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現実とは何か? それは理想やロマンをかみ殺すか?

哲学のある入門書に次のようなことが書いてありました。  自分が聴く自分の歌う歌は、他人が客観的に聴いているその歌 よりも、いつもうまく聴えているものだ。これが人間が自分自身 に対して持っているロマン的幻想のありようである。逆にいえば 各自のロマン的幻想は必ず他者の目(現実そのもの)によって 相対化され無化される。この事実はいつも私たちに不安をもたらす。 ここで言われている「現実」とは何だろうと考えてみました。 (1)名刺の肩書き・学歴・年収・偏差値・仕事の成績・知能指 数などのことだろうか。これらは人間を抽象的な剥製標本にする だけの虚構にすぎないのではないか。無意味とは言わないが一人 の人間の生きた現実を表してはいないと思う。 (2)世の中の(たぶん自分も参加している)権力闘争とか領土 (なわばり)争いのことだろうか。これらは人間の持つ動物性を 人間の本性そのものであると早合点することによる、現実の一面 の皮相な見え方にすぎないのではないか。 (3)「生物は遺伝子の乗り物にすぎない」などという要素還元 論的思想のことだろうか。これは、例えば「水は水素と酸素の化合 物である」という程度の小さな小さな事実のひとつであり、それに よって全体が規定されてしまうような現実などではないと思う。 私にとって現実とは、友からのメールであり、「教えてgoo」での 出会いであり、仕事仲間や家族との時間であり、出勤時に見える 朝の海の白銀色であり、春の沈丁花の匂いです。もちろんつらくて 悲しい現実もある。けれどしかし、それは決して夢や理想やロマン をかみ殺しなどしない。逆にそれを育ててくれる。 みなさんは「現実」をどう考えますか?

みんなの回答

回答No.13

 いくら間が空いたからと言って、持ち上げすぎですってば。(^^;  「主観と客観」についてはmori0309さんご自身質問を出されていますので、そちらで。  お書きいただいた「お礼」で、注目したいのは「審美的感性」です。美的直観と言い換えてもいいかもしれません。小林秀雄も駆使したものですね。  私もこれは大切なものだと考えています。論理や理性と対立したり両立しなかったりするものとは思いませんが、論理や理性では語り尽くせない何かに、それは到達できる場合があるでしょう。  「オーラ」ですか…。いや、いけないことは全然ないです。「オーラ」はドイツ語発音では「アウラ」…ベンヤミンに関する質問のところで軽く触れたことがあります。「いかに近くとも、遥か遠くにあるものの一回限りの現象」。ルドルフ・オットーが述べているような「聖なるもの」への宗教的畏怖の感情も近しいものかもしれません。瞬間的で、二度と再現できない精神の高まりのようなもの。もうちょい言えば、エクスタシー(脱自)。  ヘーゲルさんは芸術や宗教まで「体系」に取り込んで、言葉による梯子をつけてやって、一歩一歩登れるようにしています。それはそれで価値はあったと思います。が、その言葉の網の目からこぼれ落ちる何か大切なものもまた、あったはずです。彼自身が「灰色に灰色を重ねて」と言っているように(『法哲学』序文)、彼の言葉は芸術感情や宗教感情の凄絶な高揚感や愛の喜び、性愛の痙攣を語りません。でも、それらの瞬間に「真実」があることも、人間にとって現実の一つであることは間違いないでしょう。ですから、美的直観も、とても大切だと思います。  が…それも、より持続的で、惰性的な日常としての現実が土台としてあって、それで初めて輝くものなのかもしれません(…と、最後にシラけさす…)。 P.S.CUE009さま。「与えられた現実の中で勝負しろ」という意味では、おっしゃっているとおりです。(ものすごい時間差横レス…)

回答No.12

 有名どころの文章で、引用するのも少々恥ずかしいですが・・・。  歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退っ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕らが過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。  小林秀雄「無常ということ」  自分が歌う声にも、同じことが言えるのではないでしょうか。自分の声は、基本的に自分の気のおもむくままに出しているのだから、自分にとって疑わしいところはあまり無い。つまり、『余計な思い』が無い。ところが、他人はそれを聞いて「音程が変。」とか「自分ならこう歌う。」などの発声者の気持ちとは別の、(発声者にとっては)『余計な思い』を抱いてしまう。  mori0309さんにとって、友人からのメールやgooでの出会いが、決して夢や理想やロマンをかみ殺しはしないのは、そこが自分にとって直かに向き合える、『余計な思い』の少ない場だからでしょう?  だから引用文の、 >各自のロマン的幻想は必ず他者の目(現実そのもの)によって相対化され無化される。 という部分は  他者の目を自分の思いと混同するという『余計な思い』を抱かなければ、各自の思いは、相対化され無化される事は無い。  と、批判できるのではないでしょうか。    こう考えれば、「事実」が私たちを「不安」におとしめるのではなく、むしろ(余計な思い)がつくりあげた幻想を「現実」として思い込んでしまうことが、夢や理想を壊してしまうのではないかと思います。     

