• 締切済み

進化と創造

 私は聖書の勉強をしているものです。聖書の中には神様は「その種類にしたがって増えよ。」と言っています。つまり生物はその種の内無いで増えていくように書いています。つまり進化完全否定です。  また欧米では進化論はまだ仮説として扱われているようですね。事実、学校でも進化論と聖書の神による創造を両方教えているようです。  みなさんは進化と創造論どちらを信じていますか?また、その信じた理由をお聞かせください。

みんなの回答

  • cyototu
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回答No.19

#15です。 >体の器官としての肩に、動作を覚える機能はありません。私たちの動作を記憶している器官は脳です。また脳が私たちを次の動作に移るときにどのような状態に体を保てばいいかという指示を体に送っていて、それがゆえに肩のゆれは止まるのだと思います。 「覚える」という言葉に誤解があったようですね。私はこれを脳が覚えていると言うことではなくて、肩の振動がいつまでも続いてしまうと言うことを「覚えている」と表現したのです。この宇宙ではエネルギー保存の法則と言うのが成り立っているので、一度ぶつかってからだが貰ってしまったエネルギーは脳味噌がどんなに命令を出しても、そのエネルギーが運動の形で体のどこかに残っているはずです。この法則に反する現象に人類は未だにお目にかかったことがありません。ところが、そのエネルギーは熱運動に変わってしまい、その熱エネルギーは体が周りの温度と同じになるように体の外に「散逸」して、ぶつかったと言う情報が体から失われるのです。この散逸がなかったら、脳はぶつかったことを忘れようにも忘れることは出来ません。 この機会に、多分質問者さんが考えても見なかったと思われる物理学の側面(あるいは本質)に触れてみます。質問者さんは信仰に興味がおありのようですが、物理学も一つの信仰なのです。物理学者とは「この宇宙には物理学の第一原理とか、基本法則と言うものが存在し、生命現象や精神現象まで含めて、この宇宙で起こる全ての現象は、その第一原理から統一的に説明が出来る」という、未だに誰も証明していないことを信じている連中のことを言うのです。ですから、これは物理学と言うよりも、物理教と言うのが正しい表現です。物理学者は、その信仰の正当性を確認すべく、日々努力しているのです。ですから、物理学者にとっては、「物理学以外の様々な現象」という物は存在していません。 もちろん、今までの物理学で手に入れることができた人類の知識は、この宇宙を統一的に理解するためは、余りにも少なく、また、未熟な論理なので、まだ途轍もなく多くの現象が、第一原理にまで遡って説明できいないことを、物理学者達は十分に承知し居ります。そんな未熟な段階で、統一原理が存在していることを神懸かって信じているなどとは、これを物理教と言う以外に私はその表現を知りません。 質問者さんは聖書を読みながらこの宇宙を理解しようと勉強し、物理学者は自然を読みながら勉強している点で、私にはその行為の目的は同じように思えます。ただし、アプローチも違うし、また物理学者にとっては人類は未熟であり、したがって真理の本質が既に今持っている人間の言葉として表現されている程には人間は完全な者に到達していないと言う直感がありますので、聖書の研究家とは違った結論が出てくる可能性は十分にあると思います。

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.18

A No.12です。 そういや染色体説の原典は修道僧メンデルだなぁなどと思いつつ とりあえず理科年表をペラペラめくって見たのですが 46の染色体を持つ生物はオリーブがありますね。 また、47の染色体を持つ人間としてダウン症患者もいます。 ちなみに私は染色体の数で人間は決められないと考えているので オリーブを人間と思えませんし、ダウン症患者は人間だと考えています。 染色体説は中世スコラ哲学以降の発想なので、少なくとも聖書に書かれていませんよね? なぜあなたのその考えが、聖書・神の言葉であるといえるのでしょうか? 寛容な神は、もっと広い範囲の種を認めていたのではないですか? ということです。 まぁ、私は神は居ないと思っていますし、 キリスト教徒でもなんでもないので、そもそも余計なお世話なんですが。 単に両方の理屈は矛盾してないよという論理上の指摘(あるいは提案)です。 さて、質問者さんが神による創造と進化論に乖離したものを感じているのは つまるところ、生物は優れた存在になって生き残る、という発想に対してですよね? これがそもそもの誤解を生んでいると思います。繰り返しになりますが 遺伝子にはそういった変化を行うプログラムが既に成されていて 生物は"とりえあず"変化してしまうのです。変化後の環境の変化により 大多数の変化は途絶え、少数の変化のみが残る可能性があります。 つまり進化論において、優れた生物が残るというのはただの結果論です。 ちなみに、こういった"意味の無い変化"を取り入れて、現代のコンピュータの 計算法は劇的に変化しています。前提をランダムに変化させることで、時間さえかければ 最適解を導くことが可能となったのです。 この「遺伝的アルゴリズム」を開発したのは人間です。 では生物の遺伝をプログラムしたのは誰なのでしょうか? その存在をこそ神と定義する人は科学者にも多いですよ。

