解決済みの質問
その意義が飲み込めません。おしえてください。
ヰキぺディアの記事は まだ 書きかけのようですが そこに記された次の二点が 一般にも 取り上げられているものでしょうか。
▲ (ユダの福音書) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%81%AE%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8
(1) イエスを裏切ったイスカリオテのユダが 実は イエス・キリストの弟子の中の誰よりも真理を授かっており、
(2) 「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものであるという。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ですが (1)の事項は もし
( a )《誰よりも賢い》ことであるなら
● (コリント前書1:20) 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
☆ ですから 特別のことではないでしょう。もし
( b )《神の霊に満たされていた》のであるなら あとで ほかの弟子たちも そうなったのですから これもまた 特別のことではないでしょう。
次に(2)の事項についてですが
( c )《裏切り》行為じたいは あまり 問題になりません。弟子たちも残らず皆が 裏切りましたから。あとに残った事項としては
( d )《「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものである》というものです。けれども この事項も たとえば
▲ (ヰキぺディア:イスカリオテのユダ) ~~~~~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%86%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%80#cite_ref-11
スイスの神学者のカール・バルトは、ユダは、イエスを十字架に架け〔* そのはりつけの刑による死を通じて かれイエスを 救世主なる神=〕キリストにする重要な役割を果たした人物であり、「神の使わした者」と考えた。この考えは突飛なものではない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ と知られます。そのことを 『ユダの福音書』は 発見が遅れたとは言え 歴史的に先に指摘したので 注目に値するということなのでしょうか。
けれども 『ヨハネ福音』(13:26-27)にも すでに あの最後の晩餐において そのたぐいの事柄は 指摘されているようなのです。その席で ユダは イエスから
▲ 「しようとしていること(* つまり 裏切り行為)を、今すぐ、しなさい」
☆ と言われていますから。
よく分かりません。ご自身のご見解でもよいですから おしえてください。ヒントが得られることがあります。
投稿日時 - 2008-12-05 14:27:22
追伸:核心をついてきましたね。まず、「そのように私は聞いています。」
イエスの行動を客観的に見るといくつかの矛盾が見えるでしょう。それは「普遍的な隣人愛」を説きながら「ユダヤ教の予言に従う一面も出している点です。「▲ (ヨハネ福音16:7)」などは「ユダヤ教の予言に従う一面」ですね。イエスは「普遍的な愛」を世界に広める救世主たらんとしたのか、ユダヤというローカルの救世主たらんとしたかということが問われているのです。教えの全体を見るとユダヤのローカル救世主から抜け切れなかったと見るのですね。実際もユダヤの王として処刑されています。ユダヤのローカル救世主が世界宗教になった理由は「普遍的な隣人愛」の教えゆえですね。でも教義にユダヤのローカル思想が含まれている点が悩ましいことなんですね。このローカルの教えが多くの人々に迷いをもたらしているわけです。
ここまでお話しますと、ユダの迷いの原因がイエスご本人にあったものだと考えることができますね。言い換えればユダヤのローカル宗教に縛り付けておこうという力(ユダヤの祟り神)と世界宗教にしようとする力(愛の神=我が父)の両方が働いていたということなのです。イエス様も長生きしていればもっとすっきりしていたと思います。3年は短かすぎますね。
