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仏教?の六道輪廻について

倫理の教科書を読んでいて疑問に思ったことについて質問します。 仏教では人の死後、魂は輪廻して何らかのものに生まれ変わっていくようなのですが、日本でお盆に先祖の霊が返ってくるのはどういうことなんですか? また仏壇でお線香をあげたりするのも、すでに魂が輪廻してしっまていては意味がなくなってしまうような気がします。 このようなことについて教えてください。

みんなの回答

回答No.9

>仏教では人の死後、魂は輪廻して何らかのものに生まれ変わっていくようなのですが、日本でお盆に先祖の霊が返ってくるのはどういうことなんですか? 上座仏教では、人は死後即座に転生すると考えているようです。 お盆に先祖が帰ってくるのは、日本古来の祖霊信仰に基づくもので、それが仏教に流入したのでしょう。 (山折哲夫氏の著書による。) >また仏壇でお線香をあげたりするのも、すでに魂が輪廻してしっまていては意味がなくなってしまうような気がします。 上座仏教では確かにあまり意味がないと考えるでしょう。

回答No.8

仏教は、六道輪廻からの解脱の為の教えになっておりますので、 輪廻させられた魂は戻れませんが、解脱すれば、盂蘭盆会への参加が叶います。

  • tuneyoe
  • ベストアンサー率0% (0/4)
回答No.7

aさんが死んだとします。自分の考えではaさんは輪廻もしませんし、霊となって死後の世界をさまようこともないと考えます。 ただ、aさんという人の存在はaさんの死後もaさんと関わってきた人の意識のなかにいるので、お盆や祈りというアクションは、死んだaさんのためというより、今現在生きている、aさんと関わってきた人の(気なぐさめの)ためにあると思っています。 ちなみにこの↑の考え方だと、aさんがが輪廻していてもいなくても、霊になって死後の世界をさまよっていても、さまやっていなくても問題はありません。

  • otherwind
  • ベストアンサー率40% (12/30)
回答No.6

私が思うに、おそらく、輪廻という考え方は、仏教以前からインドにあったのではないかと思います。そして輪廻の考え方が仏教以前からあまりにも一般的に流行っていた(?)ために仏教側でも無視できず、仏教も輪廻について何かを語らざるを得なかったので、仏教にも輪廻ということが出てくるのではないでしょうか。仏教と一口に言ってもいちいちのそれぞれの仏教の論者ひとりひとりによって異なると思いますが、むしろ仏教では縁起、無常、無我…といった考え方の方がメジャーな気がします。人間が認識しているすべてのものは他の項との関係によって関係の中だけで仮に現象しているに過ぎず、いわゆる「本質なるもの」は、諸現象に内属していないという考えがあって、認識の外部に過去・現在・未来にわたって恒常的な本質を持った実体はない(仮にあると考えるなら、無限小の瞬間しか現在には現れない=であればないと言っているのと大変に近いと私には思われます)、言ってみると知覚は一刹那(無限小の時間)しかないと考えられ、過去は記憶といういいかげんなもの、勝手に主観的に解釈され、編集されたものでしかありませんので諸行無常(すべての関係によってのみ作られているものには恒常的な実体はない)となり、観察者、主体の側も、「私ってなになになひとなの」と決めつけられるような昨日と同じ私未来にも基本的には同じ私というようなアイデンティティは実体としてはないというような考えの方がむしろメジャーな気がします。世界をありのままに見たならば縁起、無常、無我が正しい認識であるというのが仏教では基本的な考え方だとおもうのです。では仏教で輪廻が出てくるとすると、当時のインドの日常の普通の意識(虚偽意識ということにはなるでしょうが)としては輪廻であるという現実があったのではないかと思います。ある太陽系で死ぬと別の太陽系に生まれそこで死ぬとまた別の太陽系に生まれ……を天文学的な時間繰り返す…。これは恐ろしいことで、もう二度と生まれ変わることなく消滅したい、宇宙の外部に出たい、解放されたい、食物とする他の生き物の命を奪ってしか生きられないという生をもう繰り返したくないという気持ちになって、輪廻からの解脱(二度と生き返らない)ということが理想とされ、それが仏教にも取り入れられているのではないでしょうか。つまり輪廻というのは普通の見方、常識だったが、嫌なこと、そこから抜け出したいことであったと思われます。一方で庶民の民俗的な信仰としてのお盆というのは、先祖崇敬だと思います。祖先の霊をなぐさめるというようなことは日本にお盆という形ではなかったでしょうが、仏教伝来以前から行動としてはあったのではないかと思います。なお、話はずれますが、日本で一番人数が多い仏教の宗派は浄土真宗ではなかろうかと思いますが、浄土真宗では還相回向というものがあって、娑婆世界という太陽系で死んで、浄土世界という太陽系に生まれても、娑婆太陽系で他の人を助けたいという誓いを建てると(宣言するわけですね。約束するわけです。)、娑婆太陽系にまた生まれるというようなものです(と簡単に言うとかなり不正確ですが)。浄土真宗を興した親鸞が師と仰ぐ法然が娑婆に生まれたのは親鸞の時代で3回目でした。最初がインド、次が中国、そして法然ですね。

