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現代芸術における表現形式は どうなんですか

 アニメ・マンガ・TVドラマ・映画そして小説 さしづめ これらの分野で 先端をゆく表現には どんな形式がありますか。どんな思想として捉えられますかというのが 趣旨ですが 社会の流れや世界の動きの中で 作品が どのように位置づけられるのかとしてなど おしえてください。  芸術至上主義という考え方があります。表現が それ自体として いろんな意味でともかく よいというのであれば それでよいという思想です。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【恋愛至上主義】とは、  恋愛を人間における最高の価値と考える思想・思考形態を指す。結婚後であったとしても、恋愛の情熱が無くなれば別れることを選び、また他の異性と恋愛に走ることもやむを得ずとする主義である。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%8B%E6%84%9B%E8%87%B3%E4%B8%8A%E4%B8%BB%E7%BE%A9 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とヰキぺディアにありましたが(――ちなみに 芸術至上主義は まだ作成されていませんでした――) これに沿って考えるなら 《つくり捨て・使い捨て》の傾向があるとも 邪推されて来ます。  とは言うものの 現代においては 単に《ロマン主義》的であるとか《幻想的で退廃的》であったり《神秘的》であったりするとかすれば おもしろいとは限らなくなっているのではないでしょうか。複雑であります。  推測するに 《物理学や生物学の成果を ふんだんに取り入れて そのあと 想像力によって飛躍させるかたち》ではないかと思います。そうだとすると 想像力の用い方が 問題になるでしょうか。  (このQ&Aで 《ワ゛テック》という小説を勧められて読んだことがあります。これは 神学が取り入れられていました)。  (同じく ここで 《ナルト》を勧められ その解説を読みました。解説だけで 長かった。よく分からなかったぁ。《エワ゛ンゲリオン》も解説を読んだ記憶がありますが もうよく覚えていません)。  昨今 資本至上主義とも言うべきマネーゲームが 大きな失敗に陥り そのような貨幣論理の追求は ひととおりの限界に到ったとも言われます。ひととおり暴れまくったわけです。芸術表現に関しては いかがあい成っているでしょうか。ふと 関心が湧きました。  上記の芸術分野に関することは すべて 憶測です。したがって その分 具体的な内容にかんしては 話が合わないかとは思いますが よろしくお願いいたします。  ともかく 今頃ですが 芸術評論も 重要ではないかと思ったので(と言っても そこに首を突っ込もうとは思っていませんが) とりあえず みなさんから おしえを乞いたいと考えました。

noname#80116
noname#80116

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回答No.21

★ ヘリコプター俯瞰視のあたりが優れているにもかかわらず、結果を残すことにつながらなかったのは、個人技が特にすぐれていたわけではないという事により、その能力を見方へのパスに必ずしも有効に繋げられなかったということもあるかと思いますが、 司令塔、つまりチームワークの組み立てとこそかかわっていた人なのですから、  よりいっそう 現代サッカーには個人の技術の深みが必要とされている というふうに そこからも考えることができるかとおもいます。 すこしでも興味があるのであればということで、ちょうど今現在の岡田監督の戦略戦術には注目すべきものがあるので、 その辺について話を簡単にのばしておきます。 彼は 「接近」「展開」とあともうひとつ 今度忘れしましたが、3つの軸を掲げていて この二つが本質的には重要なことだと私も思っているからです。 しかし、この「接近」が生きるためには、高度なバランスが必要となります。 合気道における「絶対的バランス」の概念のようなものが理解される必要があったりします。  サッカーでは「身体バランス」と呼んで そのへんのバランスを大事にしていますが、 それのさらなる高緯度化を伴ってこそ、「接近」しても、ボールをコントロールでき、次の「展開」の幅を大きくしてゆけるわけです。 このとき「展開」は チームワークが主となる場面ですし、「接近」はその個人のバランスが主となります。 両場面にもちろん両方の力量が問われますが、主として必要とされる能力はそんな形となります。 くわしくは 知りませんが、こうして本質的に見ると、岡田監督のやろうとしていることは、ポジティブ作戦というふうにも言えます。 つまりおもいっきり前に出れば 隙も生まれるが、その中で活路を見出しつつもまれれば、それが一番の高度な防御の鍛錬にもなる、というあたりでの賭けのような戦術だというふうになるかと思います。 今後 勝ちへの大きな期待という意味ではなく、 その先に何が見えてくるのかという点では おもしろいかと思い筆を伸ばしました。 演劇の世界も 当然 個人技の深みは重要です。 最終的に全体の演出が結果を生むとは言え、たとえば渥美清抜きのトラさんは ありえないわけです。 ★ 田中美佐子については、これもたくさんの出演ドラマを見たりしたわけではないので 印象なのですが、 大きな度量とか優しさを感じさせるものがあります。  私なら 悪役も善人の役も幅広く彼女にやらせたいと思うでしょう。  全部かなり深くこなせるかと思います。 そのCMを見ていないのですが、 なんとなく想像できます。  CMと俳優とウソ ということでは、ある女優はよくCMに出ていた時期がありましたが、 なんと途中から顔だけだしてその商品が「すばらしい」とは言わなくなったのです。  明るい顔だけだしてです。 たぶん嘘は言いたくない、 こころの思ってないことは俳優として大勢の人の前にせりふにしたくない という何かが裏にあったのだと思います。 また黒木瞳だったかと思いますが、あるCMで、彼女も明らかにウソをそれとわかるように演じでいました。 でも それはスポンサーが考えた演出でもあったのです。  その大衆性差へ出ればよかったということなのです。 田中美佐子も その時、そういう演技をしていたのかもしれませんが、 そのへんは想像しかできないわけですが、   bragelone様の その受け取り方には「すばらしさ」を感じます。 たぶん、そのとおりなのだと思います。 ★スタニスラフスキーの「仮定の働き」ということについて 役になりきる ということとの違いについての質問ですが  これはかなり重要な指摘です。 ですが、これは、「表象」についての説明の後に、回答します。 スタニスラフスキー・システムについては 総合的に考える必要があったりします。 今回は 時間の都合でここまでとします。

noname#80116
質問者

お礼

 arayata333さん ご説明ありがとうございます。  今回は ひとえに おもしろい。おもろい。とも言います。  なんとなくでも 全体観が 分かります。何かが見えた感じです。あるいは その先あるいはその奥が 見えるかに感じるといったところです。    ○ 個と全体  ☆ 黒木瞳という個 商品という個 会社一丸となっての個。そして他方で その他関係業者や消費者やを含めての全体。これらすべてにおいて 調和がとれれば 表現ということの醍醐味につながるのかも知れません。  そういう見通しを示してくれた文章でした。全体として そういう感覚を与えてくれる文章でした。  ★ スタ式  ☆ とか言って いくらか聞いたことがありましたが 理論もあるのですね。それは 次回にてですね。  ありがとうございました。    * 短いですが 言い残しは ないのです。次回をたのしみにします。

その他の回答 (39)

回答No.40

こんばんは、brageloneさん。 ●☆ わたしの小さい頃は いんじゃん・いんじゃんちー と言っていました。 ↑ へー、そうなんだ。うーん、そういえば“いんじゃん”ってのもこっちでも言ってたよ、ほでもね、ちょこっと変形“いんじゃんでぇー、ホーイ”ってかんじ。“いんじゃん”を二度繰り返しては言わなかったように思う。逆にあいこが続くと“あいこでしょっ、ホイ、ホイ、ホイ”となんかやたらと“ホイ”を連呼してた覚えがある。それとは別に、“いんじゃん”を“じゃんけんぽん”と言うときってあいこが続くとひたすら“あいこでしょっ、あいこでしょっ、あいこでしょっ”と言ってましたね。 機械仕掛けの神ーデウス・エクス・マキナーって、  ▼ 古代ギリシアの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、いきなり絶対的な力を持つ神が現れ、混乱した状況に解決を下して物語を収束させるという手法を指した。 ↑ 演出技法のひとつなんですか? ふーん、そうなんだ。 なんだかなぁー、 “古代ギリシアの演劇において”なんて格式ばった言葉を目にすると なんか《堅苦しい》というか、とっつきにくいやー。 “いきなり絶対的な力を持つ神が現れ…” って場面で思い浮かぶといえば… 【『QNo.167029 あそびましょ~♪』】《ANo.1,ANo.4》この回答へのお礼 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa167029.html わたしにも姉が一人います。子供の頃、よくケンカをして泣かされました。ケンカといっても子供のケンカ。ケンカのもとは些細もないことがお決まりです。『これかして?』『あかん!お姉ちゃんが使うから』『かしてよ―』『いややんか―』『じゃぁ-こっちのかして?』『あかん、それも使うからあかん』と、延々この問答はエスカレ-として、次にののしりあいが始まります。そこへ見かねた母が登場し姉もわたしも母からがツン!と、怒られます。 【『QNo.300990 だじゃれ』】ANo.8 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa300990.html この場合の絶対的って神に相当するのが、お母さん(親)。 こまかい《いい・わるい》の前に、ぎゃーこら、ぴぃーこらの騒ぎを収束にかかる。ハードランディング。喧嘩両成敗というのか、ガツンと二人とも怒られる。しゅしゅしゅーん。子どもそれぞれに言い分があるんだけれど、聞いてはもらえないと不完全燃焼。それぞれの内に不満が残ったりもする。 「はやくにんげんになりたぁ-ぃ!」と。 ●★ 『器官なき身体』で、半導体デバイスときてアマテラス? ●☆ 『器官なき身体』が どういうふうに出てきたのか     関心があります。《死んでいる》からでしょうか。 どういうふうに出てきたのかって?  【QNo.4243519現実は、虚構であるのでしょうか】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4243519.html 【東芝、最先端の43nmプロセスを用いたNAND型フラッシュメモリを開発】 http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080207_toshiba_nand/ 【柔らかな光がパーッと差すような効果をPhotoshopで実現する方法】 http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080207_light_photo/ 【DNA同士がテレパシーのような目に見えない力を使っているかもしれないという研究結果】 http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080207_dna_telepathic/ 【バリ島の歴史】 http://www.hcn.zaq.ne.jp/rukisan/BaliHistory.htm 【~不思議さいえんす・高校生物講座~】 http://zettai.todai.in/2006/06/post_19.html こんなかんじかな。 死んでないって。 【QNo.393289 ハ-ドランディング】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa393289.html