mori0309
質問者

お礼

komainumigiさん、回答ありがとうございます。お礼がたいへん(ひと月も)遅れて しまって本当に申し訳ありませんでした。小生SEをしておりまして、この一ヶ月 超多忙でした。(←言い訳ですね) > 「事実」が私たちを「不安」におとしめるのではなく、むしろ(余計な思い)が > つくりあげた幻想を「現実」として思い込んでしまうことが、夢や理想を壊して > しまうのではないかと思います。 自分が感じとった現実の姿をそのまま素直に受け入れて、他人の批評や批判に 惑わされるな、自分の個性を信じろ、ということですね。 人によって現実の見方・感じ方は、ずいぶんと違うものだと思いますが、大別すると 悪い方悪い方に見る人、いい方いい方に見る人、このふたつに分かれると思います。 前者は「この世に善人なんかいない。人間なんて他人が見ていなければ何をするか 分かったものではない」などと言い、後者は「この世に本当の悪人なんかいない。 あたたかい思いやりにふれて心を開かない人はいない」などと言います。そして前者 は現実主義者、後者は理想主義者と呼ばれることが多いと思います。 私はどちらかというと後者の傾向をもつ人間なのですが、そう思おうと無理をして いるという意識は特にありません。ごく自然に、人や自然の美・愛を信じています。 (こういう恥ずかしいことを臆面もなく書けるのが怖い・・・) 信じるというより、現実というものがそのように見えます。だから 「社会(人間でも生物でも)における生存競争には血も涙もなく、存在するのは 冷厳な競争原理だけである。それが現実である」 などと言われると違和感を感じます。 > 過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。小林秀雄「無常ということ」 小林秀雄は私も好きです。愛読しています。小林も上記の例で言えば理想主義者ですね。 (本人が聞いたら怒るでしょうけど。「俺はリアリストだ」と) 小林の過去や歴史を見る目は本当にあたたかいです。戦乱時代を人類の愚行などとは 決して言ってないです。明治維新のことを涙なくしては語れない物語と言っています。 とりとめのないお礼になってしまいました。本当に申し訳ありませんでした。

noname#8665
noname#8665
回答No.11

根本的な疑問が生じてきました。 件の本の全文を読まないと判断しかねますが、 その本の著者は、「かみ殺す=存在を打ち消す」としているのかどうか? という疑問です。 ひょっとしたら、これはそういう意味でなく、 「かみ殺そうとする衝動を持っている」という意味だと すれば、mori0309さんの言われる 「逆にそれを育ててくれる。」となんら相反するものでなく、 むしろそれに整合性を持たせるのではなかろうか? ちなみに僕の書いた「挫折」は「喪失」という意味ではありません。 「挫折」によって鍛えられ、育てられるのなら、これも整合性ありです。 しかして、自分に都合のいい現実だけを取捨選択し、 「自分にとっての現実」とするのであれば、これは妄想であり、 逃避であります。そのような現実なら「かみ殺」されもするでしょう。 そういう意味にとればこれもまた整合性のある話になってきます。 まぁ、「もちろんつらくて 悲しい現実もある。」と認識されている mori0309さんはそのあたりは大丈夫なんだろうと思いますが。 つまり、それらの各段階として捕らえればなんら不思議に思われない。 むしろ、その本の内容をmori0309さんのこの質問が裏付けているのではない か?とさえ思えます。 話をまぜっ返してるみたいになってしまった.... すいません。 また、出直します。

noname#155689
noname#155689
回答No.10

ご丁寧なレスを頂き、うれしく思います。 私、多忙になる程、OKWebしてしまう今日この頃です。 今から30分、気分転換をします。 >「自分は何のために生まれてきたのか」「死ぬまでのあいだいかに生きるか」 私はここにテレオロジーを感じてしまいます。だからserpent-owlさんの言う > プラトンの「イデア論」に近いものが感じられます。現実の万物を超え、 > それら一切の真の姿であり、本質であり、真実在であるところの「イデア」です。 > それはそれは、もうとんでもなく「遠く」に観念されております。 > がしかし、一方で「やはり言葉が思想を裏切っているだけ」とも取れます。 に、近い感想を持っています。 たとえばmori0309さんが > 左右対立がもし有効だとしたら、人間はどこに位置しているのでしょう? > 左か右か真中か上空か?  と問われるとき、私は「本質に位置はない、方向もない」と返したいのです。 神には根拠がない、という感じです。 そして、はじめに言葉があった、というマタイだったかな?の冒頭を思い出します。 本質的な生命力、というか、パワーの源、みたいなものに 根拠や位置はないと思います。 はじめにパワーの放出があった。 そのパワーの放出が周りにぶつかることで、はじめて位置や方向、 まあ鏡に写って初めて客観が生まれる、とでも申しますか そんな感じなんです。私の素人人生論は。 だから位置を探る前に、動き出しちゃおう、と。 動き回っていれば位置がつかめてくるだろう、と。 むしろ動かないと、位置というか存在はないんだろう、と。 いかに生きるか、つまり、いかに動くか、ではなく まず動くことで動き方が見えてくるのだろう、と。 終点など考えずに、それの繰り返し。結果が出発点。 自らを中年と呼ぶmori0309さんは 恐らく私より上の世代の方と思います。 私は入社とともにバブルが弾け、 終身雇用と年功序列が壊れた、ごく初期の世代です。 だからなのでしょうか、到達点とか終点とかいう概念が希薄みたいです。 今が全て。毎日がスタート地点。あるのはスタートをきる気持ちだけ。 これがなくなると死んでしまうので、この気持ちが命、みたいな。 私はヘーゲルはあまり勉強していないのですが serpent-owlさんの説かれるヘーゲルに シンパシーを覚えました。 このつかみは正しいのかしらん?