hikaru0705
質問者

補足

 オリーブが種として、まったく違うのは明らかですね。哺乳類では無いのはおろか植物ですから。どうも染色体で分かるのはいけなかったようです。ダウン症患者のような染色体異常は突然変異だと考えられますが、前にも書いたようにそのような変化は病的なものです。生物にとって有用な変化ではありません。よって進化の例としてあげることはできないと思います。  聖書が真実であると私が信じられるのは理由があります。  一つには聖書の予言がことごとく成就しているからです。イスラエル人のバビロンへの捕囚。またそのバビロンの崩壊、その時の王の名前がキュロスであることまで聖書では述べられています。またイエスキリストに関する予言は100以上ありますがそれらは100%成就しています。  もう一つは科学的な正確さです。聖書は地球が丸い事、また中に浮いていることなど地学、天文学で比較的近年に分かった事柄を数千年前に正確に述べています。この頃、まわりの諸国民はラクダの上にいる亀が地球だなどと本気で信じていました。またレビ記の中には人の排泄物を地の中に埋め、土で覆うように指示しています。衛生学的にもこの行為は裏づけのあるところです。中世にヨーロッパでペストの流行があったことを考えると聖書がいかに科学的か分かります。このほか考古学、医学、歴史、とてもすべてを書き記すことは出来ませんが、近年あらゆる分野で聖書の記述の正しさが論証されています。  また神は寛容な方だといっても聖書で使われる意味は倫理的な意味で用いられているのです。罪深い人間にイエス・キリストという贖いを用意してくださり、その故に罪を許してもらえるという意味です。自分の言ったことを用意に曲げるようなことはなさいません。そして神は生き物をその種にしたがって増えるように言いました。  また、あなたは進化と創造は矛盾しないと言いますが、聖書を一回でも通して読んだことがありますか?聖書を読んでない人がいくらそのような事を言っても片手落ちです。一方の知識である進化論の知識しかもっていないのでは創造論をまともに論ずることは出来ません。  また生物の中には変化を許容するプログラムがあるとの事ですが、その範囲はあくまでも同じ種の中にとどまっています。犬かの中にコリーやドーベルマン、ダックスフンドがいるようにです。進化論が述べてるような魚類から爬虫類、爬虫類から両生類、両性類から哺乳類といったような種を越えた変化をしていることはありません。  また遺伝のプログラムを生物に付与したのは、まさしく神だと私も思っています。だからこそ遺伝の大前提である種の保存を神が侵すわけがないと言い切れるわけです。

  • oilllio
  • ベストアンサー率0% (0/7)
回答No.17

「創造論」の立場が、自動的に「進化論」を否定する立場になるとは思いません。 「創造論」が「進化論」と両立しないという考えは、言葉のレトリックに惑わされている結果だと思います。 聖書は言語によって書かれているわけですから、「言語の特性や限界」から自由になることはできません。例えば、「その種類にしたがって増えよ」というときの、「種類」という言葉の意味が、現代の進化論の「種」と同じ意味であるということはありえません。というのは、聖書が書かれた時代には「進化論」などなかったし、進化論が言う「種」の概念もなかったわけですから。聖書の時代の「種類」の意味は、もっとおおざっぱな意味であり、その意味である限り、「進化論」と矛盾しているとは思いません。 また、聖書に神が土から人間を作ったと書いてあったとしても、それが即、神が人間と同じように2本の手を持っていて、その2本の手で土を寄せ集めて粘土細工のように人間の形を作ったことを意味しているとは限りません。「土」という言葉をもっと広く「この世界の元をなす素材」と解釈する事も可能です。言葉の厳密な意味をどう解釈するかは、言葉で書かれた聖書そのものから決定する事は不可能です。どうしても読者の判断、解釈を免れません。 だから、もし、「神が土から人間を創った」という文章を読んで、「神が、人間のように二本の手を持っていて、その二本の手で粘土細工のように人間の形を作ったのだ」と解釈し、「だから、進化論は間違っている」と言うとすれば、それは、その人が、聖書を自己流に解釈した結果にすぎないと思います。 神は、決して文字通り自分の手で粘土を捏ねたりはしないと思います。そもそも神が、そんな低レベルなことをすると考える方が奇異な感じがします。もともと、神は人間を創る前に、この世界そのものを創ったわけですし、その神によって創られたこの世界から「進化論的プロセス」を経て、人間が生み出されるように世界そのものを創造したのだと考える方が、まだ、はるかにレベルが高い神ではないかと思います。