noname#80116
質問者

お礼

 littlekissさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。   もう さいならとおっしゃっていたのかと思っていました。  ☆☆ 『器官なき身体』が どういうふうに出てきたのか   ☆ まだ 分かりません。  ★ こんなかんじかな。  ☆ ってったって どんなかんじやねん? 判じ物では わかる場合と 分からない場合とがありますね。  ★ 『器官なき身体』  ☆ は ドゥルーズとガタリの用語でしたね。なぜ それが 出て来ているのかが なぞでした。  ☆☆ 湯ババの妹の登場は 機械仕掛けの神という手法ではないか?  ☆ まぁ おだやかになって振り返りますと たしか 千は この妹ババの家に 夜汽車に乗って行きますね? だから思ったことは 妹ババの存在やその助言が問題になるのではなく ただ 遠いところへと 一たん 千が移動するというように 冷却期間を置いたことが デウス・エクス・マキナの手法だったかも知れません。そう考えなおしました。  だからでしょうか? 見終わったあとに それほど 観衆のあいだに  ★ 言い分があ〔ったり〕 聞いてはもらえないと〔いう〕不完全燃焼  ☆ があったりは しなかった。のではないでしょうか? かろうじて 生きた。  ☆☆ 浄福の問題(No.31)  ☆ については わたしの新しい質問へ どうぞ。そのものですから。《QNo.4442055: 現在時における〈復活〉について= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4442055.html》  ☆ shift-2007 さんの《 QNo.4427394 :心の傷について =  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4427394.html》に参加すべしだと思いますが? 少々わたしの自慢になっていますが いい主題ではないでしょうか? つまりは 上の問いと同じ問題に帰着するようです。つまり こちらのほうが 参加しやすいと思います。《心》に絞っていますから。  駆け足でお応えしました。残したところを あらためて考えます。これから《Q:復活》のほうに返事を書きます。その前に ひとこと お礼を述べました。  魚屋さんがへをこいた。ブリッ。ギョッ。

noname#80116
質問者

補足

 お礼欄のあとの補足です。  ただし 特に反応した事柄がありませんでした。  ドゥルーズとガタリについて考えようとしましたが あまりにも魅力が薄いです。わたしにとって。  というわけで お礼欄でのお応えが すべてになります。  * ☆☆ 浄福の問題(No.31)――これは こちらでも かまいません。表現の問題にもなりますから それは 芸術の主題である恰好です。

回答No.39

こんばんは、brageloneさん。 ●日本人は死んでいると思いますよ。 ↑ ANo.38へご意見どうも。(-_-;)uuu…  ANo.37への《この回答へのお礼》の中で挙げておられた話 *******************************************************************************  ◆ 《QNo.4289438: はい上がるための動機 》    http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4289438.html  ☆ こちらも 話が進むといいのですが。 ******************************************************************************* 読んでいましたよ、↑この質問があがったときから… ほじゃ、何で顔を出さないのかって? 【QNo.3346636 日本人は 死んでいるのでしょうか】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3346636.html “義を見てせざるは勇なきなり”ちゃうんか? そらそやねんけど… こっちから聞いてええもんかどうか、デリケートなことやし… お札を貼ってあるかはたまた傍線引いてあるかのように 前置きに《特に若い女性は最も苦手としています。》とある。 それにやね、質問者さんが考えるというところの 《夢》や《復讐》やらが如何なるものか?←(ここ、デリケートな部分) 質問者さんから何ひとつ語られてない。 質問タイトルからして、かなり息苦しいんちゃうかな? デリケートな部分について何も語ってはれへんし それが「何か?」を打ち明けられへんことが 質問者さんを息苦しゅうさせてんのんちゃうかな? 押し黙らせてるのは他の誰でもあれへん、質問者さん自身やとしたら… 身体の自己防衛機能が働いているとも考えれんことはない。 質問者さん書いてはるやん 《かなり私は萎縮して生きています。》と。 それでなくても普段から身構えてるところへ 《特に若い女性は最も苦手としています。》と言うてはんのんに のこのこ顔だしたら、フリーズしてしまうやん、相手が。 あっちへ書きに行ってない理由はそんなとこかな。 【伸張反射】 http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/brain/brain/30/index-30.html 【「神経系-1:末梢神経系・自律神経系」ユニット】 http://www.lab.toho-u.ac.jp/med/physi1/nervous1/nervous1-12/nervous1-12.html 【脊髄の構造】 http://bunseiri.hp.infoseek.co.jp/sekizui2.htm 【 認知神経リハビリテーション】 http://www.ctejapan.com/ncr/ncr.html 機械仕掛けの神という創作手法があります。 ↑ 目覚まし時計のお話ですか? (-_-;)uuu…  私事ながら今週は月末までびっちり連勤です。 夕べも寝てねぇー(睡眠不足気味じゃ)(/_-)゛゛゛ゴシゴシ 間があいても不信がらず、諸事情おわかりおきください。 m( _ _ )m  (しめちゃ やぁーよー) ひとまず理を入れたところでっと、 ******************************************************************************* 千と千尋の神隠しでは 湯婆の妹の存在が 千の苦境脱出のための そのような奥の手であったのではないか。こう思います。  見ている途中では どうも この 後半で初めて登場した妹は なぞだなぁと思っていましたが 見終わってみると なぞではなくなった。何のことはない。それまでの登場人物では 千の問題の解決には 間に合わないから そして 第三者では 唐突すぎるというので 湯婆とのつながりを持たせた人物を 機械仕掛けで出して来た。  つまり 人間を描くのではなく 話の筋を優先している。 ******************************************************************************* ↑ 『千と千尋の神隠し』の中に何を隠しました? 『器官なき身体』で、半導体デバイスときてアマテラス? http://www.kyosemi.co.jp/hayawakari/01_j.html 話の筋からして…ドサクサに紛れて…ちっちゃな声で… 「ババア、ババア」と、…つぶやきませんでした? えっ? 気のせいだって? 空耳だって? ふーん…(ーー)゜  やけに目につくのよねぇ~♪ 湯婆の「婆」の文字が…。 気分転換にお散歩ぷらりぷら~♪ 「たんぽぽ み-っけ!」。 アハ、やっぱ気のせいだったみたい-☆ (*^^*)>゛゛゛だはぁ 【散歩道2-たんぽぽ-】 http://gogensanpo.hp.infoseek.co.jp/main2.html ●そして 第三者では 唐突すぎるというので  湯婆とのつながりを持たせた人物を 機械仕掛けで出して来た。 ↑ ほでも気になるのよね、「そして」って言葉が… 【要素モデルの汎用的統合手法の開発】732?http://wenarc.naro.affrc.go.jp/sakukai/kikaika/info/agr_mac_inf.html そうそう甘い話ではなさそう? たんぽぽときて… 担保と債務不履行と帰責事由ときたれば ◎◎◎◎◎◎◎◎◎ フリテン (-_-;)uuu…   -自由な空-おえかき-「よぞらのたんけん」 http://www.aero.or.jp/young-art-con/young_art_2001.htm 『千と千尋の神隠し』

noname#80116
質問者

お礼

 littlekissさん ご回答をありがとうございます。  ★▼ ゆたんぽ:「湯‐湯婆」  ★▼ じゃんけんぽん:中国語の「両拳‐石+並(石偏に並)」  ☆ わたしの小さい頃は いんじゃん・いんじゃんちー と言っていました。  ☆☆ 機械仕掛けの神  ▲ デウス・エクス・マキナ(Deus ex machina)~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%83%8A  ▼ 演出技法の一つ  ▼ 古代ギリシアの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、いきなり絶対的な力を持つ神が現れ、混乱した状況に解決を下して物語を収束させるという手法を指した。  ▼ 古代ギリシアの時点においてすでに批判がある。  アリストテレスの『詩学』においては、デウス・エクス・マキナはよい解決としては評価されていない。アリストテレスは、演劇の物語の筋は必然性のある因果関係に基づいて導き出されるものであるべきとして、無から解決を導くこのような手法を批判している。  現代においても余り良い評価は得ているとは言えない手法である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 『器官なき身体』で、半導体デバイスときてアマテラス?  ☆ 『器官なき身体』が どういうふうに出てきたのか 関心があります。《死んでいる》からでしょうか。