☆ というのであるなら、ユダがイエスを売ったとしても、それは予定の行動であった。ならば、このユダにしてもパウロと同じようにキリスト者として起ち上がって生きたとしてもおかしくないと思えるのですよね。
そのように考えられますね。でもユダはパウロと違って罪の重さに耐え切れるような人物ではなかったということでしょう。パウロは救世主を屠る側に立ち弟子まで石打で殺してます。それでもその罪を背負って信仰に生きました。強くて立派なかたですね。後の親鸞が極重悪人といっているのはパウロであった自身なのですね。救世主やその弟子を屠った極重悪人の自分でも救われるのだからといいたかったんでしょう。宗教的な者の中にはこのようなお方もいるということですね。ちなみにイエスはとうの昔にユダを許していますがユダは2000年後の今日に至るまで地獄(煉獄ですか)にいるようです。自身の過ちが許せないんでしょうね。
更に:弟子の仕事に着目してください。 イエスのような大救世主が世に出る時はその舞台を成功させるために多くの取り巻きが同時に出るのです。縁ある弟子ですね。弟子の仕事は師を守って師により多くの法を説いてもらうのが仕事です。たとえ師が迷っても身を挺して守るのが弟子の務めですね。ペテロよユダよおまえは・・といわれても動じずに守るべきだったという考えもあるのですね。イエスの愛の教えには差別が一切無いのですね、たとえ娼婦・悪人・殺人者であってもです。
「それ故舞台劇には裏切り者も予定されていたのかもしれません。ユダも自殺せずにパウロのように罪を背負って信仰者として生き抜けばまた別の道が開けたと私も思いたいですね。もしそのようであったならユダの福音書にも大いなる福音があったでしょうね。」これは私個人の感想です。
投稿日時 - 2008-12-06 09:18:51
補足
mmkyさん なるほど 解けましたね。この場合は――つまり ユダの場合は パウロとちがって―― 結果がすべてだということですね。
まづは ご回答をありがとうございます。
★ ちなみにイエスはとうの昔にユダを許していますがユダは2000年後の今日に至るまで地獄(煉獄ですか)にいるようです。自身の過ちが許せないんでしょうね。
☆ という見方も おもしろいですね。そして そういう見方でしたら わたしが ふと思った見方 つまり
☆☆ ユダは あまりにも 自分の内面にとどまり 閉じこもったかたちで 考えをめぐらしていたし その自分の考えをイエスに問おうとしなかった。思いこみで 行動を起こしてしまった。
☆ という中身に 通じているところも出てくるように思えます。神がゆるすと言っているのに 自分は ゆるされたくないと言い張っているように見えますから。
★ 後の親鸞が極重悪人といっているのはパウロであった自身なのですね。
☆ この観点も 何人かの人が 触れていると思います。わたしも みづからの見解として 触れるべきかなと思ったりしたことがありましたが 表現としては これまでには 出て来ませんでした。夢の中の議論であるように 思われるからです。さらにいろんな見方が出されていくでしょう。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここまでお話しますと、ユダの迷いの原因がイエスご本人にあったものだと考えることができますね。言い換えればユダヤのローカル宗教に縛り付けておこうという力(ユダヤの祟り神)と世界宗教にしようとする力(愛の神=我が父)の両方が働いていたということなのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そうなんですけれど つまり わたくしも そういう視点で ものを言うことも 説明の一環であると思うんですけれど これも まだこれまでに 表現となって 出て来ません。端的に また批判するようになるかも知れませんが 正直に 言えば そのように明確に言ってしまうと なおまだ 人間の憶測を抜け切れていない状態が あらわになるのではないか こうおそれられるからです。
これも いろんな見方が出されて 練られていくことでしょうね。あるいは ただ単に わたしの今の状態が 浅くて 分からないだけなのかも知れません。
ありがとうございました。一件落着のようですね。むろん 書きましたように つねに 問い求めていくのですし 表現やそれの感受の仕方が 或る程度は 歴史とともに 変わっていくかとも思いますから つねに こころを開いていたいと思います。mmkyさん 今後とも よろしくお願いいたします。