回答No.9

 「お礼」拝読しました。お忙しいところ、ありがとうございます。では… >私にとって「現実」とは「今」「ここ」に見えている美、感じられている愛 >のことであり、「理想」とは、この美と愛の遠い背後に、より大いなる美、 >より大いなる愛、真の幸福があるのだろうなあ、という予感のことです。 という部分について。  私はヘーゲルで卒論書いているわりに、実は必ずしもへーゲリアンではないのですが、ここはヘーゲルにこだわっていってみます。(釈明的注:実は正確に言うと「へーゲリアンではなくなるよう努力している」です。ヘーゲルさんの呪縛力って、もう、すごいんです。)  上記引用部分から読み取れるmori0309さんのお考えは、CUE009さんのご指摘通り「二元論的」なものに見えます。つまり、mori0309さんご自身が否定的に見ておられるところの「理想と現実の二分法」的枠組み。…あるいは、言葉の用い方がmori0309さんの思想を裏切ってしまっていて、そのせいでそう見えるだけなのかもしれませんが。  とりわけ、プラトンの「イデア論」に近いものが感じられます。現実の万物を超え、それら一切の真の姿であり、本質であり、真実在であるところの「イデア」です。それはそれは、もうとんでもなく「遠く」に観念されております。  がしかし、一方で「やはり言葉が思想を裏切っているだけ」とも取れます。と、申しますのは、前回の書き込みで私が熱く支持しました部分、「私にとって現実とは、友からのメールであり、「教えてgoo」での出会いであり、仕事仲間や家族との時間であり、出勤時に見える朝の海の白銀色であり、春の沈丁花の匂いです。もちろんつらくて悲しい現実もある。けれどしかし、それは決して夢や理想やロマンをかみ殺しなどしない。逆にそれを育ててくれる」というところで、mori0309さんご自身が透き通った眼差しで現実を見つめ、「理想を育ててくれる」と認めておられるからです。  私は、前者の「二分法」を支持せず、後者の「現実の中に理想の種を見る」見方を支持します。  では、ここらでイッパツ、ヘーゲル節をかましましょう。リズムはお約束の「ワルツ」です。an sich、fuer sich、an und fuer sich、と、三拍子目で必ずコケる、例のアレです。  ヘーゲル『論理学』・第二部「本質論」より。    「本質は現象する!」  …って、なにつまんねーこと言ってんだとか、思います? 思わない? 思ってよ。その方が…って、これどっかで使ったな…。  ごほごほっ、げほっ…ああ、失礼。改めて気を取り直しまして。  えーと、つまりですね、「本質」というものは、みずからを「オモテに現す」のです。林檎だったら、「赤い」「丸い」「甘酸っぱい」「胸がキュンとする」…といったような、諸々の属性や感覚与件のうちに、本質はみずからを「規定」していくのです。そうして「現実」の姿をとる。  ここまでだったら、プラトンだってカントだって同じです。でもヘーゲルさんが違っていたのは、「現象しないのは本質じゃない」って言い切ってしまったことです。「本質はみずからを現象のうちに現すものである、それが本質というものの《本質》である、ゆえに現象のうちに現れていないものは、なんら本質ではない」という話。んー、ヘーゲル節(…と、言っても、実物はもっとまったりねちねちしてます)。  シンプルに言い換えてしまいますと、「現象そのものが、まさに本質である」ということです。この論法を当てはめれば、「この現実そのものが、まさに理想である」と言えましょう。「ここがロードスだ、ここで飛べ」…ということです。これはすぐ後で「ここに薔薇がある、ここで踊れ」と言い換えられています(『法哲学』序文)。…イマイチ笑えませんが、ドイツ語ではダジャレになっております。いずれにせよ、「この現実を享受し、喜び、そして歩んでゆけ」という意味になりましょう。  ただし、前回の書き込みと見比べていただければおわかりと思いますが、この「本質」なるものや「現象」なるものを固定的に捉えてはいけないわけです。林檎で言いますと、「ちょっと色っぽい」「どこかサイケデリック」「歌いながらではギターが弾けない」「“本能”は名曲だ」「でも他はイマイチ」などといった諸属性に、林檎の本質はみずからを規定しているわけです。また逆に、そうした諸属性から反射的に導かれることによって、この林檎は椎名林檎という本質を持ちます。が、この林檎は齧られて終わる林檎ではありません。流れる時間の中に置かれた林檎です。そのうち、歌いながらでもギターが弾けるようになるかもしれません。“本能”以外にも名曲を連発するかもしれません。でもその前に芸能界をやめてしまうかもしれません。突然、蜜柑になるかもしれません。が、それは常にその都度、理想に媒介された「現実」であり、また同時に現実の中に確固たる形をとった「理想」なのです。  すなわち、理想は常に現実の「すぐそばに」寄り添っています。「遠く」ではなく。 P.S.「補足」等は、ごゆるりと。手紙でも交わすように、ゆっくりやりましょう。