回答No.38

こんばんは、brageloneさん。 ●イスラームが インドを支配したとき 仏教も廃れたわけですから  ↑ 《仏教も廃れた》←そうなん??? いつの時代のどこでの話? なぞや。 【WTOドーハ・ラウンド交渉の概要】―(p.6)― http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/wto/pdfs/doha_raund_0708.pdf 【南アジア経済問題研究会―2000―】 http://www.mof.go.jp/jouhou/kokkin/tyousa/tyou009g.pdf 【財団法人国際通貨研究所】 http://www.iima.or.jp/ 【日本貿易振興機構(ジェトロ)】 https://www.jetro.go.jp/world/asia/ https://www.jetro.go.jp/indexj.html http://www.voiceofindia.co.jp/content/view/1094/61/ 【造形サンプル写真】 http://www.jwri.osaka-u.ac.jp/~mri1/study/3DMW/hp05.html ●止まってしまった世界に 人は 連れて行かれる。 ↑ 夢の中 【QNo.3903311 もし記憶を参照しなかったら 】 ANo.31,ANo.33 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3903311.html 『不思議の国のアリス』 Alice's Adventures in Wonderland ルイス・キャロル 著 より(一部抜粋) ​http://www.genpaku.org/alice01/alice01j.html うん、ひとつのことに心が囚われちゃうとそこから抜け出せなくなる。 『義血侠血』泉鏡花著 http://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/363_20915.html 【QNo.3346636 日本人は 死んでいるのでしょうか】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3346636.html 【QNo.314884 次の言葉の意味を教えて】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa314884.html 【QNo.3385602 ストライキを起こす仏教徒】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3385602.html 【QNo.21802 客観的に見てどうですか?】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa21802.html 【QNo.195023皆さんクイズ教えてください】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa195023.html 【QNo.389244「千と千尋の神隠し」。どんなところが良かったですか?】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa389244.html 【東京コピーライターズクラブ】 http://www.tcc.gr.jp/index_main.html 『ウィルコムタイム』 http://jp.youtube.com/watch?v=vs6HhwE9AQc はなしてもいい はなさなくてもいい いつもつながっていればそれでいい はなしてもいい はなさなくてもいい いつもつながっていればそれでいい いつでもきみのことかんじていたいんだよ いつでもきみのこころにふれていたいんだよ はなしてもいい はなさなくてもいい いつもつながっていればそれでいい はなしてもいい はなさなくてもいい いつもつながっていればそれでいい いつでもきみのことかんじていたいんだよ いつでもきみのこころにふれていたいんだよ そばにいてもいい はなれていてもいい いつもおもいあってればそれでいい そばにいてもいい はなれていてもいい いつもおもいあってればそれでいい いつでもきみのことかんじていたいんだよ いつでもきみのこころにふれていたいんだよ 【第26回 ワイヤレスの時代がやってきたものの】 http://www.atmarkit.co.jp/fsys/zunouhoudan/026zunou/wireless.html 【システムズ・エンジニアが日本を救う】 http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/ITPro/OPINION/20021002/1/?ST=nc 【失敗とコンサルタントの関係】 http://itpro.nikkeibp.co.jp/NC/members/NC/FUDOU/20021030/1/ 【システム・コストの節約は一筋縄ではいかない】 http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/NC/FUDOU/20030801/1/

noname#80116
質問者

お礼

 littlekissさん ご回答をありがとうございます。  機械仕掛けの神という創作手法があります。  千と千尋の神隠しでは 湯婆の妹の存在が 千の苦境脱出のための そのような奥の手であったのではないか。こう思います。  見ている途中では どうも この 後半で初めて登場した妹は なぞだなぁと思っていましたが 見終わってみると なぞではなくなった。何のことはない。それまでの登場人物では 千の問題の解決には 間に合わないから そして 第三者では 唐突すぎるというので 湯婆とのつながりを持たせた人物を 機械仕掛けで出して来た。  つまり 人間を描くのではなく 話の筋を優先している。  日本人は死んでいると思いますよ。

回答No.37

こんばんは、brageloneさん。 《音いまでこそ音色から音量とすごく幅があるけれど その昔、遥か昔はいまほどではなかったようだね。》 《楽器自体から出る音量が小さい。》 ↑ あゆみ ↓ 【失われた高音域を補完――「バンド幅拡張技術」】 http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0603/09/news059.html 【「報道のあり方を考える」】 http://totsuka-yacht.com/hiro3.htm 『Romanticが止まらない』(C-C-B) http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND4913/index.html 【離散時間フーリエ変換】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A2%E6%95%A3%E6%99%82%E9%96%93%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A8%E5%A4%89%E6%8F%9B DTFTの周波数領域の表現は常に周期的関数である。したがって1つの周期に必要な情報が全て含まれるため、DTFTを「有限な」周波数領域への変換であるということもある。 諦めるにはまだはやいこれから 【構文と意味( 1 ) 事態解釈と構文選択】 http://www.sakamoto-lab.hc.uec.ac.jp/lecture/6%5B1%5D.ninchigengoron.pdf 『日本人のアイデンティティー』 http://books.google.co.jp/books?id=OuXJ7KwR6MsC&pg=PA26&lpg=PA26&dq=%E5%A4%96%E7%95%8C%E8%AA%9E%E3%80%80%E6%A7%8B%E6%96%87&source=web&ots=nVyKJ3i6wD&sig=W5apLTs65OA9AHqaUnhMnLq5ayM&hl=ja&sa=X&oi=book_result&resnum=4&ct=result#PPP1,M1 【離散フーリエ変換(DFT)】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A2%E6%95%A3%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A8%E5%A4%89%E6%8F%9B 【フリーラジカルと活性酸素】 http://www.komorebi.org/kaisetu/freera.html 【活性酸素】  http://hobab.fc2web.com/sub2-kasseisanso.htm 【幕張メッセ】 http://www.m-messe.co.jp/ 【ピッツコン】 http://www.datum.jeol.co.jp/ana-news/ana-43.pdf http://www.jeol.co.jp/services/analytical/no55/an55.pdf http://www.jeol.co.jp/publication/n_news-ab.htm *************************************************************************  ▲ 〔《共時的同一性》としての〕 「他の人格は自分である」という自覚(p.50)  ☆ という規範を設定すると わたしのような自由野生異端児には 窮屈に感じるのだが どうだろう。それは わがままであって ゆるされないだろうか。 ************************************************************************* “打てば響く” この響き… 「野球は誰のためにするのか?」 「野球は自分の気持ちを伝えるスポーツなんだだからもっと自分が楽しんでいいんだよ」 「お前の野球って、なんなんじゃ!!答えろ、答えろよ原田!!」 「一緒に野球しようぜ」 「野球は誰のもんですか」 「…お前たちのもんだよ」 『バッテリー』 http://www.bt-movie.jp/ 『ROOKIES』 http://www.tbs.co.jp/rookies08/ 『春に』作詞 谷川 俊太郎 作曲 木下 牧子 http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/haruni.htm 『世界史は日本史をどう記してきたか』河合敦著 青春出版社 (p.3) ――― はじめに 私たち日本人は、歴史を「世界史」と「日本史」に分け、別の科目として高校で学んできている。こういうやり方を採用している国は、とても珍しいそうだ。一般には、自国の歴史(国史)を中心にして、これに世界の動きを加えた教科書を用いているところが多いと聞く。いずれにせよ、このように「世界史」と「日本史」を完全に分離して勉強してしまうから、ともすれば、「日本の歴史は世界の動きとはあまり関係なく、独立してその歴史を刻んできたのだ」とする勘違いが生まれてくる。だが、日本史の歴史はいつも世界の歴史と密接にからみあいながら、連動して流れている。そういった意味では、あくまで「日本史」は「世界史」の一部なのである。「世界史」の中に、日本の歴史が存在するというのが、正しい認識といえよう。けれどもそれは、「世界史」が主で「日本史」が従であることを意味しない。常に日本が世界の影響を受けて歩んできたと思うのは、大きな間違いである。日本が逆に発信源となって、世界の歴史に大きな影響を与える例も決して少なくなかったのだ。――――――――――