* 次にも新しいご回答をいただいております。学術的な観点なり いろんなご見解を摂取していきたいとも思います。
投稿日時 - 2008-12-06 10:50:42
9人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています
ベストアンサー以外の回答(19件中 16~19件目)
brageloneさんにしては不思議なと言いますか、いつもと違う質問のように思えます。(相変らずヘソマガリで申し訳ありません。)
brageloneさんならもう既にワルター・イェンスの「ユダの弁護人」には眼を通していらっしゃると思いますが、そこから派生した質問なのでしょうか?結論はお持ちで試されているような気分です。
私は個人的にこの「ユダの弁護人」に同調します。
1)一番学識があり、読み書き・そろばんの出来たイスカリオテ(またはケリオト)のユダが一番信頼されていた。一番の理解者であり、鶏が鳴く前に三度知らないと答える弟子たちの中にあり、イエスの考え、思想の理解者であったから。
2)従って最後の晩餐でイエスに言われた事を直ちに理解し、実行できた人物は他にはいないはず。天国の鍵をお前に預けようと言われた弟子、一番愛されていたと言う弟子も無学文盲なら誰を信じますかね~
別典ではマグダラのマリアは一番愛された弟子とされたり、妻とされたり、子供を連れて逃れたとか言われていますが、正典では娼婦ですね。(年一回の神殿娼婦であったとしても。)
ただ、不思議なのは何故罪人を墓に入れることが出来たか。恐らくマグダラのマリアはサドカイ派・サンヘドリンに顔のきくそちら系統の女性かなと思ってしまいます。もちろん正典ではアリマタヤのヨセフがやったことになっていますが・・・
3)この時代の時間感覚はかなり違っているので、イスカリオテのユダが木にぶら下がって縊死したのがいつかは判然としないと思います。アブラハムをお爺さんとしているくらいですから。ユダの福音書を書き終えてからということもありえないことではないと思います。
4)ヴァチカンはイスカリオテのユダを福者にはしないでしょうね。
投稿日時 - 2008-12-06 19:32:53
補足
1000827313さん お久しぶりです。お元気そうですね。見ていてくださったのですか。まづは ご回答をありがとうございます。
ユダ には 関心が行かなかったですね。単純に 伝えとしてでしょうが 自殺をしたということを わたしは嫌った結果だと思います。理論でも何でもないのですが。
★ ワルター・イェンスの「ユダの弁護人」
☆ については 次のサイトでの解説をいま読みました。
▲ 《説 教 ユダとは何者か》
http://www.nishinasuno-church.or.jp/2007.2.11.htm
☆ そうしますと 1000827313さんのご解釈では
○ ユダは みづからの手で みづからの理解による《イエスに関する良き知らせ》を書いた。その仕事を果たしたのち 自死を選んだ。
☆ ということでしょうか。以下は 疑問・質問です。
(1) イエスについて 文章に遺した。そして パウロのようには 宣教をおこなうつもりはなかった。ということでしょうか。
(2) イエスが 自分を祭司長らに 売り渡す役を ユダに託した。これを受けただけではなく ユダは したがって その意味について その後の磔刑によるイエスの死までも 分かっていたということでしょうか。
(3) ちなみに――小さいことですが―― イエスは 公の場ですでに顔を知られていたと思われるので ユダが手引きする必要はなかったようにも思うのですが。
(4) (1)に戻って パウロらの宣教した《信仰による義認》の理論は ユダは 認めていなかったという意味でしょうか。グノーシス派一般の教義として 単純に そのように 推理しただけですが。もしそうだとすれば 明らかに クリスチアニスムが 大きく 二つに分かれますね。ただし グノーシス派は わたしには 信仰ではないと思われ 質も違うとは考えます。大枠として No.4のnacam さんのご見解に通じます。
(5) そもそも 問題と核心は 《去らなければ 聖霊は 来ない》(ヨハネ福音16:7)にあると考えます。その意味は イエスが去る前つまり生前には 誰ひとりとして 人は イエスの意味が分からなかったということです。聖霊を受けてこそ初めて イエスの指し示した神を 息吹きとして 受け取った(つまり 信じた)ということだと考えます。