mori0309
質問者

お礼

 文理両刀の真に偉大な哲学者にして、和洋古今の言葉を自在に駆使する文学者、そして くつした開放戦線の勇猛なる隊長、serpent-owl自由哲学塾塾長。いつもお世話になってまぁ~す。 > 「補足」等は、ごゆるりと。  このお言葉に甘えているうちに、なんとズルズルひと月半がたってしまいました。本当に申し訳 ありません。いまごろお礼するmori0309をどうかお許しください。ド素人・ド初心者の私ですが、 自分なりに考えたことを述べさせていただきたいと思います。 > 「現象そのものが、まさに本質である」「この現実そのものが、まさに理想である」 > 「本質はみずからを現象のうちに現すものである、それが本質というものの《本質》である」  いま、主観と客観・存在と認識の問題にぶちあたっておりまして、どうにも先に進めない状態が、 このところ続いております。現象は、認識者とその認識能力を想定しないことには、それがどんな ものであるか、何も語れないと思います。昆虫・鳥・人間の三者の目の前に、樹が立っていて葉が 生い茂っているという現象を考えた場合、樹の本質は誰に対して現れているのでしょうか。 (三者が見て感じる樹の現象はまったく異なったものであると思います) 昆虫?鳥?人間? 人間も限られた精度の感覚器官を持つ生物であってみれば、より高度に進化 した生物は、樹の生育現象をもっともっと深く多面的にとらえることができるようになると言えるの でしょうか。樹が発するオーラとか。(←・・・・・こういう言葉はダメですか)  それとも樹はそれ自身が独立した存在であるから、認識者がいなくても、自分の本質を自分の現象の うちに現していると言えるのでしょうか。認識者を想定しなくても現象や本質というものは存在する のでしょうか。 (この質問、あちらこちらで何度も繰り返されていますね。自分で考えますので、どうぞ聞き流して ください。きっと哲学の初歩の初歩の問題なんですね)  私はどうも哲学的な思索をしているというよりは、詩的な空想をしているというほうが、あたって いるようです。私が求めているものはいつも美です。論理的真理ではなく。(←自分で言って恥ずかしい) 音楽や絵画だけでなく、自然の景色、野の草花、空の白雲、人の笑顔、人の人情。そういうもののなかに いつも美を見出して生きる糧にしています。  そしてこうも考えます。人が何かを美しいと感じるのはなぜか。それはいちいち論理的な推論をしなく ても真理(倫理的に正しいこと)を直観的に判別するためなのではないか。正しいことは自他を救う。 だとしたら人間(に限らず生物は皆)は、論理的推論能力を高めることよりも審美的感性を高めることの ほうが、大事なのではないだろうか。人間をその人の内側から見た場合、真の自分とは何なのだろう。 自分を動かしている本当の自分は何なのだろう。論理的な理性か、審美的な感情か、それ以外か、 それは真実在か。(なつかしいなぁ・・・独り言です) > 「神の目から見て美しい。」(「環境破壊がいけない理由」より)  こういう言葉、好きです。別にクリスチャンじゃないですけど。  神という言葉の各人が持っている意味や語感は、人によってまったくちがいますよね。これほど意味や 解釈が異なる言葉は他にないんじゃないでしょうか。「あなたは神の存在を信じますか」という問い 自体が成り立たないという気さえします。だって神の定義がないのですから。  あ~いけない。素人発言を連発してしまいました。どうぞお聞き流しを。  お礼が遅れてしまったこと、本当に申し訳ありませんでした。(下足番mori0309)

回答No.8

mori0309さんのあげた質問と上でPassagenさんがあげられた「目標も嫌い」の質問がどこか、だぶってみえるのはわたしだけでしょうか?あちらで回答されている方々の回答にmori0309さんの求めているものがあるようにも思えるのですが・・・もうすでに見てきておられるかとは思いますが、再度、お読みおきされることお勧めします。 現実というものの捉え方をどう捉えるかで、いろんな見方が考えられるかとはおもいますが、単純に考えて・・・・現実はスタ-ト――――理想&ロマンはゴ-ルとした場合、スタ-トからゴ-ルに近づこうとする行動こそが、人(人間)の人生の内容であり意義のあることだと考えます。しかし、人それぞれで、ゴ-ルまでの近づき方が上手くない場合は、mori0309さんが使われている言葉をお借りするならば、結果としてかみ殺してしまうことだって十分に考えられます。ゴ-ルというのは、スタ-トと反対の位置関係にあるのですから、すごくひらきのあるものであってはじめて両者の関係が成り立つのではないでしょうか?またまた、トンチンカン~♪言い出してたらごめんなさい。