noname#80116
質問者

お礼

 ★ 『日本人のアイデンティティー』  ☆ 読んだ後 どう思うか なのですが。読むときは それが正しいと信じて――著者以上に 著者の考えに立とうとして――読みますから 説得されますが 果たして そのまま 活用できるかとなると どうなのでしょう。  集団主義の場合 集団は 目的ではなく手段であるというのですが 実際の社会では この集団が 目的となり その結果 全体主義にならないとも限りません。言いかえると 集団を指導する者が間違った場合 人びと一般は これを指摘し 修正するように為し得るかです。  とは言うものの わたしも 護送船団方式を提唱していて 企業集団として個別にも そして 社会全体としても 社会保障を張り巡らせつつ進む社会のあり方をよしとするのですが どういうものでしょうか。  ★ 『Romanticが止まらない』(C-C-B)  ☆ への評言を失念しました。あと  ◆ 《QNo.4289438: はい上がるための動機 =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4289438.html》  ☆ こちらも 話が進むといいのですが。

noname#80116
質問者

補足

  littlekissさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  今回は 総じて お茶をにごすほどのご返答になります。  ★ 『世界史は日本史をどう記してきたか』  ☆ 雑談です。たしかフランスでは 歴史を 古代エジプトから書き起こすと思います。ナポレオンが ピラミッドの上から 兵士たちに《四千年の歴史が 諸君を見ている》とか何とかと 号令 いや 訓令(西村真悟=http://totsuka-yacht.com/hiro3.htm)したと言いますから つまり よその国へ入って 植民地にしようが宝物を盗もうが 強いもの勝ちだと――あるいは いわゆるキリスト教によって 自分たちこそが救済に値する人間でありクリスチャンであると思い込んでしまったことにより 当然だと―― 思っているところがあります。  イスラームが インドを支配したとき 仏教も廃れたわけですから 日本は 十字軍を出してもよかったんですかね。ずっと後になって アジア解放を唱え出しました。こちらは どうだったんでしょう。  ★ 『春に』作詞 谷川 俊太郎  ☆ 歌詞に 目くじらを立てます。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  地平線のかなたへと~~ 歩き続けたい          そのくせ~~~~ じっとしていたい        この草の上で じっとしていたい    声にならない 叫びとなって こみ上げる  この気持ちは 何だろう~~~~   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆  たぶん 俳句の世界なのだと思います。情景を切り取って見せればよいというのではないでしょうか。それを つまり情景描写を ある程度長く しかも うまく やられると その一編の詩歌に切り取られて 止まってしまった世界に 人は 連れて行かれる。人よ 少年の頃から 老成せよ というわけです。  また もし ここで歌われた《この気持ち》が 分かった子供たちは その感情を大事にするようになるでしょうが 同じくそのまま 感情じたいが 何にも増して 大事だという考えになってしまわないとも限らない。たいていは このような感情をつつむ意志(愛)をも芽生えさせているでしょうが そうとも限らない場合も出て来かねない。のではないでしょうか。  社会に対する意志としては《老成》してしまって あとは ものごとに対して 《純粋感覚》で進めとおしえているかのようです。もちろん 作者は 意図していない。にもかかわらず 子供たちにとっては 《老成した純粋感覚》とは いったい何ぞやとなります。いちばん悪い例を挙げれば 《感覚の好みに応じて 純粋におのれの欲望を追え。ただし ひそかに人知れず おこなえ》とはなりませんか。――その結果 この場におけるように 哲学者になる人びともいるわけですが。  ★ 野球  ☆ は 好きだったんですが 相撲と同じように ヤオチョウとやらが 見え隠れします。推測だけを言って 根拠を示さないのは 素人評論の特権。よっぱらいとでも 思ってください。つまり そのプロのすじの人たちが そうなのだ(よっぱらっているのだ)と思いますから。《アマテラス語》――と言っても 純粋培養の概念や理念だけを言うのではなく ひとが用いるそれですから――は 信用できない。  このように放言する  ☆☆ 自由野生異端児  ☆ に あなたや ここでの友らも どこまで つきあっていけるか。アマテラスとスサノヲとを どんでん返ししようというのですから。  ★ 音楽・音・ピアノの歴史 etc. また ポール・ドゥラロッシュをめぐる絵画論  ☆ 気の利いたお応えができなくて くしゅん。小言だけは 一人前で くしゅん。あたまを丸めねばなりませんか。  ★ 【離散時間フーリエ変換】  ☆ 数式もおわかりになるのですか。

回答No.36

こんばんは、brageloneさん。 はいろっかな、どうしよっかな、と、タイミングがなかなかとれない。 どのタイミングで入ればいいのかわかんない。 (うん、ちょうど大縄跳びの中に入れず外で躊躇してるかんじ。) http://www6.ocn.ne.jp/~tetugaku/oonawa.htm ANo.35への《この回答へのお礼》に『この質問は まだ当分 開いています。』と、あったからまだなんとか。そか、それなら入ろっとなりもするけど、ANo.32への《この回答へのお礼》では『しばらくして 締めたいと思います。』と、あると、もうええんかと思いもする。マジ、“イライラ棒”かと画面見ながら突っ込みひとつ。当分開けといてください。 ANo.31への《この回答への補足》 ●☆ 《浄福は不可死性なくしてはあり得ない》とき  可死性の生において それの実現を求めても よろしいですか? ↑ ちょこっと、保留。 『もしもピアノが弾けたなら』阿久悠作詞 坂田晃一作曲 http://jp.youtube.com/watch?v=zJOLvValJ64 http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/moshimopianoga.html もしもピアノが弾けたなら 思いのすべてを歌にして きみに伝えることだろう 雨が降る日は雨のよに 風吹く夜には風のように 晴れた朝には晴れやかに だけど ぼくにはピアノがない きみに聴かせる腕もない 心はいつでも半開(はんびら)き 伝える言葉が残される アア アー アア…… 残される この歌の歌詞とにらめっこ しばし、ピアノに思いを馳せる 【ピアノ】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E 【チェンバロ】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AD http://www.izumihall.co.jp/hall/p_harp_c.html 【クラヴィコード】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89 【鍵盤楽器】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%B5%E7%9B%A4%E6%A5%BD%E5%99%A8 【ロマン派音楽】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E6%B4%BE%E9%9F%B3%E6%A5%BD 【オーケストラ】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9 音いまでこそ音色から音量とすごく幅があるけれど その昔、遥か昔はいまほどではなかったようだね。 “もしもピアノが弾けたなら”と歌詞にある「ぼく」は楽器が全く弾けないわけじゃなく、“雨が降る日は雨のよに”の言葉が後におかれていることからすると、いろんな雨の音を表現できない、軽くは弾けたとしても吹きつけ殴りつけるような激しい雨音を表現しようとすれば力強く鍵盤を押さえ連打、難しい。難しいこととは別に、楽器自体から出る音量が小さい。表現したい音が出せない。“心はいつでも半開(はんびら)き伝える言葉が残される アア アー アア…… 残される”響板が半分開いてるってことは中が覗ける、まだ死んだわけじゃない。手を加えれば活かすことはできる。そこから何かを掴み取れ。遺産。うん、歌の歌詞ひとつからピアノ、鍵盤楽器の歩みを辿れる。おもしろいね。 【ポール・ドラロッシュ】 http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/D/Delaroche/Delaroche.htm http://lapis.blog.so-net.ne.jp/2005-08-31-1 http://lapis.blog.so-net.ne.jp/2006-11-22 【人格の復活】 http://lib.s.kaiyodai.ac.jp/library/kiyou/ron3803.pdf

noname#80116
質問者

お礼

 ○ 時は金なり。  ☆ というのは  ○ Time is money. すなわち S-V-C.の単層構文。  ☆ であるが 同じ従兄弟どうしの仏文では  ○ Le temps, c'est de l'argent. すなわち T(主題格),/=断層あり/,S-V-C.というような重層構造  ☆ を成している。和文・韓国文などは 問答(T-P)関係としてこんにゃく問答をも許容する《非線形》の構造(つまり非構造)の上に 主述(S-V-O)の論理的な線形をこしらえている。漢文は あたかもすべての構造を取り払ったかのような混沌(文法自由)である。英文は 見たように 単一論理先行型である。英文と和文との間に 能格構文がある。(バスク語・コーカサス諸語)。  つまり英文のごとく S-V-Oの単層構造の文体によって意思疎通を図るならば 世の中は 《線形》の論理で成り立っていると見なし ややもすると 世の中は《大競争時代》(雨宮p.43)に成りがちであるかも知れない。(ちょっと言い過ぎである。一面的な見方であることを免れなかろう)。  主題(T)と論述(P)という文型は 単純に言って 問いと答えである。打てば響くという問答が――それは あやまればいいのだから―― 通時的同一性としての答責性を支える。共時的同一性のほうは 主題の提示の自由さ 提示された主題の自由な共有 それに対する回答の多様性とその自由な相互受容などを 取り決め合っておけば よいのではないか。  ▲ 〔《共時的同一性》としての〕 「他の人格は自分である」という自覚(p.50)  ☆ という規範を設定すると わたしのような自由野生異端児には 窮屈に感じるのだが どうだろう。それは わがままであって ゆるされないだろうか。