(5-1) 十字架上の死および復活の 以前と以後とでは 世界が変わり 人はあたかも裏と表・頭と足を逆転せしめられて 自己を自覚したというようなことではないでしょうか。――このとき ユダもペテロもパウロも ないのだと考えます。
(5-2) その意味では 以前と以後それぞれの情況において 人は 互いに みな対等・平等なのだと考えます。誰が どうで かれが こうだということは キリスト者にとって そして しかも それだけではなく あらゆる人にとって 信仰ないし存在論においては 差異がない こう受け取っています。
(5-3) この結論でしたら 前々から持っています。
(6) 早い話が ペテロを初めとする弟子たちは 初めから イエスの復活のあと かれらの信仰も復活するというふうに 分かっていた。そういう人たちを選んだ。
(7) そうすると ユダは どうして その仲間に入らなかったか。仮りに生きていたとするなら パウロのように 仲間らの外側から そのエルサレム教会と交渉しようという考えは起こらなかったか。――だとすれば この場合 結果がすべてだと考えられて来ます。
(8) だとすれば この《ユダの福音書》の中身が いわば勝負を決することになるかも知れません。けれども それが わたしから見て パッとしないんですよね。どうしたもんでしょう。
このように考えております。よろしかったら 突っこみどころは 全部 突っこんでください。
* 福者・聖人は 教会が認定するのも 好し悪しであるように思います。と言いますか 信仰の度合いの問題だとすれば それは そもそも――人が人を裁くかのようですから―― 無理ではないでしょうか。
* 《イエスの思想の理解者》であることと ふつうのキリスト者であることとは 共通の部分もあれば 重ならない部分もあるように思います。後者が 主であり 前者は 従だと捉えます。愛が信仰をとおして はたらくと受け取るからです。
投稿日時 - 2008-12-06 21:20:25
キリスト教について、歴史学的に調べてみますと、疑問は解けます。
神学的に解釈しようとしますと、色々な問題が出てきます。
そもそもキリストは、新しい宗教を開いたという意識は無かった事でしょう。
キリストの示したユダヤ教の改革運動は、その後2つの方向に分裂します。
ギリシャ世界に広がった、現在のスタイルのキリスト教と、ヘレニズム社会に広がったグノーシス派とです。
ギリシャ世界に広がったキリスト教では、実質的な開祖はペテロになります。
ユダヤ社会で受け入れられなかったキリスト教は、普遍性を加味する事で、アンティオキアのギリシャ人達に受け入れられるのです。
これにより、普遍の愛をうたう現在につながるキリスト教が成立します。
一方グノーシス派は、ペルシャのゾロアスター教、ギリシャのオルフェウス教などの影響を受けつつ変質してゆきます。
その中心がヘレニズム社会の中心であるアレキサンドリアです。
ユダの福音書、トマス福音書などグノーシス派の考え方をとる福音書は、このアレキサンドリアが中心となっています。
これらのグノーシス的文書は、キリスト教の聖書が編纂されるとき、為典として聖書から排除される事になります。
グノーシス的文書を、聖書に元髄手判断しようとしますと、つじつまの合わない事が多数みつかります。
そもそも考え方の対立していた文章を、片側の聖典で解釈しようとする事にムリがあるのでて。
キリスト教において、為典とされているものは、ユダの福音書以外に、エジプト人の福音書、12使徒福音書、バシリデス福音書、トマス福音書、マッテヤ福音書、(ヘブライ人福音書)、(パウロ行伝)、ペテロ福音書、ヨハネ行伝、などがあります。( )は、為典とする説と外典とする説があります。
これらは、グノーシス的文書になります。
投稿日時 - 2008-12-06 10:05:39
お礼
nacamさん ご回答をありがとうございます。
ううーん。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
グノーシス的文書を、聖書にもとづいて判断しようとしますと、つじつまの合わない事が多数みつかります。
そもそも考え方の対立していた文章を、片側の聖典で解釈しようとする事にムリがあるのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ううーん。そうなんでしょうけれど おっしゃるとおりのことが基本なんでしょうけれど いまは 焦点をしぼっております。つまり 質問趣旨に説明しましたように 論点が(1)(2)と二つあり ここでは ( a )から( d )までの四つに分けて 分析しようとしています。