  • shiara
  • ベストアンサー率33% (85/251)
回答No.16

Wikipediaの目には、「進化論と目」という項目があり、目は、「しばしば創造論者によって『最初から完全な状態で作られていなければ目は目たりえない』として進化論の否定的な例の引き合いに出される。」との記載があります。目はそれほどによくできていると言えるのですが、設計ミスと思える構造上の問題もあります。それは、網膜を出た神経は眼球の内側に向かって出ているため、眼球の内側から外へ視神経を出すための盲点が存在するということです。最初から見るための道具として目を設計するのであれば、網膜から内側に神経が出るような設計はしません。つまり、目は最初から意図されて設計されたとは考えにくいということです。

hikaru0705
質問者

補足

 たしかに目はあなたのいうような構造になっています。しかし盲点があったといってもそれは眼球運動によって十分に補われています。目は物を見るといった点で過不足なくその機能を有しており、今日存在するどんなカメラよりも精密に出来ていることは、その仕組みをよくしる人の間で明らかです。  またわたしが何をいいたかったかということは、こういうことです。  進化論の難問は見たり、聞いたり、考えたりすることがなされるために、それらの器官のすべての部分がいっせいに作動しなければならないという点です。個々の部分すべてが完成するまで、そのような器官は役に立たないでしょう。それで疑問が生じます。進化の推進力と考えられる、方向づけのない偶然の要素が、それらの部分すべてをそのふさわしいときに結合させ、それによってこのように精巧な仕組みがつくり出されたのでしょうか。  ダーウィン自身もこれが難問であることを認めていました。例えば彼はこう書いています。「目が「進化」によって形成されたとするのは、率直に告白すれば、極めてばかげた考えに思える」。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.15

#13、14です。  >これは私が神を知るきっかけにもなった事柄ですが、自然をつぶさに観察したとき、その美しさ、またその精密さなどからこれは偶然に出来たのではない。神の所産によるものだと感じたものです。 散逸構造の理論は、この世の中に複雑な構造が何故存在できるのか、そしてそれを創り出すメカニズムはどのような物かを明らかにした理論です。複雑な構造というのは読んで字のごとしで、我々の想像を絶するような巧妙で精密な構造を持っているから、複雑な構造と呼ばれるのです。そしてこの理論で明らかにされたことは、それが存在するための本質的な要因が、偶然に在ると言うことです。もちろん、貴方の日常経験したことを帰納してみても、偶然が何故そんなに重要な役割を演じ得るのか、その反対じゃないかと言うのは私にも理解できます。この理論がノーベル賞に値したのは、そのような全く意外なところに問題を解く鍵があったのだと言う、決して自明でないことを発見したからなのです。ご自分んで勉強なさってみれば分かるはずですが、我々は自分の常識を一旦裸にして見ないと分からないことも時々在るのです。散逸構造はその好例です。 詳しいことはご自分で読んでもらうことにして、一つだけ常識の反対が正しいと言うヒントになることをここでは書いておきます。複雑な構造を保つためには、我々の常識とは反対に、その系が物を「忘れる」と言うメカニズムを持っていなくてはならないのです。この宇宙では一旦存在した構造を壊そうとする現象がいつも不意に起こってきます。何の予測もつかずにです。例えば貴方の肩を誰かが突いた場合を想像して下さい。その場合貴方の肩がそれを覚え続けていて、永遠に揺れ続けていたら、貴方な貴方として存在できなくなってしまうでしょう。では、貴方は何故それを忘れることができるのでしょうか。それは、貴方の細胞や分子が熱運動と言う全くデタラメで確率的な運動によって囲まれているからです。そのために、貴方の細胞や分子が行った運動の情報が熱雑音の海の中に散らばって失われてしまい、その記憶を忘れてしまうからなのです。この記憶を失うと言うことを専門用語で「散逸」と言うのです。そして、この雑音の偶然による情報の忘却が存在根拠の本質になっているので、散逸構造という名が付けられたのです。逆に、われわれの体が誰かによって作られた摩擦や拡散や雑音などで情報が失われることなどない、したがって不完全な所が一つもない精密機械仕掛けの時計のような物だったとしましょう。その場合には、部品の一部に衝撃をあたえたときに、その衝撃を永久に覚えているので、時計のとして機能することが出来なくなってしまいます。情報の散逸と言う、誰にもコントロールできない偶然による現象が在るから、我々は我々として存在できるのです。 この話を納得できるか出来ないかは、貴方が散逸構造の理論を読んで判断することです。貴方の宗教観をより深い物にするために、私は散逸構造の理論を学んでみることをお薦めします。

hikaru0705
質問者

補足

 あなたが物理学についてよく調べており、散逸構造について深く考察していることはよく分かりました。しかしそれだけで生物の動作など物理学以外の様々な現象について説明するのはいささか過不足です。 >肩がそれを覚え続けていて、永遠に揺れ続けていたら、貴方な貴方として存在できなくなってしまうでしょう。では、貴方は何故それを忘れることができるのでしょうか。  体の器官としての肩に、動作を覚える機能はありません。私たちの動作を記憶している器官は脳です。また脳が私たちを次の動作に移るときにどのような状態に体を保てばいいかという指示を体に送っていて、それがゆえに肩のゆれは止まるのだと思います。散逸構造や熱力学の理論はこの動作の説明には弱いでしょう。これは医学の自律神経系の議論だと思います。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.14