noname#80116
質問者

補足

 littlekissさん しばらくぶりです。ご回答をありがとうございます。  ★●☆ 《浄福は・・・》←ちょこっと、保留  ☆ は分かりますが――なぜなら 容易に分かれば苦労しない性質の問いですから―― ほかの点では 別です。ほかの事柄にかんしてなら たとえば  ★ 『もしもピアノが弾けたなら』  ☆ を出すのは――分かる気がしても―― それは 甘い考えです。あるいは もう行動を諦めた年寄りの考えです。ジュクリョとチュウチョとは 別です。いぢ悪の名人は ラヂカリストです。そういう感慨を持ちました。  ★ 格  ☆ とは――原義については ともかく―― 格子に喩えたととれば よいと思います。(以後 断定口調で行きます)。人と人との関係が 縦横に絡み合い さらには 放射線状につながるさまを言うと。  ただし その根底には ひとりの人間がいるというのも然ることながら この格子関係よりもさらに基底には 四角や放射線状の網の目からも漏れる 人間関係が見出される。( Susanowo 人間語の問題)。  しかも さらに翻って この地中に這って延びるかのような根茎の持ち主も 一本の木として という意味は 言葉を話す主体として 存在している。関係は 言葉による意思疎通を基軸としている。(孤独としての一人の《わたし》なる存在にしても 言葉によって そのわたしを知りわたしに還ると言ってよい)。  話す動物であるひとは その話に 格子のごとき格言を持ち得て 格式(決まり・規則・法則)を見出すようになる。  このような格子関係における格調高き格言として取り決め合ったその内容が 人格である。( Amaterasu 普遍概念語の問題)。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   人格の同一性と言うとき、二つの意味があることに注意しなければならない。一つは同時的世界の中に見いだされる複数の人格の同一性である。もう一つは一個の人格の異なる時間、異なる場所における同一 性である。前者は、共時的同一性、後者は、通時的同一性と呼ぶことができるであろう。  (雨宮民雄:【人格の復活】p.50) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということは まづ《通時的同一性》と言っても 《あやまつは ひとの常》であり おのれの発言について答責性を持つということである。原因究明し わびて おのれをあらためる。人格の《共時的同一性》と言っても 説明責任を果たしつつ新たなコミュニケーションに入るという《通時的同一性》を 例外なく 誰もが持つということに尽きる。そういう格子関係であり 人格関係である。  ▼ 人格は語としての「私」と一語文としての「私」の複合である。(p.49)  ▼ 存在という概念の根底にはインド・ヨーロッパ語の「主語(S)─述語(V)」形式がある(p.47)  ☆ これに 補充をしたい。  ○ 文は人なり。  ☆ と言えば S(主格語)-C(同格補語)-V(述格語)である。  ○ 文は人が述べる。  ☆ と言えば O(対格語=文ヲ)-S(主格語)-V(述格語)である。ところが 和文では 格活用を表わす ハ が 主題格(T)をも兼ねる。つまり 《文はと言えば(T) 文を(O) 人が(S)  述べる(V)》。つまり 主述関係のS-V-Oの構文のほかに T(文は)-P(人が述べる)というように 主題格(T)‐論述格(P)という構成にもなっている。二つの構文が含まれていて 重層的な構造を成す。  いづれにしても――つまり 単層構文であっても―― 言述(上の例文など)の背後に 話す主体がいて これは 話者格を成している。  この話者格は 《語としての「私」と一語文としての「私」の複合》としての《人格》に相当すると言えるだろう。話す動物としての人は 話すことにおいて 《話者格》を成すなら――つまり すでに つねに 成すのであるから―― 人格どうしの関係を 基本的に 構築していると言ってよい。  その基礎の上に 格子関係ないし格言や格式を普遍的に見出すと唱える人格理論がつくられている。つまり Susanowo人間語の中に 格子関係は宿っており その上に 人格関係という Amaterasu 普遍人格語の骨組が見出されるのである。

回答No.35

専門家が こうした井戸端会議に出席する良さとか価値にも、ふと気づきました。 ですので、ときどき覗いてみることにもしました。 その説明から すこし書いてみますが、 これは松下幸之助の晩年の目の輝きがまるで小学生みたいに、純粋な好奇心のような新鮮な感じのものであることに驚いたことがあるのですが、 この時点でそれを思い出し、 「そうか あの頃の目や耳を忘れてはならないな」とあらためて思ったことにもよります。 私の小学生時代はかなり複雑な記憶になってますので(^^)、その時期は思い出せないのですが、 たしかラジオ番組で とても好感の持てるその時代の空気をいっぱい吸った女優(名前を忘れてしまいましたが)が愛犬ぺスの連続ドラマを朗読しているのを聞いたことがあります。  なんとも新鮮で私の心を深く惹きつけた番組でした。   おもしろくておもしろくてしかたなかった  といった感じです。 哲学者の井戸端会議には、全員がというわけにはいかないでしょうが、そうした新鮮な受け手の心が反映されるのでは、とふと感じたからです。 ただ、ここでは、素人でも普段から物事や人生を真剣に考えている方かたとの対話は、むずかしい専門用語で話す専門家の世界とは別な形で 人生の真実に迫る何かが得られるとも思い、その観点から「教え・教わる」場として、専門家からの回答にこだわってきたわけですが、  ウソという観点は、実は演劇の専門家が必ずしもそのすべてを思索しえているのかということにはまさに私の考えからは疑問があったところで、 やはり そのへんもそちらから 大いに気づかされたことがありました。 一番には やはり「ふと、自分も素人だった」ことをどこか忘れてる点への反省でした。 あるいは そのあたりのことです。 そこが神が人間となってしかもだれにでもわかるたとえ話でしか話さなかったというキリストの世界の専門家の感化の世界なのだと思いました。 これは生涯、肝にめいじておきたいところと思います。 * ですが、私自身は“どうやらただの専門家ではなく 感性教育の革命家であるのではないだろうか?”という疑問がいよいよ強くなっているところなのです。 NHKの喉自慢の質問にしても、 歌の先生方がこんなに長い間、素人の歌の教育上のそれぞれの長所がずいぶん出てくるその番組に接していて、何でその長所を指導して同じメンバーで、その成長や指導方法の価値をも問いかける番組のビジョンをその立場からテレビ局に訴えないのかな、 と真剣に考えての質問でしたが、    事実歌の世界が これだけ長くその番組の発展に言及してこなかったということは、  まさに歌の文化自体に真剣さが足りないのではとしか思えなかったため、  それで哲学のカテに質問したわけですが、   その観点からの回答は、 まさに感性教育自体がおくれてるようで、 またアカデミックな哲学の歴史自体がどうやら感性教育の必要性についての論議に到達していないようで?  ここでも、はや、「自分がやんなきゃいけないのかな」という気持ちにさせられてしまってます。 たしかに 死に物狂いで人生を考えてきての感性教育の必要性についての自分の中での結論の世界ではあっても、 もちろん普通は自分自身の論理の世界も間違いとか未完成部分とかがたくさんあるはずです。  それを知りたいと思っての質問(かなり演技的文章の形ともなり 事実は複雑な文や対話となっていますが、求めているところは そこだったわけです。)でもあったのですが、   私自身が ほんとうに前衛の地点に来てしまっているのならば、 もう少し考えながら「Q&A」に参加してゆく必要がありそうですし、 それに革命ということならば、このワーキングプアーの忙しい立場にては、 私の文言は仕事とも使命ともなってしまうところ、 がゆえにこそゆとりも必要と言っても  ここは、ここにて撤退したいと思います。 * 《QNo.3462873 本物からはどうしてオーラが出る? =​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3462873.html​》 をすべて読ませていただきましたが、 まだこの方は質問を締め切っていません。  オーラという言葉こそ抽象的に使われている言葉ですが、この質問者の感性や疑問こそ、もしかしたら感性教育の可能性の世界と深くかみ合う世界なのかもしれません。   いまだに閉じられていないことの裏に、その真剣さがあるのであれば、私が参加することで大きな新しい価値が生まれるといいなと思います。 ここでこそ、専門家として回答してみたいと思います。  オーラについては知らなくても、だからこそ客観的に質問者のその言葉をいっしょに問いただす姿勢をとりやすいということもあるかと思います。 ミコさんやブラさん(すみません、ふだん「様」と使ってるのをいきなり友達ふうにしてしまいましたが、 普段「様」と使ってるのは、 ネットでは文言からその人の裏の人生なんてとくに解らないのだから 神様じゃないんだから、もうできるだけ尊敬の意味を込めた言葉で相手の名前に対応しようとういう気持ちの習慣化したものです。  でも ネットの友という形もここまで対話が進むとあるかと思います。 そんな感じで、たまには新鮮でいいかとも思いましたので)の回答の中の論議も再び その中で復活させたいなという気持ちもあります。 素人の新鮮な気持ちにはオーラは感じない世界なのでしょうかね。 自称専門家の筆をそちらのほうに、ここから伸ばしていってみますね(^^)。 よろしければ覗いてみてください。  私も彼の希求するところの集中した心の強さの前にうまく回答できるかどうかの自信とかはありませんが、やってみなければ解らないことですので やってみます。 それに刺激をうければ、また参加してみるのも面白いかもしれないですしね。 * おおいに学ばせてもいただきました。 いろいろとありがとうございました。

