締切り済みの質問
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回答(21件中 1~5件目)
一方的な回答がつづく形となってしまっていますので、 いままで書いたことへの責任から言葉を尽くすという形にして、 一応、今回でまとめさせていただきます。 一応です。 いつでもご要望があればつづけます。
イ、家族病理について、
家族は、一度、子供も親も自律する必要があるわけです。 さらには絶対個としての、人間と人間のリスペクトの関係を知った上で、こちらから人間として思いやりや励ましを与えてあげられるようになることで、家族という社会単位は 一つのまとまった「再生された揺るぎのない肉感的愛情の世界の自覚」の世界にまで成長するのではないでしょうか。 すくなくともflauさんは その正しい過程の内を歩まれているかとおもいます。
苦しいこともあるでしょうが、 女性としての落ち着きもあるflauさんこそ、其の問題にも解決の糸口をつけてゆける主体だとおもいます。 心の中でですが、応援しています。
ロ、歌について、
もともとの、ジャズは、アフロアメリカ人の明日をも知れないような過酷な奴隷状況の中から、ほとんどいじけてもいただろう心の中にも、むしろ明日を期待できないからこそ、 「今」の命がよく見えてきて、恋や友情やほんとうに自律した家族の愛情の世界が リズムとなってはじけたような明るい、健康な精神の世界でもあったはずです。
やがて、ロックのシャウトの世界から、其のエネルギーは、ジャズのスイングの世界にも入ってきて、 ジャズこそ狂気をも内に包みこむような真剣なシャウトの世界でもあるようなジャズ魂の世界も生まれていったのではないかと思います。
狂気といっても、 むしろ健康な精神がその裏にゆるぎないからこその、命をもかけるような叫び(シャウト)の世界です。 そのコピーが そちらの歌の世界でしょう。
これもflauさんの 女性としての落ち着いた魂が、そのすべてを包み込みますうに、 心の中でですが、期待し応援しております。
ハ、ドメスティック・バイオレンスについては、書いておく必要のあることがあります。
「彼」の暴力の中に、そのけがあるときには、 それは時には毅然とした態度で対応しつつも、 その身内的な暴力の部分からは逃げるしかないと言われている世界です。 避けることだけがその努力のあり方となってしまう世界です。 距離を置くという そちらの落ち着いた態度は正解であるわけです。
でありつつ、 大きく包み込むようなそれこそ「大きな哲学」が必要だと思っています。 それができる友人は 落ち着いた大人の女性だけだろうなと 思うのですが。
一応 これだけ書いておきました。
二、 恋や男女関係は、書けば現代では複雑ですが、 基本として「セックスは もし深く感性豊かにその中に入って行けるならば、どこにもいやらしい世界は無い世界であり、 むしろ美や安らぎの究極の世界がそこに待っているすばらしい世界だ。 恥じらいの心が大切だと昔の日本に言われていたのは、そのすばらしさにたいする自己の未熟さの自覚としての恥じの文化がまだ日本にあった頃の、 肌文化の世界、と理解できたりする。」これだけ しっかりおさえておけば、 後はflauさんのような落ちついた女性ならば、 その世界を 強く泳いでゆけるのではないかと思っています。
尻切れトンボですが、 後はhulauさんなら、ご自分ですべて自己研鑽しつつ解決してゆけると思います。
これからこそ、お互い、よりタフに、生きていきましょう。
以上です。
投稿日時 - 2008-10-29 08:00:04
今回は、私の“他の方への回答”の紹介です。
「美は社会に強力な作用を起こしえるでしょうか?」という質問への回答です。
URL: http://okwave.jp/qa4418314.html
そのうちの、先ほど書きましたANO19に、 私自身の考える《「美」についての大きな視野からの見方》が書いてあります。
参考になればと思います。
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この質問者様は、コメントで「醜悪美」という概念を提出されています。(ANO14のコメントでです。)
そちらの追求は その文脈の流れでゆくと、「狂気美」でしょうか?