noname#61691
noname#61691
回答No.5

なるほど・・・ 失礼ながら供養の根幹にかかわるいい質問です。これがわかっていないと供養になりません(お坊さんでさえもわかってないぐらいですが)。 ゴク簡単に述べます。 たしかに『盂蘭盆経』がお盆の出典には違いないのですが、ご存知の通り日本の慣習におけるお盆と『盂蘭盆経』のお盆とは違うのです。 中国で儒教の影響を受け先祖供養が色濃くなった仏教は朝鮮半島にいたって、死者と生活を共にすることによって供養と為す“朝鮮半島の儒教”の影響をさらに受けます(ゴク簡単に述べておりますので詳しくは省略します)。 その後、日本に伝来した仏教は、浄土思想が次第に確立することによって死者は必ず極楽往生するということになりました。 極楽往生した死者と生活を共にするためには、一時的に先祖たちに極楽から現世へ帰ってきてもらう必要が出てきたため、お盆の期間をそれにあてたのです。 大乗仏教である日本の浄土思想では、死者は必ず六道から解脱し、輪廻転生せず“仏”になります。 死者を“仏”と呼ぶのはこれが所以です。 ですからお盆に帰ってくる先祖の霊は輪廻転生した霊魂などではなく、成仏した“ほとけさま”なのです。先祖たちは“ほとけさまの”世界から帰ってきます。 遺族は“ほとけさま”になった先祖たちとお盆の期間中親しむことによって、死者の成仏を確認し、その命を感じ、そして自分たちの生きる力へとかえることを供養といいます。 お仏壇にお線香やお花やお灯明やお水やご飯を上げたりするのも同じことです。お供えすることによって仏壇のご本尊様と先祖の生命を感じ、ご本尊様の命と先祖の命は同格であると確認し(つまり、魂はひとつなんです)、そして生きるエネルギーが生じるのです。 生きているから仏にお供えするのです。 これぐらいにしておきましょう。 ゴク簡単に述べました。 それではゴキゲンヨウ! (^^)v

_ryuichi_
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 輪廻しないということなら納得です。 ようやく喉につっかえてたものが取れました。 また機会があったらよろしくお願いしますm(_ _)m

回答No.4

 なかなか鋭い感覚をお持ちのようですね。確かに先祖供養と輪廻の思想はそういった面では食い違いを起こしますね。 >>仏教では人の死後、魂は輪廻して何らかのものに生まれ変わっていくようなのですが、日本でお盆に先祖の霊が返ってくるのはどういうことなんですか?  先にも述べている方がいらっしゃいますが、輪廻の思想はインド古来の思想であり、先祖の信仰は日本古来の信仰ということができます。  インドにおいて生まれた仏教にはそもそも先祖崇拝の観念は存在していません。それは、親鸞聖人の弟子の唯円の『歎異抄』のなかにも、 一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。 訳:生きとし生けるものはすべてみな、これまで何度となく生まれ変わり死に変わりしてきた中で、父母であり兄弟・姉妹であったのである。 などという言葉からも、日本仏教の中にも色濃く見ることができます。この輪廻の思想で読み取ることは、すべての者と私たちはかかわりを持って生きているのだから、すべての者を大切にできる人になりましょうってことですかね。    先祖崇拝はが仏教に取り込まれるのは、中国において儒教の「孝」の考えと交わるようになってからです。こういった中国の思想と交じり合った仏教をベースに新たに撰述されたお経は「偽経」と呼ばれ、その中に『父母恩重経』『盂蘭盆経』のような「親(先祖といってもいいかも)を大切にしなさい」というような儒教を中心とする中国思想が色濃く見えるお経があるわけです。  日本における死後観を柳田國男氏の説にのっとり私なりにまとめますと、まず「死霊」となり、この死霊の段階では生者に災いをもたらすと考えます。ですからその死霊を鎮めるために定期的に供養します(これも仏教に取り込まれて、一周忌や○○回忌という法事がいとなまれるようになります)。この供養の期間は地方地方でばらつきがあり、30年から50年くらいの差があります。そして、それが終わると「祖霊」という子孫に繁栄をもたらす神様になるという風習があるようです。そしてそういった、霊たちは山の中や海の中という当時の人たちにとっての未知の空間(これを「あの世」といいます)に住むとされて、時たま帰ってきて子孫たちとひと時を過ごすという趣旨で祭りが催されていたようです。その信仰と、先に述べました『盂蘭盆経』がまた日本でブレンドされて、今のお盆が出来上がります。つまり、「お盆」は仏教の行事の傘を借りていますが、日本独特の信仰ということもできます。  余談ですが、お彼岸も元はご先祖様が帰ってくるという行事ではありませんでしたが、日本の信仰とやはりブレンドされ先祖が帰ってくる行事になっていますね。    このように仏教は多くの考え方を取り込んで変化していきます。それが仏教のふところの広さかもしれません。ですから、「『盂蘭盆経』は偽経であるから偽者の仏教だ。」もしくは「お盆は日本の信仰を強く受けた偽者の仏教だ。」としてしまうのではなく、すべての者を悟らせて救うのが仏教であるのだから、自分の身近な人が死にめぐり合ったときに「救われていてほしい」と願うのも、時々自分を善いほうに導きに来てくれることに感謝心を持つことも仏教といえるかもしれませんよ。   >>また仏壇でお線香をあげたりするのも、すでに魂が輪廻してしっまていては意味がなくなってしまうような気がします。  さて、お仏壇ってもともとなんであるか知っていますか??そもそも仏壇とは仏様の世界を具体的に現したもので、仏様がいらっしゃる場所です。それは『更級日記』の作者、菅原孝標女が薬師仏を等身に造って屋敷内持仏堂に祀ったというのも仏壇の源流であることが由来します。ですから、お仏壇とは基本的には仏様の出張所です。もちろんお亡くなりになった方たちもいらっしゃいますが、その方々も宗派によって多少差はありますが仏様です(浄土系の宗派だと特にそうです)。仏様は輪廻という苦しみの連鎖から抜け出された方ですから、生まれ変わったりはしないことになっています。その仏様を向き合うことで自分自身と向き合うというのが、仏壇の趣旨です。そうやって、仏様はよいほうへ導こうとしてくださっている。そうなると、仏壇にお線香を供養することも別に変じゃありませんよね。  ながなが書き連ねましたが、仏教は多彩に変化していますから、一概のこうと言う事はできません。それは、とらわれることのない広い視野で物事を見てみなさいということかもしれません。  誤字脱字や読み取りにくいい乱文かもしれませんがどうぞご容赦ください。文意を読み取っていただきたく思います。 合掌 南無阿弥陀佛