noname#155689
noname#155689
回答No.7

三度登場です。 レスも待たずにどんどん書き込みます。 上の問いは一見、非常にプライマリーな質問に見えます。 だから「現実」について「私の知っていることでよければ」 といった程度で概論的に解釈してみたのですが 果たしてそれでいいのだろうか?と悩んでしまいました。 私、OKWeb初心者なもので 先ほど初めて過去ログを読み始めて気づいたのですが mori0309さんはこの類の質問を投げ続けていらっしゃるのですね。 一見「プライマリーな」質問は、実は「プリミティブな」疑問だったのですね。 ならば、私が質問を解釈したって仕様がない。 意見を述べないと。 だから一気にトップギアに入れます。 mori0309の一連の質問には何か背景があると思います。 でもその背景は、今の私には読み込めません。 ただ、1)制度や、2)政治の話には持っていきたくないし 3)還元論に回収されたくもない。 さらには今さら近代哲学の解釈はしたくないし テレオロジーやΩポイントじゃあトンデモだし パラドクスやトートロジーを証明したって何もならないし かといって否定神学に収束してしまうのはどうか?と。 後の4行は私の気持ちです。 根底にある私の不満は 21世紀になったというのに今だ多くは19世紀的な古さを引きずったままであり その中で20世紀の思想や哲学がなにをしてきたのか?というと 19世紀の遺物を延々と解体し続けているだけなんじゃないの、という感じです。 (昔、橋本治が広告批評で同様の主旨を、もっと上手に述べていた  →単行本になりましたね。) もっと言えば「解釈はもう沢山だ、どうなっているか、よりも、どうするべきか」 みたいな。 それで私もこのようなページを覗いたり 色んな本を読んでみたりしていて それはそれで知識欲を満たしてはくれるのですが それらの知識をどう役立てていいのか、よくわからない。 まあ、それは自分が未熟だからなんだろう、と更に学び続けるのですが 視点を変えるなりしないと、悟りは開けそうにない。 で、長くなりましたが 最近は私にとっての「理想」は私の「意思」が前向きであることであり 私にとっての「現実」は、その意思に沿ってコツコツとやっている私の「努力」である と考えています。 ↑ いろいろと言い換えをしたい欲求に駆られますが、今日のところはもうやめます。

mori0309
質問者

お礼

CUE009さん、申し訳ありませーん。お許しをー。 お礼の遅いmori0309で有名なんです。(たぶん) 前回、教えていただいたHPを何度も読んでいるのですが、たとえば 「無意識は言語として構造化されている」 なんていう言葉につかまってしまって、考え込んでしまうのです。 何とか自分なりに整理できたら、またお礼します。本当に ごめんなさい。

mori0309
質問者

補足

CUE009さん、ありがとうございます。 > 果たしてそれでいいのだろうか?と悩んでしまいました。 > 私、OKWeb初心者なもので 私も入会してまだ3カ月です。この「OKWeb」では議論や掲示板的利用法はルール違反 であるとされています。だから私のような利用法は違反スレスレです。質問からかけ 離れたやりとりは管理部によって消されてしまうこともあります。 (過去を消したり修正したりできるなんて「全知全能」ですね。) (でも、まあやむをえないとも思います。規制なしだと□a□ooの掲示板のようになって  しまうでしょうから、、、あれはあれでいいのですが。) > mori0309さんはこの類の質問を投げ続けていらっしゃるのですね。 私はただの素人の中年サラリーマンです。でもこの「OKWeb」「教えてgoo」を知って おおげさかもしれませんが、人生が変わりました。いままでは読書と自問自答だけの自閉的 な趣味世界にいましたが、ここで多くの方と知り合い、たくさんのことを語り合うことが できて、本当に大きなよろこびを感じています。ニックネームと文章だけのやりとりで、 こんなにも生き生きとした、たのしい、豊かなコミュニケーションができるものなのかと 驚いています。(もちろん回答者のみなさんのおかげです) (あんまりコミュニケーションを全面に出すと「警告」されちゃいますけど) これからも、よろしくお願いします。追加の「お礼」は、数日後、前回のご回答に書かせて いただきたいと思います。

