 介在していると言えば言えるかも知れない。  (は) 真理だから それに依拠するのだとか 神だからその存在は うるさいとか 感じるかも知れないとしても それは 問題にはならない。シルシをあやまって受け留めただけのことだ。そして しかも すべては 単なるコトバの問題として マボロシが介在していると見られるのかも知れない。  (ひ) 神にしてもその真理なり絶対なりの概念にしても その他その他の説明書きにしても みな コトバの世界である。かみというコトバが ナラワシとして流通しているから これを尋ね求める。その結果としても ただ《神と我れとの関係》というようなやはりコトバの問題に行き着いてしまう。――そして ただし その神とのタテの関係は 人とのヨコの関係にひとしい。どうしてそうなるか?  (ふ) このコトバの問題が 人間的現実であると捉えられるかぎりで 神がわれわれのあいだに・またとなりに 存在している。ここに もしそうとすれば《心の解放――こころがやわらげられ もともとの心に立ち帰る――》という主題が持たれるのか。  § 6 神は コトバの問題か。コトバがどうして心を解放するのか。  (へ) 《ナマス・テ》というあいさつが もし《わたしは あなたに帰依する》という意味であるのならば それは やはり《あなた》の内なるブラフマンなりマハーワイロ―チャナ・タターガタなりアミターバ・タターガタなりの神に帰依すると言っているのであるらしい。  (ほ) かくのごとく わが心なる非思考の庭における神とわれとのタテの関係は わたしとわたしの身の周りの人びとそれぞれとのヨコの関係と相い携えて 互いに入り組んでいる。互いにひとしい。  (ま) あるいはつまり あらゆる生命に ブッダター(仏性)がやどると言う。神の霊がはたらくと言う。  (み) 非経験の場なる神が その補助線としての説明表現つまりコトバをつうじて すでに経験現実にあたかもその影をひびかせている。か?  (む) そして神は 世界中でいかにその名が違っていても すべて同じひとつの非経験の場である。  (め) これが 神および信仰ならびに信仰の偽造物たる宗教にかんする一般理論である。としてよいか?  (も) かくしてわが日本のルネサンスが成れば――万葉集 いな 億葉集なる一人ひとりのウタが鳴り響くようになるならば――世界もめざめるか?

  • 神の本当の目的

    僕は、エホバの証人と聖書を勉強している学生です。 先日、神が人間を作った目的について考えていたのですが、聖書には人間を喜ばせることが目的だと書いてあります。 しかし、どうも僕は「神が自分への崇拝を求めて」人間をつくったのではないかと思うのです。 そして、聖書もキリストも悪魔も、「自分への愛情を源とする濃い崇拝行為」を望んで用意した壮大な「ストーリー」なのではないかと思うのです。 僕の聖書研究司会者は、「矛盾点がある」というのですが、それがどこか分かりません。だれか教えてください。

  • 普遍神は 無根拠が根拠である

     1. 人間が 理念としたり理論としたりあるいは義や愛と言ったりするそのような――経験合理性にもとづく――根拠から神は いっさい自由である。  2. その普遍神への信仰は 義無きを以って義とする。義をともなえば 人間のただのハカラヒによって神を信じるに過ぎなくなる。  3. この《神と信仰についての理論》にそぐわない神論や宗教のオシへは インチキである。  4. 言わんや 神は人間がつくったなどという浅い考えは もってのほかである。  5. 人間がつくったり規定したりしてできる神なら その人間のあたまのチカラを出ない。だから おふざけにしかならない。アイドル狂いにひとしい。  6. すなわち 根拠があるなら それは 人間の理性以上のものではない。のだから 無根拠を神は 根拠としている。  ご批判をどうぞ。

  • 神の存在について

    本当にくだらない質問で済みません。どうか怒らないで聞いて(読んで)下さいね。こんな質問に付き合っていられない方は、どうぞ無視して下さい。もっと困っている人の質問を優先して下さい。 神様っているんでしょうかね? ちょっと暇な時に(失礼!)、考えてみたのですが、例えばキリスト教(だったかな?)で、昔々ソドムとゴモラという町が神に反した行いをしたために、その罰で消滅させられた、という話を本で読んだような記憶があります。 もしも、そういう神様がいるのなら、町を消滅させずとも、人間を洗脳すれば、それで、めでたしめでたし・・にならないんですかね? 今の世の中、人間が人間をマインドコントロール出来る時代ですから、神様だったら、そんなのちょちょいのちょいじゃありませんか? 「神に逆らう」事が可能なように、わざと人間を作ったのでしょうか? まさか、ペットでも飼う感覚で育ててみて懐かなかったら虐殺ですか? まあ、人間の私が神様の気持ちなんぞ分かるはずも無く・・何て、考えてみたりしました。 「お前馬鹿じゃない?」と言われたら、「はい、その通りです」と答えます。ええ、本当に自分でも馬鹿げた質問だと思いますから。 ただ、残念なのは、もし私が死んで神様と会うことが出来たとしても、皆様に「いたいた!本当に神様いたよ!」と報告出来ない事でございます。 神とは人間の作り出した想像上の物なのか、古代の地球に降り立った異性人なのか、本当の本当に宇宙人とかでなく、神様っているのでしょうか? ああ神様、どうか教えて下さい! 注意:私は基本的に無宗教です。新興宗教や古来からある宗教でも入信するつもりは一切ありませんので、勧誘頂いてもお断りいたします。

  • 神は 何でないか?

     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • 神様は心が狭いですか?

    その人にとって毎日が辛い事の連続で、しんどくてしんどくて 耐えきれず思わず、神様のバカヤローと叫んだとします ある人が言いました 神様を悪く言うと神様が怒って天罰を 与えるよ この話を聞いて私はに思いました なんだ神様って意外と心が狭いんだなって たかが人間ごときが愚痴として言った言葉が 気に食わん コイツにはお仕置きが必要だ 天罰だ 少し悪く言われたくらいで腹が立ち天罰を与えなきゃ我慢できないくらいの 狭い心しか無いんだったら 人前で 私は神様でございますとか名乗ってんじゃないよって思いました 質問 神様って少しでも自分が悪く言われたら その人に本当に天罰を与えると思いますか? もし与えるとしたら私は 神様って意外とセコい奴だなと思います 皆様はどう思われますか? すいません この質問 不快に感じた方 回答しないで下さい