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篤姫は本当に偉い人だった?

遅ればせながら、BSの『篤姫』再放送を見ています。 毎日楽しみにして見てますが、この篤姫という人はドラマで描かれているような女傑だったのでしょうか? それほど偉い人だったのでしょうか? たまたま島津の分家に生まれながら、たまたま徳川将軍家定の御台所になっただけなのでは。 子沢山で財力のある島津から嫁をとりたかった徳川の事情があったからだけでは? その後のドラマで描かれる天璋院として活躍する内容はどこまでが脚色なんでしょうか。 本当は大人しい(多少はしっかりされてたでしょうが)ごくごく普通の人だったのでは?

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回答No.4

私は、自称「歴史作家」です。 >>たまたま島津の分家に生まれながら、たまたま徳川将軍家定の御台所になっただけなのでは。 子沢山で財力のある島津から嫁をとりたかった徳川の事情があったからだけでは? まず、この「答」を出す前に、次のことを知っておいてください。 (1)竹姫(浄岸院)を紹介します。 竹姫は、宝永2年(1705)2月19日、公家の清閑寺熙定の娘として生まれる。 公家との結びつきを重んじた将軍家は、5代将軍綱吉の時に「養女」として、千代田城北の丸へ迎える。(なお、江戸時代「江戸城」とは呼ばず、正式には「千代田城」またの名を「舞鶴城(ぶかくじょう)」と呼び、庶民は、ただ単に「お城」と呼んでいました)。 宝永5年(1708)7月に会津藩主松平正容の嫡子久千代(正邦)と婚約するも、12月久千代が死亡。 宝永7年(1710)、有栖川宮正仁親王と婚約し結納まで済ます。しかし、享保元年(1716)、輿入れ直前に親王は没する。 8代将軍吉宗が正室を亡くした時、竹姫を継室に、と望んだか、血のつながりは無くとも、形式上は「大叔母」に当たるため断念。 そこで、外様大名ではあるが、琉球などとの取引で割合裕福な藩と思われていたことから、白羽の矢が立ったのが薩摩藩の第22代島津継豊。(薩摩藩主としては第5代)。 しかし、薩摩藩の財政事情は実際には「火の車状態」。 そこへもってきて、将軍家の姫をもらうということには、それ相応の支度などもしなければならなかったので、「災難」以外の何物でもなかった。 例えば、江戸に藩邸とは別に「御守殿」の建設をしなければならなかった。また、姫だけではなく、大奥からお付の女中たちもやってくる。さらには、幕府からは「御住居掛り」と呼ばれる役人が来て、御殿での事務の一切を取り仕切る慣わし。 そして、島津継豊は2年前に正室を亡くしてはいるが、「益之助(後の宗信)」という嫡男がいたため、竹姫が、もし、男子でも出産すると、益之助派と竹姫側との「お家騒動」にもなりかねない。 薩摩藩邸では、色々、口実をつけて断ったが、将軍家より、もし、竹姫に男子が生まれても益之助がいるかぎり、世継とはしない。という「確約」を取り付け、ついに「承諾」。 将軍家からは、特別に「持参金」代わりとして芝に6,890坪という広大な土地が与えられ、さらには、従四位上中将を朝廷に働きかけて授与。また、玉川上水の流れを芝の屋敷内に通すことも許可。 竹姫は、その後、女子を産んだが、幸い?なことに男子には恵まれず、「お家騒動」への発展はなかった。 晩年は、継豊の嫡子宗信(益之助改め)をよく支え、宗信が22歳で亡くなると、宗信の異母弟重年(久門改め)を援け、さらには、重年が亡くなると重豪(しげひで)を養育し、島津家を盛り立てました。 安永元年(1772)12月28日死亡。浄岸院。 (2)次に、茂姫(広大院)を紹介します。 安永2年(1773)6月18日生。寧姫(やすひめ)、篤姫、於篤とも呼ばれた。