noname#155689
noname#155689
回答No.6

> ラカンの「現実界」「想像界」「象徴界」について > もし説明をいただけるのでしたらうれしいです。 まず、この質問に関しては東浩紀氏の文章を引用しちゃいます。 ラカン派精神分析では、主体が面する世界を「想像界」 「象徴界」「現実界」という三つの領域の組み合わせから考える。 想像界とはイメージの世界 象徴界とはシンボルまたは言語の世界 そして現実界とは、イメージにもシンボルにも関係がない 端的に「もの」だけが存在する世界である。 そして人間的な「主体」とは、その象徴界に参入し シンボル操作の論理(シニフィアンの論理)を受け入れた 存在として定義されている。 「主体」が幼児や動物から区別されるのは 前者の世界認識がイメージとシンボルから成立しているのに対し 後者の世界認識がイメージだけに限られているからだ。 さて >「理想と現実」は「精神と物質」の二元論と同じ構造か? との質問を頂き、私は自信がなくなってきました。 というのも、入門書の記述にある「他者の目(現実)」というのは 自分の知覚できる世界とは別に 客観的事実とか絶対真理の世界があるとして それは何か?という質問として読んだのですが これはmori0309さんの意図に沿っていますか? 違ってたらご免なさいということでこのまま進めます。 自分の知覚できる世界とは別に 客観的事実とか絶対真理の世界があるとして それは何か?という質問に対する答の概念こそが 西洋哲学のキーワードとなる「ロゴス」です。 そして下の方が御専攻されていたヘーゲルが目指したのが ロゴスがどのように私たちの現実的な経験の中に 具体的に生成してくるか?を記述することであった と理解しています。 そして、ヘーゲルの哲学だと「現実―理想:対立二分法図式」を 乗り越えられると考えるので mori0309さんの質問に対してserpentowlさんの解答は 有効だと思うのです。 現代思想はどちらかというと この質問を無効にしてしまうものだと思います。 なぜなら乱暴にいうと現代思想は 主観は客観に到達できない、といったものだからです。 この中心を成すのは言葉・論理に問題あり、とする考え方です。 まず「意味する言葉」と「意味された物」の関係の 曖昧さについて言及したのが記号論です。 ここからイメージとシンボルの関係へと言及していくのが デリダに代表される構造>ポスト構造主義への流れです。 デリダがヘーゲル&フッサール批判として「理性の中でしか 理性を批判することは出来ない」といったのが代表的でしょう。 この辺の考え方の例として挙げられるのが 心理学のラカンの3界です。 またこのような考え方に対して 数学の分野から大きな影響を与えたのが ゲーデルの不完全性理論 *数学の特徴である厳密な証明による真理保証のシステムは  それを厳密かつ完全にしようとすればするほど、  その結果として不完全性を露呈する(第1不完全性定理) *厳密な証明による真理保証のシステムが安全であるということを  それより安全と思われるシステムを使って  証明することはできない(第2不完全性定理) というヤツです。 要するにデカルトやヘーゲルの記述を突き詰めていくと パラドクスかトートロジーになってしまう といったことだと思うのです。 また背景として近代主義=西洋中心主義とする批判もあります。 カルチュラル・スタディーズなどがこれです。 ええっと、私は趣味でこれらの知識を吸収したので あんまり自信はないんです。 ただでさえ難しいのに、去年アラン・ソーカルの「知の欺瞞」 なんて本が出てきて、自分でも混乱している。 誰か突っ込んでくださると助かるのですが・・・・

参考URL:
http://www.t3.rim.or.jp/~hazuma/texts/ecriture.html
mori0309
質問者

お礼

CUE009さん、ありがとうございます。 多忙かつ魯鈍ゆえ思考が停滞しております。この場で素人人生論を書き連ねることをお許し ください。 ●> mori0309の一連の質問には何か背景があると思います。でもその背景は今の私には読み > 込めません。ただ、1)制度や、2)政治の話には持っていきたくないし、3)還元論に > 回収されたくもない。もっと言えば「解釈はもう沢山だ、どうなっているか、よりも、 > どうするべきか」みたいな。 ■自分が今まで自閉的世界で考えつづけてきたテーマ、(恥ずかしいけど言います)それは 「自分は何のために生まれてきたのか」「死ぬまでのあいだいかに生きるか」なのですが これを他の人はどう考えているのか、私の思想(といえる代物ではないですが)は、他の 人から見てどうなのか、どの程度客観性があるのか、客観性は必要なのか、それを考えたい。 そういうことが背景かなと思います。私にとっての「真(まこと)の大事」は「世界がどう なっているか」ではなくて「自分は何なのか」「自分はいかに生きればよいのか」なのです。 だから、CUE009さんの「解釈はもう沢山だ、、、」に同感です。 ■この哲学カテゴリで「話し合いが嫌い」「目標が嫌い」という質問が出ていて共感しています。 私はさらに「競争も嫌い」です。私は中年で、一応企業の中間管理職なので「議論」と「目標」と 「競争」にイノチをかけているフリをしていますけど、これは手段にすぎないと思っているん です。真の理想を深めるための。(理想を達成するためのではなく。理想は日々のなかにつねに 在りますから。)私にとっての真の理想は、金でも地位でも名誉でもないです。他人より優位に 立つことで安心を得ようとしているうちは、理想は見えないです。「競争」は奪い合い・おしのけ 合いでしかない。(ついに「絶対書くまい」と誓っていたことを書いてしまいました。もう死ぬ まで覆面です。)でも、もういっぽうで「お前バカじゃないの?」と言っているもうひとりの 自分もいるんです。 ■ずいぶん昔ですけど、ある大物歌手が自分で作詞した歌(作曲は別のプロ)をステージで 歌っているところをテレビで見ました。男女の愛を歌ったもので、本人は大真面目だったん ですけど、素人の私でも聴くに耐えないほど、歌詞はマズくて滑稽なものでした。 でも思うんです。この滑稽さは歌詞の出来不出来に関係ないのではないかと。自己陶酔・自己 惑溺・自画自賛。バカなお人好し。他者のいない楽園でのひとり遊び。現実遊離の役立たず。 私は質問文にあげた入門書を読んだとき、私のあまったるい理想主義が批判されていると すこし感じたのです。「現実の冷厳さに目を向けて、早く大人になれ」ということなのかなと 思いました。(なんと、まだ大人になれていない) それで、私の「理想と現実」観を質問として立てて、他の方の意見を聞こうと思ったのです。 ■純粋な哲学的興味もあります。(こんな言い方や並べ方をしたら専門家に怒られます?) ○理想と現実 ○主観と客観 ○精神と物質 ○存在と無 ○感性と理性 ○感情と論理 ○文系的センスと理系的センス ○あたたかい目と冷厳な眼 ○こころとあたま ○ミュトスとロゴス(?) ○芸術と学問 ○詩と事実 ○唯心論と唯物論 ○性善説と性悪説 ○神話と□□ ←言葉が出ない! ○神と遺伝子 ←無茶! こういう二元論の構造は、どこが同じでどこが違うのか。この認識思考法は本当に有効なのか。 仮に上記の図式を左派と右派の対立と考えるのなら、前世紀までは圧倒的に右派(上記の)が 優勢だったと思います。(私の語感では「現実」や「理性」は「左派」なんですが) 今世紀は左派(上記の)が盛り返すのではなく、左右の二元論が超克・超越されて、新たな 真理が発見されていくのではないかと思っています。 ●> 私にとっての「理想」は私の「意思」が前向きであることであり、私にとっての「現実」は > その意思に沿ってコツコツとやっている私の「努力」であると考えています。 > いろいろと言い換えをしたい欲求に駆られますが、、、 ■いろいろな言い換えが可能であるということは、問題がより根源的・本質的なものだから ではないでしょうか。上記の左右対立がもし有効だとしたら、人間(真の自分)はどこに位置 しているのでしょう? 左か右か真中か上空か? 私は「信じたとおりになる」ような気がして しょうがないです。人間の信じる力はそれほど強い。(こういうのをスカタンというのでしょうね)