投稿日時 - 2008-10-27 20:21:44
今回はこちらの反省の世界にて。
ANO18からつづけますが、 最近私の回答の文章は読むのが大変な文章にもなっていたりします。
「わかりやすく、楽しく」ということを普段は気お付けているつもりなのに、紙数の限られた回答枠の中で、何かあせってしまっている感があります。
きょうは、まずそのへんの反省についてなのですが、 藝術と表現という世界にても 関わりの無いことではないですし、この私自身の反省点についても触れておきますね。
*
抽象的表現の世界は、雲の上から地上の物事を見つめた描写の世界に例えられます。 時には、それは文字通り雲がかかったような表現となりますが、 時には雲の晴れ間から見渡せる大きな展望からの「おおきな見通し」の世界の力強い表現の世界となります。
でも、いすれにせよ抽象的表現の世界は、それだけですと、あくまで具体的な生活の中での個々の問題を解くには 大きすぎる展望の世界なのです。
結局 具体的な生活の場面にも必要な箇所に トンビが獲物を捕らえるように正確に降りてきてそれをも「おおきな見通し」とともに表現できるならば それが一番しっかりした総合的な問題解決の道にもなるのですが、
はてさて、わたしの最近の回答は、 そのへんのバランスが欠けていて、下手な人の今にもおっこちそうなゆとりのないパラグライダーからの展望みたいになってたのです。
ごめんなさい。 そのへんでも専門家失格でしょうね。
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まず、前回の(ANO18の)回答に書きました。 常識についてのたとえ話の話が わかりにくい表現となっていたので、 そこから訂正します。
《「常識」とは大勢の人がおいしい魚を客観的にみんなが握って捕まえるための網に例えることができたりします。》と書きましたが、
そこまでは解りやすい例えだと思っています。
でもその後が いきなり抽象的言葉の積み重なりの世界となってしまってます。 自分自身は解ってる言葉によってその重層性のある豊かな表現をしてるつもりになっていても、 これでは他の人には通じないですし 読み取るのが大変です。
もう一度書き直しますね。
常識って 漁師さんの網を人間みんなで 必死に握ることで捕まえている生きるための魚を得ることのできる網に例えることが出来るわけですが、
ところが ここに「常識」に対して「真実」と言う言葉を対比させるなら、
人間にとって大きな視野からはもっと大切でもある「真実という宝」については、その常識の網の目が粗すぎてこぼれ落ちてしまうのにもかかわらず、 みんなが必死にそれを握っているため、つい気がつかないでそれらの宝石価値の世界を見落としてしまう。
というふうにも 「真実」の世界を例えることができます。
あるいは、その真実は「藝術や芸術的な生き方」の世界です。まさに宝石であり、 おいしい魚をよりいっそうおいしくいただく心の世界の宝であり、まわりの海のさまざまな光の変化や 空との色合いの変化に生きていることを理屈を越えて楽しむ世界であり、 命を満喫するユトリの世界であり、 必死に常識に生きるだけでは見失いがちな世界です。
あるいは、その真実は「哲学や そのより明晰でわかりやすい表現」の世界です。 もしかしたら、その海には嵐がやってこようとしてるかもしれません。必死に常識の網にしがみついてるだけだと、それに気がつく巨視的見通しの世界は見えません。 あるいはただ懸命に魚を大量にとるだけに一生懸命なだけだと、漁獲量に対応する知恵を忘れてしまうかもしれません。
常識だけにとらわれていると見えないことがいっぱいあるということです。
ここまでは、 わかりやすかったでしょうか?
*
上記の常識的な思索が見落としがちな二つの大事な世界の中で、 ここで問題視されてるのは「藝術」の世界のことであるわけです。
ここには、常識と真実との間に大きな壁があります。
またこの壁がさまざまに、時には深刻でさえある問題をも引き起こしていたりします。
(そのへんは、そちらには、べつにこれ以上説明するまでも無い世界でしょう。)
★では、その壁は どうしたら突き破れるのか?
ここに 哲学と藝術を両方追求しているflau様や私のような人間の役割とその責任の世界があるかと思います。
↓
藝術の世界のほうも、そのままでは、私たちの文明の社会の中では、たいへん抽象的なままに、それがわかりにくいまま進んでいってしまっていたりします。 (私が言うのもなんですけど(^^)\。)
ジャズの世界も 天才の直感の世界のコピーコピーから入るのですよね。
その天才の直感の世界は いったいどのように確かな世界なのでしょう?