#13です。 この質問は宗教にからんでなされておりますので、下で触れなかった宗教に関連したことにも触れておきます。 散逸構造は環境の変化に対して強靭な抵抗力を持っている重要な根拠が、前持ったシナリオや目的に在るのではなく、ただ周りと自分内部の相互作用による成り行きで出来ていることにあることを紹介しました。意外ですが、シナリオや目的が在ると言うことが、存在を危うくすることも在るのです。それを今から、日本の神道との関連で掻い摘んで説明します。 日本では自分を無宗教という方がほとんどのようですが、実はその方達は無神論者ではなく、ほとんどの方が無宗派であると私は思っております。若いうちは宗教に感心なかった日本人でも、年を取り親が亡くなると、どの宗派に属することもなく親の遺影に手を合わせる方が、私の経験では殆どです。親の遺影を無視する方は居たとしても、圧倒的に少数派です。実は、これが日本の自然な神道の心なのです。神道ではいろいろな神様を祭ってはおりますが、圧倒的には日本人はご先祖様の加護を祈ることによって神道が成立しております。お宮で手を合わせるのは、ご先祖様の単なる延長です。これはある教義から出てきたものではなく、日本人の文化と心が自然発生的に作り上げてきた宗教観です。自分は仏教者だという方も幾らでもおられますが、日本の仏教はこの日本人の持っている自然発生的に持っている宗教観に馴染まないと受け入れらないことに気付き、インドにも中国にもない全く違った仏教を作り上げました。神道的と形容しても良いほどの仏教になっております。お盆も、位牌も、お墓の卒塔婆も、死後の何回忌も、みな元は神道の儀式でした。ですから日本人は仏教でも神道でも何でも受け入れてしまいました。キリスト教のクリスマスを祝ったり教会で結婚式を挙げているのに、神道の正月を祝ったり七五三を祝ったり、さらには仏式のお葬式を平気でしています。参考のために、私が一昨年東京の高尾山山頂付近にある薬王寺で偶然に撮った写真を載せておきます。お坊さんがお稲荷さんに向かって読経をして居りました。ことほど左様に、日本の仏教は神道と一体化しているのです。いろんな理屈を付けることは可能でしょうが、こんなこと、神道に教義があったら絶対に出来ません。 私の考えでは、実はこれは日本人が全ての他の宗教を神道化してしまっているのでそんなことが可能なのだと理解しております。神道には教義とか、ドグマが在りません。神道が存在するシナリオも目的もないのです。そのお陰で、どんなに高度で優れた教義を持った宗教が日本に流れ込んで来ても、神道はその巨木に絡み付く蔓のようにして生き残って行けるのだと思います。日本の仏教のように、場合によってはその巨木を覆い尽くしてしまうことも出来ました。これが、なまじ教義や存在目的が在るような宗教だったら、その教義と教義のぶつかり合いで、仏教やキリスト教などに立ち所にやられてしまい、神道などとっくに無くなっていたはずです。 子供の頃我々は、生きる目的を意識することなく生きてきました。思春期になって、はじめて言葉を使っての論理に力があることに気付き、それに魅了されて妙に屁理屈を言うようになりました。そして、今までの自分が前もって目的など考えずに生きてこられことをすっかり忘れてしまい、我々が生きて行けるのは目的が在るからだ、などと本末転倒のことを言い出します。そして、目的は何だ、シナリオは何だと、いろいろな理屈を付けて教義を作り上げてきました。ですが、本当にそんな物がないと我々は生きて行けないのか、という強烈な反省を迫っているのが、下で紹介した散逸構造の理論であり、進化論であり、また、現に今でも日本人の心の奥底に生き残ってきたところの、教義よりも成り行きに最も基本的な役割を見いだし、「存在」よりも「変化」にこの宇宙を見ている神道的な世界観ではないでしょうか。もちろんこれは、教義派にとっては自分たちの存在意義を底から崩しかねない挑戦ですから、教義派達が一斉に無教義派の攻撃に出るのは、至って自然な現象です。ですから、なぜ教義派達がそこまで目くじらを立てるのかは私にも理解が出来ます。 この私の物の見方は余りに独断と偏見に満ちあふれていますが、「存在」や「永遠」に本質を見いだす世界観ばかりでなく、それとは反対に「変化」に本質を見いだす世界観をも産み出した、この人類の持つの多様性を私は善しとしております。