回答No.5

 mori0309さんが「ここで言われている「現実」とは…」と限定されている「現実」に関しては、前のお二方、north073さんとhasshyさんのお答えで完璧回答ですね。で、あまりに完璧なので「mori0309さんの聞きたいことはこれこれこういうことなんだろうな…」ということについて、なかなか書けませんでした。north073さん宛てのお礼で、「やっぱりそういうことか」と思ったので、ちょっと書きます。  でも、これについても、north073さんの回答に答えが書かれているようですよ。「もちろんつらくて悲しい現実もある。けれどしかし、それは決して夢や理想やロマンをかみ殺しなどしない。逆にそれを育ててくれる」とのmori0309さん御自身が書かれている内容に賛同しておられる部分です。私も、まったくその通りだと考えます。ここを少し広げて書いてみます。  「結婚生活の理想と現実」なんていうふうに、理想と現実を対立的に捉える図式もあるにはあります。哲学の歴史でも、例えばプラトンの理想主義に対してアリストテレスの現実主義なんて説明がされる場合があります。そして、それは必ずしも不適切ではない。おおまかな特徴付けとしては。  でも、プラトンだって現実を説明するためにイデアを考えたのですし、アリストテレスだって自然の基底にある根拠を形而上学で追究しているのです。「理想主義、現実主義」と言ったって、それだけじゃない。截然と切り分けられて対立項に置かれているわけではありません。  ヘーゲルの『法哲学』序文(Vorrede)に、  「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」 という、あまりにも有名な言葉があります。  この言葉は『法哲学』出版の当初から、反自由主義的な反動政策をとりつつあった当時のプロイセンを肯定するものと捉えられ、非難にさらされました。カール・ポパーも『開かれた社会とその敵』で、そうしたヘーゲルの姿勢を批判しています。  しかし、カール・ハインツ・イルティングという研究者が発掘した講義録ノートには、   「現実的なものは理性的になり、理性的なものは現実的になる」 と記されたものもあったのです。こうなると事情は変わります。「現実」は絶えず「理想」を生み出し、「理想」は絶えず「現実」を変えていく、そういう意味になります。(このことは、ヘーゲル『論理学』の「現実性」に関する規定から、内在的にも示すことができます。実はこれ、私の卒論のテーマでした。)  これをもう少し詳しく見ましょう。  ある一時点で、現実がある形をとっています。それでうまくいっています。なんら不都合はない。けれども、時は流れます。新たなものが生まれます。すると現実は変化します。不都合が生じてくるでしょう。(具体的に言えば、高度情報化社会の展開につれてハイテク犯罪が問題になるとか。)  この不都合を解決するため、「理想」が掲げられます。現状の問題点・課題の克服が要請され、ある観念(イデア・理想)が打ち出されてくる。この観念が、充分に現実を踏まえ、真に問題解決に役立つなら、それは「理性的」です。「現実的になる」でしょう。「現実」は再び「理性的」に、なります。しかしその「現実」も…というわけです。  そういうことだと思います。ですから、mori0309さんのご見解に賛成です。現実は、夢や理想やロマンを育ててくれる。  ただ、この「育ててくれる」のところは、もう一歩踏み込んで「鍛えてくれる」と表現したほうがいいかもしれません。というのは、north073さんが言われているように、現実とは、理想を「育てていくために必要な痛みと強さを与えてくれるもの」だからです。すなわち、現実を遊離した「理想」は、「現実―理想・対立二分法図式」を乗り越えることができず、非理性的なままに終わることになるでしょう。  そうそう、「現実的なものは…」という言葉に関連して、同じく『法哲学』序文には、    「ここがロードスだ、ここで飛べ。 hic Rhodus,hic saltus.」 という言葉がありました。「この与えられた現実の中で勝負しろ」というほどの意味になりましょう。  なお、mori0309さんの書いておられる(1)~(3)までについて。(1)と(3)に関しては賛成です。人間はそんなものでは計れないし、還元主義もロクなもんじゃないです。(2)に関しては、ちょっと保留。「本能とは何か」の方にでも、そのうち書かせていただくかもしれません。