それは一般常識人の世界にいつごろ、どのように理解されるようになってきたのでしょう?
そのへんを哲学は どのように明晰に誰にもわかりやすく表現できているのか?
私の場合は、ジャズ音楽については特に知識が少なすぎます。 でもデキシーランドジャズですか、 その新鮮なリズム感の根拠ならばその原点のエネルギーの部分として人にも語れるものをもってます。
コルトルレーンでしたっけ、アフリカの音楽をアフロアメリカ人の心の奥の郷愁として表現したのでしょうけど、それもまた私には ある意味さまざまな観点から解りやすく論を展開できたりします。
すくない知識であっても その心の世界(技術以前のエネルギーの世界の哲学)に関しては 私の総合文化哲学から語れるものはすでに多いです。
flauさん、 私こそ このまま肉体労働者だけでありつづけてはいけない人間なのかもしれません。
物事はすべて それが総合化されると、個々の総和以上の力と創造性を宿すと言われていますが、 私自身が今その状態にあるのかもしれません。
私自身が もっと今こそ実践的に 常識を超えた世界に飛び出してゆくべきなのかもしれません。
flauさん、 私こそ今「彼」にぶっとばされるべき状態なのかもしれないですね。
なにをまわりに気兼ねしてるんだ。なにを常識にとらわれてるんだ。 求道の過程ではしかたなかったかもしれないね。 そんなおとなしいやつではね。 でも、今はおとなしいもなのもないだろ。 いっちょどかんと爆発してやれ! そんなどやしが聞こえてきそうです。
常識的にはいろいろ問題ありの人なのでしょう。 でも真実の世界にては「彼」は多くの宝も持ち合わせている人なのだと思います。
哲学カテは、双方向的に 教え教わる質疑となりますね。 常識を超えてときには、こうして進んでゆくようです。
今回は こちらの反省の世界にて。
投稿日時 - 2008-10-26 09:53:22
一連性から、 とりあえずもう一回つづけます。
つづけてとなりますが、 自分の状況に関わる本でも読むみたいな感じで、ゆっくり読んでいっていだだければいいかと思います。
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ここで話をもとにもどしましょう。 明るくはじけるのも時には必要ですが
バランスはやっぱり必要ですからね。
でもすく次に私の方から浮かんでくるのは、 やはり親の不条理というあたりの問題です。(「彼」の方がやはり深刻そうですが、まだよく解らないで何か書いても意味なさそうですので、「彼」のことは一度おいておきます。 一般論から書いてみます。)
前回の「あれ」のお話のような「荒れ」たお話、品行方正に欠けるようなお話は「もってのほか」となってしまうような生真面目さが 親から仕込まれた「超自我」の世界なのでしょうか?
常識のお話も、ここで書いてしまいますが、
「常識」とは大勢の人がおいしい魚を客観的にみんなが握って捕まえるための網に例えることができたりします。
そうすると、保守性の傾向はあっても、かなり価値的な概念が「常識」ということになります。
しかし、これを守る仕組みは、そのことの理解から生まれているとは必ずしも言えません。 昔私たちがまだ森とともに暮らしていたような時代においてはみんなの常識というものは、単純にその価値を持っていたものでしょう。
ですから逆に言えば、そんな時代にては、その常識の網の目を潜り抜けてしまうような繊細な心の宝物とかは、みんながかえって理解もでき常識とともに大切に出来たりもしたところ(厳密に言えば そうとも言えないのですが ここは簡単に考えてください。)
やがて世の中が複雑になり 言葉が発達するにしたがい、「常識」を守るという形にて、無理な道徳の押し付けが行われるようにもなった歴史があります。 道徳自体も複雑化もしていたりします。
そこに偽善という問題も出てきています。 真心の裏にウソが混じったりしてきたのです。 それごと無理やりの押し付けるのが道徳の常にもなったりしてきました。 それなのになのです。
親という責任に対してまじめな人は、ここで「常識を守る」という意識が強くなるのです。 大勢の人にとって価値のあること、意義のある大切なことそれを得るために大勢の人が守ってること、それを守れないやつは 人間として評価できないんだぞ。 という強制です。
「常識」自体が ウソでもまみれてるのにです。
実際には こんな簡単な状況ではないかもしれないですが、大体は解るかと思います。
*
上の記述したことから言えることは、一つには「彼」のような人にしても本来ならば“「常識」も大切にする人なのだ”ということです。 その上で“常識では捕らえられない何かを感じたらそれも誰よりも大切にしようと努力する人だ”ということです。
