締切り済みの質問
オスマン帝国について質問です。この帝国は多民族国家にも関わらず、成功を遂げた帝国だと思うのですが、何が成功に導いたのでしょうか?私が聞いた話では、オスマン帝国は多くの文化や宗教に寛大だとききました。(そのかわり税を取っていたようですが)。
しかし、いくら宗教に寛大だろうとかならず何十年かで崩壊の危機がくるはずです。しかし、この帝国は何百年にわたり続いてきた驚異的な帝国だと思います。
彼らは、宗教の強制をしない以外に他にどうのような方法で多民族からの反乱を引き起こさずにできたのでしょうか?ハンガリー帝国も同様に多くの民族の宗教などに寛大だと聞きました。
オスマン帝国について教えてください。
投稿日時 - 2008-03-13 17:43:08
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回答(3件中 1~3件目)
この件について、簡単に説明する事は困難です。
多様の理由が考えられます。
そのうちで、最も重要だと思われるのは、オスマン・トルコが国教として採用したイスラム教スンニ派のファナフィー派である事だと思われます。
トルコは、メッカやエルサレムなどのイスラム教の重要な聖地を支配し、イスラム世界のスルタン・カリフとして君臨しました。
そのトルコの国教としての地位にあったのが、ファナフィー派です。
ファナフィー派は、コーランを初めとしたイスラム法の解釈での、個人解釈の幅を広げる事により、他者の考え方に干渉しない方針が広まる一方、従来の慣習からの逸脱も問題にしない方向の考え方です。
つまり、イスラム教の中で、最も応用力を有し、改革・近代化が容易な宗派を国教とすることで、他民族の慣習を尊重し、自分達の近代化を行う事により、長年にわたり多民族に君臨する事ができたのだと思います。
トルコがこのような比較的自由な環境にあったため、対立するイスラム諸国は、より強固な、原理主義的なイスラムを採用せぞるをえず、そのため一定の民族のワクからの離脱が困難になっていたため、イスラム圏でのトルコの地位は、安泰で有った事も理由でしょう。
(イランのサファビー朝は、トルコと敵対するがゆえにシーア派国家となり、サウジアラビアは、同じスンニ派ながら、個人解釈を一切許さないワッハーブ派を国教とします)
スンニ派が多数派を占めるイスラム圏において、シーア派に組しないイスラムは多いのですから、イスラム圏でサファビー朝が実権を握る事はありえませんし、極端に厳格なワッハーブ派は、ワッハーブ派以外を殲滅する事を掲げている以上、一定以上の支持を得る事はできません。
さらに高い応用力により、西欧からの技術なども受け入れる予知があり、トルコは、長年にわたり、強国の地位を維持できたのではないでしょうか。
ヨヘロッパ圏においては、オーストリアやロシアと敵対した関係で、オーストリアなどと敵対しているフランスとの同盟もありましたし、ボスニアやアルバニアのように、トルコ支配を歓迎する民族がいたことも、ヨーロッパ圏では、有利にはたらいた事でしょう。
投稿日時 - 2008-03-14 16:16:16
私が世界史で習った知識です。
教えてくれた先生が教科書を使わず独自のプリントを作って授業する人なのであなたが習った知識と違うかもしれないので役に立つかも知れません。
オスマン帝国の基本的な統治の留意点として
・州、県、郡に分かれる整然とした行政機関を整備
・スルタンが強力なイスラム法に基づく政治という権力で支配
・帝国内のキリスト教やユダヤ教の共同体には大幅な自治を認め、イスラム教徒との共存が図られた
・常備軍としてのイエニチェリ
です。
他にもスレイマン1世はフランスと同盟したりスペインを倒して地中海権も得ていた。その後はレパントの海戦でスペインに負けるが地中海域ではたいした打撃とならなかったため、他民族の住民にとっても住みやすい環境だったのではないでしょうか?昔から他民族に寛容な国ではけっこう長く続いてますよ。
オスマン帝国の衰退要因は大航海時代以来ヨーロッパの直接貿易が拡大したためトルコに財政的に打撃を受けたほか他国の侵略や第二次ウィーン包囲に失敗したことや民族運動の激化です。このことから民族も危機感を感じたのではないでしょうか。
投稿日時 - 2008-03-13 19:22:29