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hikaru0705
質問者

補足

 あなたの言うように日本人のみならず、世界中のあらゆる人々、聖書筆者達も自分達の先祖に興味を持ち、よく調べていました。聖書の中でもイエスからアダムまで約4000年間の直系家系図が載っています。ただキリスト教の中では先祖に思いをはせたり敬ったりはしますが、崇拝は神だけに向けられるものです。その教義は極めて慄然としております。  また日本人が様々な、宗教の儀礼を行っていることは私も興味深く思っています。クリスマスにパーティーを行い、正月に神社に初詣に行き、お盆には仏教の儀礼にのっとって先祖に手を合わせる。しかしこの事は私達の国の地政学的、民俗学的性質、または歴史的経緯に深く関係があるのではないかと私は思っています。日本は島国でありまた単一民族です。外国の習慣や儀礼に対して慣用であったとしても国民自体のアイデンティティーを損なうことにはなかったのでしょう。また日本は敗戦国であり当時は西洋文化に対して、いささかコンプレックスをもっていたのではないでしょうか?  また日本人の心の中に神道が深く染み入っていることも私も感じることが出来ます。日本人の表現の曖昧さ、またおおらかさは神道の八百万の神への憧憬がそうさせているのではないかと私も思っています。日本人の宗教観はキリスト教やイスラム教のように絶対的でも排他的でもなく、様々な私達を取り巻く文化、宗教の中で自分達が生かされており、またその中で協調していくものだという合理的な考えが、その根本に流れているものと私には思えます。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.13

#6 です。 あなた方の主張をより強靭な論理の上に成り立たせるために、是非、近代物理学の目覚ましい成果である「散逸構造の理論」を勉強してみて下さい。この理論は、物理学の法則に従いながら何故、そしてどのように時間の経過とともに複雑な構造が分岐しながらこの宇宙に自発的にに現れてくるのかを定量的に明らかにした理論です。その理論の提唱者はイリヤ・プリゴジンはその業績によりノーベル賞を戴いております。この理論は、物理学の複雑な現象ばかりではなく、地球物理学での地球上の複雑な構造、化学反応、生物の持っている複雑な構造の分析、アリや人間の持っている社会構造の分析や進化、都市の発展、漁業における効率的な捕獲、等々に応用してその理論の正しさが定量的に実証されており、現在ではこの理論に関する数千にものぼる論文が毎年科学専門雑誌に掲載されております。 この理論はつぎの3つに要約できます:(1)現象の一番基本的な部分で、物質同士が熱運動と呼ばれる「確率現象」としてのみ記述可能な全く偶然な衝突や相互作用が起こっていること、(2)一般に、ある与えられた物理的な部分系は周りの系からの熱的雑によって、熱平衡状態と言う構造のない状態に壊れて行く傾向が在りますが(これを専門用語ではエントロピー増大の法則とか、熱力学第2法則と言います)、その破壊に打ち勝つために、平衡状態から「十分に」離れた「非平衡状態」にあること、(3)その十分に離れていると言う結果、熱平衡状態ではほとんど重要でなかった「非線形効果」と呼ばれる効果が重要になってくること。 この3つの条件が揃うと、外界の環境の小さい変化が自分に影響して自分が小さく変化するのですが、その非線形性のお陰で、自分の小さい変化が外界を変化させ、その変化がまた自分を変化させと、グルグルのめまぐるしく回って、今まで安定だった構造に不安定な状況が起って来ます。その結果、今までになかった全く新しい構造が物理学の法則に従って「自発的」に生まれてくるのです。この場合、回りの環境の変化と整合出来る新しい安定した構造は一般に複数個あります。そして、そのうちのどの安定した構造に落ち着くかは、始めの変化の原因が熱雑音や、突然変異などの全くの確率的なものに在るので、前もっては全く分かりません。別な言い方をすると、そのようにして出来た構造には、前もってシナリオも目的も、また、それを創ろうとする意思もあったわけではなく、全くの偶然で決まってしまうのです。