実父は薩摩藩第8代島津重豪娘。近衛経熙養女。 (後の「天璋院篤姫(お一=おかつ)」は、この「茂姫」、または、「篤姫」と呼ばれた、にあやかって付けられました)。 茂姫は江戸の芝三田の薩摩藩上屋敷で生まれましたが、国許の薩摩で養育されました。 その後、一橋治済の息子豊千代(後の11代家斎)と3歳で婚約し、江戸へ呼び戻されました。 やがて、家斎が11代将軍となった時、将軍は五摂家から正室を貰う仕来りが残っており、大名とはいえ「外様大名」の娘では・・・と、騒がれましたが、実父の島津重豪が親しくしていた近衛経熙の養女にしてもらい、 「浄岸院(竹姫)の遺言である」 と、名言を吐いたため、幕府の追及は音止みとなった。 なお、京都での薩摩御用屋敷は公家の近衛家と隣同士で、常日頃から親しくしていました。 こうした事があって、将軍家と薩摩とのつながりは、外様大名としては異例の発言権を持つようになりました。 また、島津藩主としては9代目に当たる島津斉宣の子どもとして、嫡子斉興、弟忠剛(篤姫の実父)、郁姫がいますが、郁姫は五摂家の近衛忠熙と結婚しており、篤姫は近衛忠熙の養女として家茂に嫁ぎました。 なお、篤姫は家茂の継々室(3番目の室)です。 では、1番2番は、というと、 御台所・・・有君任子(ただこ)、鷹司政通養女、鷹司熙末娘。1823.6.5~1848。天親院 継室(2番目の妻)・・・寿明姫秀子(すめひめひでこ)、初め「明子」と呼ばれた。一条忠良女。1826~1850.6。澄心院。 継々室(3番目の妻)・・・篤姫、幼名「お一(おかつ)」、後「敬子(すみこ)」。島津忠剛女、島津斉彬養女、近衛忠熙の養女。1836.12~1883.11。天璋院。 こうして、天璋院篤姫が大奥へ入っても「おかしくない」。つまりは、将軍家と薩摩藩は「親戚」だったからです。 >>その後のドラマで描かれる天璋院として活躍する内容はどこまでが脚色なんでしょうか。 天璋院は、幼少より、男子が読むような「四書五経」などを読み、父忠剛から、 「お前が男であったなら・・・」 と、言わせるほど書物や書に長けていました。 従って、13代家定の母本寿院(お美津の方)や14代家茂の母実成院(おみさの方)が大奥にいるにもかかわらず、大奥総取締役は天璋院が一手に握っています。 (本寿院や実成院は、身分の軽い家柄の出だったためです)。 今後の展開としては、天璋院を中心としてのドラマですので、たぶん、 (1)薩摩藩の過激分子(西郷隆盛ら)が長州と同盟(薩長同盟)を結び慶応4年(1868)1月3日の鳥羽伏見の戦いに幕府軍を誘い出し、「倒幕」の口実をもうける。 (2)天璋院としては、自分の実家である薩摩が嫁ぎ先である幕府を攻めることに、大いに「悩み」「苦しむ」と思います。 そして、勝海舟らが天璋院に大奥から退出するよう進言しますが、天璋院は、 「私は、一歩もここを動きません。もし、無理にでもお出しになれば自害します」 と、応えています。 勝海舟の日記に、 「天璋院さま、まさに烈婦といおうか貞女といおうか、まことに堂々たるお覚悟であらせられました」 と、記しています。 (3)静寛院宮和宮にしても、同じく、朝廷という実家が嫁ぎ先である幕府を倒そうとしている。天璋院とともに「苦しむ」こととなるでしょう。天璋院と静寛院宮は、この頃は、もう、「徳川の人間」である、との強い「自覚」をしていたと思われます。 (4)鳥羽伏見の戦いで破れた「幕府軍」は、総大将である15代将軍徳川慶喜が兵を大阪に置いたまま、さっさと、自分だけ千代田城へ戻ってくる。 (5)これにより、天璋院は、大いに「あきれる」。そして、将軍としての力量のなさを知ることとなる。 (6)しかし、それでも、天璋院と静寛院宮は、慶喜に朝廷に対して「謀反」を起こすつもりのないことを書状に書かせたり、静寛院宮自身も、朝廷に1月13日、慶喜の「助命嘆願書」を書いています。 (7)しかし、勢いに乗った「倒幕軍」は、西郷隆盛を総大将として、錦の御旗をかかげ、 「慶喜を討たねば、幕府軍の息の根は止められない」 と、ついに、2月9日、倒幕軍が京都を出発。 (8)東海道軍と中山道軍、北陸街道軍の3隊に分かれて進軍開始。 (9)東海道軍は、3月6日に駿府に入り、3月11日、多摩川を渡ったところで、中山道軍との合流待ちで進軍停止。 (10)中山道軍は、3月13日、板橋宿に到着し北陸道軍と合流すべく進軍停止。千代田城総攻撃を3月15日と決定。千代田城まであとわずか2里半(10Km)。 (11)そんな慌しい中、天璋院から西郷隆盛に一通の書状が届く。 「勝った方にも家族はいますが、負けた方にも家族はあります。徳川家が永らえるよう、私の一命にかけて、なにとぞお願い申し上げます」 実に、1300字にも及ぶ巻書状。 (12)西郷隆盛は天璋院(篤姫)が家定に嫁いだ時、江戸藩邸にいて、共に、14代将軍に慶喜をするように家定に働きかけ、画策した同士。そうした同士からの巻書状を西郷はどういう気持ちで読んだのでしょうか。 (13)西郷隆盛は、3月14日、単身、千代田城へ赴き、勝海舟と会談。 (14)その時歴史が動いた!! 西郷は勝に、千代田城総攻撃の中止を伝えたのです。 (15)慶応4年(1868)4月11日、千代田城無血開城。 (16)天璋院は表門から官軍が城受け取りに入る直前まで城に残り、徳川家代々の宝物の全て城を飾り付けて、身一つで一橋邸へ向かいました。 (17)天璋院は一橋邸に身を寄せてから、共に城を出たお付きの女中260人あまりの人たちの結婚や就職先を探すことに奔走しました。また、薩摩より金銭援助の申し出がありましたが、 「私は、もう徳川の人間ですから」 と、かたくなに拒んだ、と言われています。明治16年(1883)11月20日に死亡した時、所持金は3円(約6万円)だった、と言われています。 (18)静寛院宮(和宮)は、4月9日清水邸に身を寄せていましたが、その後、京都に呼ばれ5年余りを過ごし、すでに東京(明治元年(1868)7月17日、江戸から東京に改める)に移られていた明治天皇の勧めで東京へ。しかし、32歳で「脚気」になり、箱根塔ノ沢温泉で明治10年(1877)8月7日より湯治。一時は回復の兆しも見え「歌会」なども催したが、9月2日、脚気による心臓発作で死亡しました。死にいどみ、静寛院宮は、 「皇族としててはなく、徳川の人間として葬って欲しい」 と、遺言された、といい、芝増上寺には8基の宝塔があり、徳川家の「葵の紋」が刻印されていますが、静寛院宮の宝塔は夫家茂に寄り添うようにして建てられ「菊のご紋」が刻印されています。 (19)天璋院は、一橋邸の別邸に家定の母本寿院や家茂の母実成院と暮らし、つつましい生活をし、着物や家具、調度類などを質屋に買い取らせて、自分の着物も自分で繕うほどだった、と言われています。 (20)そんな天璋院でしたが、生涯に一度だけ「旅行」をしたことがあります。それは、静寛院宮の亡くなった箱根の塔ノ沢温泉です。そして、 「塔ノ沢で和宮が亡くなった建物を見た。胸がふさがり、懐旧の涙が袖を絞るほどに溢れるのを、私は抑えることができなかった」 と、日記に記しています。 そして、死んだ和宮に、 「君が歳(よわい) とどめかねたる早川の 水の流れも うらめしきかな」 と、和歌を捧げています。 (21)明治になってから、勝海舟との吉原見物等の逸話もありますが、 共に、将軍家に嫁ぎ、共に、夫に早く先立たれ、共に、実家から裏切られ、共に、激動の中を生き、そして、共に、江戸幕府に終止符を打った天璋院と静寛院宮。 どのような思いだったのでしょうか。今は、誰も知るすべはありません。 なお、天璋院は、大変な「薩摩なまり」だったそうですが、NHKでは「標準語」というよりも、現代の「若者言葉」。

