解決済みの質問
捕虜の扱いは粗雑だったかもしれませんが、少なくとも組織的に計画されたものではありません。
貧しい日本には、連合国側が求める捕虜の保護をしたくても出来なかったのです。
バターン半島攻略後は、半島先端部のコレヒドールの要塞攻略戦となります。従って半島に捕虜を残したままでは要塞からの砲弾とマラリアで捕虜全滅の危険があるため、第十四軍本間中将は兵站監・河根良賢少将に捕虜の後方移送の計画を立てさせます。
河根少将の計画では、バターン半島の先端部マリベレスから半島中央部バランガまでの30kmが徒歩で、あとはトラックと汽車で前線から後方120kmのオドンネルに送るというものでした。
この計画通り実行されれば問題無かったのでしょうが、予想外の事態で計画が狂ってしまいます。
まず、捕虜の数が想定(3万人前後)よりもはるかに多かった(7万6千人)為、トラックが用意出来ない事態が生じ、そのため90kmあまりを歩かせることとなりました(←これが死の行進となる)。しかし、完全重装の日本兵が100km200kmを平気で歩くことを考えれば、着の身着のままの捕虜に90kmを歩かせることはそれほど無理難題な話ではありません。
しかし、実際は、捕虜のほとんどが飢えとマラリアに冒されていました。日本軍は「糧を敵中に求む」という伝統的な考え方で、余分な食料は持ち合わせていません。かといって、大量の捕虜を激戦が予想される戦場に残しておくわけにも行かない為、やむなく、飢えとマラリアに苦しむ7万6千の捕虜を炎天下のフィリピンを延々と行軍させざるを得なかったのです。
結局,オドンネルにたどり着いたのは5万4千人余りで、残りの2万2千人は、その大部分が行進の途中で脱走し、米兵で行進が原因で死亡したのは2300人と言われています。
参考文献:「太平洋戦争」児島襄
投稿日時 - 2002-11-21 00:35:36
お礼
有難うございました。
非常に勉強になりました!
児島襄の本も読んでみようと思っています。
投稿日時 - 2002-11-25 14:16:13
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