ところが、このようにして出来た構造は、周りとの偶然による成り行きで収まるところに収まって出てきた安定状態なのですから、周りの状況に大きな変化がない限り、その新しい構造を壊そうとする偶然な出来事に大変な抵抗力が在ります。その点は、人間がある目的で作った機械よりも遥かに破壊の要因に対して抵抗力が在ります。実際、目的を持って人間が作った機械は複雑になれば複雑になるほど、例えば精巧な機械仕掛けの時計や、コンンピュター等のように、その回路内に一寸したごみが入ってしまうと一変で動かなくなりますね。ところが、私たちの体は複雑になれば複雑になるほど、たとえ怪我をしようが、ばい菌というごみが入ろうがそれですぐに死んでしまうわけではなく、それどころかそれを自発的に直す機能が備わっていますね。私たちの体は如何にも散逸構造の特徴を持っているようですね。 このように、散逸構造が出来上がってくるためには、それを創ろうとする創造者がいないこと、全くの偶然が在るためにどんな構造が出てくるか誰にもわからないことがじゅうようであり、さらに、その新しい構造が出てくるためには必ず外界と内部の相互作用によって「不安定」な状態を経なくてはならないのです。例えば人間は大人になるために誰でも思春期の反抗期という不安定期を経験します。これを散逸構造の理論から説明すると次のようになります:子供が今まで繰り返してきた経験と、体および頭の生理学な成長が、子供の内部状態をそれ以前の状態とは全く違ったものにしてしまい、たとへ周りの環境が同じであっても、最早前の安定状態に留まっていることができなくなる。すなわち不安定状態になります。そこで、前には無視できた一寸した偶然による環境や心の変化にも敏感に反応してしまいます。さらに非線形効果によるグルグル回る効果で、その変化が急激に増幅されてしまいます。その結果今までになかった全く新しい、ある「個性」を持った大人と言うもう一つの安定状態ができる。その大人に向かって行く過渡的な状態が反抗期である、と説明されます。人はそれぞれ将来何になるかを前もって与えられているわけではなく、ただ単にいろいろな者になれる可能性という確率的なものが与えられている、そしてその内のどれか一つが、例えば人と人との偶然な遭遇とか、ある偶然の出来事によって実現されて行く。それによって、この世には二つとない個性を人は手に入れて行くというのが、散逸構造の理論から出てくる帰結です。未来はまだ与えられているのではなく、未来とは、我々と環境との非平衡非線形な相互作用で偶然を契機として我々が造り上げてくるものだということも出来ます。 反抗期の例ばりでなく、人類の歴史を見ると社会の変化が戦争や経済的混乱や革命と言う不安定期を過ぎないことには何故実現出来なかったかと言うことも、散逸構造の理論は大事なヒントを与えてくれています。 また、上の(2)の条件によると、生命という超複雑な構造がこの地球上に自発的に現れるためには、地球が熱平衡状態から十分はずれた非平衡状態になくてはならないのですが、それを保証してるのが太陽からの熱の流れであり、何時も太陽に面した側が熱せられその反対側が冷やされているので地球は熱平衡状態に成れないことが、生命の自発的な出現を許したのであろうと、多くの科学者達が主張するようになってきています。 過去の歴史を見ても、何故重要な発明や知的進歩が圧倒的に農村部ではなく、都会で起こったのかも、都会に存在する不安定性によって説明できます。現在は西洋文明に席巻されておりますが、西洋が小国に別れて不安定になっいたために、生き残りるためいろいろな新しい構造が自発的に出来上がらざるを得なかったことが、彼等の生産性を保証してくれたと理解できます。 このように、人類の科学はダーウインの唱えた進化論の物理的な根拠を論じるまでになっており、それを生物系のみでなく、この世に起こるいろいろな複雑な現象に応用されて、華々しい成果を上げています。その新しい科学の進歩も徹底的に勉強して、この散逸構造の理論のどこに欠陥が在るのかを指摘できるようになると、あなた方の主張が強固な岩盤に経ち、皆が説得されるようになると思います。