その他の回答 (4)

回答No.5

ドラマはほとんどすべて脚色です。 家定死後、又幕末の騒乱時代に薩摩に帰らなかったのは事実で、帰る機会があったにも関わらず、自分の意思として帰らなかったのは間違いないでしょう。 勝海舟の日記にも天璋院、静観院宮が勝宅に遊びに来たことも書かれており、家茂時代は不仲であった二人が、この時代徳川家存続のために、結果として協働したことは間違いないようです。 静観院宮が皇室内部に、天璋院が薩摩に当然人脈を持っていました。 徳川宗家の使者として天璋院の意図を薩摩に伝える役割を担ったのが、幾島でした。幾島自身も薩摩の出身でしたので、使者としては適任だったでしょう。 有栖川宮は、長州贔屓の幕末過激派でしたが、鳥羽伏見以降の、皇室中枢の考え方として、徳川宗家存続はかなり前からの決定事項だったらしく(岩倉等の過激貴族は別にして)、征討軍の元締めとして、攻め来る敵は敲くが、自ら粉砕行動を指示することはありませんでした。天璋院・静観院宮の働きがなくても宗家の存続はあったでしょうが、時代の流れに棹差さなかった、賢明な女性であったことには間違いはないと思います。

noname#81719
noname#81719
回答No.3

あの頃の女性は自分の生き方から結婚に関するまで、すべて親や 夫の命じるままに生きるのが普通であり正しいことでした。 No.2さんも書いておられるように、夫の死後は、大奥3000人ともいわれる女性の、大奥無き後、就職から生活のメドまで世話をされたようです。 大奥の精神的リーダーだったのですね。 夫や親の言うなりに過ごした時代の女性としては、自分というものを持った自立した人だったようです。 因みに 薩摩の母親「お幸」が素晴らしいお手本のような 母親として「篤姫」では描かれてますが、実際のお幸は、非常にヒステリックで我が儘で、子供の頃、篤姫はこの母親を非常にに煙たがり、嫌っていたそうです。 また、小松帯刀との淡いラブロマンスも実際は無く、ただの顔なじみ 程度だったそうです。

  • kwan1234
  • ベストアンサー率18% (111/603)
回答No.2

詳しいことはわからないのですが。 婚家の人間になりきって、徳川のために生き抜くというのは、エライ人だったと思います。 結婚までは周囲の思うがままだったのでしょうが、結婚後というか夫との死別後には自分らしい生き方をしたのではないかという気がします。

  • globef
  • ベストアンサー率17% (1306/7306)
回答No.1

 ドラマの「篤姫」を見ていないので 偉いかどうかは、わかりませんが、  実際の史実では、明治になり徳川家が、無くなり 新政府からの扶助は一切なく、家具などの家財を 切り売りしながらの生活していたそうです。  旧薩摩藩から現在の価値で年間2億円の 援助話も断り その暮らし向きも質素だったようです。  ここまでは、普通なのですが  大奥で篤姫と対立していた、篤姫の夫、 13代将軍家定の生母・本寿院と14代将軍となった 家茂の生母・実成院を引き取り、一緒に暮らしていたそうです。 http://www.ntv.co.jp/nihonshi/contents/20081015.html

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