mori0309
質問者

お礼

serpent-owlさん、回答ありがとうございます。 > 「現実」は絶えず「理想」を生み出し、「理想」は絶えず「現実」を変えていく。 > 「理想」が充分に現実を踏まえていて「現実」の問題の真の解決に役立つなら > それは「理性的」です。(文章を編集させていただいております。mori0309) 「現実」の不都合や不満足や苦しみが「理想」を生み出すということでしょうか。 私にとって「理想」とは「今」「ここ」に見えている美、感じられている愛 (こんなコソバユイことよく書けるなあ)のことであり、この美と愛の遠い背後に、 より大いなる美、より大いなる愛、真の幸福があるのだろうなあ、という予感のことです。 野の花、天の星、朝夕のお日様、そして人の笑顔に、そういう美や愛を感じます。 遠いというのは時間でもなく空間でもない、もっと違う種類の遠さです。 ちなみに私は特定宗教の信仰者ではありません。私にとって「理想」とは「改善努力」 という犠牲的な時間の経過ののちにやってくる未来の「現実」などではありません。 なんだか反論めいた文章で申し訳ありません。私は哲学にはまるで素人です。質問文に あげた哲学入門の本を読んだとき、「ロマン的幻想」という言葉が、自分の夢想のことを 言われているように感じたのです。 考えてみたら「現実」なるものは(1)(2)(3)の他にも、もうひとつありました。 (4)生活的現実です。飲み屋でカードを使いすぎて、どうやってカミさんに知られずに 決済金を工面しようかという悩みとか、会社への泊まりが長引いて、着替えがなくなり 夜中にこっそりパンツやくつ下を洗面所で洗う情けなさとか、子供連れでスーパーの バーゲンの行列に並んでいたら、会社の部下にバッタリと会ってしまったかっこ悪さとか。 哲学だ理想だなんて言っては見ても、しょせんかっこ悪い生活人。これこそが現実?

mori0309
質問者

補足

すみません。訂正させてください。 ■訂正前:私にとって「理想」とは「今」「ここ」に見えている美、感じられている愛 (こんなコソバユイことよく書けるなあ)のことであり、この美と愛の遠い背後に、 より大いなる美、より大いなる愛、真の幸福があるのだろうなあ、という予感のことです。 ■訂正後:私にとって「現実」とは「今」「ここ」に見えている美、感じられている愛 (こんなコソバユイことよく書けるなあ)のことであり、「理想」とは、この美と愛の遠い 背後に、より大いなる美、より大いなる愛、真の幸福があるのだろうなあ、という予感の ことです。

noname#155689
noname#155689
回答No.4

まず質問を読み替えることを許してください。 >「ロマン的幻想」とは(中略)、そういうものを内部に築きあげて >自分に言い聞かせている姿を(中略)と表現しています。 これはつまり「ロゴス」の説明だと思われます。 >「理想と現実」という二分的・図式的思考法が >わたしたちにとって有用なのか どうか これは隣接スレッドにある「物心二元論」だと思われます。 つまりこの本はデカルトの哲学に対する入門書だと思われます。 (デカルトは近代思想の規範ですから、  哲学=デカルトの哲学体系になっていることが多いと思います。) つまり質問は「デカルトの哲学」あるいは「近代思想」 あるいは「形而上学」あるいは「西洋ロゴス主義」は 今でも有効か?と読み替えられると思います。 この課題に取り組んで来たのが20世紀に始まった「現代思想」です。 現代思想をここでまとめるのは私には出来ません。 そして現代思想はまだ決着を見ていません。 ただ今日現在の思想トレンドにおいて「現実」を考えるとき その「現実」とは、ラカンの「現実界」「想像界」「象徴界」が スタート地点になっていることが 最も多いように感じます。 何か入口を示したにとどまっていますが ヒントになったでしょうか? 気になる固有名詞がありましら 私が出来る範囲でお教えします。

参考URL:
http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=44627
mori0309
質問者

お礼

CUE009さん、回答ありがとうございます。お礼が遅くなって申し訳ありませんでした。 「理想と現実」は「精神と物質」や「ミュトスとロゴス(逆?)」の二元論・二分論と 同じ構造なのでしょうか。どこが同じで、どこが違うのでしょうか。 ラカンの「現実界」「想像界」「象徴界」について、もし説明をいただけるのでしたら うれしいです。

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