hikaru0705
質問者

補足

 あなたのいう散逸構造というものは始めて知りました。まだその事に関して調べたり熟考したことはないのでここではその考えの矛盾点の指摘はしません。  しかし、あなたの書いている事柄の中で一つ気になるところがありました。それは人間が偶然の産物であるかのような書き方をしているところです。  人間の体は知れば知るほどよく出来ています。イスラエルの王ダビデも『私の体はくすしく作られている』と言っています。これが偶然の産物と考えるのは私は無理があるように思えます。  例えば私たちの体の一つの器官に目がありますね。目が進化の偶然によって作られた器官なのでしょうか。目はその機能は目だけに依存しているのではありません。眼球はもとより神経系、脳など様々な器官にその機能を依存しています。これらの器官が同時並行的に計ったように進化したのでしょうか?私はそれよりも神が意図的に目にそのような機能が備わるように様々な器官を設計されたと考える方が道理に合っているように思えます。  これは私が神を知るきっかけにもなった事柄ですが、自然をつぶさに観察したとき、その美しさ、またその精密さなどからこれは偶然に出来たのではない。神の所産によるものだと感じたものです。

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.12

A No.11です。 文章を視野に入れた経験はあるということなので 前提である進化論の論説をすっ飛ばして 聖書と進化論を習合させる方法論だけを書きます。 繰り返しですが、進化論は生物の変化を説いただけに過ぎません。 一方、聖書は「その種として生きよ」と説きます。 そもそもこれは矛盾するのでしょうか? 種として生きる人間の子は、基本的には人間であると考えられます。 およそ人の形を持って生まれています。 とはいえ例外があります。原因のあるなしに関わらず、 人間の形を多少失った子供が生まれることがあります。 生まれつき腕を失っている子もいます。頭蓋が膨れ、寿命の短い子もいます。 色素を失い、日に当たれない子もいます。 彼らは人間ですか?私は人間であると考えています。 「あなたのキリスト教」ではどうでしょうか? 彼らを神の言う形と異なる、彼らは種としての姿を保っていない 別の生き物だと切り捨てるならば、おそらくそれは業病を認めない、 まったく正しいキリスト教なのでしょうね。 残念ながら、私はそういう正しいキリスト教徒の皆さんに 通じる言葉を持ちません。ごめんなさい。 あなたのキリスト教徒が、そういう変質をもし許容するなら それは進化論となんら矛盾しないことを意味します。 つまり、種としての枠をどこに設定するかという 問題に過ぎないのではないですか? 腕の無い人間。尻尾のちょっと生えた人間。尻尾の生えた体毛の濃い人間。 これらも人間の枠に入れていいですよね? 木登りの上手い人間。言葉を持たない人間。親のノミ取りをしている人間。 これらも人間の枠に入れていいですよね? 変化を内包するのが種なのではないでしょうか。 ここでやはり、一連の進化論を"読まれる"ことをお勧めします。 特定の起源までは遡っていますが それ以上に種としてのカテゴリーが重視されていますよね。 我々は動物界脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱霊長目真猿亜目狭鼻下目ヒト上科ヒト科ヒト属 とカテゴライズされていますが、 神が種を保てと命じたのは霊長目より左の項目であるとは 考えられませんか? もし、少しの変化も許容しない、というのであれば、私とあなたの、 その違いも説明する必要があります。つまり、ここまでは人間。ここまでは猿。 という枠組みを決める必要がありますよね。 神ならぬ我々にどうしてそれができるのでしょうか。もしできるなら、人間の定義を 決めてください。私はおそらく、その特徴に合う動物か、特徴に合わない人間を 見つけることができると思います。それほど世界は変化に溢れているのですから。

hikaru0705
質問者

補足

確かにあなたの言うように生物界には様々な理由で突然変異をした変種のような生物が生まれてくることがあります。手が無かったり指が一本多かったりその様態も様々です。しかし、ここで注意しておかなくてはならないのはそのような変種は病的なものであり、環境の変化に適応した有用な進化と呼べるようなものではないのです。またそれらの生物は様態は異なりますがもとの生物類する範疇に収まっているものです。まったく違った生物にはなりえません。  また私はそのような人達を切り捨てたりするつもりは毛頭ありません。たまたま様態が普通の人と違ってこの世に生をざずかった人達でしょうが、その人達にも人として生きていく権利があると思っています。  しかし、それらは第一パラグラフでも述べたとおり進化とは相容れないものです。  あなたのいう腕のない人間、毛深い人間、木登りのうまい人間は個体差に相当するものです。進化論が唱えるまったく違った生物に変容することとはまったくちがいます。  私は生物学上の分類がどれほど重要かは分かりませんが、わたしの言っている種は遺伝子レベルでの同じ染色体数の種類、そして交配可能な種同士を同じ種として言っています。  人間とは何かという定義ですが、ここでは問題の性質上、生物学的見地から考えた人を定義したいと思います。簡単に言えば染色体の数が46の種が人間だと思っています。これとまったく同じ染色体数の人間以外の生物、または46個以外の染色体を持つ人間の事例があったら是非教えてもらいたい。