noname#80116
質問者

お礼

 arayata333さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。じっさい いろんな意味で わたしは素人だと思います。いい意味あるいはただただ頑固に感覚を守り訴える悪い意味でも 素人です。  たとえば  ★ 素人の新鮮な気持ちにはオーラは感じない世界なのでしょうかね。  ☆ 感じるのです。感じたのは ほんとうに その作品あるいは人物の実質的な中身であるのかどうか これを すぐさま 吟味しています。感性が 自動的に そうしています。  つまりは 一たん感じたオーラのようなものを 自然と 素人は 剥がしていると思いますよ。一たんすべてをご破算にして 自分が感じるものを まづ 大事にしょうと思っていますし この点 頑固です。イメージが ロゴスにさえ 先行するのです。  Susanowo 人間語に かたくなまでに 信頼を寄せています。Amaterasu 普遍人格語には まづ うそを見ます。そのうそが どれだけ みづらかの虚構をとおして 人間 Susanowo の真実を表わそうとしているか これを吟味しています。  あとは なるほど真実だと納得した場合 その場合でも オーラは 装飾品であると 知っています。知りきっています。そして 負のオーラのあることも じゅうぶん感じています。  いづれにしても 素人は これらのオーラに対して 従う振りをします。装飾品の問題で その当の人が 人格じたいをうんぬんされたと感じたら それは こちらの負けですから。でも Amaterasu 普遍語は 人格語でもあって その言葉を使いこなすことが 人間であることにとって不可欠であると その種族の人たちは 信じているようです。この《信仰》には 歴史がありますからね。  この質問は まだ当分 開いています。

回答No.34

やっぱり、絵については すこし筆を伸ばします。 専門家の看板を降ろしたと言っても 今まで書いたことと矛盾したり、今まで書いたことへの責任まで言葉を尽くすことなく終えてしまう回答なのか?と 思われたりしても それはそちらに失礼なだけだと思います。 まず、ピカソについて書きますが。ピカソの絵にまったく迫力を感じないというのではないです。 でもその程度のものが何で 世界一?なのかという漢字ではまったく解らないということなのですが、 ピカソの絵の価値は、空間処理構成の斬新さにある聞いています。 ほかに真似のできない世界をつぎつぎあたらしく生み出した?という点です。 それが評価されているらしいのです。 では、私自身は その絵画における空間処理構成の世界を実際にどのように追求していこうとしていたのか?   ピカソの場合は文章での説明は、その内容には触れていない?ので、言葉でなんて説明出来ない境地なのかさへ解らないわけですが、  私の場合は単純ではあるので 言葉できちっと説明できるのです。 私のその追求の中でもっとも深い地点でさへ、それは言葉でも説明できるところが、    むむ、  やっぱり%とかでは言えないですが、たとえるならば90%ぐらいはあると言えそうです。 ともかく 説明を聞いてください。 私は その頃 その光と影(実際の空間の)への感動があれば、どんなに細かい線を写し取ろうとしても面倒ではないので あとは時間さへあれば写実的な絵ならば書けるし、それにはその感動も線とタッチの中に現れて被写体の客観的美の世界を その分何か越えた写実絵画の世界が生まれるというふうに、 まず感嘆に考えていました。 その写実絵画論は、ここではともかく、 そのタッチの世界を生かして 空間処理構成の深みを実現できないかと思ったのです。 そして、私は鉛筆でもポールペンでも、まずひび割れた土の細かいひびの模様を紙の上に 想像でですが線の一本一本に 全身全霊で 《その線の上に、 空間が出来るように描いていったのです。 50センチぐらいの空間が遠近方を一切使わずに 人目で感じられるような写真なら可能なものを、ただの模様で描こうとしていたのです。 めちゃくちゃ疲れることがわかりましたし、それなりの空間が浮かんでくるまでには時間がかかりました。 でも私は 一枚の画用紙に それなりのものをとうとう完成し、それをある物理学者のような人に見せましたが、 その人はその空間を理解し驚いてくれました。  私自身には確信はまだ無かったのですけどね(^^)。 「心の修行のために書いてるのですね」と言われました。 たぶん、その頃はもっと不純な気持ちもあったでしょう。 その絵自体は純粋なものに仕上がってはいても、 いっぱつ新しい境地を開いてやろうとかいったばかばかしい心もあったかと思います。 でも彼の言った一言は 私を邪道から救っています。 考えたわけじゃないですが、  その後、単なる空間処理では構成の段階にすぎないということを知り、自分の絵の心の世界がほんとうは、まだまだ登山道の始まりの地点にいるにすぎないという謙虚な心 というより自分の実態を知ることに それは細い糸でですが、はっきりとつながってるような感じですので。 このように 真剣に私は 空間とかその処理とかの世界も奥深い地点で実際に迷い苦しみ創造もして、 その上で考えても来ているのです。 でも、 それでもピカソの絵のどこが 同じ地点の空間の深さを持っているのか 私の能力では解らない世界がそこにある らしい というふうにそんな感じでお手上げだということなんです。 いろいろな才能の面での壁にもぶちあたり、その後もさまざまの挫折とかにもありつつ、 でも絵の心の面、鉛筆とかの硬い道具での絵心の面でならば、 長い長い、 今書いたような言葉でも探れるような絵の表現の世界 その評価の世界について 語れないわけではない、そういう専門性ならありますよ、 ということなんです。 人のことは たしかに、この感性の世界ではそうかんたんに解らないこともあると思っていますが、  でも ハンカチ取ってください、といわれて猫をさしだす人がいたらアルツハイマーか何かであることが私たちの誰にもはっきり解るという言葉の性格が  感性の深みであるならばいっさい当てはまらないということはありえないという考えも私は持っているのです。 いつか すべて通じます。 その過程がわたしにとっての感性の求道の世界です。  これで すこしですが、つじつまは合ったのではないでしょうか。 取り急ぎ 書いてみました。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ピカソの絵の価値は、空間処理構成の斬新さにあると聞いています。 ほかに真似のできない世界をつぎつぎあたらしく生み出した?という点です。  ☆ キュビスムと言うんでしょうか。今回 ヰキぺディアで確認しようとしたのですが 必ずしもはっきりしません。ともかくポール・セザンヌ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%8C)は その『リンゴとオレンジのある静物』で この果物の描き方として 必ずしも遠近法に忠実ではないかたちを採用したと聞きました。遠くのものも 故意に 大きく描くことによって――つまり うその構成をつうじて―― 存在を 知らせるというようなことだと聞きました。  ここから 視点・視角を自由に いくつか複数に 設定して そのすべてを 一枚の絵に描くようになったのが キュビスムであり ピカソだと聞きました。つまり 《空間処理構成の斬新さ》ですね。  ただ 個人的にわたしは そのようなピカソの絵が 楽しくはありません。  そういう私情をもろに出しながら 絵画論にかかわって 回答をしたものがあります。  《QNo.3462873 本物からはどうしてオーラが出る? =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3462873.html》のNo.24&25&28です。No.28では あなたもご存じの miko-desi さんのご回答(No.26)に刺激を受けて 私見を強引にでも述べています。よろしかったら ごらんください。ピカソ論などが入っています。  総じて言って arayata333さんは 制作者・演技者の立ち場から議論を展開しておられます。つまり 専門家です。そして ここでの質問は そうであるないにかかわらず 出来あがった作品についての評価が 問題です。制作論も そのための人間形成も 感性教育も どれもこれも 大切ですが ここでは 絞っています。いいか悪いか おもしろいか詰まらないか このような単純な批評が もし哲学思想にかかわって 一定程度 理論的に為し得るのならば いいのだがという趣旨なのです。  むろん 制作の立ち場を交えていただいても まったく問題ありません。一たんとしてでも出来上がった作品について ああだこうだと 出来るだけ普遍的に 言い合いたいという魂胆です。やはり 井戸端会議ですね。いかがでしょうか。

