解決済みの質問
「ぶちきらる」と受身になっている点に注目すべきです。
「鮟鱇の」の「の」は主格(主語を表す=鮟鱇「が」)です。切られるものが鮟鱇であることを示しています。
下手な例ですが、「鮟鱇の骨まで凍てしをぶち切りぬ」というような「鮟鱇を切った」という言い方ではありません。
極言すれば、調理をする側でなくて切られる鮟鱇の側に立った句です。
俳句では小説などと違って、作品の鑑賞には作品以外のものは必要ない、という立場は貫きにくいですから、他の回答者のお答えにあった、作者が病身であったことを加味して鑑賞するならば、理解の方向は定まってくると存じます。
投稿日時 - 2008-11-14 15:03:26
お礼
いろいろと、立場を考えても解釈の違いがでてくるんですね。
ありがとうございました。
投稿日時 - 2008-11-15 14:17:04
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ベストアンサー以外の回答(5件中 1~5件目)
鮟鱇とくれば鮟鱇鍋。
いまは鮟鱇の骨まで凍てるかと思える酷寒ですが、
やがては、そのぶちきられた身が、
ぐつぐつ煮える鍋に放り込まれ、
湯気の立つ鍋を取り囲んで、
顔をほころばせながら、
温まった鮟鱇に舌鼓を打つのでしょう。
「骨」「凍てる」「ぶちきらる」という硬質の言葉で、
それとは正反対の場面を髣髴とさせるところに、
この句の妙味があるのではないでしょうか。
投稿日時 - 2008-11-14 13:07:09
お礼
食べる時の考えもあるんですね。
この句は、食べる前や食べた後やいろいろな考えがあるんですね。
とは言っても、どんな俳句でも、いろいろな考えがあるんですけど。
今回はありがとうございました。
投稿日時 - 2008-11-14 17:49:07
この句から感じられるものとしては、魚に対する「あわれさ」という解釈はあまりあたってないのではないかと思います。凍った大きな魚(鮟鱇)を牛刀のような大きな刃物でぶった切っている情景は、凄愴ですあり、暴力的なものを感じます。
この句が発表されたのが昭和24年ということを考えれば、以下のURLにある『広島、長崎に原子爆弾が投下されて、戦争が終わる。その生々しさは、作者の心中にあったとしても、この句から戦争の悲惨さを読みとろうとするのでは決してない。「もの」が大いなる力をもって、私達の現前に出てきている、そういう状況のなかに私達は、俳句は、さらされているのだ、と感じてしまうのである。』という解釈が的をえているかと思います。
http://www.hat.hi-ho.ne.jp/hatabow/kikuti%20kyouko%20san.html
また、当時楸邨が病床にあったことから、楸邨の心の叫びを感じ取れるような気もします。
投稿日時 - 2008-11-14 00:40:29
お礼
詳しくわかりやすい説明ありがとうございます。
良いサイトも貼ってくれていたのでよりわかりやすかったです。
投稿日時 - 2008-11-14 09:44:53
鮟鱇の吊るし切りの映像がありましたのでリンクします。
http://jp.youtube.com/watch?v=Z6Pwv3O2FNk&feature=related
ぶち切ると言うような動作をしていたのは骨を切るところだけですね。
もうひとつ「凍てて」ですが。
まあ実際凍るほど寒かったということなのでしょうが。
あとは僕も考えてみます。
投稿日時 - 2008-11-13 21:32:49
お礼
ありがとうございます。
しかし、映像は少しグロテスクなところがありましたが、
参考にさせてもらいます。
投稿日時 - 2008-11-13 21:51:58