でも、ここで肝心なのは、親という存在です。 親がその子供の社会性(社会価値)を認めない時に子供への影響力の大きさです。 文明の中ではそれは世間体とも結びついた強力で頑固な親の心の世界ともなってますからよけい始末が悪いところです。
子供の中には、深い劣等感が芽生えるだけじゃないです。 能力すら時にはそれによって規定されることもあります。 これは反発しない場合には下手すると命取りになる場合もあったりします。
次に書くのはそのへんの極端な例ですので、ふつうは想像もつかない世界でしょうが、 今のflauさんや「彼」の状況を生きてるかたなら解るかもしれないと思い書いてみます。
アメリカという善悪両極端が 驚くような形でみられたりする国での出来事です。 家族病理の典型的臨床例としても語られている話です。
あるとても頑丈な体のフットボールプレーヤーでもあった青年が 親の過保護に対して、その裏にいつまでもかわいい子であって欲しいという裏心を察知するところからそれは始まりました。 とても優しい青年の彼はそれを知ってからは、だんだんと病弱になっていきました。
とうとう心配した両親によって精神科医の下につれてこられるのですが、との臨床にたけた精神科医はすぐさま、これは親元を離さないとこのまま衰弱して死んでしまうと気がつき、彼を無理やり両親の下から引き離し、遠い療養所にあずけます。
もちろん、徐々に彼の健康は取り戻されてくるのですが、あるとき、親が精神科医に内緒でその病院に手紙を出していたのを 病院側でかくしていたにもかかわらす発見してしまうことで、
彼は とうとう帰らぬ人となってしまったいう ウソみたいな臨床例、どう思いますか?
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海外では、神の下の人間の平等というところから親と子と言えども、人格は別に尊敬されるべき存在という常識もあったりしますが、 逆にそのへんが空想的でつかめない人は、かえって免疫が無いというか、 極端に子供を子ども扱いしたりもします。
日本の場合、村社会の影響とかもあります。 が、まだおだやかなところもあるのです。
簡単には 親離れ子離れの問題としても語られているとことですが、その極端な例の世界は 人の心身を破壊するような作用までしてしまうところがあるということです。
*
が、「希望」は、 あります。 この問題自体の中にあると私は思っているのです。
すこし間を 空けますが 続けます。 いつでもコメントください。
投稿日時 - 2008-10-23 18:54:11
ANO16は、詰め込みすぎですね(^^)。
flauさんの書かれた内容からのテーマ群ですが、 いっぺんにたくさん書きすぎました。
うまくまとまらないからの質問なのでしょうから、これではかえって頭が混乱してしまうかもしれないですね。
「頭で考えすぎない」という課題もあるんですよね。
かといって、総合的な学問には期待したい、という心の葛藤があると想定して
ならば、そのへんから書き始めてしまいますね。
*
「ホ、子供の健全さと幼児性の間」と書いたテーマでもあるのですが、テーマはどうでもいいです。
私は 人間全体の成長課題として、キリストの言う「子供のような人が天国にはいる。」という命題を考え続けてきました。
子供は、たしかに新鮮な心を持っています。 都会ですとすぐ大人の文明の世界にさらされるので一見表面はもう濁ってるようにも思える時もあります。その都会の子供の問題はここではともかく、 素朴な国の子供達の感性の新鮮さにはすばらしいものがあります。
でも 彼らには免疫が無いとも言えます。 子供は弱くてその新鮮さも周りの影響によってはすぐ曇らされてもしまいます。
素朴な国の人達こそ、すぐに文明病にもかかりやすかったりもします。
もし、新鮮な心のままならば、たとえば権力欲のおぼれるはずもないところ一度それにおぼれた素朴な人達は まるで人情を何もかも忘れたような残忍性を示す時もあります。 「彼」の暴力とかは 一見ドメスティックバイオレンスそのものでもありながら、 心は人情を忘れてなどいないのです。 恒常的な暴力ではなく あくまで衝動的暴力であるはずです。
哲学とか心理学が 同時に深い人生の哲学としてすでにまとまった論理をさまざまに展開しているものであるのならば、その哲学や心理学こそ、「頭で考えすぎない」でも 子供のように新鮮な心を私たちにとりもどさせてくれるものとなっているはずでしょう。
おそらく、人間的であろうとして その観点からあらゆる文化を謙虚に学習しつづけ考え続けた人ならば、 そのような人こそ、やがて、もう崩れることの無い「素朴な子供達のような新鮮な心」に回帰していることでしょう。
〇〇〇
後者の学問や哲学を自身に身につけないかぎり、flauさんも難しい概念や言葉にふりまわされて、かえって頭で考えすぎる結果になり終わってしまう、 というところは無いでしょうか?