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.11

念のため、私は無神論者です。関係ないですがお金が大好きです。 ですが聖書も進化論(種の起源)もお金を出して両方読んでいます。 関連書籍を含めればいくら払ったか考えたくもありません。 (まったく、宗教というのはかくも素晴らしい商売なわけです。) まず外側から知ることの出来るキリスト教からの進化論の解釈。 宗派が多すぎて特定できません。終わり。 ・・・では酷いので、一応有名どころであろうバチカンの解釈です。 先代の法王ヨハネ・パウロ2世は進化論を認める発言をしていましたが、 現在の第265代ベネディクト16世は 「(キリスト教を介在させなくても)学説として不完全」であるとして 否定的です。このようにキリスト教内部でも統一できていないようですね。 ただ、来年は「種の起源」発表150年目で節目の年であるとして 神学者を集めて会議をやるそうです。 じゃあなんで先代の法王が認める発言をしていたのか?というと おそらく先代は過去のキリスト教徒とは違って、進化論を読んだんじゃないでしょうか。 彼は宗教対話を実現した法王であり他人の宗教を受け入れるだけの度量があったと 一般的に言われています。十字軍の謝罪や、ガリレオ・ガリレイの名誉回復など およそそれまでの法王では考えられないようなことを実現しました。 まったくイケてるじーさんであり、この意味でも「空飛ぶ聖座」であったと思います。 過去のキリスト教徒による進化論否定に関しては、明らかに 進化論に反するものもありました。ですが、今は法王すら進化論を読む時代です。 おそらくキリスト教徒であっても、"変わること"自体は否定しないのでしょう。 そして「進化論」とは「変化によってもたらされる多様性」を説いた学説です。 つまり進化論における進化という概念は、単に結果論からの推察であって 生物は自発的に優れた存在に変わるという主張ですらありません。 (ちなみに種の起源では「進化(evolution)」という言葉すら使っていません) じゃあ何を言っているのか?進化論という論理は極論すれば 「まず変化があって、その後の環境の変化によりたまたまその生物が生き残った」 ということを主張しています。生き残った存在が最初から優れていたわけではありません。 もし別の環境になっていれば、その生物は優れた存在どころか死滅していたでしょう。 単に生物は変化によって生き残る可能性を残した、という言い方の問題です。 この論理を「自然淘汰(自然選択)」といいます。 ここから、生物は共通の祖先を持ち得るという結論に達したのです。 つまり、我々の先祖が猿、という表現は全く正しくありません。 我々と猿の祖先が共通であったという主張こそが進化論です。 我々はお猿さんを先祖として崇める必要は無く、我々とお猿さんは単に進化の過程の 対等な可能性の一つに過ぎません。 おそらく今の環境においてはお猿さんより人間が優れていることは事実ですが、 これからもそうであるとは限りません。毛皮を持つお猿さんは寒さに強く 尻尾のあるお猿さんは世界が熱帯雨林化したら有利である可能性もあるのです。 これが可能性を残すということです。 (とはいえ、聖書に神は自分に似せて人間を造った~のくだりがあるので 当のイギリスですら「神は猿顔だったのかい?」というジョークもあるのですが) ちなみに、一般的に何故、弱肉強食の代名詞に使われているかというと 進化論当時はいわゆる帝国主義時代であり、他国を侵略することに対して 論理的な正当性が欲しかったため、なんて分析があります。 聖書にしろ進化論にしろ、あるいはもっと身近に日本の憲法や法律にしろ その時々の主張した人に都合のいい解釈によって社会は運営されています。 他人の解釈を聞くことも大事ですが、まず相反している主張があったら 両方を読み比べて見た方が確実であると思いますよ。 実は同じことを言っていることに気づくこともあるかもしれません。 そして、少なくとも聖書だけを読んでいたら、聖書の側からしか解釈できません。 それはキリスト教の寛容に反するのではないですか?法王はもうやっていますよ。

hikaru0705
質問者

補足

一応言っておきますが私は聖書も進化論説(種の起源、キリンの首、地球における生命の起源)など様々な文献を読んだ上での質問です。 ローマ法王が、声高らかに取り上げられていますが。彼の主観ではなく問題は聖書がどのような見方をとっているかです。どんな立場であろうと一個人の個人的見解が問題なのでなく、神の言葉である聖書にどう書いてあるか。それが私にとって重要なのです。そして聖書にはこう書いてあります。創世記1章24節を開きますと、神は『地は生きた魂をその種類にしたがい、家畜と動く生き物と地の野獣をその種類によって出すように』。これは進化を否定する言葉です。ローマ法王が進化論を容認したなら、彼はこの箇所を本当に読んでいるのか疑いたくなります。 粋かどうかの問題ではありません。聖書の正しい解釈に関わる重要問題です。立場におぼれることなく誠実に聖書を読んで欲しいものです。

noname#194289
noname#194289
回答No.10

kaitara1ですが、一つのたとえをすることをお許し願います。今ここに一枚の素晴らしい絵があったとします。ある人はこれは素晴らしい絵だと言って賞賛したり、憧憬したりして満足しています。しかし別の人はどうやったらこういう絵が描けるだろうとか使ってある絵の具はどういうものだろうとか詮索したりします。どちらの場合もあると思いますが互いに両立しないものでもなさそうです。むしろ両方があい補うこともありそうです。また一人の人がこの絵は素晴らしいと思ってどうやったらこの絵のような素晴らしい絵が描けるだろうとあれこれやってみることもよくあることです。創造説を信奉する人が遺伝子による進化を研究してもおかしくないのではないでしょうか。つまりどちらを信じますかという設問はある場合には成り立たないこともあるのではないかということです。つまりかみ合わないというのは互いに相補的であるからかもしれません。

hikaru0705
質問者

補足

実は私もkaitara1さんのうに考えた事があります。神が創造した生物が進化という過程を通して様々な生物が生まれたのではないか。しかし聖書の中にこのように書かれているのです。神は『地は生きた魂をその種類にしたがい、家畜と動く生き物と地の野獣をその種類によって出すように』。これは種の保存を明確に言っている言葉です。やはり神の言葉と進化論は相反する事柄なのです。

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