回答No.33

>芸術は ひとによって 見解が さまざまであるという大前提< >つくづく 人それぞれだと思います。< これに対する責任ある回答が、私の生きてる間に保障できないと解ってきましたので、 この質問への回答における専門家の立場は、ともあれ という形ですが撤回させていただきます。 舞踊と絵と歌とまなざしには ウソは本来無い、 それぞれの本質部分にはウソは存在しない。という意味の事を書きましたが  実は告白すれば、私にはまだそれを責任持って回答する資格がないかと思います。 舞踊と絵については、いまだに迷いに迷いつつ思索し続けています。 ★ 舞踊については     …、   モダンバレーの歴史が生み出した表現構成の世界は学ぶべきところがあると思っていても、 その構成以前の心の表出表現の世界については、現代の舞踊家全体と何故か対立する考えであることを知ってしまいました。 一人対、あらゆる舞踊の先生 という図式では、何も語れません。 私がどこかで間違ってしまっているとしか思えない気もします。 ともかく、今の今は何も言えません。 ★ 絵については、これはもうある意味恥ずかしいです。 自分の中には 鉛筆やペンならば、確実に「これだ」と言える線で 美の世界を表現できる確信はあります。 でもそれを 有無を言わせない作品にするにはあまりにも神経が疲れるため まだ実験しかしたことが無いのです。   人にそれを見せる段階になっていないのです。 この段階では、言葉でも人に 絵の本質にはウソは無いと語れる資格は無いでしょう。 (こういうときは つくづく億万長者になりたい!!!と思ってしまいます。 こ、これ自体を、ほ  本気のことと思わないでください^^)。 (本音の一部ではあるでしょうけど、今の本気はすべて、総合的視野思索から生まれてるものですので…。) ★ でも、歌にはさまざまな分析が正しく語られていると私にも思える世界があります。 ブレスボイストレーニングで言われてることも、声楽家の随筆とか、イタリアの自然な発声法とかも、ドイツ・リートの歌い方の伝統とかも、すべて重みがあり正しさがあり、おもしろい評価基準の価値的で大衆的な世界があります。 日本の 歌謡藝術研究会の歌の評価基準にも、ほとんど賛成できます。 たぶんですが、喉自慢はこの研究会の基準に添う考えとなっているかと思います。言葉の抑揚、母音と強弱の面では、 喉自慢ではその基準ほどにまでは厳密にしていないと思いますが。 ですが、 この歌の世界においても専門家の皆さんの考えとかなり違う考えもいくつもあります。 いつしか 気がついてみたら別な考えになってました。 それは私の方の間違いなのか? それとも音楽産業がビジネス的に肥大してしまったことでそれに巻き込まれた先生方の方が間違ってるのか? 馬鹿な私にはまだ解ってません。 ならば、実際の私自身が歌の教育システムを作りながら それを検証していってみようという考えがあるのです。  だから私は歌にこだわってるわけです。 この時点からは、専門家の責任を云々できない回答も生まれてしまう ということです。 ということなのですが、 ここにて それがゆえ、 専門家としての責任ある回答という立場を 撤回せざるを得なくなってしまったことを ここに「告白」 かつシャウトさせていただきます。 その上での さらなる「告白」だけ付け加え 私の方からの ここでの回答は終了させていただきます。 * 私もピカソは 解りません。  ゴッホの絵の内の二つが特にすごいことが解ったのは、35歳ぐらいの時で、それ以前はゴッホもさっぱりわからなかった、 さっぱりというより まったくもって解らなかったのですから、 そして解ってみれば まさにどんな解説でも語れない すごい としか言いようの無い世界だったため、   これでは、しかして、ピカソも含め 解らない絵の評価を私が出来るわけが無いという地点となってしまっているわけです。 そして、その意味では、それを 今61歳にて、いまだに克服できていないのです。 これで どうして「いや絵にも客観的な評価基準はある」と人にシャウト(人間の叫びを叫ぶ歌声)できるでしょうか? が、 わたしの中には 大きな胸にぽっかり開いた悲しみのような疑問が すべての画家達に対してあります。 仏教における二乗への批判と同じものなのかはまだはっきりしてませんが、  なんで彼らは 言葉や歌では自らの絵画の深さや楽しさを語ってくれなかったのだろう? なんでその哲学の世界を語ってくれなかったのだろう?     いや、語れなかったのということなのかもしれません。 歌えなかったのかもしれません。 その哲学や、そういう歌の世界は、写真文化とその哲学の世界、神の御業そのものの写しの藝術の哲学の世界との比較の世界以前には、無理だったのかもしれません。    かもしれません。 むむむ。  信仰とその哲学が先に必要だったのかもしれませんね? あるロシアの“点描画家”は 昔の人ですが「神の御技を写し取れる画家はいない。我々はその万分の一の世界を追いかけようと努力してるに過ぎないのだ」という意味のことを語っています。  この考えが 画家達の基本の軸にあったならば、 哲学は、 きっと 彼らの手によって感性教育発展に すでにとっくに結びついていたと思う者です。 以上、 これしか書けません でした。  か 書きたくなることなら山ほどあるのに…(ーー)゜ 私も絵文字は下手ですね(笑)。

noname#80116
質問者

補足

 そうですね。一歩わたしが引いて 見てみようとしていたのかも知れません。  ご回答をありがとうございます。arayata333さんのご見解の一歩前に立ち止まってみたり あるいは何かをきっかけにして 一歩先を(たぶん 横のほうへ)追いまわしてみたりしたのではなかったでしょうか。  哲学としては 観想を重んじるほうだと思うのですが そのわたしも 感覚派のような一面があって 感じを確かめないと てこでも動かないところもあるようなのです。たぶん いや きっと 応対に苦労なさったのかも知れません。いま思えば どんどん 先へ進んで行っていただけば 何のこともなく よいと思うのですが? 今からでも よいとさえ思うのですが?  少ない情報の面でと言いますか これについては 体験・経験しているぞという少ない情報の側面で わたしは 頑固な姿勢を見せたようです。一定の自信を持っていますが それらを出したのは むろん たたき台としてです。ですから どんどん 進めて行っていただけば よかったわけです。  それに 芸術は つくづく それぞれの人によると言っても そこに 専門家がいないわけではないでしょうから。つまり それぞれの分野に それぞれの流儀で 専門家が輩出しているということではないでしょうか。  (それにしても 歌の評価の基準は わかりませんし 短歌・俳句も なんとも どう評価していいのか わからないものですねぇ。けっこう テレビ番組で 見るのです。何とか 分かるようにならないかと思っているわけです)。  すべてを端折って言ってみれば たとえば ゴッホ論やピカソ論が 人間と社会の哲学にとって あるいは 現代思想にとって もし意味を持つとしたなら そのような芸術表現の位置づけの仕方を知りたい こういうような趣旨です。  たとえば 村上春樹を歓迎する思潮は 構造主義=関係主義の影響で 主体なき過程という歴史の捉え方が流行った結果が 反映しているのではないか。社会が 網の目のごとく 関係として 張り巡らされるという構造になっていて たしかにその網のひもの結節点として 人は あると言ってはいても もうその結節点は あってなきが如しと見なされてしまうという情況のように思えます。したがって 悪くいえば ハルキは その情況をおもしろく描いているのではないかというものです。・・・  とりあえず 思うところを述べました。要するに これこれのアニメは おもしろい・よい・いや わるい等々 そのような批評からでも 何か得たいと思ったのでした。