_ryuichi_
質問者

お礼

ご丁寧な回答ありがとうございます。 仏教には全くと言ってよいほど知識がなかったので、ちょっと難しかったんですが、とても参考になりました。 『仏教のふところの広さ』というところには、非常に感銘を受けました。 また機会があったらその時もよろしくお願いします。

  • Big-Baby
  • ベストアンサー率58% (277/475)
回答No.3

仏説盂蘭盆経を読んでみてください。昔の人のお盆に対する考え方がわかって面白いですよ。釈迦の十大弟子のひとり目連が死んだ母の様子が気になって、神通力によってその姿を見ると餓鬼道に落ちて苦しんでいたという話です。 http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/urabonnkyou.htm 六道輪廻というのはこの世界のどれかの生き物に生まれ変わるという単純なものではなく地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道の6つの世界(人間道以外はこの世界と別の世界)のいずれかに転生してまた苦しみを繰り返すというものです。死んでからも苦しみが続いているならば当然供養してその苦しみを和らげてあげる必要があります。Wikiの項読んでください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93

  • rurubonpp
  • ベストアンサー率26% (128/488)
回答No.2

教科書の知識は知識として覚えていれば良いと思います。六道輪廻も仏教用語としてよく出てきますので覚えていると良いでしょう。お盆に先祖の霊が帰って来るというのも日本の民俗学的(民族とは違います)な風習でしょう。 それでは、実際はどうなのかと言うと、死後は六道といわれるような世界が実際にあるのかと訊かれると、怪しいと言わざる得ません。確かに、地獄と天国と魔界(修羅界とは少し違うと思います)はあります。 この三つの世界は極端に良いか悪いかの世界ですね。その間にさして現世と変わらないような世界があります。ほとんどの人はここに来ます。 そして大事なことが、一つあります。それはあの世は心の状態がその霊の周囲の世界を形成してしまうということです。 つまり、心の醜い人は醜い世界を形成し、綺麗な人は綺麗な世界を形成します。つまり、その人の心の状態で様々な霊的世界が形成されるということです。これを側から見て、いかにも六道のように見えるのだと思います。 それと、成仏できずにあの世に行けない霊も多いということです。そういう霊に対してはちゃんと供養するべきでしょう。お供えされた物の霊的なエネルギーをちゃんと食べています。 最後に、ちゃんとあの世に行けて心が自由になっている霊はいつでもこちらに来ることが出来ます。お盆に限ったことではありません。

_ryuichi_
質問者

お礼

回答ありがとございます。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

六道を輪廻するという考え方はインドの考え方で、先祖の霊を考えるのは日本の考え方です。 そもそもインド的な考え方で輪廻するのは魂ではありません。 また、最終的に輪廻から抜け出て無の世界に到達する(涅槃)のが最終目的になります。

_ryuichi_
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 それでは日本の場合では死んだらそのままで、新しい魂がどんどん出来るということなんですか?

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