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ベストアンサー以外の回答(3件中 1~3件目)
ところが 私たちが疑うとき まだ私たちが疑っているものについての言葉ではなく その疑いそのものについての言葉がある。
なぜなら 私たちが疑っていることが真実であるかどうか 私たちが知らなくても 私たちは自分が疑っているということを知っているからである。それゆえ 私たちが疑っているということを語るとき 真実の言葉がある。なぜなら 私たちは知っていることを語るからである。
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しかしあの私たちの言葉に戻ろう。それは音声や音声の思いを持たず 私たちが〔心の目で〕見ることによって内的に語るものの言葉であって それゆえ いかなる国語にも属さない。この言葉は神である神の御言にこの謎において(コリント前書13:12)いくらかは似ているのだ。というのは この言葉は神の御言が父の知から生まれたように 私たちの知識(知恵)から生まれるからである。
だから 神の御言にいくらかは似ている と私たちが見出すこのような私たちの言葉――《親しき内密の言葉》――を だが どんなに神の御言に似ていないか 私たちが語り得るように 考察するのに躊躇してはならない。
(アウグスティヌス:三位一体論 中沢宣夫訳)
☆ 余分なつけたしです。
《いかなる国語にも属さない 親密な内的なこころのことば(verbum cordis)》は もしそれがあるとするなら なぞなる神 X へ開かれた窓であるかも知れない。けれども それが いかに 神に似ていないか これを 考察するのに躊躇してはならないと言う。
ほかの箇所での議論を合わせて 考えるに わたしたち人間の抱くことばは 要するに 精神の旋回をとおしてのごとく 時間的に 得られる思惟である言葉である。時間を超越したなぞなる存在にとって その言葉は 時間を要するものではありえない。ゆえである。と思われる。
しかも わたしたちの思惟は じつに 四六時中 つづけて行なっているものではない。思惟したりしなかったりするのである。その断続性やさらには可変性 そのようでありながら 《つかまえたと思ったそのとき かろうじて日本語に属しているかに思われる》親密な内奥のことばが とうといからと言って 神の言葉であるなどと言えるはづがない。
かくて 古代に現われた近代人 アウグスティヌスを おすすめします。
もしそうだとしたら わたしたちは なお この《親しき内密のことば(verbum verum intimum)》の窓を 開いていかねばならない。
投稿日時 - 2008-11-08 19:26:30