〇〇〇
*
ところで 「あれ」の話ですが、 「あれ」はネットではお見せするのは困難です。 わたしは特にネット音痴な年寄りですからね。
ですので一番興味があるかもしれないですが、その話は無しです。
ある旅館に ある人たちの旅行に参加して泊まった時のことですが、 その旅館の近くに クリスタルガラスの展示場があり、それを見にいったことがあります。
私は子供の頃、田舎にもいたことがあり、記憶の中では庭に落ちていたただのガラスのビンの欠片(かけら)を 何時間も なんてきれいなんだとながめていたことがあります。 太陽の光に微妙に変化するその光の世界にすっかりとりこになっていたんです。
一方 最初はその展示場のガラスはたしかに ただの壊れたビンの破片なんかよりもはるかに色合いも形も美しいものであったでしょうが、 何もも感じたりしなかったところ、 その内に私は ただの破片でさへあんなに感動したことがあったことを思い出したのです。
するとすこしづつすこしづつ、 周りの違って見えてきました。
光の芸術として 今はやりかけてるのが万華鏡の世界です。 この世界については親戚の人にその専門家のような女性がいますので、私もすこしは知っています。
でもその最先端の世界にしても、もしそこに《感じる側の心》の方の新鮮さを失われていたら それは意味が無いというか それなりの楽しみの段階でとまってしまう世界でしょう。
両方が大切なんです。 技術も心も。 そのシンフォニー、その共鳴、そのシンクロが、スイングが必要なんです。
と その展示場をすっかり すがすがしい気持ちで後にした私は、とある大きなバーがあったので、好きなお酒を飲みたくなり立ち寄りました。
大きな舞台のある客席には、接客の女性達とお客さんでごった返していました。 100人以上もいたかと思います。
わたしの席には 日本の女性とフィリピンの女性がすわりました。
いつしか話がはずんでくるうちに、私は昔新宿の歌舞伎町に住んでいましたので、水商売の人を乗せるのがうまいのでしょう。 すっかり上気したフィリピンの女の子が服を脱ぎ始め、 とうとうパンツまで脱いでしまったのです。
しかたなしに、わたしも背広を脱ぎ 最後はパンツも脱いですっぽんぽんになりました。
するとその女の子は 私の手を引き舞台に駆け上がったのです。
全員が おしゃべりを止め、こちらを見つめ 大騒ぎとなりました。 おおおお、ブラボー♪ 拍手の渦が起こったのです。
なんて粋な人たちなんだと 思いましたが これはもしかしたら私の「あれ」のオーラだったのかもしれません。 そのオーラがそこにあれだけのシンクロを呼び寄せたのでしょう。
中には舞台にかけあがって握手した人もいたりしました。 あの握手は手と手でするものであり、「あれ」とするものではないのに(--):。
ああああああああ 書かないつもりだったのに、
つい、か 書いてしまいました。
flauさんが いけないんですよ(笑)。 要求なんてするから♪
*
この破天荒ぶりには、 きらわれてしまったかもしれませんね。
投稿日時 - 2008-10-23 13:14:11