回答No.32

書くペースが遅くなっています。  間も区切りもついてしまったとおもわれますところ、   ここで最初の質問にもどってみたいと思います。 >アニメ・マンガ・TVドラマ・映画そして小説 さしづめ これらの分野で <の部分の、  「これらの分野」は、ウソのつきやすい表現の世界である。 それは演技や“言葉という記号”によるところが大きいからである。   というふうに一応はくくれるジャンルでもあると言えそうです。 しかし、この中にも 歌や絵や踊りの純粋な心の部分の世界、ウソのつけない世界からの表現をからめることが出来るので これらの世界のウソの部分をなくしてゆくことも可能。 それでは、歌や絵や踊りの本質である心の世界を真実たらしめるものは何か、 素朴な子供達のような新鮮な世界(天国)を語らしめる芸術の世界にしてゆく道筋はいかに? というと、それが感性教育に私が期待している部分となるわけです。 もしそこが充実すれば、仏教で芸術を二乗という名で非難しているところのそういう気取った芸術の世界ではなくて、 庶民の魂からの芸術の世界、真の意味での仏界への矛盾なき入り口(菩薩道徳を越えて行く道)の世界としての芸術の世界も見えてくる というのが私のそのへんの考えです。 * 一気に話を進めていきますが、 おそらく、いわゆる「芸術至上主義」というのは上に書いたような意味あいでの 「芸術を人間における最高の価値と考える思想・思考形態」ということでは無いと思われます。 もっと混沌としたそのビックバン以前のもの(^^)と言えそうです。 私の考えこそ それが仏界の入り口の世界とか言うのですから「芸術至上主義」の権現かもしれないですが、 これは底辺からのものであり、健康への叫びなんです。  死に物狂いのその人なりの愛情の世界とも言えるかもしれません。  えらいとか糞とかを越えた、感じる側のあたりまえの世界です。 * ピカソは「絵を描いてほしい いくらでも払うから」と懇願したお金持ちに さらっと二秒で絵を描き200万請求したらしいのですが、 其のお金持ちがいくらなんでも「数秒で200万円だなんて」と講義したところ「2秒ではなく、 40年と2秒だ」とか言ったそうですが、   どんな芸術家でも 多くの人は同じように生涯絵なら絵を追及しています。 お金で買えない宝物を いくつも手に入れているならば一番お金がいらない人たちであるところ、 なんでそれをビジネスにしてしまうのでしょう。 私の言う芸術の世界というのは そんなのとはいっさい関係ない世界です。 ピカソは 天才なのかもしれないですが、無責任です。 というよりもしかしたらですが、 部分的な天才ではあっても 自分が何をしてるかさへ解っていなかったのかもしれませんね。 * マネーゲーム自体を否定する必要は、まだ無いかと思います。 資本主義社会は アメリカの失敗からも学ぶでしょうし、これから変化してゆくはずだと思います。 其の可能性はあると思っています。 サブプライムの問題は 金利変動と証券化の問題のようですが、日本はその両方ともむしろ安泰です。  今のところはです。 でも 本当は安く貸し出して後で金利が問題となるシステム事態は アメリカが20%(であるにもかかわらずこれほどのダメージを受けてしまった。)あるところ日本は80%と言われています。  長い将来を見据えるならば日本にはさらなる危機がすでに内包されています。 今のうちに アメリカ以上にすべてを改革しなければならないのは日本であるとも言えそうです。 知恵者達はすでにさまざまな分野で動き始めているでしょう。 * ひるがえって、シュールレアリスムですが、 実は私の場合始めてみたその作品はすばらしいものでした。   画面は揺れていてまるでムンクの叫びに似たところはありましたが、そこで表現しようとしていたのは時間の豊かさもたずさへたふるさとの姿を3次元空間にとらわれずに追求しようとしている姿が 其のタッチに明らかに見られる絵の世界だったからです。   “ほんとうの人間の幸せを単なる顧客のニーズを越えて願う”資本主義の真の事業家(今までは数少ない)の世界と 、そこからの投機の世界が 膨らむならば、 そして芸術がその真の反映であるのならば、シュールレアリスムも含めて表面(表面の形式)がどうであれ、 事業の世界も含め、本物は本物であるかと思います。 * 恋愛至上主義も 似たようなものと 思います。 ただ、この場合は、恋愛は陥るものとも言いますが、自分の手や足での自立したコントロール下にての 男女の愛情の世界ではないので、 その場其の時その陥った時点での時として見られる奥深さとは裏腹に、 其の危うさもまたかなりのものと言えてしまいます。 体験者、二度ほど、これは参ったといえてしまう なんともすごい恋愛の体験がありますので、体験者と言わせていただきますが、 そこから見ると、これも恋愛至上主義は むしろ未熟である可能性もあり、危ういというより以上に信頼性にかけるとこともあると見る必要性がある思想・思考形態と思います。 あくまで、深い肉感的な愛情の世界は 真の芸術にとって大きな力となる世界であることは言うまでも無いところだとも思っているのですが…。 * >単に《ロマン主義》的であるとか《幻想的で退廃的》であったり《神秘的》であったりする< 超現実主義とか他の主義の芸術の世界とかも、>現代においては<多々あったりするのでしょうし、 それはまた 資本主義の退廃の部分や 安易なロマンだったり、無意味な神秘化で人をあおったりするような部分に、それがまた拍車をかけるような文芸評論とか 芸術形式の世界といえてしまう世界だったりするのでしょうが、 いまこそ、私たちは、特に日本人は、間違ったところははっきりと見抜き、 ほんとうに新鮮な 大自然を愛する感性からの落ち着いた哲学をここに開発してゆく必要があるかと思っています。 今回はすべて おおざっぱかもしれませんが、 わたしの方からは だいたいこんなふうな回答がしたかったところだったのです(^。 なかなか、ここまでたどりつきませんでした(^^)。

noname#80116
質問者

お礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。今回 思ったことは 芸術は ひとによって 見解が さまざまであるという大前提を 忘れてはいけないなということです。  ☆☆ 思想として  ☆ という見方も 派生してくるであろうという前提のもとに 考え出した質問でしたが その派生させる仕方も ひとそれぞれであるのかも知れません。  NHKののど自慢について質問を出しておられましたが すこし考えたことは ひとつの方向性として いくらかの数の 芸術性が高いという成功作品(番組)を とにかく 作りだすことではないか。たぶん その場合にも 基準がいくつかあって 候補に挙げられる作品も いくつか複数になるでしょうが 一度 そういう評価を出しておけば 比較対照して そののちの作品についても 批評を 自由に出し合って その評価の歴史が築かれていくかも知れない。こう思いました。  ただし 歌番組については どれが 芸術性が高いかは わたしには よく分かりません。――音楽は ワ゛イオリン演奏を ときどき あれば 聞く程度です(《クラシック倶楽部》)。絵画のほうの《日曜美術館》を ひまがあれば 見ていましたが。  ★ 縁覚が 二乗である  ☆ ことを思い出しました。むしろ 六道輪廻を超えているという側面を見ていましたが 逆に 炒った豆だとかと言って 芽が出ないとも こきおどしていましたね。――ま そのような規定からは自由に 力を発揮していただきたいものです。  ★ ピカソ  ☆ は よく分かりません。楽しい感じがしません。つくづく 人それぞれだと思います。  ★ 感性  ☆ は たしかに 理論家であると考えたことがあります。愛は 理論家であるという命題です。愛が ほんとうに愛すべきものを知らないのではない という内容です。理論なき理論家であると。  いづれにしても ゆたかな感性と情操の世界を 表現していただきたいものです。ね。  しばらくして 締めたいと思います。

回答No.31

おはようございます、brageloneさん。 ●★ パッと見、えげつない言葉とも思いもするけど、見方かえると悲壮な叫びのようにも読めなくない?・・・  ☆ そういうんじゃなくて 食われた魂のほうに対するこころが 欠けてるんじゃないですか? 食った自分の中に それは あるから 成仏しろよという心でしょうか? それが 心なのかなぁと。 ↑ あっ!?そっか!? 苦は苦だけれどもそこばっかみてたら 今度はそのもひとつ先の裏を見損ねる? あぶねえー ちょい命拾い。サンキューっすぅー。 息継ぎスゥーハァー.。oO.。oO そだね、畏まっちゃ身動きとれなくなっちゃう。痺れるって。イテッ-☆ 柄じゃない、柄じゃない。\(^O^)/はっちゃけていきましょう~♪ ~♪君と出逢ってから いくつもの夜を語り明かした~♪ ~♪ はちきれるほど  My Dream ~♪  ~♪トランク一つだけで 浪漫飛行へ In The Sky ~♪ 『嗚呼!浪漫飛行』 作詞・作曲 米米CLUB http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND55281/index.html 【ロマン主義  1740-1850】 http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/R/Roman/Roman.htm “自己のクオリア”ANo.3 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4238782.html 副次的であったものが、いつしか副次的とはみなされず 主として機能する。機能していく中で新たな副次的なものが育つ。 代替エネルギー 【「フラクタル分枝限定法を用いた積層構成最適化」】 http://www.ginza.mes.titech.ac.jp/research/fbbm-j.html 【並列分枝限定法における分枝変数の選択に関する考察】 http://www.media.osaka-cu.ac.jp/~onisi/paper/pbbvar01.pdf 【並列分枝限定法における耐故障アルゴリズムの評価】 http://ninf.apgrid.org/papers/dataDir/sacsis05kawakami.pdf 『祭りのあと』 作詞 岡本おさみ 作曲 吉田拓郎 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND7522/index.html 抑圧と開放…そのあとには何故だか祭りのあとの寂しさが残る。。。 【抑圧と開放の渦】 http://fweb.midi.co.jp/~mokmt/docs/YuMinYeong_KC9605.html

noname#80116
質問者

お礼

 Mademoiselle littlekiss, merci pour votre reponse.  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・テレンティウスが賢明にも     汝の欲するもの起こり得ぬゆえに     汝のなし能うものを欲せよ と語った・・・。この言葉の凱切なるを誰が疑い得ようか。しかし これは悲惨な人に いよいよ悲惨ならざらんため与えられた助言なのである。  ところが すべての人がそうあることを欲する幸福な者には 汝の欲するものが起こり得ぬ と言うのは正当でもなく真実でもない。なぜなら もし彼が幸福であるなら 彼が欲することはみな起こり得るからである。  それというのも彼は起こり得ないことは欲しないから。  けれども このような生は私たちの可死性の生ではない。それは不可死性が存在するであろうときでなければ 存在しないであろう。  もしこのような生が人間には決して与えられないとするなら 浄福を問い求めても空しいであろう。浄福は不可死性なくしてはあり得ないからである。 (アウグスティヌス:三位一体論 13:7) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《浄福は不可死性なくしてはあり得ない》とき 可死性の生において それの実現を求めても よろしいですか?

noname#80116
質問者

補足

 No.35のお礼欄に 訂正があります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ 時は金なり。  ☆ というのは ≫ 英文では ≪  ○ Time is money. すなわち S-V-C.の単層構文。  ☆ であるが ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というように  ≫ 英文では ≪  ☆ を追加しておいてください。

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