これら四点のいづれも おおむね 共観福音書などと同じ内容を言っているか あるいは 示唆していると見られます。その内容の分析と言いますか 判定と言いますか それは また 別になりますが ともかく 一般に ユダの福音書が 共観福音書とは別の重要なことがらを伝えているという触れ込みで 引き合いに出されるものですから 一度 問うておきたかったのです。
★ グノーシス的文書
☆ は ともかく ペテロやパウロの伝えたクリスチアニスムとは 基本的に 別ものであると 前提しなければならない。こういうご見解でしょうか。もしそうならば しばらく前の 発見と読解にかんする騒々しい宣伝は 現在の聖書に及ぼす影響としては まやかしであったということになるでしょうか。
どうなのでしょうねぇ。
( d )の事項 つまり イエスが自身のはからいとして ユダに裏切りをさせたという事柄は けっこう 引き合いに出されることがあるように感じていますが したがって そのことの ひとつの結論を 一定のかたちで 明らかに出来ないものかと思ったりしますが どうですかねぇ。
投稿日時 - 2008-12-06 11:10:45
参考まで
★ 同時に間違いに気づいた。
☆ この点が よく分かりません。
「信仰者が信じるものを裏切ったという深い深い罪意識なんです。私のあさはかな智恵で救世主を裏切ってしまった。殺してしまったということですね。更にいえば、救世主と信じたものをアサ智恵で試し裏切ってみて初めて救世主であったことを深く確信したということでしょうね。」説明が難しいんですが、パウロの罪意識と同じと思います。ダマスコに向かう途中に「サウロよサウロよ何故おまえは私を傷つけるのか」とイエスに言われるのですが、サウロ(後のパウロ)はそれまでイエスを救世主とは思っていなかったんですね。ところがこのとき初めてイエスが救世主であったことに気がつくのです。普通なら「ああそうだったのか」ぐらいですね。でも違うんですね。パウロも救世主の降臨を信じる一人であったのですね。本来なら真っ先にイエスの弟子になるべき人物であった故に、その失敗、あまつさえ十字架にかけた側にいたという罪はいかほどかということなんですが、心の問題ですね。これ親鸞も同じですよ。親鸞の罪意識はパウロの時代のものですからね。だから「悪人正機説」は理解不能なんですね。
* 『ユダの福音書』が それほど 重要な内容を持つとは見ておられない。こう受け取ってよろしいでしょうか?
その通りです。「私は知りえたことをありのまま言ってるだけです。brageloneさんのような立派な方には真実を語るしかないでしょう。」
○ イエスの目的をきちんとイエスに問い質しておくべきだった。
これはないですね。なぜなら聞いてもイエス様も答えなかったでしょうから。この答えが後半のイエスにも迷いがあったということなんです。
弟子に「なすことをなせ」といってみたり、「鶏が3度なくあいだに知らないという」など宗教家としても尋常ではないですね。イエスにも迷いがあった、故に弟子も迷ったということなんです。そのように聞いてます。「如是我聞」
投稿日時 - 2008-12-05 21:58:19
お礼
mmkyさん ご回答をありがとうございます。わたしには過ぎたお言葉をいただき ありがとうございます。精進してまいります。お互い あかるい質疑応答を目指してまいりましょう。
★ 信仰者が信じるものを裏切ったという深い深い罪意識
☆ なるほど。たぶん パウロも そして この見方の限りで ユダも まだ 《信仰者》として現われていなかったか または おのれの《信仰》の内容に あいまいな点を残していたその時点での《裏切り》なのでしょう。その点 なるほどと捉えました。ありがとうございます。
そのあとで 疑問が生じます。それは それなら
○ パウロは 伝えとしてながら 《私にとって、生きるとはキリストを生きることであり 死ぬことは有益なのです》(ピリピ1:21) と言うまでに 信仰に生きたが では ユダは なぜ そのような生がゆるされなかったか。
☆ この一点が 残りました。
ユダの問題にかかわる限りで この種の補足要求もだいじょうぶでしょうか。
イエスは 言います。
▲ (ヨハネ福音16:7) ~~~~~~~~~~~~~~
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ というのであるなら ユダが イエスを売ったとしても それは 予定の行動であった。ならば このユダにしても パウロと同じように キリスト者として 起ち上がって生きたとしても おかしくないと思えるのですよね。
投稿日時 - 2008-12-05 22:24:15
brageloneさんへ、「よく分かりません」ということなので信じるかどうかは自由ですが私がイエスの父(愛の神)から聞いた話に基づいた話をしましょう。
ユダはイエスが十字架にかけられたのを知るとその足で、柿の木で首をつって自殺してます。☆だからユダの福音書は本来あるはずがないですね。★また、イエスを売るのが与えられた使命ならすぐ自殺するわけないですね。
▲ ユダは弟子の中でも一番学識もあり、真理の理解も早かったのですが、イエスが一番かわいがったのはマクダリアのマリアだったのですね。ユダはマクダリアのマリアに嫉妬したわけですね。そこに、魔が入っていたんですね。マクダリアのマリアは娼婦だったので、そんなところも厳格なユダには許容できなかったのでしょうね。ユダはイエスをわすかな金で売りましたが、単に売ったんじゃないんですね。ユダはイエスを救世主と知った上で主人を試したかったんですね。「なすべきことをなせ」というのをそのように解釈したんでしょうね。ユダヤの救世主はモーゼのように奇跡の力でローマ軍など蹴り飛ばすとユダは信じてたんでしょうね。ところがあっさり処刑されたんで、目論見がはずれると同時に間違いに気づいたので自殺したんでしょうね。優秀であったが故に愚かな弟子になるという複雑で哀れな話ですね。
ただ、ユダだけを責めるのはかわいそうですね。当時の複雑な様相を理解するにはイエス自身にも迷いがあったと考えるのが妥当ですね。ユダヤの予言通り処刑になるか、長生きして法を広めるかに迷いがありますね。ここにはイエスが我が父といったのが誰かにかかわる問題があるのですね。つまり、ユダヤの祟り神と普遍的な愛の神が見え隠れしてますね。歴史は祟り神によってユダヤの予言どおり処刑になり、普遍的な愛の神によるイエスの霊的復活といっそう複雑系になったわけです。こんなのをわずかな文献から教学的に理解しようとしても無理でしょうね。
「議論にもならない話ですけどあの事件の真実に近いかな」
投稿日時 - 2008-12-05 18:08:40
お礼
mmkyさん ご回答をありがとうございます。
mmkyさんは 正直に申して ときどき 飛躍しすぎてしまわれます。むろん 《確信犯》でして 文章の全体として その真実をくみ取れという姿勢を保っておられます。
いくつか――従いまして―― 食い違うところもあるのですが 話をしやすいようにと 次の一点について さらにお尋ねするかたちを考えました。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・ユダヤの救世主はモーゼのように奇跡の力でローマ軍など蹴り飛ばすとユダは信じてたんでしょうね。ところがあっさり処刑されたんで、目論見がはずれると同時に間違いに気づいたので自殺したんでしょうね。優秀であったが故に愚かな弟子になるという複雑で哀れな話ですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ わたしも ユダの考えていたところは イエスが 何らかのかたちで ユダヤの王になるというような将来像ではないかと考えます。そして わたしは 自殺という伝えについては あまり 信用していないと言いますか どうであってもよい・特に重要なことではないであろうと踏んでいるのですが それは ともかく その後
★ 目論見がはずれると同時に間違いに気づいた
☆ ここです。《目論見がはずれた》と見る点を共有しますが
★ 同時に間違いに気づいた
☆ この点が よく分かりません。ひとつ考えているのは
○ イエスの目的を きちんとイエスに 問い質しておくべきだった。自分だけで 考えて そのこと(ユダヤの王になるということ)を 自分の内に閉じこもって 思いこんでしまっていた。そのことが 悔しい。
☆ といった内容です。
★ 気づいた間違いの内容
☆ について よかったら おしえていただきたいのですが?
* 『ユダの福音書』が それほど 重要な内容を持つとは見ておられない。こう受け取ってよろしいでしょうか?
投稿日時 - 2008-12-05 20:38:56